Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

やったぞ 京都西高校 

2007-08-02 | 京都西高校
 7月28日。日本がアジアカップの準決勝戦で敗れて3位決定戦に臨む日。
その日は土曜日と言うのに会社がくだらない、役に立たない営業研修を前日から池袋のとある宿泊施設を借りきって泊まり込みで催し午後3時にやっと解放された。
何度も言うがこう言う研修は全く役に立たない。一番満足しているのは招かれた専門の講師とやらだけど、私はこういった類の講師については懐疑の眼差しでした見ていない。なぜなら彼らは非常に無責任だ。“こうすれば良い、ああすれば良い….”と一方的に言ってあとは自分がやる訳では無い。我々がブログで色々と意見を述べるのと一緒で、責任が無いのだ。そして我々との大きな違いはこういった講師達はそれで金を貰っている。我々が無責任に色々意見、解説をブログ上で述べるのはそれに金が絡んでいないからで、講師達の無責任なしゃべりで金まで取るのは半ば詐欺行為である。その詐欺行為に簡単に引っかかる会社連中は大概営業職には無く、総務や人事関連の人間で彼らは営業が汗水たらして稼いだ金を易々とこう言った詐欺行為を働く輩にくれてやっているんだ。憶えとれ、来週総務部長達に営業を代表して立ち直れない事を言ってやるからな…… 俺はこう見えても社内で売上そして営業利益 Number One を叩き出しているんじゃぃ

あほかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

会社の愚痴はこれくらいにして日本のアジアカップはベスト4止まりであったが7月28日は私を幸福にするニュースがあった。我が母校、京都西高校が2年振りの甲子園出場を決めたのだ。何度でも言わせてもらおう。京都外大西ではなく、京都西高校だ。私は京都西高校を卒業後は京都外大に進学した。当時は京都外大の偏差値は受験戦争の真っただ中にあり年々ウナギ昇りの状態にあり、入学の門は狭く狭くなっていた。そして付属であった京都西高校の入学枠を激減させる方策を取っていた。それは京都西高校の偏差値が低かったからである。私も大阪府高槻市に在住しており高槻市の公立高校に入れなかったから県境いや府境を越えて京都西高校に通学していたのだ。あの高校の3年間どれだけ辛かったか。それは勉強を怠った自業自得。しかし外大に上がれることを信じて3年間耐えたが、“西高推薦枠”のほぼ全面撤廃の影響を受けてしまった。結局は“付属高校の恩恵”を受けずに幸運にも外大に入学できた。その後京都西高校の先生方の努力もあり偏差値も上がり、野球部をはじめ運動部がどんどん強くなり文字通り文武両道の道をまっしぐら。一方の外大はさしたる学生募集活動や就職へのアピールは皆無で少子化の影響で学生確保に赤信号が灯っている。ざまぁみろだけど、そこで西高にアプローチし“京都外大の名前を入れて下さい。いいでしょ付属だから。”とは 

あほかぁぁぁぁぁぁぁ

同じ事は来年から平安高校でも起こるらしい。龍谷大学と付属関係にあり戦前から伝統のあった平安高校の名前で世に出るのは今年が最後。翌年から龍谷大付属となるらしい。

京都西   001 000 010=2
京都すばる 000 001 000=1

7月28日、京都西京極球場で行われた第89回全国高校野球選手権京都大会決勝戦は我が母校京都西が2-1で京都すばるを振り切って2年ぶり8度目の甲子園出場権を勝ち取った。京都すばる高校は今年の京都府大会の台風の目と言える存在。おおいに京都の高校野球ファンを沸かせたのではないか?また昨年出場の福知山成美高校がベスト16で姿を消したのも連続出場の難しさを証明した。
京都西高校の甲子園出場は春の6度と合わせて通算14度目。台風の目となった創立23年目の京都すばるは、エース中村君の力投で接戦に持ち込んだが、わずかに及ばなかった。 京都西打線は近大会屈指の好左腕・中村君の攻略に手間取ったが、3回、都藤君の二塁打と敵失で二死一、三塁と好機を広げ、辻君の中前適時打で1点先制。6回に同点に追いつかれたが、8回は二死二塁から再び辻君の右前打で勝ち越し。計5安打で勝負強く2点を奪った。
京都すばるの中村君は球威、キレとも申し分ない好投だった。決勝点は、中堅手と右翼手が打球に追いつきながら譲り合って安打になる不運。打線は6回に一度追いついて粘ったが計4併殺が響いた。 6回に追いつかれてからは先発白井君から、辻君にスイッチ、そして最後は本田君の継投で反撃を断った。 本田君は2年前あのマー君率いる駒大苫小牧との決勝戦でも当時1年生ながら登板を果たしている。今年も西高は継投で甲子園での勝利を目指す。
優勝を決めたマウンドで背番号1の本田君は雄たけびを上げた。9回一死一、二塁。最後の打者を二ゴロ併殺に仕留め、両手を突き上げた。思わず泣いた。 白井君、辻君と継投し本田君の登場は1点リードの8回無死一、二塁。犠打と敬遠四球で満塁となったが、木村君を二ゴロ。本塁併殺で相手に傾きかけた流れを断った。 一方の敗れた京都すばるはこれまで堅守で勝ち上がってきたたが決勝戦はあまりに不運な失点だった。同点で迎えた8回の守備。右中間に高々と上がった飛球を、中堅・奥田君と右翼・中野君が追う。互いに落下点に入ったが、奥田君の「行く」と中野君の「おれに任せろ」の声が交錯。打球は2人の間にポトリと落ちる安打となり、決勝点を許した。 今大会を1人で投げ抜いてきた中村君は、決勝も冷静に、熱く投げ抜いた。「1イニングずつ集中して投げた。結果から見れば好投したが相手は1失点。負けは負けです」と振り返る。 援護したい打線は敵失や四球でしぶとく好機をつくった。6回は二死三塁から「真っすぐを狙っていた」という木村君の執念の適時打で同点に。8回にはエース本田君を引きずり出し、一死満塁と一打逆転の場面まで追いつめた。 昨夏の準々決勝に続いて今夏も京都西に惜敗。稲川主将は「先輩の借りを返したかった」と無念さをにじませる。それでも試合後は父親でもある稲川監督とがっちり握手を交わし、「泥臭く勝つ野球を残せた。この経験を次に生かしてほしい」と後輩たちに大きな夢を託した。
監督と主将は親子だったのだ。そして痛恨のエラーをした外野手、これからも人生は長い。これに負けずに次を頑張ってほしい。奥田君はまだ2年生。この試合を糧に明日からまた練習に取り組んで欲しいな。

7月28日夕刻には少し驚きのニュースも。元高校球児が盗みで逮捕。昭和50年東京代表として春夏甲子園出場を果たしたH学園のS元投手が逮捕されたとの事。テレビで今50歳になった彼の顔を見た時にすぐに誰か分かった。昭和50年と言えば私はまだ中学生。楽しみの少なかった当時、高校野球は毎年開幕から決勝まで結構真剣にテレビで観戦していたし、大阪に住んでいた私は甲子園球場まで観戦にも行った。H学園は昭和50年の選抜大会にはベスト4に進出し最後は現在ジャイアンツで指揮を執る原辰徳氏のいた東海大相模に敗れている。ベスト4は当時エースだったS投手の力投によるものだったが準決勝では疲れもあったか東海大相模の重量打線を抑えられなかった。 そして当時のH学園の捕手は長距離打者だったのを思い出す。巨人の星の左門豊作みたいないでたちでけっこう長打も飛ばしていた。このバッテリーの力で選抜はベスト4.そして同年の夏の大会も東京大会を勝ち抜いて甲子園に出てきた。そして1回戦では奈良の天理高校と対戦した。天理、H学園共に選抜出場を果たした高校だったので注目もしていた。しかしH学園は0-11 (だったと思う)で完敗。エースのS投手は本塁打を浴び途中で降板、2番手投手はフレッドと言う名前の外人投手が出てきたのを覚えている。4番の捕手からは快音が聞かれなかった。大会前はこの捕手も東海大相模の原辰徳3塁手とならんで評判が高かったのだが。大会後に出版される高校野球を特集したアサヒグラフを購入するのも当時の楽しみだった。そこにこの試合の事をこうかかれていた。

S投手は黄色い声をあびながら滅多打ち。4番打者はノーヒットの上に三振と併殺打のおまけつき。東京っ子は淡泊……

こんなに酷い表現は、しかも高校生相手にないだろう…と今は思う。あれから30年以上が過ぎこのニュースを見て思った…..

俺達の同級生は元気にしているだろうか…….

甲子園に出場する事は素晴らしい事だ。それを目指す事も尊い事。しかし大事なのはその後。甲子園で優勝してもそれだけで一生涯人生が保障されるわけでは無い。その後の人生を頑張らねばならない。そして甲子園を目指した事がそのあとの人生で頑張れると思う。それは甲子園だけではない。全ての学生スポーツに当てはまる事だ。

あぁ偉そうなことを言ってしもたぁ。 

しかし今夏は母校の甲子園での活躍にこちらが元気をもらう番だ。この夏彼らが悔いのないプレーを繰り広げてくれることを祈る。

 御支援のワンクリック宜しくお願い致します。