▼政治家の裏金疑惑がこれ程まで蔓延していれば、我が国は『裏金国家』と言われても、申し開きができない。
▼私が大好きな「水戸黄門」。この内容も悪代官と業者が結託した‟裏金問題”が主テーマだ。政治にはお金がかかるといわれて、国民もそう思う。国民がそう思うから、水戸黄門は終わりがないのだ。
▼国民があきてしまえば、水戸黄門は終了する。悪代官がいない「水戸黄門」は、その時点で制作が終わる。
▼というわけで、ロッキード事件・リクルート事件など、悪代官が黄門様に処罰されるのを見て喝采した。そして聴衆は、新たな悪代官の出現を期待?する。
▼新閣僚(俳優)が誕生する。その中で誰が悪代官役に一番ふさわしいか、国民は知っている。知っているが、騙されたような顔をして、じっと演技を見ている。悪役は必ず成敗されるからだ。
▼この俳優が出れば必ず悪代官役だという人がいる。期待にたがわず名悪役ぶりを発揮する。何度出てきても、この人ならドラマを引き立ててくれる。
▼政界でいえば元総理森喜朗だ。東京五輪でも、名悪役ぶりを発揮した。今の裏金問題でも、車の中でちらりと出演する。無言でも悪の大御所的雰囲気は十分ある。
▼水戸黄門の話題一色になったが、国民は悪役を懲らしめる場面を期待している。とは言いながら、少々の悪は政治の世界にはつきものだと思っている。そんな悪に寛容な国民の心情が『裏金事件劇』を待ち望んでいたという結論だ。
▼つまり日本国民は、田中角栄のような悪役が好きなのだ。真面目過ぎる若殿より、悪だが妙に女性に人気がある人物をだ。この感覚が政治家の腐敗を生ませる土壌なのだ。
▼オウム事件の映画監督森達也は「人は悪人だから悪をなすものではない。集団の一部になるだけで、途方もない悪事をなす場合があるのだ」と。
▼かつて日本国民は「皇民」という集団に巻き込まれ、個を捨てた。そして戦争という狂気に、自ら参入した。
▼今回の「裏金疑惑」。派閥という集団に入り込み、個人の倫理観を失った。国民もこんなものだという‟群集心理”に惑わせられない国民なら、今回の裏金問題はこれ程まで大きくならなかっただろう。
▼のど元過ぎれば「こんなもの」だという社会現象は、いずれは戦争ができる国への助走ではないかと「水戸黄門評論家」?として、日本社会の今のありように、危機感を覚える。
▼政治に対し、無関心さ起こさせるために「政治的中立」という呪文がある。中立とは無関心でいるということだ。
▼「政治的公平」というのが正解なのだろう。政治家と国民は、公平な立場だ。「あこがれてはいけない。特別な存在ではない」という、大谷翔平選手の言葉が、水平線の彼方カリフォルニアから、北海道の田舎のおやじの心にも響く、この頃だ。