函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

相手との距離

2011年01月31日 11時32分27秒 | えいこう語る
一人暮らしの親戚の女性から、お手伝いを頼まれた。
地デジ対応のテレビを、2台購入したいので、一人じゃ心もとないから一緒について行ってほしい、というものである。
購入するのは、19型と32型である。
新聞のチラシをみると19型は展示商品のみと書いてあるが、べらぼうに安い。
電化製品に詳しい友人に電話して尋ねると、その製品はなかなかのもので、特に19型は信じられないような安さだと、太鼓判を押された。
せっかく頼まれたのだからと思い、開店時間に間に合うよう出かけた。
売り場に急ぎ店員に尋ねたら、展示品のみなので売り切れですという。
覚悟はしていたが、展示品といえど、まさか1・2台ではないはずだ。
他の19型は、チラシの値段より2万円以上高いのが並んでいる。
ちょっと間を置き、別の店員をつかまえ「チラシを見て、自家用車で1時間以上も走ってきたのだ・・・」と、詰め寄ると「お待ちください、在庫を確かめますので」といい、しばらくして戻ってきたら「ございます」という。
店側の営業スタイルもあるのだろうが「お客様は神様です」という、三波晴夫さんの名言を、いつまでも記憶している私である。
※今年のシバレはきつい。


彼女からのもう一つのお願いは、或る契約更新に同行してほしいというものである。
私より少し年上そうだが、契約とはあまり関係なさそうな、函館市内の様々なことを話し始めた。
書棚に目をやると、かなりの読書家らしい。話の内容からして、とてもまじめで博学のようである。
話は続く。函館の明治時代から現在の市政まで、なかなかの説得力だ。
助手だという娘さんも現れ、買い物から帰ってきた奥さんまで同席し、4月の市長、市議選の話にまで及んだ。
さらに、町会の役員をされていること、原発反対派であるというのが、私との初対面の距離を相当身近にした。
手続きは数分で済んだが、おしゃべりは、私の車での帰宅時間と同様の長さになってしまった。
玄関まで見送ってくれた、そのご主人に「4月に施行される函館市自治基本条例、よく検討してみてください」とお願いすると「承知しました」と、笑顔が返ってきた。
女性から、今日のお礼にと、お寿司をご馳走になった。
一人暮らしの女性には、他人との交渉ごとは、やはり心細かったのだろう。
何度も「助かりました」とお礼を言われた。
一方契約更新に出向いたお宅のご主人、自分の語る内容を理解できる相手が周囲に少ないのだろうか、初対面の私にずいぶん語りかけてきた。
このご主人の所属する町会も、たぶんにもれず高齢化なのである。
私も久しぶりで、函館の将来を気持ちよく語り合う相手に出逢った。相手も心を和ませたようだ。
近年、町内会に届く案内には、福祉や高齢者への対応に関する講演会などが多い。
対人関係とは、適度な距離が必要である。
親切の押し売りになっては、相手も自分も疲れることになる。
要は形式やマニュアルにこだわらず、自分のできる範囲で、自然体でお相手するのが肝要かな、と、あらためて感じた一日だった。


知識の雪だるま

2011年01月30日 06時54分17秒 | えいこう語る
今年の冬は、各地で大雪が迷惑をかけている。
しかし、降り止んだ後、青空の下に広がる雪景色は、山水画の趣がある。
さらに、この新雪が遠い未来の人々の、生命の水(日本酒)になると思えば、自然の恵みに感謝の念を禁じえない。
※窓ガラスについた雪の結晶。


ベルギー生まれのアダモという歌手の「雪が降る」という、シャンソンの名曲がある。
この歌を聴いたのは、今から半世紀ほど前の高校時代だった。
その頃、雪の歌といえば「雪の降る町」という、高英男さんが歌う寂しさの漂う曲が脳裏に充満していた。
「♪雪が降るあなたは来ない」というアダモの歌詞も寂しい内容だったが、高度経済成長を走りだした当時、雪を吹き飛ばして進む、除雪車のような勢いを感じた曲だった。
そのアダモだと思うが、曲名は覚えていないが「インシャラー」と繰り返す曲が、遠い昔の記憶にある。
先日、宗教学者ひろ・さちやさんのエッセー「狂いのすすめ」という本を読んでいて、そこにこの言葉を見つけた。
イスラム教のコーランには、未来のことを言うとき、必ず「インシャラー」を付け加えるようにと、命じているそうだ。
正しくは「イン・シャー・アッラー」という。
意味は「もしも神がそれを望んでおられたなら・・・」ということらしい。
約束の時間に遅れて来たとする。その理由は、目覚ましが時間に鳴らなかったからだという。日本なら理由にはならない。
しかしイスラム社会では、神がその時間に起きることを望んでいないので、遅れて来たという。
なんと都合のいい言い訳かと思うが、大きな心で考えれば「寛容」ということなのだろう。
そういえば「寛容」という言葉、9・11以降のテロへの戦いには、ずいぶん聞かされた。
一方、日本社会。
米沢藩主、上杉鷹山の「なせばなるなさねばならぬ何事も なさぬは人のなさぬなりけり」が、明治以降の日本人の魂を支配した。
気合が入っていると言われればそうも言えるが、これは「寛容」の効かない社会である。
日清・日露、そして太平洋戦争へとの流れをみると、この言葉の呪文により、人類史上未曾有の過ちを重ねてしまったのである。
さらに戦後の復興期も、この呪文が我が国に蔓延し続けていたようである。
イスラムと日本文化の互いの良さを、融合できればいいのでは、と思う。
そういえば私の酒友Sさんは、鷹山が君臨した山形県の出身である。
人に頼らず、自主・自立の精神の旺盛な方である。
先日大雪が降った日、Sさん宅にお邪魔した。
いつも几帳面なSさんだが、私が歩けるだけの雪道しか掻いていない。
「こんな大雪、全部掻くと身体を壊すだけだ」という。
領主の教えをまともに実行すると、自己に負担がかかりすぎるということを、
民は理解しているのである。
Sさんと私が酒友なのは、ひとえにSさんの「寛容」さ故なのだ。
村に積もった雪の美しさから、明治から現在まで、様々な思いを雪だるまのように膨らませてしまった。
そこで今日のブログのテーマは「知識の雪だるま」に決定した。
ちょっとオーバーなテーマと思ったけど、今朝は思いのほか楽しい雪掻きになった。


自分の命は自分で守れ

2011年01月29日 09時56分55秒 | えいこう語る
冬山での遭難は、急激な気候の変化によるものが多いようである。
海難事故もそうである。
先日、東京築地の初せりで、史上最高値がついたマグロは、私の村から車で20分ほどの、函館市戸井町産である。
その戸井町史にも、痛ましい海難事故が記されている。
昭和38年1月16日。タコ漁に出かけた漁船がシカタと呼ばれる南西の風に襲われ、13名が死亡する痛ましい事故が発生した。
と、このブログを書いていたら、隣町の恵山町で72歳と69歳の夫婦が沖に出て、海中に転落し死亡するというニュースがテレビから流れた。
隣町で漁師をしている知人に確認すると、朝から風雪で海が荒れ、自分は漁に出かけなかったという。ところが風が止んだので何隻か出漁したらしい。
そこに不幸が待っていた。
※昨日この岬の裏側で、何もなかったかのような穏やかな顔を見せる海。


冬の海は危険がいっぱいである。先日、ウニ漁で私もそんな体験をした。
港から魚場に出た時すでに、風が出て波が立っていた。
魚釣りには影響のない波風だが、ウニ漁としては波が高い。海を覗く箱眼鏡が、顔にぶつかって痛くてならない。ウニや昆布漁の場合、船の後方に船頭と助手が位置するので、船先が上がり後方が低くなる。そのうち船内に波がどんどん入ってくる。
中止の放送が流れればいいな、と心の中でつぶやいたくらいである。
しかし周囲の船も、誰も帰ろうとはしない。こうなりゃ頑張るより仕方がない。
我慢しきれず嘔吐を繰り返す。
終了の合図があり、港に向かう。
ところが船内は海水であふれている。港まで休むことなく排水作業だった。
数日後の飲み会の席上、漁師の先輩にそのことを話した。
先輩いわく「出漁の合図の係りは、そのとき大丈夫だと思って判断したのだ。
冬の海は風が急激に変化する。その場所が危険だと思ったら、風のない場所に移動し、漁を続けることだ。人のせいにしたったって始まらない。自分の命は自分で守るしかないんだ」と一蹴された。
勉強や読書で得た知識など、吹き飛んでしまうような、実践から得た心に響く有り難い言葉である。
そんなことは身体にしみ込んでいるベテラン漁師でも、ちょっとした隙が出るのだろう。
すぐ近くの海での海難事故。
漁師見習いの私としては、いつもよりやるせないせない思いで、朝の海を見つめた。


ベルギーからの電話

2011年01月28日 10時43分03秒 | えいこう語る
昨夜の午後8時を過ぎた頃、電話が鳴った。
ベルギーに住む、高校時代の友人からだ。
その電話の様子を、側で見ていた妻。
私はあわててテレビのボリュームを低くし、ベルギーに聞こえるような大きな声で話しだしたそうだ。
「昔と違うから、そんなに大きな声を出さなくたって、外国でも聞こえますよ」と、笑っている。
彼は40年前、横浜から船出した。
鉄道を乗り継ぎ、ヨーロッパでは我がトドホッケ村と同じような、小さな国にたどり着いた。
私はその頃の彼を思い出すと、「母を訪ねて三千里」という物語を思い出す。
少年が一人で母を訪ねて、外国に出かけるという涙の物語だ。
当時、彼から何日の何時頃電話がかかってくると告げられると、彼の親戚の家に集まった。
国際通話は高額だった。用紙に話す内容を書き、無駄話をしないよう簡潔に話す。それに彼が答える。終わると次の人へと、受話器を渡したものだ。
外国からの電話というと、いまだにそんな時代の感覚がよみがえるのだ。
ましてや私は田舎住まいである。大きな声で話さないと、とてもヨーロッパの小国ベルギーには聞こえないと思うのだ。
※昨日午後から、隣町の縄文露天風呂に出かけた。
その途中。向こうの山の後ろに、大沼の駒ケ岳の雪化粧がきれいだった。


電話の内容といえば、彼は漁師の息子だったので、小学生の時から船に乗り、父親の昆布漁を手伝ったという。
還暦を過ぎて、生まれてはじめて漁師の手伝いをやった、お前とは気合が違うんだという話である。
バカンスで出かける地中海には、昆布やワカメがたくさんある。今はヨーロッパ中が健康志向なので、お前こっちに来て、二人で漁師をやってそれを採って儲けようというような、たわいもない話である。
彼も私と話すときは、遠い昔の高校時代に戻っているのだ。
彼の声も私の声もやたら大きい。
そんな私を「やっぱり田舎者だ」と妻が笑う。
田舎に生まれ、田舎に住んでいるので、田舎者には違いない。
でも、私は昭和23年生まれだから、時代がそんな大声を出さすのだと思っている。
昨日は、もう一人函館市内に住んでいる、悪友にも電話したはずである。
その彼も、私と一緒に横浜港で見送った一人である。
この大声の理由が、時代が言わせているという私の説が正しいか、今度逢ったら函館の彼に聞いてみようと思っている。


昭和に生きた男

2011年01月27日 11時33分18秒 | えいこう語る
歌手の大川栄作さんのヒット曲に「さざんかの宿」というのがある。
♪曇りガラスを手で拭いて あなた明日が見えますか♪
なんという素敵な台詞であろうか。
私は「さざんか」と言えば必ず思い出す人がいる。
花のように可憐な女性ではない。山茶花究さんという男優のことだ。
私が子供の頃、森繁久弥さん三木のり平さんらと、喜劇物に出ていた。
喜劇役者にはふさわしくなく、子供心に、ずいぶん恐ろしい顔をした人だと思っていた。
でもいまだに心に残っているということは、存在感のある演技をする役者だったのだろう。
その人柄を、森繁さんのエッセー「時は巡り 友は去り」で紹介している。
「山茶花究という芸名は、花に因んでつけたわけではなく、三三ケ九をもじってつけただけだ。常人とは少し違う役者たちの中でも、ひときわクセのある男だった。友達もわずかで、いかにも仇役の典型とも言うべき憎らしい面構え、色紙を頼まれると「非情」と書くような奴だった」
森繁さんが山茶花さんとの初めて飲んだ時、山茶花さんはなみなみと注がれたコップ酒を、一気に飲み干したという。
「なかなかイケるね」というと、目をつむり10分程奇態な声でうなりながら「最初の一杯をあおっている時は黙ってほしンや。五臓六腑にしみわたる瞬間が酒の醍醐味やから、そのとき話しかけられても返事はできんから、おぼえておいてくれ」」といったという。
山茶花さんは、坊屋三郎・益田キートンらと共に一世を風靡した「アキレタボーイズ」のメンバーだったという。ボーイズがなにやら歌謡漫談のようなことをしていたのは私の記憶にもあるが、山茶花さんがメンバーだったのは覚えていない。
宴会でも何一つ料理を口にしないで、酒ばかり飲んでいた男の哀しい末路は、栄養失調で、ガイ骨のようだったという。
※函館市内で有名な桜並木。冬が厳しければ花がより美しい。


ある日病棟を訪ねた森繁さんの手をとって
「もうあかん」
「元気出せよ」
「フム、なんや淋しいネン。一緒に行ってくれへんか」といったそうだ。
山茶花の花のように散りこぼれて死んだ。と文章は結んでいる。
もし、とても仲のいい女友達が、最期にそんな言葉を吐いたらどうだろうか、などと勝手に自問してみる。
山茶花さんは、女も男も泣かせる、名優だったに違いない。
森繁さんも、多くの人の心に「知床旅情」という歌を残して旅立った。
♪思い出しておくれ 俺たちのことを 飲んで騒いで丘に登れば♪
昭和はどんどん遠くなるこの頃である。