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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

なぜ嘘をつくのか

2011年05月16日 09時34分57秒 | えいこう語る
『福島1号機メルトダウン』5月16日朝刊の一面である。
ついに発表されたかという、妙に落ち着いた気持ちで記事を読む。
3:11の被害状況から、原子力関係者はすでに予測していたはずである。
しかし、発表を2ヶ月以上も隠した。
その間、現地の壮絶な被害状況が連日報道され、国民は居ながらにして地獄絵図を見るのを慣れさせられてしまった。
被災後は復興に向け、あらゆるところでの懸命な努力が報道される。国民も真の怒りをどこに向けたらいいのか、怒りの対象も曖昧になってきたようだ。
第一、原発電力の恩恵を被っているのは、国民だからである。
15日の昨日、民主党の岡田幹事長が、3:11後工事が中断されている青森県大間原発の視察に入った。
周辺町村の首長との会合後、漁業関係者約60人が集まった意見交換会では原発の推進を強調し、地元も安全対策を確保した上での、再開を希望したという。
大間町の年間予算は40億~50億円だ。原発開始から16年間の固定資産税は約450億円と試算される。私も実際見てきたが、町中は多額の補助金で整備されている。
※我が村も大間から30キロ圏内。この頃なんだか雲が気になる。


メルトダウン発表前日に、大間入りする岡田さん。真面目そうに見えるが、政治家として、悪魔の手先に成り下がったのではないだろうか。
それに、たった60名の支持者だけを集めたような対話集会。民主主義のルールに違反していませんか。
浜岡原発稼動中止だって、メルトダウンしそうな民主党政権を、水臭い言葉を注入し国民に安心させるだけの、東電と同じ手法ではないだろうか。
どうせ政権が崩壊するなら「原発全面中止」というのが、政権交代をさせてくれた国民に対する、最大のお返しではないだろうか。
「だが、いつの日かすべての装置が非の打ちどころもなく働くようになった場合ですら、原子力の予言者や計画者の賭けのなかには、相も変らず計算できない不確かさが残るのだ。つまり(人間)という因子が」
オーストリアの作家で「未来はすでに始まっている」の名言を生んだ、ロベルト・ユンクの言葉。
「冥土の王」と呼ばれるプルトニウム。そもそも、人間が取り扱うシロモノではないのだ。
岡田幹事長の真の狙いは「六ケ所村核燃料リサイクル施設」の維持継続にある。
大間原発が中止されれば「六ヶ所」まで影響が及ぶのである。「六ヶ所」なくしては、原子力政策が破綻するからである。
さて函館市民の私たちの最大関心は、新市長のこれから発表されるであろう、大間原発に対する発言である。
原発反対を公約した新市長、ユンクの言葉をかみ締めてほしいものである。


手ぬぐい

2011年05月15日 12時21分40秒 | えいこう語る
5時前に眼を覚ましたら、朝日はすでに水平線の上にあった。
ということは、日の出は4時半頃だろうか。雲の間から陽が差し込み、その下を貨物船が行く。
終日、前浜を様々な船が行き交う。磯舟、大きな漁船、フェリーや客船、そして大小の貨物船などだ。
その中で私は貨物船が好きだ。いつもたくさんの荷物を背負い、愚痴もこぼさず働いている、そんな印象を受けるからだ。
でも汗をかきながら、必死で働いているという姿ではない。船体は決してスマートではないが、ゆったりと航行する様が好きなのだ。
落ち着きがあるというか、頼もしい感じがする。


今朝の「とどほっけ村日の出美術館」。現在道立函館美術館で開催されている平山郁夫展にも劣らぬ、見事な展示である。
写真を撮ってから家に戻ったら、テレビで俳優の草刈正雄さんが出演している「美の壷」という番組が再放送されていた。
今日は、江戸情緒あふれる「手ぬぐい」についてである。
昔の人は手ぬぐい一枚で、いろんな使い方をしている。
使い古して肌触りが良くなったものを、赤ちゃんのおしめに使ったりしていた。
大正の終わりに生まれた、母のことを思い出した。
私が母を一枚の絵に描くとしたら、着物に割烹着、手ぬぐいをかぶり、はたきを持つ姿であろう。
母の若い頃の写真には洋服姿もあるが、近所の人たちも母のことは、着物姿で手ぬぐいをかぶり、掃除をしているというイメージが強よかったようだ。
とにかく掃除好きな母だった。
その母の部屋が、今、私の部屋になっている。
「あなたはお母さんの子供と思えないわね」と妻にいわれるほど、部屋の中は雑然としている。
そろそろ部屋を整理整頓しなければと、内心思っていたところである。
今日のすがすがしい日の出と手ぬぐいは「部屋を掃除しなさい」との、母からの小言に違いないと、素直に反省する。
今日は日曜日だ。
こざっぱりと掃除した母の部屋で、生け花の本でも読みながら、晩酌を楽しもうかと思っている。
天井から「飲みすぎるな」という、懐かしい母の声も聞こえたりして。


年齢を感じた

2011年05月14日 10時56分54秒 | えいこう語る
還暦を過ぎ3年ほど経つが、周囲に高齢者が多いので、自分の年齢を特別意識することはない。町内会長をしているのが、その種の会議では私は若い方だ。それにビートルズ・エイジを自認している私なので、若い人たちとの会話も、それなりに違和感を持たれないで話ができると思っている。
でも、思っているのは自分だけで、20代30代の人から見れば、高齢に見えるのだろう。当たり前だが。
無精をすれば髭だって、黒が完全に白に占領されてしまっているこの頃だ。
昨年、自分の出身中学校からの要請で、全校生徒の前で話す機会があった。
このとき感じたのは、校長先生も私より年下だったという事実である。つまり私がその時学校の中では、最長老だったのである。
考えれば半世紀も前になるが、この校舎で自分が学んだことがはっきり記憶に残っていただけに、この出来事は自分の年齢を強烈に意識した瞬間だった。
※昨日は強風が吹いた。福島第一原発の建屋のような感じがする風景だ。


昨日、役所に町会の用事ででかけ、担当課長と話していた。
その課長の部署に外部から電話が入り、女性職員が対応している。
テレビ局からの取材の申し込みらしい。
村の住民で、戦争中に函館市内の大手缶詰会社が経営する工場に、働きに出かけていた人を探し、インタビューしたいというような内容であった。その若い職員は、戦争中などといわれ対応に苦慮しているようだ。
そこで私が「たぶん戦争中なら、樺太か北方領土にその会社の工場があり、そこに当時村の若い女性たちが、出稼ぎしていたということを話し、現在村に住む00さんなどに話を聞けばわかるはずだ」とアドバイスした。
電話の用件は、それで対処できたようだ。
家に戻り、役所での出来事を振り返ってみた。
その時間、役場にいた中で、私が一番の高齢者だったのだ。しかも戦争中の話題を知っていたのは、私だけだったのだ。
昨日は一日中、強風が吹き荒れ、雲は引きちぎれそうに飛んでいた。
福島原発から300キロ離れた静岡のお茶が、放射能汚染で出荷規制されたという。風は東北方面から吹き上げてきているようだ。
私の思いは、1945年の広島・長崎まで駆け巡る。
「吹く風や昭和も遠くなりにけり」そんな思いが、ふと脳裏を横切った。


とどほっけ村大復興計画始動

2011年05月13日 11時41分01秒 | えいこう語る
旧椴法華村が函館市に吸収合併されてから、7年目を向かえた。
昭和30年代の人口は4,000人近くいたが、現在は1,000人ほどに減少してしまった。
戦後の高度経済成長政策は、都市部集中の民族大移動により、日本各地の地域社会は、少子高齢化と過疎化の大津波を受け、道を歩くのは狐か狸、そんな日本昔話のような里が増えてきた。
※朝から銚子ビーチは、大荒れに荒れている。
 海の向こうのカリフォルニアに、ハリケーンでも来襲しているのだろうか?


我が村も、限界集落などというような言葉が普段の会話の中に出てくる、そんな雰囲気になってきたのだ。
昨夜、我が村の7つの町内会が集まり、役員会が開かれた。
地域存続に危機感を持った役場職員(正式には函館市職員)も、ついに立ち上がった。
「集落維持対策事業」という、おどろおどろしい計画を提案したのである。
ところが町会役員たちから、この事業に誰が参加するのだとの、人材不足を嘆く発言が出る。
7年前までは、北海道椴法華村という小さくても胸を張って生きてきた、地方自治体であったのだ。
これが過疎の村なのと、訪れる人が驚くような立派な役場庁舎、住民から選ばれた村会議員もいて、村の存続に知恵を絞っていたはずである。
財政が底をついたのではない、国の市町村合併計画と多額の補助金(合併特例債)
に自治権を放棄しただけである。
言い換えれば、原発と補助金の前に、国策だからと受け入れを決めたようなものだ。
とはいえ、後10年後の村の人口が大激減する予測は、誰の眼にも見えてきた。
平成23年5月、故郷大復興計画に、待望の「背水の陣」がひかれたのだ。
明治9年、我がとどほっけ村は、隣町の旧南茅部町から、一村独立を果たした。
その時の戸数、なんと70戸だったという。
山を切り開き道を作り橋を架け、水道を引き発電所を作り、日露・日中・太平洋戦争にも兵士を送り、故郷や国家繁栄のため汗を流したと、村の歴史は先人たちの偉業を熱く語る。
さて現在に生きる私たちの双肩に、とどほっけ村の存亡がかかっているのだ。
人生最後の仕事としては、あまりにも名誉な仕事ではないかと、身震いを覚える。
山に登り頂上から、漁に出て沖から、この自然に囲まれた美しい村を眺める時、先人たちがこの地に居を構えてくれたことに、私は感謝する。
ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな   
石川啄木
ガンバレ日本!そして、ガンバレとどほっけ!と、大きな声で叫びたい。


ガンバレ日本

2011年05月12日 11時32分33秒 | えいこう語る
この度の東日本大震災、首都圏では計画停電が長引くと思っていたが、その心配もないようだ。
震災後2ヶ月を過ぎたが、今後の原子力政策についての世論調査では、原発の増設と現状維持を支持する割合が、半数を超えるという調査が出たという。
命と引き換えなど、まっぴら御免という結果が出ると思っていたが、これが我が国の一般的価値観なのだろう。
この結果を見て政府はどのように考えるだろうか。
財源不足による電気料金の値上げや増税は、国民が納得していると判断するのではないだろうか。
震災後、国民が心に受けた大きな傷も、浜岡原発の停止という政府の軽い“止血処理”だけで、安心する患者(国民) が多くいる我が国、沖縄の基地問題の解決など、程遠いと思わざるを得ない。
災難は我が身に降りかからなければよしとする、そんな世論に思えて心が沈んでくる。
※夕暮れの函館の郊外。


昨夜のことである。私は寝床で大きな声を出したという。
「津波だ逃げろ」妻は飛び起きたそうだ。私の寝言だったという。世論調査の結果が、夢を見させたのかもしれない。
昨日、サーフサイドに自転車で毎週やってくるお客様との会話である。
Tさんの年齢は75歳以上79歳だ。
毎年6月に開催される、ハワイでのハーフトライアスロン(距離が半分)に、その年齢のクラスに参加している。訓練のため函館から我が村まで山道を疾走して来る鉄人だ。
昨年の6月の大会では、チャンピオンになり、10月に世界各地のチャンピオンが集まるハワイでの大会でも、入賞を果たしたという方だ。
その方がポツリつぶやいた。
「この度の大震災の報道で、私の心は疲れてしまった。何よりもがっかりしたのは、この国の政府の無能ぶりだ」と肩を落とした。
敗戦の日本をその眼で見た人の心は、私たち戦後世代とは違ったものがあるのだろう。
※上の写真から間もなくの、ROUTE278。戸井バイパスから函館を振り返る。


「私は、40回ほどハワイの大会に参加しているが、今回は心が燃えてこない、優勝はできないと思っている」ともいう。
「毎年参加しているしチャンピオンなのだから、ギャラリーはTさんのことを知っていますよ。震災の後なので“ガンバレ日本”の声援がかかると思います。その声援に押されて、走りきってください」と私がいうと、Tさんは「そうだね、がんばらなくちゃ」と、笑顔をみせた。
今回の大震災、国民の心に大きな傷を残したが、同時に国家への信頼感が薄れたことにも、政治家は肝に銘じてほしいものである。