函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

函館の高校生リンチ殺人事件

2007年08月31日 10時09分59秒 | えいこう語る
昨日、函館市内を車で回ってみた。函館湾を見下ろす高台にいて、なぜこの様な美しい風景の中で暮らしていながら、7人もの高校生が、1人の仲間を殴り殺さなければならなかったのか、悲しさが増してくる。
神戸の「酒鬼薔薇事件」を思い出した。
閑静な住宅街で、人々の交流の場所が少なく、このような殺風景な場所に住んでいると、凶悪な事件が起きやすい、と言う様なことを話していたコメンテーターがいた。
街並みの美しさや、都市計画のあり方なども、人の感情に大きな影響を与えるものなのだろう。
人は美しい風景の中に暮らしていると、絵を描きたい、写真をとってみたい、詩を書いてみたいと言う欲求に駆られる。心と自然が対話できる事が芸術への第一歩の様に思う。
函館出身で著名な画家はたくさんいる。市内の学校や、病院、レストランなどで、それらの作品を身近に鑑賞でき、函館の街が持つ素晴らしさを、日常生活の中で身構えることなく、触れ合うことが出来る。
函館は街全体が情操教育に適した環境の街のように思う。
それゆえに高校生の殺人事件が自分たちの街で起きた事に対し、市民は驚きを隠せない。被害者の家族の悲しみは尋常ではないはずだ。また、加害者の家族の苦しみも永久に消える事はないだろう。人のつながりが身近な港街だけに、衝撃は大きい。
人の命を軽んじる傾向は近年随分増えてきている。
例えては良くないが、松岡元農水大臣が自殺したのはつい最近の事である。それも現職の大臣である。今政治の世界では、何事もなかったかのように忘れ去ろうとしている。
私たちの身近でもそれと同じく、責任の所在を鮮明にさせないまま、時が過ぎ去り、うやむやになってしまうのを、意識的に待つという事が多くなってきているような気がする。子供たちはこのような大人の社会を、どんな風に見ているのであろうか。
何か大きな事件があるたびに、脳裏をかすめるのは、昭和天皇の戦争責任について、語ることの許されない国であることの不思議さである。
靖国のA級戦犯合祀問題でも、天皇の戦争責任についてまったくと言って良いほど触れないのが、私はこの国の特徴のように思う。
日本人の責任所在を鮮明にしない曖昧さは、そこに端を発していると思うのは、私の偏見であろうか。
もう一つ不思議に思うのは、一つの家の中に、神様と仏様を祭っている事である。出征する時は神社で、戦死するとお寺が迎えると言うのも不思議だ。
それならば、自衛隊は容認し、憲法第九条を変えないで、今までどおりバランスをとっていくのも、日本人の器用さだと思うが、この問題だけはなぜかはっきりさせようとするのが、日本人らしくないような気もする。
私の頭では、なんら結論が出ない問題である。


「私は貝になりたい」帆立貝の場合

2007年08月28日 09時57分04秒 | えいこう語る
高校が大学への進学率を上げるため、優秀な生徒へ受験料を出してやり、複数の大学に合格させている事実が発覚した。
中には4私大の計73学部の学科に、全て合格した天才?もいた。
本人は学校が受験料を出してくれるので、本命狙いのための、予備テストのつもりで、楽しんで受けていたのであろう。
選ばれた者の優越感と達成感を同時に味わっているのだろうし、自分の母校の名誉に一役買ったつもりでいるのであろう。
少子化により学校が廃校になって行く昨今、学校経営の生き残りをかけた努力とみれば、理解できないこともないが、道徳や倫理の規範を教える場所がこの程度なのかと思えば、虚しさを感じてくる。
高校野球も、特待生制度を設け、他県から入部させ、さらにプロのスカウトが、親や学校側にお金を払って優秀な選手を確保していたのも発覚した。
マスコミは何度かセンセーショナルに捉えたが、その後どう改善されたのかはっきりしない。法に直接触れなければ、ある程度ならやっても良いというのが学校側の姿勢なのだろうか。
小中学校はどうであろうか。いじめ問題が少しなりをひそめていると思っていたら、今度はモンスターペアレントと言われる、親達が、学校で暴れまくっていると言う報道がある。
教育現場は規則ある生活の中で、社会の秩序を学ぶところであったような気がする。それに多少の反抗をしながらも、生徒達も社会生活をしていく上での基準を身につけていったはずだ。
それが、いつの間にか学校内部においてさえ、様々な基準の崩壊が始まっている。体制を維持するためには、モラルハザードぎりぎりのところまでしても良い、ということを教えるのが、学校の役割になってしまったのではないだろうか。
政治に目を向けてみると、参議員戦で大敗したのに、国民の常識を無視し、首相自らが続投を決めた。まもなくあれやこれやの組閣が終了するだろうが、同じコップの中でサイコロを振っているような内閣では、誰もが期待しない。
サプライズ人事とか言っているが、首相が居残っている自体が超サプライズなので、国民は多少の事ではもう驚かなくなってきている。
政治の社会は、戦場と同じで、人が死に首を切られても誰も驚かないが、教育現場にまで、誠実さが欠けて来たのが心配だ。
先日テレビで「私は貝になりたい」が放映された。
部下の罪を背負い、B・C級戦犯として死刑を宣告される隊長の実話である。
静かな海で貝のように口をつぐんで暮らしたいと言う、戦争の理不尽さと、責任のとり方を描いた秀作です。私はこのドラマを見て、実はこんな感じに受け止めていました。
皆さんは、北海道の帆立貝が泳ぐところを見た事がないと思いますが、口をパクパクさせると、海水を吐き出し凄い力で前進します。
あきらめて黙り込んでいないで、帆立貝のように口をパクパク開けなければ、前進がないということをこのドラマで感じました。
政治も経済も教育も社会全体の基準が見えなくなっている今日、今こそ意見を述べ合い、基準の枠組みを鮮明にさせなければ、ならないと思います。
どんな小さな集会でも、必ず自分の考えを述べていこうと思っています。(怒)
朝青龍問題・組閣問題・受験問題・何よりも何時までも消えない残暑に気が立っていることは間違いありませんが「お父さん厄介なこと言わないで頂戴」と言う妻の声は、深い海の底なので届いてきません。(笑)


都会の人が喜んだ田舎の或る一日

2007年08月26日 09時36分33秒 | えいこう語る
隣の老人夫婦の、横浜に住んでいる孫娘が二人、今年もお盆過の混雑する時期を避けて遊びに来た。
共に20代の二人で、子供の頃からよく知っているが、外見も派手ではなく、性格も鷹揚で、とても好感が持てる。
来たその日から、おばあちゃんが用意した烏賊刺食べる。窓からその家を覗いたら、居間の風景にすっかり溶け込んでテレビを見ている二人の姿があった。
1日は私が付き合うことにした。彼女たちの趣味は魚釣りである。早速午後から、近くの築港へチカ釣り(ワカサギの様な小魚)に出かけた。
水温が高いせいか、大きいのは沖のほうにいるのか、体長7~8センチの小さいのが30匹ほど釣れた。
海面からぴちぴち上がってくる銀色のうろこが、陽にあたりまばゆい。
2時間ほど楽しんで、夕暮れ時から国道の走る海岸沿いにテーブルをセットし、炭火を熾した。
最初は、釣ってきた魚の天ぷらだ。潮風が吹きぬける海岸での天ぷらは格別だ。
塩を少しふり、つめたいビールを飲み干す。写メールでまだ仕事中のお父さんに送る。次は丸々太った根室産の秋刀魚がジュージュー脂をたらし焼ける。写メールをまた送る。お父さんは仕事を止めて家に帰り、飲みたいと言っているそうだ。
渡り蟹を釣ろうと、前浜に竿を投げていた。二人で代わる代わる竿を上げに行くと、一度に7~8匹ついてきて、形も大ぶりで大漁だ。重くてリールが回らないと言っては、波打ち際の蟹を見て、大歓声を上げる。仕掛けを投げては、また戻り、ビールを飲む。
茹でたトウキビを、醤油たれで焼く。香ばしい匂いが海岸に漂い、潮風のスパイスも効いて、秋の味覚の美味さは格別なものがあった。沖には漁火も見え、活火山恵山の真上には、少し欠けたお月様も出ていた。家に戻り、蟹汁を作った。今夜に限って最高の味が出て全員が喜んだ。
翌朝、二人は喜んで帰っていった。孫が帰るとき、おじいちゃんは、毎回号泣し、今生の別れの名場面がある。今年はその場面に居合わせなかったが、隣のおじさんである私も、何時までもお嫁に行かずに遊びに来て欲しいと思ってしまう。心の優しいお嬢さんたちである。
おじいちゃんは数年前に、天国ってどんな所だと私に何度か聞いた事がある。
私は「花がたくさん咲いていて、女は全員若いし、キャバレーがあって、毎日只で飲めるそうだ」と話して笑わせていた。
酒好きのおじいちゃんも最近は、その質問はしてこない。体力もめっきり衰え、最近も救急車で運ばれたばかりである。そのおじいちゃん、孫が世話になりましたと言って、翌朝ビールを届けてくれた。
それこそ、何のお構いも出来なくて、田舎でしか出来ない普通の生活が喜ばれる事が嬉しかった。
おじいちゃんの気持が入っているビール、その夜有り難くいただいた。
窓から覗くと、おばあちゃんは孫の世話で疲れ、居間で横たわっていた。
孫が帰るたびに見る、隣の老夫婦の光景である。


老人の死について考える

2007年08月22日 10時24分08秒 | えいこう語る
過疎化・高齢化・少子化は地域問題の最重要課題である。
地域も老夫婦や独居老人家庭が増えている。福祉関係の先生から聞いた話だが、老人の「性の問題」も、表面には語られていないが、複雑なものがあるらしい。
福祉関係は比較的若い人たちが仕事をしているが、住宅訪問などは、年配のおばさんをアルバイトで使った方が、上手にあしらえるのだと、永くその仕事に従事していた女性が話していたし、昔し話をして思い出を引き出してやるのも、介護の大切な仕事だと話していた。
「看護の秘訣とは、患者に不安を与えない事だ」と言った、ある医者の講義が何時も心の片隅に残っている。ホスピタリティーとは、そんなことを言うのだろう。
私も入院生活を何度か経験しているが、術後、看護婦さんとの優しい会話が何よりの良薬である。
随分前だが、新聞で読んだある医者のコラムに,涙した事がある。
北海道内の小さな町の診療所(自治体が建設し、補助している地域医療所)の事である。
或る日、年老いた男性の患者が先生に相談に来た。
隣の病室にいるAは私の幼馴染で、学校も同じに入り、戦争も同じ部隊で生き延びてきた。帰郷してからもずっと仲良しで、病院までも一緒になった。癌で、もう命がないと聞いている。最後にあいつと一緒の酒を飲みたいんだけど、先生、許可してくれないかと、頼んできたそうである。
先生は、消灯してから、静かに行っても良いと言ったそうです。
酒は飲むことは出来なかったが、その患者は翌朝死んだそうです。
医者と患者の心の通い合い。それに友情がにじみ出たこの話は、この頃の殺伐とした事件が続く中で、時々思い出す、忘れられない新聞の切抜きである。


中華料理でナマコが人気

2007年08月21日 10時09分03秒 | えいこう語る
2~3年前からナマコの値段が高騰している。最近の中国経済の好調が理由らしい。特にトゲトゲの付いた北海道産の物が「北海キンコ」と呼ばれ、中国では、フカヒレや、干しアワビと並び高級品になった。
乾燥ナマコは1キロ5万円位で取引されているが、北海道産は、7~8万円にもなると言う。
私の周辺の漁業組合でも、昨年辺りからナマコを捕っている。今まではウニ捕りのついでに捕り、自宅で食べていたものが、ウニより値段が高くなり、採取を始めている。昨日まで価値のなかったものが、一躍浜のスターになってしまった。
海水の温暖化により春先から不漁が続き、ウニや昆布の成育が悪い今年など、冬場は、ナマコ漁が盛んになると思う。
多分根こそぎ捕ってしまう危険性がある。近くの水産試験場で増産の技術開発が始められたが、年間の漁業所得が悪化してくると、一番高値のナマコに期待し、漁業組合そのものが、捕獲制限を考えていないのが心配だ。
10年程前に。昆布の根の部分は見捨てられていたが、ある女性タレントが「根昆布」は身体に良いとテレビで宣伝したら、とんでもない高値になった。
健康ブームは一時的なので、今ではほぼ捨てられている状態だ。
また2年程前までは、ガゴメ昆布と言うと、とろろ昆布の材料で、あまりお金にならない昆布だったが、高血圧防止や、とにかく健康に良いと宣伝されたら、見る見るうちに値段が上がり、私たちも手の届かぬ値段になってしまった。
すぐに大手の製薬会社が大量に買占めたそうだが、一年でそのブームも収まったようだ。
漁業組合の販売管理が市場に振り回され、長期間にわたり生産や価格調整を出来る仕組みになっていないのがその原因にある。
ナマコもその類で、値段が高いから、採取し漁師の生計の安定を図ろうとするだけで、資源確保が後回しになってしまう。
そんなわけで密猟者が後をたたない。中には本州方面からの密猟者もいる。高値も北京オリピックが終了するまでといわれているが、市場に振り回されているだけでは、漁業経営は大変である。
30年近く漁業組合の状況を近くで見ているが、漁師の中から理事を選び、組合長を選出する仕組みを変えない限り、漁業の発展は望めない。
北海道の農家の後継者は、酪農大学出が多いが、漁家には水産大学出はまったくと言うくらいいない。
これは、水産高校から進学する、水産大学へのハードルがあまりにも高すぎるのに問題がある。北海道の水産大学も、高校からの進学が可能なレベルを、設立しなければならないと思う。
温暖化や環境問題の対処がまったく遅れているように見えるからだ。
港や海岸保全の補助金の導入ばかりが、漁業の振興ではない。捕るだけの漁業から、学ぶ漁業への転換が急務のようだ。
ナマコがウニより値段が上がっていると、自慢げに話す漁師の顔は、どこか海の男とは、違う顔をしているように思えてならない。