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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

国民の政治への無関心

2023年12月18日 10時54分19秒 | えいこう語る

政治家の裏金疑惑がこれ程まで蔓延していれば、我が国は『裏金国家』と言われても、申し開きができない。

 

私が大好きな「水戸黄門」。この内容も悪代官と業者が結託した‟裏金問題”が主テーマだ。政治にはお金がかかるといわれて、国民もそう思う。国民がそう思うから、水戸黄門は終わりがないのだ。

 

国民があきてしまえば、水戸黄門は終了する。悪代官がいない「水戸黄門」は、その時点で制作が終わる。

 

というわけで、ロッキード事件・リクルート事件など、悪代官が黄門様に処罰されるのを見て喝采した。そして聴衆は、新たな悪代官の出現を期待?する。

 

新閣僚(俳優)が誕生する。その中で誰が悪代官役に一番ふさわしいか、国民は知っている。知っているが、騙されたような顔をして、じっと演技を見ている。悪役は必ず成敗されるからだ。

 

この俳優が出れば必ず悪代官役だという人がいる。期待にたがわず名悪役ぶりを発揮する。何度出てきても、この人ならドラマを引き立ててくれる。

 

政界でいえば元総理森喜朗だ。東京五輪でも、名悪役ぶりを発揮した。今の裏金問題でも、車の中でちらりと出演する。無言でも悪の大御所的雰囲気は十分ある。

 

水戸黄門の話題一色になったが、国民は悪役を懲らしめる場面を期待している。とは言いながら、少々の悪は政治の世界にはつきものだと思っている。そんな悪に寛容な国民の心情が『裏金事件劇』を待ち望んでいたという結論だ。

 

つまり日本国民は、田中角栄のような悪役が好きなのだ。真面目過ぎる若殿より、悪だが妙に女性に人気がある人物をだ。この感覚が政治家の腐敗を生ませる土壌なのだ。

 

オウム事件の映画監督森達也は「人は悪人だから悪をなすものではない。集団の一部になるだけで、途方もない悪事をなす場合があるのだ」と。

 

かつて日本国民は「皇民」という集団に巻き込まれ、個を捨てた。そして戦争という狂気に、自ら参入した。

 

今回の「裏金疑惑」。派閥という集団に入り込み、個人の倫理観を失った。国民もこんなものだという‟群集心理”に惑わせられない国民なら、今回の裏金問題はこれ程まで大きくならなかっただろう。

 

のど元過ぎれば「こんなもの」だという社会現象は、いずれは戦争ができる国への助走ではないかと「水戸黄門評論家」?として、日本社会の今のありように、危機感を覚える。

 

政治に対し、無関心さ起こさせるために「政治的中立」という呪文がある。中立とは無関心でいるということだ。

 

「政治的公平」というのが正解なのだろう。政治家と国民は、公平な立場だ。「あこがれてはいけない。特別な存在ではない」という、大谷翔平選手の言葉が、水平線の彼方カリフォルニアから、北海道の田舎のおやじの心にも響く、この頃だ。


日本学術会議は平和の砦

2023年12月17日 14時18分52秒 | えいこう語る

日本学術会議は、我が国の科学者の多くが戦争に加担したことをふまえ、平和国家の設立を目指し、1949年に再設立した組織だというのが私の認識だ。

 

その存在を知ったのは、学術会議の推薦者を、菅義偉元総理が拒否したことからだ。その一人に、東京大学歴史学教授の加藤陽子がいた。

 

私は加藤教授の著書はわずかしか読んでいないが、歴史認識はとても正確で奥が深い。戦後生まれの加藤教授だが、戦争を実体験したような確かな分析と、時代背景に深くメスを入れる解説に共鳴を覚える。

 

一方学術会議に反対する人たちの共通認識は「学術会議は反日的な人が多い」という。つまり学術会議に反する人物は、国家主義者が多いようだ。一人名を上げれば、ヘイト・スピーチで有名!?な、自民党水田水脈議員だ。

 

菅元総理の対応に端を発し、学術会議の組織見直しを図る内閣府の有識者懇談会は、最近の会合で『学術会議が求められる機能を十分に発揮するためには、国とは別の法人格を有する組織が望ましい』という報告案を示した。

 

この懇談会のメンバーは、政府寄りの人物が選ばれているのは間違いない。反対する人物を多く選べば、多数決で政府の思うようにはならないからだ。

 

第三者委員会などと言えば、さも公平性が重視されると思うが、これは不公平さを前提とした会議がほとんどだ。理由は議長が事務局推薦者だからだ。

 

政府にとっての学術会議は、科学の進歩と経済の発展に寄与してほしいという要望がある。だが科学技術の進歩は「デユアルユース」=民間および軍事用途に並行するものがある。

 

学術会議は併用に反対する。しかし「憲法改正」を政治目標とする政府としては、デユアルユースを率先してほしい。その切り崩しとして、研究への補助金を目の前にちらつかせる。

 

内閣府の中に学術会議が存在しては、軍事費増強に弊害が生じる。そこを逆手に取り、国家の特別機関から外した方が、政府に独立した立場で助言できるとし、政府の機関でいるのはかえって不適切だという案を示した。

 

菅元総理は、政府の意向に従わない人物を任命しなかった。ということは、内閣直属の機関としてではなく独立法人化させ、補助金で締め付けしようという魂胆だ。

 

学術会議への予算は、現在10億円程度だ。世界会議に出席したりするには、少なすぎるという。防衛費もGDPの2%を超えようとしている勢いで、平和費?に対する締め付けが見受けられる。

 

内閣府の中から切り離して存在させる理由は、政府にとって最も煙たい存在だからだろう。煙たければ煙たいほど、学術会議の存在は充分発揮されているということだ。

 

「敵基地攻撃能力」や「武器製造輸出解除」などという憲法違反の行為には、無力な国民の声より、科学者たちが発言すべきものだ。そのための日本学術会議の存在であるはずだ。

 

内閣法制局や最高裁の判断に、反論をできるのは学術会議しかない。学術会議こそ「戦争放棄した国」の、国民の‟代弁者”だ。私はそう思っているので、内閣府の一機関として政府に直言してほしいと考えている。

 

手切れ金を多くもらって、離婚してはだめだ。内閣府の女房役として、言いたいことをはっきり言って欲しい。

 

次々繰り出す戦争ヘの準備。防衛政策の基本方針を示す『安保三文書』の改定。私たち国民はその内容の恐ろしさも気が付かない。

 

加藤陽子教授は、戦前の「帝国国防計画」と「安保三文書」を比較し、わかりやすく説明する。そんなわかりやすさを、内閣は一番煙たがるのだ。

 

「総理に任命拒否されるような学者がたくさんいる、日本学術会議の「かかあ天下」の様な存在に期待したい。


大谷+国会=くじ引き民主主義

2023年12月15日 14時17分41秒 | えいこう語る

スポーツマン大谷翔平の言動は、世界中に幸福感をもたらしている。一方我が国の政治は、国民も世界中も呆れているに違いない。

 

国連では、日本が世界中の発展途上国に援助を差しのべても、それは政治家が国民を騙して集めたお金に、見えやしないだろうか。

 

選挙の際「一票の重み」とか言うが、もはや『選挙では何も変わらない』のではないかという、そんな気がする戦後78年目の、我が国の政治の実体だ。

 

【これまでの常識や前例を覆すことで、様々な相乗効果や新たな付加価値を、社会にもたらすことができるだろう。社会において‟しがらみ”のない、自由な空間をつくるためには‟神に代わって偶然を人為的に作り出さなければならない”。こうした絶え間ない革新と創造が行われることが、政治と言い換えてもよいだろう】。・・・同志社大政策学部教授・吉田徹著「くじ引き民主主義」(政治にイノベーションを起こす)光文社新書。

 

この内容を実践しているのは大谷選手だ。彼はWBCの試合に際し、同僚にこう言い放った。「今日だけは、あこがれるのをやめよう」と。並みいる大リーガを前にしての、選手としての心構えだ。

 

この言葉に【日本再生のチャンス到来】を感じた。吉田教授が言う「選挙では何も変わらない」という発想と同様ではないかと。大谷選手は今までの常識に頼らず、自分がしなければならないことを実践したからだ。

 

吉田教授の「くじ引き民主主義」を、新聞(令和4年6月北海道新聞)で取り上げたのが、東工大日本思想史教授の中島岳志だ。中島と吉田は、共に北海道大学で教鞭をとっていた。

 

抽選制だと党議拘束に縛られず、個人の良心に従った公平な熟議が行われやすい。さらに抽選制だと次の選挙の心配がなくなるので、金権政治が排除される。‟しがらみ”もなく、周囲の顔色をうかがう必要もない。

 

さらに「すぐに成果を出さなくてもよいので、長期的視野に立ちやすい」との解説がある。これ以上書き進めると、もはや私の考えが入り込まない他人の文章になる。

 

そこで、私の現状について「くじ引き民主主義」と、どの様にコミットするかについて考えてみた。

 

私が現在就任している「函館市教育振興審議会」について考えてみる。15人のメンバーは、教授・学校長・PTA会長・等。

 

教育関係者でないのは「市町会連合会・青少年育成部長」としての枠の私と、公募による若い女性一人の二人だけだ。

 

そうなると自民党議員のような組織になる。新参者など口をはさめない雰囲気だ。だが私は「くじ引き」で選ばれたような、“しがらみ”のない立場だと自覚している。

 

よく会議でいう「忌憚のない発言を期待したい」というのは「会議をスムーズに終わらせたいので、余計なことは言わないように」というニュアンスだと考えている。

 

だが私は人形ではない。最後の‟その他”が「私の土俵」だと思っている。「その他」とは、今の会議の内容以外のことだという解釈だ。

 

私はこのような考えで各種会議に出席してきた。何も発言しなければ、その会議はイノベーションに欠けていて、形骸化していると考えられるからだ。

 

教育委員会の会議は、上からの情報を‟ふるい”にかけるなど、全く必要ないという会議に思える。思えるということは、そんな状態だからだ。

 

ということで、今回の我が国の政治の体たらくと、大谷選手の言動を比較すると、どのような考えが我が国を再生できるか、とても参考になる。

 

だが抽選制がすぐれているわけでもない。そこで選挙制と抽選制の組み合わせだ。「衆議院」では選挙で選ばれた議員たちが、与野党に分かれて論戦を戦わせる。

 

一方抽選制による【市民院】は、衆議院での決定が市民感覚に著しく反していないかどうかを判断し『拒否権』が行使できるというものだ。

 

吉田教授は「市民の無作為抽出こそ、政治における当事者意識を涵養することができ、新たな政治参加の道を開く」と述べる。ふと思い出すのが「裁判員裁判制度」なのだが、これには触れない。

 

大谷選手と我が国会。この二つの現象を、メディアは別々にとらえるのではなく、新日本民主主義国家への再生のプロセスとしての、報道を期待したい。

 

そのように国家再生への誘導ができるのも、メディアの本来の姿ではないかと思う。「お祭り騒ぎ」のように、世論を煽るようでは、国民の【識字能力】を虚弱にするだけだからだ。

 

今のテレビや新聞の報道に「歯がゆさ」を感じるこの頃だ。


武器輸出解除・恥じすべき政権だ

2023年12月14日 10時52分04秒 | えいこう語る

規則は多くの人々が「案全・安心」な生活を送るためにある。そこでは多少の不便を感じる人もいるが、多数が納得できるものであればいい。

 

規則はその時代の社会的背景に沿ったもの、という共通認識がある。そこで時代が変化すれば、さらに規制強化したり、規制緩和したり、時代の変化に順応していくことも必要だ。

 

我が国は1945年、第二次世界大戦に大敗し、戦勝国米国から「新憲法」を制定された。新憲法は「戦争放棄」を中心とした『安全・安心で平和な国家』への、国民の覚悟を示したものだ。

 

時代が変わり、世界は再び大戦の兆しを見せてきた。その時代の変化に順応しなければ、他国からの侵略を受けるという「改憲意識」が浮上してきた。

 

国民の多くが自衛意識を自覚したからではない。自衛意識を国が煽って作り出した、真の愛国精神からではないことは確かだ。だが、戦後80年近くもなると『戦争健忘症』という病魔が、国民に蔓延し始めているのも確かだ。

 

戦勝国の米国でさえ、戦争の悲惨さを実感した。故に日本には、戦争のない平和国家になってほしいという希望を託した、真心溢れる憲法をプレゼントしたのだと、私は考えてきた。

 

「日本国憲法」のある国に生まれ、何も不自由を感じたことがなかった。世界各国で戦争があっても、我が国は憲法のおかげで、戦争に巻き込まれなかったと信じている。

 

戦勝国米国も、日本国憲法と同様な憲法に作り変えればよかったのだが、いまだに世界各地に出かけ『戦争』を続けている。最近では、戦費の多大出費で、国家そのものが揺らぎ始めている。

 

そんな米国を見ると、米国が与えた日本国憲法に感謝しなければと、最近とみに考えている。もしかして、米国は日本国憲法を見習いたいと考え始めているのかもしれないと、勝手な想像もしている。

 

というわけで、世界情勢の変化で、自衛のための戦争はできるという考えは間違っている。むしろ国連の場で、日本国憲法を良さを世界中に知らしむるのが、我が国の名誉だと考える。

 

日本国憲法前文を、今後の国連憲章に書きかえるぐらいの、誇りを持ってほしいものだ。ところが我が国の政権党の議員は、ほとんど憲法解釈を間違えている人物が多い。

 

武器を製造したり輸出してはダメという規則を緩和し、海外に「メイド・イン・ジャパン」の武器を売りつける『死の商人国家』に成り下がろうとしている。

 

これって完全に「憲法違反」だ。政権党が平気で政治献金違反をする国だ。憲法を尊重し擁護する義務など、完全に無視した政権だ。こんな政権に国家を任してはならない。

 

とは言うが、他の党に任せれるかというと、そんな信頼に値する党は存在しない。という嘆かわしい政治の体たらくの責任は、誰にあるか。

 

そんな議員を代表に送ったのは、ほかならぬ国民だ。国民の民主主義の理解度の低さが、今の日本の現状ではないか。

 

代表で送った議員が、国民を「馬鹿だ」と発言する。馬鹿に馬鹿呼ばわりをされる国民になったということだ。

 

日本経済の活性化のために「規制緩和」が行われ、規制緩和こそ我が国の国力を増すことにつながるとの、間違った解釈を国民に植え付けた。

 

そして規制緩和が、日本人の矜持まで緩くしてしまった。武器を製造し販売するという国家は、もはや犯罪国家だ。殺人国家だ。そんな‟馬鹿な政治家”は一掃しなければならない。

 

新年は、新たな国会にするため、国民は辰のごとく濁り切った日本をかき混ぜ、天高く舞い上がらなければならない。

 

昨夜、口角泡を飛ばし国会で‟大演説”した初夢を、一足早めに見てしまった。今朝の新聞は「辺野古南側の基地埋め立てが完了した」とある。

 

    戦争放棄・武器よさらば!

              三等下


大谷さんと岸田さん

2023年12月13日 13時58分18秒 | えいこう語る

日本国民が今最も期待する人物は、大リーグの大谷さん以上に、総理のキシダさんのはずだ。最近のメディアでは、この対比が「月とスッポン」になってしまった。

 

だがスッポンは、嚙みついたら離さないという、強情な精神がある。しかし岸田政権は維持するには、困難な状況に差し掛かっているようだ。

 

今の大谷さんと岸田さんの対比は「お金」にまつわることでも比較される。大谷さんの「移籍額」は1015億円だが、政治献金不記載での「更迭額」は、数千万円ほどだ。

 

大谷さんは世界中に良い影響を及ぼしている。だが我が国のトップの政治家は、世界中の恥さらしだ。「太陽とスッポン」程の差だ。

 

政治家は激務だ。‟勢力”を補充するため、スッポンを食しているに違いない。だが自分がスッポンになって、お金にかぶりついて放さなくしまってはお終いだ。

 

身体に滋養が付くスッポンを、政治家に対比してはスッポンに申し訳ない。しかし大谷さんと日本の政治家を比較すると、情けなくなる。

 

早く「スッポン政治家」を 一掃してほしいものだ。国の政治はこの体たらくだが、地域の政治に目を向けたい。

 

13日の北海道新聞に、昨年東京の杉並区長に当選した、岸本聡子さん(49歳)の記事に心を奪われた。

 

岸本さんは2003年からオランダNGO組織で、公共政策の調査や市民運動など、自治体とつなぐ仕事に従事していたという。

 

2022年の4月に帰国し、6月の区長選挙に出馬し当選した。政策のキーワードは「コモン=公共」と「ミュニシバリズム=地域主権主義」だという。

 

政治家になった理由は「自分が大切にしたい価値を守るためであり、それは民主主義や平和、環境や社会正義だ」という。

 

地域のことを一番知っているのは、地元で暮らす人たちで、その声が聞こえるのが基礎自治体ですともいう。

 

来春から、無作為に抽出した区民から政策を審議してもらい、参加型民主主義のモデルを作りたいという。『区民会議』の声を、政策に反映するという。

 

岸本区長の民主主義政治の在り方は、古代アテネの「民会」を思い出す。現在の代表制民主主義は、すでに形骸化している。

 

代表制民主主義は、民意を反映しない独善的な傾向が目立つ。例えば「憲法改正」だ。これは主権者の国民が各地域で討論しあい、結論を導くものだ。

 

政権与党の「専決事項」ではないはずだ。「憲法第9条」に違反する法案を「閣議決定」で済まされるものではない。

 

岸本区長の「地域主権主義」の運動展開は、政治と民意の乖離がはなはだしい各自治体も、見習わなければならない政策ではないか。

 

札幌の冬季五輪問題、大阪の万博問題、それに函館市の新幹線延伸問題。民意を充分に汲んだとは言えない様な気がする。

 

憲法改正で「国民主権」を「国家主権」にするという政治家独善の「憲法改正」も、民主主義への破壊行為だ。

 

岸本区長の今後の動きに注目したい。メディアも、この動きを報道し続けてほしい。

杉並区長の行動が、日本の政治を変えることになるかもしれないからだ。

 

東北の高校球児の大谷さんが、世界に希望と勇気を与えた。東京都大田区生まれの岸本さん。いずれ国政で活躍することを期待したい。

 

世界最高の大谷選手と、我が国戦後最低の岸田政権。「公共」と「地域主権主義」は、真の日本民主主義が復活する、キーワードの様に思える。