Mr.コンティのRising JAPAN

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Wカップ予選・イラン戦に向けて 1

2005-03-20 | FIFA World Cup
あと5日後に迫ったイラン戦。はっきり言える事は今、手負いの獅子であるのはイランの方である。そして手負いの獅子ほど手強いものは無い。イランとの戦力差を考えればこの試合は決してイージーなものでは無く。勝ち点0も計算せねばならないが、ワールド杯へは上位2カ国に出場権が与えられ、以降まだ4試合残っていることも頭に入れておくべきだろう。
それではまず、このイランのサッカーの歴史から述べて行きたいと思う。

イランサッカーの歴史
アジアの勢力図では中近東勢に列強が集中しているが、イランこそが歴史的にもリーダー的な存在である。元々古代ペルシャ以来の伝統のある国でアラビア人やトルコ人らとこの地域の文化の中心となってきた。そして20世紀に入っても近隣諸国が西欧列強の支配下に置かれる中、それらの国々との緩衝地域という地理もあり独立は保ってきた。そして独立を保つ功績を担ってきたパフラヴィ朝(パーレビ朝とも言う)を受け継いだレザ・ハーン国王が西欧教育の一環としてサッカー等の近代スポーツを学校教育の一環として取り入れだした。スポーツが学校教育の一環になるというのは世界でも日本、韓国、中国くらいで当時の国王の発案がユニークであった事が伺える。しかしサッカーの浸透が先の3カ国よりも早かったのは、もともとペルシャ人はゲルマン人と同じアーリア系民族で体力的にも優れていた点が上げられる。サッカー協会の設立は戦前の1920年。これは中東諸国でイランだけであり、FIFAへの加盟も 1945年でアジアでも最初の加盟である。
第二次大戦前のイランは時代の背景もあるが日本等の極東諸国との対戦は無くアゼルバイジャンやグルジアと言った旧ソ連邦(当時は独立国)のコーカサス諸国との交流しか無かったが、戦後は中近東諸国の中では最初にAFC ( アジアサッカー連盟 )に加盟。1951年インドのニューデリーで開催された第一回アジア大会に参加。準決勝では日本と対戦。0-0 で引分けたそして再試合ではイランが先制し、日本が追いつくと言う展開であったが常にイランが先手を取り 3-2で日本を退け決勝に進んだ。決勝戦は当時英国支配の影響でアジアではサッカー列強国であった地元にインドに破れた。一方日本は3位決定戦でアフガニスタンを2-0で破ったが、アフガニスタンと対戦すると言うことが今の世相との違いを示している。
日本はこれまでイランとは13回戦っているが、上記の2試合を含め最初の6試合がアジア大会での対戦であった。1966年、東京五輪を終えて次のメキシコ五輪に向けて強化中であった日本代表はバンコックで開催されたアジア大会の目標を優勝と捉えていた。だがその前に立ちはだかったのは韓国ではなくイランであった。一次リーグでは釜本、杉山、八重樫のゴールで 3-1 と快勝を挙げたが、準決勝ではイスマイリが挙げた1点が返せず優勝は果たせなかった。日本に雪辱を果たしたイランだが決勝ではビルマに敗れ初優勝はならなかった。日本は3位決定戦でシンガポールを2-0で破り銅メダルに終わった。当時はまだ東南アジア諸国がアジアのサッカー界をリードしていたが、60年代から70年代に入るとモハメド・メザ・シャー・パフラヴィ国王の指導のもと原油輸出で得た外貨で近代化路線を一気にはかり始め、アジアのサッカー界でも頭角を現すようになる。1968年、地元で開催されたアジアカップでは優勝を果たす。そして彼らの願いは世界への扉を開くことであった。そして1972年のミュンヘン五輪にはアジア地区予選を突破。マレーシア、ビルマに並んで出場を果たす。アジアの3カ国は全て一次リーグで敗退。イランは銀メダルのポーランドに 0-5,デンマークに 0-4と連敗した後に五輪チームとはいえ勝てばベスト8進出の可能性のあったブラジルを 1-0 と破ったことにより自信を深めた。そして同年バンコックで開催されたアジアカップでも決勝戦で韓国を2-1と破り連覇を果たしたのであった。 <つづく>