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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

♪話してよかった今夜の私

2011年05月21日 12時47分48秒 | えいこう語る
神楽坂はん子さんが唄う芸者ワルツ。
作詞・西條八十 作曲・古賀政男の両巨匠である。
♪空には三日月お座敷帰り
恋に重たい舞い扇
逢わなきゃよかった今夜の私
これが苦労のはじめでしょか♪
なんとも粋な唄である。
昨夜函館市内で、函館市町会連合会(187町会)の定期総会が行われた。
『安心安全なまちづくり』を目標の町内会、今回の総会で私が発言したいのは、東日本大震災の原発事故に係わる防災と環境についてである。
対岸の青森県に着工中の大間原発、すぐ目の前だ。それも日本最大級の原発であり、ヒロシマ(ウラン)とナガサキ(プルトニウム)の原爆の原料を、ミックスしたモックスという燃料を使うという。
ミックスしたらさらに強力になるのに、名前がモックスだという。
ふざけるな、と言いたくなる原発である。


発言はトップにしようと決めて、席は前列で議長と目が合う場所だ。
「新年度事業計画案について、提案したいと思いますが、いかがでしょうか」
議長の許可が下りた。
総会後は懇親会がつきものだ。発言内容は、大幅にもめないよう心がけるのが、発言する者の常識である。
内容は削除に削除を重ね、5・7・5の俳句のようなものにした?!
しかし、それが火に油を注いだようだ。
次の発言者、私が削除した部分を漏れなく話す。さらに次の方は、私が次の段階で提案しようとするアイディアまで話してくれたのだ。
結果、函館市町会連の新年度活動に「大間原発勉強会」が決定されたのだ。
続く懇親会、新市長の登場。
町会連会長たちを前にボルテージ全開の市長。まるで選挙演説さながらの挨拶である。私もすかさず市長のところへ挨拶に出かける。
「市長は原発中止を公約しましたね。総会でも原発問題が討議され、勉強会を町会連主催で開催することになりました。函館市も共催してください」
「もちろんだ、共催をしたい」
なかなか、話のわかる豪快な市長である。武士に二言はなさそうなタイプらしい。
懇親会も盛り上がり、久しぶりで馴染みのママの店へ顔を出す。
文学好きのママと、しばし雑談を楽しみ店を出た。
ネオン街は雨も上がり、気分爽快である。
「函館市町内会連合会、大間原発中止を決議し、青森県に殴りこむ」
なんて、新聞の見出しが出たら最高だな、などと思いながら、ふと芸者ワルツの唄が口をついた。
♪話してよかった今夜の私・・・芸者ワルツは思いでワルツ♪
私は、とてもうれしい時、なんだかデタラメな感じになるのだ。


御奉公

2011年05月20日 12時48分42秒 | えいこう語る
常軌を逸する殺人事件、大相撲界の八百長問題、政治や教育界における質の低下など、我が国の凋落振りを嘆く毎日が続いていたはずである。
ところが3:11の東日本大震災以降、復興に向けた国民の強い絆や献身的な活動が報道されるや、震災以前に国民に蔓延していた厭世観は、どこかに吹き飛んだ感がある。
被災地の惨状に心がつぶれそうになる毎日だが、その反面、被災場所や放射能現場の最前線で、命をかけ復旧に努力をする人々の活動が、私たちの心を奮い起こしてくれる。
しかし、それを美談として報道する傾向に多少の違和感を持つ。
死の灰の現場で働く人たちは、国民の原子炉停止の期待の中で、その状況から逃れられない運命なのではないかという、疑問と共にである。
太平戦争が始まった昭和16年12月8日。
その3ケ月後に出版された、大政翼賛会嘱託・森崎善一著『御奉公』という本がある。1章から41章まで、戦時下の国民の心構えを記している。
第1章の解説である。
「朝日が燦々と輝いて、菊の花の馨が全土の隅々に迄、満ちみちている我が大日本帝国には、忠勇の民一億が住んで居ります。
何といふ力強いことでせう。我々大日本帝国の臣民は、この立派な国に生を享けたことを感謝し、この立派な国体をしっかり自分の身につけて、正しい生活を致さなければなりません。
我々臣民の行ふべきことは色々ありますが、如何に大きな行であっても、御奉公より大きなものはなく、御奉公より重いものはないのであります。日本人の行いの中で、御奉公にまさる行はなく、御奉公の行ほど尊いものはありません。
我々日本の臣民は、一人残らず高潔な菊の花の様の香り高い姿になって、御奉公の生活を精進しなければなりません」
※夕暮れのとどほっけ村。自然は私たちに真実を語ってくれる。


私はこう感じる。
石原東京都知事が、消防救助隊の献身的活動の前に涙を流し、その行為を称えた。最前線に出動させられた消防隊員の、真の気持ちを果たして汲んだ涙なのだろうか。石原氏独自の美学の、陶酔の涙なのではないだろうか。
もう一つ、気になる行動がある。大阪府の橋下知事の「国歌問題」だ。
従わぬ教員を排除する条例の制定を行うようだ。議会多数派は知事の応援で当選した支持派だ。権力に溺れてはならない。維新の会とは、国を憂う青年将校の暴挙にならないよう、注目しなければならない。
3:11前の我が国は、政局が不安定になっても、何か大きな事件が発生すれば、マスコミの一斉報道により、大切なものを見分ける国民の視線を曇らせていたような気がする。
3:11以降、戦後構築された様々な概念が崩れ去るのを感じる。我が国は今、大きな転換を迫られている。
ここに来て反省なき政治家たちの、与野党協力体制が動き始めたようだ。
よき国家を作るためにだろうか、それとも震災後の国民の「絆」の涵養を背景に、何か国家主義的なことを企んでいやしないだろうかと、心配する。
権力を監視するのがマスコミの役割だが、今の商業ベースのマスコミに過度の期待は禁物である。
詩人の茨木のりこさんの詩を思い出す。

もはやできあいの思想・・・宗教・・・学問
もはやいかなる権威にも寄りかかりたくない
ながく生きて心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合なことやある
寄りかかるとすれば
それは椅子の背もたれだけ


それぞれの人生

2011年05月19日 12時48分51秒 | えいこう語る
自分が生まれ育った故郷には歴史がある。
歴史とは、海・山・川・空、自然の中で働きそして学んで来た、先人たちの知恵と努力の集積である。
故郷は、父母そのものでもあり、友人でもあり教師でもある。
自分の人生に大きな影響を与えてくれた故郷、まさしく、忘れがたき故郷である。
3:11の東日本大震災。
メルトダウンとは原子力の分野では、修復不能という意味ではないだろうか。
福島では15万人を対象に、今後30年にわたり放射能の人体調査をするという。
なんという無礼だろうか。
新天地をめざし、もう一つの故郷を持つのも、人生の喜びかもしれないが、放射能に汚染され、故郷を捨てざるを得ない人たちの心情を思うと胸が痛む。
港の先端には、一度は役目を終えたが、再び働きの場を得た磯船たちが、新たな故郷に向かうため集まっていた。被災された三陸に向かうという。


昔の木船と違い現在は強化プラスチック製だ。強度もあり波にも強い。
「君たちなら、三陸沖復興の大きな力になるはずだ、新しい故郷で存分に働いてほしい。北の荒海とは違い、三陸海岸は穏やかでとても景色のよいところだという。新しい船頭さんを励ましながら、元気に第二の人生を送っていただきたい」と声をかけた。
※間もなく日本海へイカ漁に旅たつ大きな船。
 俺もがんばるからお前たちもがんばれと、磯船たちとの別れを惜しんでいた。


夕暮れの港には
誰もいない
住み慣れた故郷と
別れを交わす磯船たち
静かに迎えの
貨物船を待つ

港周辺の山の木々も
やっと色付き始めた
せめて新緑に萌え盛る港から
旅たってほしかった

人生はままにならない
それもまた 
人生の味わい深さ
なのかもしれないが


自分らしく生きれるか

2011年05月18日 12時55分47秒 | えいこう語る
たわいもない話だけれど、これだけは守り通したいというものが誰にもあるはずだ。
「あの人らしいね」といわれる、一種のこだわりのようなものだ。かといって生き様というほどの、カッコよいものでもない。ただの頑固さのようなものだ。
皆と同じことをしては、没個性になる。しかし、世間の中で生きていく以上、自分の主張ばかり通しては、頑固を通り越して変人といわれかねない。
ただ、いざ鎌倉という時、自分が納得した言動ができるかというので、その人の価値のようなものが決まるような気がする。
その時のための訓練のようなもので、自分の日常行動の中で、自己規制をしていることがある。
1年に数回だが回転寿司にいく。回転寿司が登場したのは、私の記憶では40年ぐらい前だと思う。当時、百円寿司といっていた。そのうち高価な食材が出てきて値段が上がり、それなら普通の寿司屋と変わらないのではないかと思うようになった。
それに抵抗し、私は、百円(今120円)の品しか食べないことに決めた。
開店寿司などは家族でしか行かないので、私の行動は家族の中では変だといわれた。しかし40年の歳月の中で、業界も様々に進化する。
黙っていても回ってくるのが回転寿司なのに、注文を受けるようになった。
そこで注文など一切しないでいたが、最近では注文しなければ、自分の好きなものが回ってこなくなったのだ。ここまで来れば、お金を払うお客がお客らしくできない。
そんなわけで、回転寿司に関しては、長いこと付き合った好きな女性だけど、そろそろ別れようかと思う、そんな感じになってきた。
そんな私を「馬鹿じゃないの」と横目で見ている、妻の視線を感じる。
※昨日取り付けた看板。


回転寿司が登場し、そのずっと後から世に出た牛丼チェーン。
♪夜明け間際の吉野屋では・・・♪
中島みゆきが歌うこの歌に魅かれ、年数回通っている。
ところが最近函館に、すき屋という競争店が進出した。吉野家は私の行動範囲からは遠いところにあり、すき屋が近い。そこで、意外と簡単に心を曲げてしまったのだ。私としては、みゆきさんを裏切ったようで、結構心苦しい気持ちが残る。
しかし、すき屋もなかなかの味である。
つい先日妻と入った。なんと、牛丼・並み盛¥250円。二人でワンコインだ。
このよし屋、最近ファミレスチェーンで、売り上げがトップに輝いた。
それは結構だが、私が行った時は従業員が一人で、厨房へ入って手伝いたいぐらいの忙しさだった。従業員を酷使しては「すき」にはなれない。「きらい屋」といわれぬように、労働条件を改善してほしいものだ。
話はそれたが、私の牛丼店でのこだわりは、並み盛しか注文しない。
「ご注文はそれでよかったでしょうか」という、他のメニューを進める言葉が嫌いだからだ。「これでいいのだ」と、叫びたくなるのだ。
牛丼は並みでいい。庶民は並みでいいのだ。
私は20代の頃痩せていた。大盛りを注文するのは、下品だと考えていた。それでいまだに、並み盛が上品だと思っている。
というわけで、回転寿司は40年という付き合いの仲で、多少の歩み寄りを見せたが、牛丼店は付き合いが浅いので、自分らしさを保っている。
たまに妻が「安すぎて気の毒だから、味噌汁か何か別なものも」というが、私のこの店に対する姿勢は、これからも変わらない。
そこまでしなくてもと、自分でも思うが、例えば、自分の故郷に原発立地の話が持ち込まれたとする。
多額の電源三法交付金と、個人にばら撒かれる原発マネー。
そんな時、自分が耐えられるかという、私なりの防災訓練なのかもしれない。


函館は寂しき街

2011年05月17日 12時47分00秒 | えいこう語る
月曜の午後、用事があり函館山山麓の西部地区方面に出かけた。
歴史的建築物が立ち並び、いつもなら観光客で賑わうこの地区。小雨が降ってはいたが、人通りが極端に少ない。
この地区に住んでいた事のある石川啄木なら「函館は寂しき街」そう歌うに違いないなどと、妙にしんみりしてくる。
先日、アジアの観光関係者を函館に招待し、すばらしい街だとお墨付きが出たのが報道されたばかりである。
「福島原発メルトダウン」の報道がされては、今年は海外からのお客様は、望めないのではないかと思ってしまう。
雨の中,車から降りて濡れないように急いでシャッターを押すが、写真には人影が写らないほど、歩いている人が少ない。
こんなに日本経済を疲弊させても、なお原発を推進する政府の姿は理解できない。もはや民が主人公の党ではない、日本悪魔党に違いない。
※旧丸井デパート。子供の頃、このデパートのレストランへ行く時は、普段着ではない服を着て出かけた。
 私とは10歳ほど年上の従姉が「ミス丸井」だったのが自慢であった。


函館開港からわずか150年。黒船はこの街に希望の扉を開けたが、原発はこの街から希望を奪い取っていくような気がする。
函館市は海に浮かんだ函館山と、陸地の間に砂が集まりできた街である。
そのため「川のない街」だった。
日本初の水道は横浜市の明治20年だ。それに続き明治22年、市民念願の水道が完成する。
水道鉄管の直径は30センチだったという。その材料がイギリスから船で運ばれ、函館港についた時の、市民の驚きようは目に見えるようである。
※当時の排水場が、函館山の下に今でもある。


昭和40年代に東京に出稼ぎに出た私の友人、Hから聞いた話を思い出した。
都内の下水道の工事をしていたが、その巨大な水路に「この街はとてつもない発展をするだろう」と思ったという。
水道の完成式が函館公園で行われ、イギリス商会寄贈の噴水塔から水が噴出した瞬間、つめかけた数万人の市民の歓声は、街中に響き渡ったにちがいない。
祝賀行事は三日間行われ、街中は飾り物や山車で賑わい、花火が打ち上げられ、獅子舞が演じられたという。
そんな歴史を函館の街並みは、一瞬のうちに語ってくれるのである。
57歳の若さで旅立った、Hのことも思い出させてくれた、寂しき函館の街から、なんだか追われるごとく自宅への道を急いだ。
途中、大森浜の啄木公園のそばを通り過ぎる。
新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど    啄木
水道敷設から18年後の明治40年5月、啄木は函館に居を構えるが、市の3分の2を焼失した大火に遭遇し、その年の9月には、函館を去り札幌へと向かう。
追伸
チョッピリ声を荒げた場面。
また張りぼての女神が、景観を台無しにしていた。

なぜか坂本龍馬が、記念館の中にいた。出て来い龍馬!蝦夷共和国建設に立ち上がらなきゃ、いかんぜよ!と叫んできた。