▼1997年の神戸連続児童殺害事件。「酒鬼薔薇=サカキバラ」と名乗った犯人を、生涯忘れることはできない。この事件は人間の深層心理に潜む異常性を、徹底的に究明すべき、特殊で怪奇な事件だ。
▼犯人は当時中学3年生だったのも、世間を震撼させた。なぜ少年が残虐な犯罪を起こすのかを究明するのが、裁判所や関係者の使命だ。
▼子供の健全育成を図るのが「学校教育」だとすれば、我が国の文科省そのものにも関係する、問題でもある。だがそういう方向には進まないのが我が国だ。
▼戦争孤児があふれた時代は、聞くに堪えない児童の凶悪犯罪があったということも聞いている。そのような子供を作り出したのは「戦争」だ。
▼その戦争遂行に教育現場が暴力的に加担したことを、現在の学校現場の先生たちは、どれほど理解しているのだろうか。
▼まだ記憶に生々しいのが、旭川市で起きた中学女子のいじめによる凍死事件だ。学校も教育委員会も市側も、新聞報道で感じるが、真摯な対応がなされていない。
▼たぶん事件に関与した生徒たちは卒業し、社会の大波に紛れて、事件はうやむやになるに違いない。
▼そんな事件は2007年に函館市でも起きた。7人の少年たちが、18歳の少年を集団暴行し殺害した事件だ。
▼その少年たちがどんな処罰になったのか、私たち市民は知らない。どこかで結婚し、普通に生活をしているのだろう。
▼私しも決して忘れないだろう、これら3件の凶悪少年殺人事件だ。旭川市の事件は現在調査中だが、神戸と函館の裁判記録が、破棄されたというのが新聞で報道された。
▼その報道に接し、私が真っ先に思い出したのが、終戦の8月15日の前日の出来事だ。国の機関や地方の役所で、公文書を一斉に焼き払った事件だ。戦争責任を回避するために証拠隠滅を図ったのだ。
▼そんなことを考えると、裁判所が破棄したのではなく、文科省(国家の圧力)で、その残虐な少年事件の原因が、教育そのものにあるかもしれないと究明をされることを避けるため、証拠隠滅を図ったのではないかと詮索してしまう。
▼教育とは、すべて“善”であるというそんな雰囲気がある。教育現場の実相になかなか踏み込めないという、遠慮のようなものがる。教育への批判はタブー視され、聖域的なものがあるのを感じる。
▼その雰囲気が教育関係の会議に、蔓延しているのを感じる。一般人が教育関係の会議に出席しても、周囲が専門家ばかりなので、発言しずらい。ほとんど異議なしが多い。
▼私も様々な委員を経験したが、教育関係の委員ほど、質問や反論が出にくいものはない。こんな会議に出席すると、教育現場こそ非民主的ではないかと思う。
▼文科大臣が教育現場で「教育勅語」は読んでもいいというような見解を示した。このこと自体異常なことなのに、学校現場での反対の声も聞こえない。
▼内容はいいことを書いているのではないかという、その程度の学校現場での識字能力なのだ。もっと教育問題は“神経質”でなければならないのではないか。
▼教育関係の会議を、自由に発言できる環境にしなければ、子供の陰湿な事件は解決できない。「見て見ないふり」というのが現場では多い様な気がするからだ。
▼もっと風通しの良い教育会議でなければ、住民も地域社会も健全にはなれない。教育の質の向上は、文科省の言いなりになってはならない。
健全な批判は、民主主義の根幹だからだ。
▼教育の質の低下が、また戦争を繰り返すからだ。戦争は「教育現場からやってくる」という言葉を、すでに物故者となった、ある校長から聞いたことがある。私も絶対そう思う。