五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

沈黙・遠藤周作

2008年01月26日 | 第9章 愛
急にふつふつと読みたい情動が湧きあがり、一気に再読しました。

遠藤周作が日本の社会とカトリックと向き合い、そして日本に住む一人のカトリック信者として描いた青春の文学作品ともいえると思います。
「沈黙」と「深い河」、遠藤周作著を二冊読むだけでも、自分と向き合うには充分かもしれません。

「沈黙の登場人物は、すべて自分である。」自分の内にあるさまざまな感情、情動、行動が重なり合い、心が揺れ動くまま読み続けました。

沈黙の神、つまり、何が起ころうとも、なにもしない神。手を差し伸べてもくれず、助けてもくれない、なにもしてくれない。
それを、「何もしてくれない」と思った瞬間、そこに自分自身の「罪」と向き合うことになるのです。
だから、無力と絶望から愛を信じられず、孤独と不安に怯える人は、逆に愛を信じている人なのだと、私は思うのです。

「成すのは人の心」、と朝日新聞の連載小説、「宿神」(夢枕獏著)でも、同じ思いで読み更けました。

信じて見えてくるものは、決まり切ったものではないのです。
深い河、ガンジス川を眺めながら、変容する人の心。それを映し出す川面の風景。
そこに沈黙を感じるならば、振り子のように戸惑う自分の姿が見えてきます。

自分の姿がみえてくる。
見えてくる自分の姿から、見えてくるものは、普遍的なもの、つまり変らぬものなのだと思うのです。

だから、自分の内から湧き出る感情、それに伴う考え方、行動は、その人の個性の美そのものです。
「沈黙」を見据えながら、生き抜くことにこそ生きている意味があるのではないでしょうか。


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コメント (3)
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