五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

愛の不信感

2011年11月21日 | 第2章 五感と体感
平清盛は、喜怒哀楽が解りやすく、人を信じ、情も厚いというイメージが私の中にあります。

源頼朝は、喜怒哀楽が見えにくく、基本的な信頼感が欠け、情が薄いというイメージを持っています。

父義朝が落ち伸ようとする時、温かく迎え入れてくれた家臣の風呂でだまし討ちに遭い命を落とします。
その後、平清盛の奥方の采配で命を助けられる頼朝は、清盛の温情で源氏方の伊豆に流され、養育され、そこで北条家と出会い、旗揚げしていきます。

敵方に倒されるのではなく、味方だと信じていた者に命を落とされた恨み辛みは大きなものだったのでしょう。その後、力を具えてきた頼朝は、裏切り者を残虐的に処罰します。

思春期の頃に、大きな裏切りを体験した頼朝は、その後出会う腹違いの弟義経に、感情転移的な意地悪をしていくのです。

義経は、乳飲み子の頃に母常磐御前から離され、愛情に対しての憧れが強く、それゆえに人を愛する力を具えた人へと育っていきます。

「それゆえ、こうなる」という人の性格に線を引っ張るような確定的な表現は好ましく無いとは思いますが、歴史上の人物の成育史を知ると、なるほどと合点がいくことも度々あります。

どんなに愛されても、不信感から抜けられなかったり・・・

他者からの愛情を求めるあまり、騙されても、いじめられても、それは「愛だからこそ」、と信じきってしまったり・・・

吉川英治節の新平家物語を読んでいると、登場人物の人間像について色々考えることが多くなりました。

昨日は、平家物語の「妓王」の能を鑑賞しました。
清盛に寵愛された白拍子の「妓王」の元に、やはり舞いの名人「仏御前」が現れます。清盛は妓王よりも若い舞いの名手を寵愛していくようになります。しかし、仏御前は、静かに身を引き仏御前を立てようとする妓王に憧れを抱きます。
本来なら取った取られたの二人の女性修羅場が繰り広げられるのでしょうが、感情を抑えた静かな演目です。

愛し方、愛され方は、ひとりひとりの人の愛の原型に大きく繋がるようです。
どのように親から愛されたのか。。。そのその人の愛の孤独感とは、一体何なのか。。。

自分の「愛」を意識化していくのも、自己の個性の美を見つめる上で大切なことのように思います。

仏御前は、妓王を追いさっさと嵯峨野の現・妓王寺に出家してしまいます。
寵愛した清盛は、如何なものだったのかは解りませんが・・・。清盛は清盛で、母との確執で長く悩んだ人でもあるようです。

このあたりのことも書きだすと長くなりそうなので、また次回に^^;


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