函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

大間原発提訴

2014年03月28日 16時14分07秒 | えいこう語る
大間原発建設無期限凍結に向け、函館市が国と電源開発を提訴することが決まった。
先日、函館市議会が全会派一致で議決したからだ。提訴日は4月3日だ。
しかし、2人が採決に加わらず退場した。
一人は北海道電力労組出身者なので、理由がはっきりしている。
もう一人は、自治体が国を提訴するのは、納得できないというようなことらしい。
多分、市長が税金を使い市民の支持を受けることで、選挙活動の一環ではないかとみているからだろう。
民主主義の議会だ。多様な意見があってしかるべきだ。
確か9:11の同時多発テロ後、米大統領がイラクへの攻撃を議会にはかった時、下院でただ一人だけ反対した女性議員がいたのを記憶している。
内村鑑三は「戦争は戦争のために戦われるものであり、平和のための戦争など、かつて一回もあったことは無い」といっている。
反対した一人が、真実の心を持っていたのかもしれない。
だが函館市長は、退場した議員に対し「共に行動していただけないのは残念だ。二人は事実上建設を容認していると受け止められかねない」と批判した。
これは、市長として、いただけない発言ではないか。
「人生いろいろ、議員もいろいろ」のような、小泉発言ぐらいにしておけばいいのではないか。
※いよいよ春めいてきた。


広報「市制はこだて」4月号。普段は町会で配布するのだが、一足先にいただいた。
当然、大間原発提訴に向けての特集だ。
そこに「建設中の原発は、当分凍結すべきと考える」という文言があった。
私は「凍結は春になれば融けそうなので、廃止にしたほうがいいのではないか」と、市長と町会長の懇談会の時に、話したことがある。
だが、今度は凍結に「当分」を付け加えた。
当分=しばらくの間、さしあたり、という意味だ。
これって、なんだかトーンダウンしていやしないだろうか。
凍結もさしあたりだから、凍結はいずれは解除されるということだろう。
訴訟期間も5年を目処にするという。この間の訴訟費用は約2千万円だそうだ。
五年過ぎて埒があかないのなら、そこで諦めるということか。
やはり当分凍結は、5年間過ぎれば解除という事ではないかと思ってしまう。
そう考えれば、反対に回った議員の考えも理解できる。
訴訟費用にと、市民からの寄付も出始めているようだ。
市町連の中でも、寄付をという声も出ているが、私は今の時点で寄付は控えたい。
なぜかというと「凍結」という言葉が、喉に引っかかって取れないからだ。
庭の雪も、つい先日まで1メートルはあったが、春風が吹き暖かな日差しで、凍結した雪もあっという間に融け始めてきた。
外は春らしい陽気なのに、なんだか気分がすぐれない感じだ。


ものは言わなければ伝わらない

2014年03月26日 12時49分54秒 | えいこう語る
先日の函館市町会連合会の「会長立候補推薦委員会」。
2年前の改選で、57歳の若い会長が選出された。
市町連もちょうど設立50年を迎えたので、51年目は若く新しい会長で、新時代をという意気込みが会議でも感じられた。
ところが一期2年で、職を辞すという情報が流れている。
確かに市町連会長ともなれば、仕事はハードだ。それに無給なので、有り体に言えば、時間とお金に余裕がある人か、今までの社会的実績に加え、市町連会長という肩書きがつけば、叙勲の対象候補になる、そんな目論見がある方でなければ、務まらないと思う。
これはあくまでも、私の下衆な考えだ。会長の多くは、社会奉仕の精神に満ち溢れているのだ。
だが、これまた憶測だが、立候補に、以前会長職にあった人物が出馬と囁かれている。今回は対抗馬が無く、一人だけらしいということも。
このような情報は、ほとんど間違いない情報だとみていい。
※湯の川にある市民体育館が新築される。温泉が出てこないかと聞いたら、今のとこ全く出ませんねという。
湯の川温泉も源泉が枯渇し始めているらしい。


ところがこの候補、御歳70後半だという。一般的にいえば引退の時期だ。
多分、サミュエル・ウルマンの詩「青春」のフアンと推察される。
「若さとは年齢ではなく、優れた構想力と、強い意志力と激しい情熱だ。・・・理想を失った時、人は老いる」。
都知事選に立候補した細川の殿も、街頭演説でこの詩を引用していた。
この詩は、私も好きでそらんじているが、要は、周囲がどうみるかだ。
選考委員は、私も含めて30人の会長だ。顔ぶれを窺ったが、私が一番若そうだ。
並み居る先輩諸氏をさておいて、年齢制限と、任期の制限について意見を述べた。この顔ぶれでは、タブーの発言だ。
「若い者がやる気が無いから、しかたがなくこの年齢でもやっている。年齢制限したら、誰がやるのか」という、想定内の反論だ。
「一般の会長はそれでいいが、市町連の会長候補が、高年齢なら一般市民がどう思うかだ。それでなくとも入会が少ない(函館市の加入率60%)。老人クラブと思われやしないか」とまでは、はっきりいわないが、そんな意味を十分含めて発言したつもりだ。
結果、賛成大多数で、私のタブー発言は却下された。
でも、聡明な会長さんばかりだ。私の意図は、腹の隅にしまってくれていると私は信じている。
2年前、市町連の常任理事に就任した時の初会議。
当時、事務局員は行政からの天下りだった。
「新人なので素朴な質問だけど」と、「天下り反対」の声を上げた。
こういう質問は初戦に限る。
これも、天下りは実務能力に長けているとして、却下された。
だが、ボディーブローが効いていたのか、その後の新事局員は、民間からの採用になり、今年も同じく民間採用だ。
天下りの指定席は、そこで廃止されたのだ。
187組織の市町連会長。顔ぶれも実力も多彩だ。
それゆえ、今までは心にはあるが、言い出せない雰囲気が多いように感じる。
「市民の安心・安全を守る町会」。
アベ政権下になり、安心・安全の解釈が大幅に拡大してきた。
それらに対処するには、発想の切り換えが必要となる。
形式化した組織には、タブーを恐れぬ刺激が必要だ。
とはいえ、ままならぬのが世の中だ。
でも、適格なボディーブローは有効だ。大先輩たちは総じて体力的にボディーが弱い。
だがタブーの出し過ぎは、禁物だ。
タブーは「ちょっとだけよ」の節度が肝心らしい。


新聞拾い読み

2014年03月24日 15時31分46秒 | えいこう語る
▲橋下大阪市長、自分が政策に掲げる「大阪都構想」を実行するため、知事から市長に戦いの場を移した。「日本維新の会」を結成し、大阪から国家改造の狼煙を上げたが、笛吹けど周囲は動かない。特に市議会が自分の行く手を阻むとして、自ら辞任し、市民に真を問うという「出直し選挙」に打って出た。勝利はしたものの投票率は23.59%だ。わがまま者の身勝手選挙か、今後の市政運営がちょっぴり注目される。
▲雪まだ深い北海道宗谷管内で、早くも親子熊2頭が射殺された。
熊は400グラムで生まれ、1年で40キロになる。生まれた年に食料の採取を親から教えられ、冬眠に入る。翌年の秋ごろまで親と一緒に生活し、親はすがる子供を追い払い、子離れを促す。射殺された熊の体重は80キロなので、もう一冬親と一緒に冬眠したのだろう。ドイツで最後の熊が射殺されたのは、19世紀中頃で、人里に現れたからだという。こんな話を元旭山動物園の園長の話を聞いた矢先だった。人間の身勝手さを感じる、胸の痛む初春の出来事だ。
▲長崎の小学六年生が「いじめ」に遇い、自殺に追い込まれた事件。その学校の卒業式前に、市の教育長が「(問題が)片付くといい」と発言して、抗議が出ている。組織のトップにある者は、問題は速やかに解決し先に進もうと思う。それが実務能力だと考えているようだ。でも人権に関する問題は、時間をかけて問題の本質を探り出さなければならない。この問題、アベ総理が「集団的自衛権の行使」を、閣議決定し承認させる動きと、似ている。「せかねば事が間に合わぬ」ではない。
※函館八幡宮。私は高校時代、朝温泉に入り、この鳥居んをくぐって高校に通った。
今日一日の安全を願い、神社の向かい礼を欠かしたことはない。この町内の守り神だと信じていたからだ。


▲菅官房長官が、従軍慰安婦問題に関する「河野の談話」を検証すると物議をかもしたが、すぐ引っ込めた。軍の関与は無かったなどと言い切れぬ、当時の状況下だ。薮蛇にならないでよかったと安堵したのもつかの間、今度はアベ総理の腹心、荻生田総裁特別補佐官が「新たな事実が出てくれば、政治談話を出すことはおかしいことではない」という、おかしいことを言い出した。アベ総理も「それは否定しない」という。せっかく日米韓の首脳会談が実現することになった。仲を取り持ってくれた米国大統領に対し「礼節を重んじる美しい国」は、まったくもって看板倒れだ。
▲「原発再稼動」や「集団的自衛権の行使」に反対する、子育て中の母親らが「ママデモ」と称するデモを都内で行った。「ママデモできるデモ」というのは、なかなかシャレている。「ヤンママ=ヤングママ」の心意気ここに在りだ。「笑っていいとも」に出演したアベ総理。アルタ前では「笑っている場合か」などの怒号が飛び交っていた。NHKも「ママデモ」や「アルタ前」の場面を、報道してもらいたいものだ。この頃の国会中継は「アベ総理のCM」を流す、政府が大スポンサーのNHK、というイメージが頭をよぎってならない。
▲「読者の声」の欄の、小学6年生の投書だ。日記を書いているが、ボールペンのインキが無くなると達成感を感じていた。だが、今まで使っていたペンが恋しくなる。新しいボールペンに取り換えるのが当たり前でも、永久に気持ちよく書き続けられるボールペンはないかと考える。まるで詩人のような心の内面を表現したいい文章だ。長崎の6年生も、そのような感性を持っていたはずだが、イジメという集団が持つブラックゾーンの、犠牲になった。アベ総理、何を血迷ったか、憲法改正という、恒久平和を打ち破りそうな暴挙をしでかそうとしている。「赤紙一枚」で、国家が国民の命を左右する、そんなイジメが、二度と再び繰り返さないよう、国民一人一人が気を引き締めなければならない時代ではないか。
             北海道新聞3月24日朝刊より


「この世」とは

2014年03月23日 16時13分37秒 | えいこう語る
朝日新聞の「天声人語」にあたるのが、北海道新聞の「卓上四季」だ。
最近、この「卓上四季」のコラムが、充実している。
以前、このコーナーを担当する人と話したことがあるが、月曜から金曜日まで一人で書き、土日は休むようだ。休んでいてもネタ探しに気を張り詰めているという。
今日は、「この世」をどんなものに例えたらいいのだろう。という問いで文章が始まる。
万葉の歌人は「それは朝早く港を出て行った船の航跡が、消えてなくなるようなものである」と続く。
私も「とどほっけ村日の出美術館」の館主?として、朝日や海や船をよく撮影するが、このような思いを抱いたことはないし、文章も浮かんでこない。
※今朝の日の出美術館。


未発達な文明社会の人のほうが、感性は圧倒的に豊かのようだ。
「世の中を何に譬(たと)へむ朝びらき漕(こ)ぎ去(い)にし船の跡無きごとし」という歌だ。
「この世」とは、実にはかない。これは日々実感するが「あの世」とはいかなるものか。
私の隣の老夫婦。昨年暮れ、87歳で夫が旅立った。
80代になった頃「あの世は、どんなところだろうか」と私に尋ねた。
お酒好きだったので「あの世は天国というから、この世が地獄だ。あの世に行ったら、酒はただで飲めるし、年もとらない。それに美女がたくさんいて、相手をしてくれるようだ」といったら、笑っていた。
老々介護で、大変な毎日だったが、夫が亡くなると、84歳の奥さんが、無気力状態になった。
私も気遣い、ほぼ毎日顔を出すが「体も弱まり、食べ物も美味しくなくなり、死にたい」という。
「去年お父さんが死んだばかりで、今おばさんに死なれると、近所に迷惑が掛かるから、もうしばらく生きていてほしい。そのうち迎えが来るから心配しなくてもいい」と、こちらも意味不明なことを言い、相手の気をそらす。
おばさんも仕方なく笑っている。
普段会議などでは、自分の意志を相手に伝えられるが、こんな場合、言葉に何の意志も持たすことの出来ない自分に、無力感を覚える。
気が滅入ったので、ユーチューブで落語を観る。
「卒業式」の挨拶。形式的なものが多く、あまり心を打つものが無いように感じる。
だから、儀式的なものこそ、人間の資質が問われる場面だと私は思う。
だが、この様な場面こそ形式にとらわれないと、違和感を持たれるのが落ちだ。
なぞ掛けだ。
「卒業式とかけて、オナラととく。その心は、コウモンから出て、サヨ・オナラ」。くだらないが、思いっきり笑ってしまう。
卒業式の来賓の挨拶に、このような挨拶から始まったら、会場がどんなになるのか想像してみただけで楽しくなる。
「死んでしまいたい」という老人の真面目な問いかけに、どんな対処をするか、これからじっくり考えてみたいものだ。
超高齢化時代を迎え、町会長の仕事の大部分は老人対策だ。
「あのよ!この世とは、笑えるところだよ」なんて、今日一日に笑いがある、そんな町会にしたいものだ。
と、今日のブログを妻に読んで聞かせたら、妻からこんな標語が返ってきた。
「今死ぬな、近所に迷惑掛かるから」・・・似た者夫婦とは、よく言ったものだ。


「書く」と「読む」

2014年03月22日 09時59分40秒 | えいこう語る
起床は午前5時前後だ。
若い頃から睡眠時間は5時間ほどなので、そんなに苦にはならない。
といっても、さすがに年齢による肉体の衰えは、実感させられる。
この数年、テレビを観ていてもいつの間にか眠ってしまう。
だが5分か10分で目が覚める。
これが1日数回あるので、睡眠不足は補っていると思っている。
早朝の目覚めは、頭の中がかなりクリーンになっている。
前日に頭の中に詰め込んでいたものが、ほとんど消去されているからだ。
だから、起きるとすぐブログを書きたくなる。ブログの材料は、前日メモしているので、たぶん夢の中で文章の粗筋が出来ているせいかもしれない。
※今朝の日の出美術館。


と、ここまで書いて、この前段は無駄なので、全て省いて本題に入った方がいいとも思う。
でも、思いついたことを書き進めていく方が、文章が書きやすい。と思うが、読む人は、無駄のないほうがいいし、要点だけでいいと思っているに違いないと思ったりもする。

つまり「書くことは自分の書いたものを客観的に読むことで、自分の文章に適格なジャッジメントを下せるかにある」と、フリーライターの渡辺一史さんが「書くって何だろう」という新聞のコラム欄に書いている。
「書く」と「読む」は、車の両輪のようなもので、それはどこか「よく生きる」ことにもつながっているのではないか、とも書いている。

ブログは毎日書くので、推敲に推敲を重ねるわけにはいかない。
現在は、養殖昆布の間引き漁が始まっているので、いつ手伝い要請の電話が掛ってくるかわからないからだ。
と、いいながらも、書き始めていると、あれもこれもと関連事項が浮かび上がってくるのだ。
それを頭の中で整理して、まとめて書こうと思うのだが、とりあえず思いのまま書きだしていくというのが私の手順だ。
だが、最後は長いブログになってしまうのが、最近の私が困っていることだ。

と、ここでなぜか、アベ総理が登場するのも、最近の私の文章スタイルだ。
もしかして、私はアベ総理が嫌いでないかもしれない。

最近のアベ総理は、書いたものも読まず、スピーチする。自信に満ち満ちているのだ。
昨日のお昼、タモリの「笑っていいとも」に、アベ総理が出演していた。
突然の総理の出演に、キャーと黄色い声が沸き起こる。
「憲法改正」の硬派ではなく、バラエティーもこなす総理という自分に、酔いしれているようだ。
この番組、ゲストは次のゲストに電話して出演を依頼するのだが、アベ総理が電話したのは「キムタク」だった。
会場、さらに黄色い歓声で盛り上がる、という趣向だ。
「笑っていいとも」という番組だが「笑っていいのか悪いのか」という感じだ。
マスコミが、アベ総理を「ヨイショ」しているきらいがあるからだ。

玄関でコトリと音がした。朝刊が届いたらしい。
書く手を休め新聞を読む。
『秘密法企画 発売前に取材依頼』という見出しだ。
憲法改正や特定秘密保護法の特集を企画していた女性ファッション誌の編集部に、内閣広報室の職員が“うちも取材してくれませんか”と電話で依頼してきたという。
編集部は「発売前なのになぜ知っているのか不気味だった」と話している。
最近、新聞に目を凝らして読むと、なんだかきな臭いものが漂ってくる気配がする、今日この頃。
私の書くのが長くなるのは、アベ総理のせいのようだ。
アベ総理も自分の発言(書く)という行為を録音して、聞き直し(読む)て欲しい。
そこで立ち止まり、自分の「国づくりのストーリー」がいかに稚拙なものであるか、確かめて欲しいものだ。
しかし、アベ総理の「書く」と「読む」は、車の両輪ではなく、多分“アベコベ”に感じるるので、最終章はアベ内閣崩壊という筋書きになるに違いない。