私の生まれ育った、大阪府の北部にある京都に近い街高槻市。子供の時、1970年代からサッカーの盛んな街だ。私が通っていた中学校はサッカー部が大変強く、1級上の先輩と同級生達は何と2年連続で全国大会に出場してた。そして2級上には1979年日本で開催されたワールドユース大会の日本代表候補に選ばれ、後に日本リーグでもプレーした先輩がいた。後輩の中にはJリーグ入りした選手もいるらしい。残念ながら私はサッカー部員ではなく水泳部員だった。水泳部も弱くはなく、私が3年生の時には高槻市大会で団体2位に入った。もちろん私も出場し、準優勝に貢献した(つもりだ)。市で2位になるなんて当時はサッカー部以外には柔道部くらいだったのに、サッカー部の快進撃の前に水泳部の戦績もかすんでしまい、女の子の人気度は練習試合を入れて私が3年生の時は一度も勝った事が無い野球部の部員にもかなわなかった。だから私はサッカー部の快進撃に大変な嫉妬心を擁いており、“サッカーなんかなんじゃい”と公言してはばからなかった。そんな私が後にワールドカップ観戦に精を出しているのを当時の同級生が知って唖然とするのは当たり前だろう。
高槻には当時から高槻FCと言うクラブチームが存在している。特に有名だったのは女子部で、1988年の全国女子選手権では読売FCを準決勝で破って決勝に進出。国立競技場で行われた決勝戦は惜しくも鈴与清水に敗れたが準優勝を収めた。そして翌年、西が丘競技場での決勝で清水を破って優勝を収めている。この決勝戦を私は2年連続競技場観戦した。当時婚約中の家内は“女の子がサッカーなんてするの?何でそんなの観に行くの?”といぶかしげに訊くので、“地元の高槻が出ているんだ。”と言うと“前に付き合っていた女性でもそこにいるのか?” としばらく疑っていた。残念ながらサッカー少女と恋に落ちた事は無かったが、高校の時同じ通学沿線上に西山女子高校というのがあって、当時女子のサッカー部があったので有名でテレビ取材もされた事があった。今でこそ男子サッカーは五輪、ワールドカップにも連続出場をし、連日日本代表を初めサッカーの話題を聞かない日は無いくらいだ。だがサッカーで、最初に世界への扉を開いたのは女子だ。1991年中国で行われた第一回女子ワールドカップにアジア地区予選を勝ち抜いて出場している。その前年、同じ北京で開催されたアジア大会の男子サッカーの準々決勝の日本対イラン戦。NHKの中継から“ニッポン!! ニッポン!!” との声援が漏れ聞こえてきた。解説をしていた松本育夫氏が”女子のサッカー代表選手が応援をしてくれていますよ。無様な試合はできませんねぇ“てな事を言ったのを憶えている。1996年3月、日本はマレーシアでサウジアラビアを 2-1 で破り28年ぶりの五輪出場を決めたが女子も前にアトランタ行きを決めていた。アテネ五輪で女子日本代表を”なでしこジャパン“と名付けられ、女子の国内リーグ戦も”なでしこリーグ“と命名されたがここに今の女子サッカーのおかれている現状が映し出される。長引く不況による企業スポンサーの撤退から存続出来るクラブが減りリーグそのものの存在が危ういらしい。だがこれは他国も同じで女子サッカーでは列強であるアメリカも同じ現状だ。確かに筋骨隆々の女性がボールを必死の形相で追いかけるよりも、わずか数センチの布きれのみを付けてダイナマイトボディをくねらせる女性に世間一般の人は魅力を感じるのだろう。
もう1ヶ月以上前に終わってしまったがオーストラリアの南部の大都市アデレードで開催された女子ワールドカップアジア地区予選で日本は出場権を手に入れられず、北中米地区からの代表とのプレーオフに望みを掛ける事となった。
北朝鮮にまたも勝てず
準決勝で地元オーストラリア・マチルダスに破れた日本は3位決定戦の北朝鮮戦に臨んだ。この北朝鮮は同じく準決勝では中国に 0-1 と惜敗したが試合終了直前、北朝鮮のチャンスに中国ゴール前で中国DFにハンドがあったとか無かったとかの微妙な判定の激怒したハン・ヘヨンが主審に蹴りを入れる等審判団に襲い掛かる。 尚も野次を飛ばす中国人サポーターにペットボトルなどを投げたと言う事で DF スン・キョン・スン, ソン・ヨン・スンが出場停止となった。思い出すのは1982年アジア大会の準決勝戦。延長戦でクウェートに破れた北朝鮮のコーチ達が判定に不服として審判団に襲い掛かり、最後は警官隊が事態を収拾するはめに。これで北朝鮮代表は続く3決定戦はおろか、全てのカテゴリー(当時は U-20 くらいだったか?)で2年間の国際試合禁止を言い渡された。今回も同じ様な裁定が下されるか?そうなればなでしこが自動的に来年北京で開催される女子ワールドカップに自動的に出場となるが、今大会は3選手の出場停止以上はお咎めが無かった。昨年のワールドカップ予選での処置が無ければどうなっていただろう? 試合の模様に続く
高槻には当時から高槻FCと言うクラブチームが存在している。特に有名だったのは女子部で、1988年の全国女子選手権では読売FCを準決勝で破って決勝に進出。国立競技場で行われた決勝戦は惜しくも鈴与清水に敗れたが準優勝を収めた。そして翌年、西が丘競技場での決勝で清水を破って優勝を収めている。この決勝戦を私は2年連続競技場観戦した。当時婚約中の家内は“女の子がサッカーなんてするの?何でそんなの観に行くの?”といぶかしげに訊くので、“地元の高槻が出ているんだ。”と言うと“前に付き合っていた女性でもそこにいるのか?” としばらく疑っていた。残念ながらサッカー少女と恋に落ちた事は無かったが、高校の時同じ通学沿線上に西山女子高校というのがあって、当時女子のサッカー部があったので有名でテレビ取材もされた事があった。今でこそ男子サッカーは五輪、ワールドカップにも連続出場をし、連日日本代表を初めサッカーの話題を聞かない日は無いくらいだ。だがサッカーで、最初に世界への扉を開いたのは女子だ。1991年中国で行われた第一回女子ワールドカップにアジア地区予選を勝ち抜いて出場している。その前年、同じ北京で開催されたアジア大会の男子サッカーの準々決勝の日本対イラン戦。NHKの中継から“ニッポン!! ニッポン!!” との声援が漏れ聞こえてきた。解説をしていた松本育夫氏が”女子のサッカー代表選手が応援をしてくれていますよ。無様な試合はできませんねぇ“てな事を言ったのを憶えている。1996年3月、日本はマレーシアでサウジアラビアを 2-1 で破り28年ぶりの五輪出場を決めたが女子も前にアトランタ行きを決めていた。アテネ五輪で女子日本代表を”なでしこジャパン“と名付けられ、女子の国内リーグ戦も”なでしこリーグ“と命名されたがここに今の女子サッカーのおかれている現状が映し出される。長引く不況による企業スポンサーの撤退から存続出来るクラブが減りリーグそのものの存在が危ういらしい。だがこれは他国も同じで女子サッカーでは列強であるアメリカも同じ現状だ。確かに筋骨隆々の女性がボールを必死の形相で追いかけるよりも、わずか数センチの布きれのみを付けてダイナマイトボディをくねらせる女性に世間一般の人は魅力を感じるのだろう。
もう1ヶ月以上前に終わってしまったがオーストラリアの南部の大都市アデレードで開催された女子ワールドカップアジア地区予選で日本は出場権を手に入れられず、北中米地区からの代表とのプレーオフに望みを掛ける事となった。
北朝鮮にまたも勝てず
準決勝で地元オーストラリア・マチルダスに破れた日本は3位決定戦の北朝鮮戦に臨んだ。この北朝鮮は同じく準決勝では中国に 0-1 と惜敗したが試合終了直前、北朝鮮のチャンスに中国ゴール前で中国DFにハンドがあったとか無かったとかの微妙な判定の激怒したハン・ヘヨンが主審に蹴りを入れる等審判団に襲い掛かる。 尚も野次を飛ばす中国人サポーターにペットボトルなどを投げたと言う事で DF スン・キョン・スン, ソン・ヨン・スンが出場停止となった。思い出すのは1982年アジア大会の準決勝戦。延長戦でクウェートに破れた北朝鮮のコーチ達が判定に不服として審判団に襲い掛かり、最後は警官隊が事態を収拾するはめに。これで北朝鮮代表は続く3決定戦はおろか、全てのカテゴリー(当時は U-20 くらいだったか?)で2年間の国際試合禁止を言い渡された。今回も同じ様な裁定が下されるか?そうなればなでしこが自動的に来年北京で開催される女子ワールドカップに自動的に出場となるが、今大会は3選手の出場停止以上はお咎めが無かった。昨年のワールドカップ予選での処置が無ければどうなっていただろう? 試合の模様に続く
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます