五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

彫刻家舟越保武

2012年03月12日 | 第2章 五感と体感
昨日のTV番組「日曜美術館」は、「彫刻家 舟越保武」でした。その前の週は昨年展覧会後を終えたと同時に地震が起こり、その月の3月30日に亡くなられた佐藤忠良師の特集でした。昨日の番組は昨年11月に放映された再放送だったようです。

いずれも録画し、何度も繰り返し拝見しました。

粘土に籠められるもの。
大理石に籠められるもの。
筆に籠められるもの。

繰り返し繰り返し修練した技術に自然と宿る自己=作品が、表現されたものを超えて美しいと感じるのが舟越保武師の作品なのです。

まだ私が学生だった頃、東北出身の美大生に出会いいつも共通して感じていたことがあります。
それは、「ほんとうに粘り強いし、言葉少なくともやることを黙々し続ける…」と。
都会で育ち、情報を羽織りながら生きてきた自分を恥じたことも度々ありました。

佐藤忠良師にしても舟越保武師にしても、真摯に、粛々と、作品をつくり続けた背景には東北の人に宿る気質がバネになっていることは確かだと思います。

舟越師の代表作に長崎で殉教した26人聖人(数年前に聖人になりました)の像があります。

舟越師は2歳の時に母を亡くし、戦後の食糧難に幼き長男を亡くしています。2歳の長男の死に顔のあまりの美しさに神様を見出したのでしょう。今までカトリック信者の父に反抗的だった舟越師は、家族で洗礼を受けます。

会ったことの無い母を、永遠に追い求めて、女性像にその形象を求め、
そして、敬虔なカトリック信者であった鉄道マンだった父を殉教者の一人のモチーフにし、
ひたすら、ただただ、作品をつくり続けた姿に、繰り返し行われていく祈りの儀式を想いました。カトリックであればミサであるし、仏教であれば、今、東大寺で行われている修二会であるし、信じて見えてくるものは、繰り返し行われる儀式からより見い出されていくのだと思います。芸術は、繰り返される修練と追及から見えてくるものがあり、祈りの儀式と変わりはないようにも思います。

70代で脳梗塞になり、右手が使えなくなり、左手で創作したキリストの頭像は、「これをつくるために与えられたことだったのだと思う」と発言されていたご子息の彫刻家舟越桂さんのお言葉通りだと感じました。

函館の五嶋軒の壁に私の祖父の絵の脇に置かれている舟越親子の彫刻は、私の安堵感を覚える空間ですが、また更にそれが強まったような気がしています。

北斗市のトラピスト修道院の聖堂に掲げられている聖母マリアの像は、ご子息が制作され、新芽のような若さを感じます。
トラピスト修道院は「灯台の聖母」とも云われています。明るい光を放つ中に新芽の香りが漂うマリア像の下で手を合わせた時、祈りの中で生活する修道士に永遠の若さを与えている、、、と、おこがましくも感じたことがあります。(一般では見ることはできませんが、作品集から見ることができます。)
一方、父である舟越保武師の制作したカトリック水沢教会の十字架に付けられたキリスト像は、まっすぐ前を向き、いざ、天国に昇らんとする凛とした幸福感が現れています。
このキリスト像には直にお会いしたことがないので、今年は「ぜひ行こう」という気持になっています。

東大寺の修二会はあと3日となりました。

春がやってきます。

魂を想うことは、生きることを想うことと死を想うことに繋がります。

魂を想う作品を見ると、自分の内から思わぬ解釈が湧き出してきて、心と身体の浄化がやってくる、といつも思います。
岩手県立美術館には、多くの舟越保武作品が常設されているそうです。

長ーい文章を読んでくださりありがとうございました。
今日も好き一日でありますよう…

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