函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

新幹線がやってくる

2016年01月31日 11時52分37秒 | えいこう語る

 

青函海底トンネルが計画されたのは、青函連絡船「洞爺丸」の大きな海難事故があったからだという。トンネル開通により、安全性が確保され時間も短縮されたことから、連絡船が引退を余儀なくされた。海峡の女王と親しまれた連絡船の廃止には、多くの市民が、感謝の別れを告げた。最後の航海には私も乗船し、マイクを握らせていただいたことは、生涯の思い出である。連絡船の廃止で、安全・安心・時短などの効率化で、市民の心の拠り所を失ってしまうという、ある種の寂寥感に襲われた市民も少なくなかったに違いない。超高速の新幹線、北海道の近未来にどんな変化をもたらすのか、新幹線効果のプラス面ばかりではなく、マイナス面も併せて考える必要を感じる。

31日の北海道新聞「いさりび」欄に「函館の魅力自問し再確認を」という題で「街の宝とは何か」という、市民ジャーナリスト奥村茂樹さんの、意見が掲載されている。「行ってみたい、住んでみたい街の上位に選ばれながら、函館では地域への不満や愚痴をこぼす住民も多い。地方活性化というお題目を掲げ、祭りだ、イベントだと、一時的に騒ぎ立てる人もいる。だが、そもそもこの街の持っている風景は、もっと違うところにあるような気がする。静かで、落ち着いていて、大人っぽくて、文学的で、映像的で、歴史的で、異国的で、空が広くて、イイフリコキの男と、キカナイ女が住んでいる」と。私はこの問い掛けに、とてもシンパシィーを感じる。

函館の真の魅力とは、眼に映る街並みの美しさだけではないと思う。その風景の中に潜んでいる、旅人に語りかける先人たちのメッセージのようなものではないだろうか。人は自分探しに旅に出るといわれる。自分探しが出来る街が函館といわれることが、本当に魅力ある街ではないかと思う。今までの観光の概念を新幹線の到来で新たに創造することが、函館のまちづくりに最も必要な要素ではないだろうか。

新幹線の先頭車両は、スピードを生むために究極のフォルムだ。だが私には、未来の北海道の大地を耕す「鋤」のように思える。1964年(昭和39年)に我が国に初めて走った新幹線。その光と影を改めて総括しなおし、まもなくやってくる新幹線の到着を待ちたいものである。


申年は綱渡りで

2016年01月30日 12時45分12秒 | えいこう語る

 

私は、極度の高所恐怖症だ。テレビで高所作業をしている人や、谷を綱渡りする人などを観ると、チャンネルを変えるか目をそらしてしまう。お尻がムズムズして、心身が不安定になり、吐き気をもよおしそうになるからだ。飛行機に乗れないのでは、と思われるが、目的地にあっという間に到着できる喜びの方が先行し、眼下に見えるまち並みは、地図を広げ、まちを調べているような気がして、以外と平静なのだ。一度、昔の戦闘機のような小型飛行機で、函館上空を飛行したことがあるが、恐怖感は全くなかった。パイロットが相当の熟練者で、もしエンジンが止まっても、私なら下の平野の部分に着陸できますと、頼もしく語ったからだ。私も、グライダーのように風に乗って、無事着陸できるのに違いないと思ったからだ。

日銀が、初のマイナス金利政策を発表した。経済に疎すぎる私でも「マイナス政策」というのは、日本経済にとって、緊急異常事態発生と思わざるをえない。日銀は国債の買い入れを増やすなどして、世の中に出回る資金を拡大していたが、思ったほど市井銀行の貸出が伸びず、お金が動かない状態だったという。日銀がマイナス金利にすると、金融機関が貸し出しを促進するという期待感があるからだ。これが行なわれれば、金利低下や円安を促す効果があるという。だがこの政策、日銀内では賛成が5人で、反対が4人だったという。賛成した黒田日銀総裁も、私と同様高所恐怖症のようだ。綱渡り政策発表時には,顔がひきつっていたように感じたからだ。

高浜原発3号機が再稼働した。川内原発1・2号機に次ぐ3番目の再稼働だが、高浜3号機は、フルMOX燃料を使用する、プルサーマル原発だ。ウラニウムとプルトニウムを混合する燃料を使用するのだから、心配はさらに増す。30キロ圏内の防災訓練も実施していないという。さらに、使用済み燃料の処分場もないままだ。原子力による電力確保は20%ほどだが、その目標値を達成するための再稼働だ。福島の原発事故もいまだ収拾がつかない。さらに、いまだ決まっていない核廃棄物の処分場も、無理やり国が指定し押し付けるようだ。福島と同様な事故が他であれば、我が国の経済は壊滅すると誰もが思っている。これは「マイナス金利政策」より命の危険のある、綱渡り政策ではないか。

プルサーマル原子炉といえば、次の再稼働が気になる泊3号原発だ。3機ある泊原発だが、全て休止しているが、北電の3月の連結決算見通しが『250億円』の黒字に転換するという。それなら3機とも廃止してもいいのではないかと思う。黒字を支えたのは、原油安によるものだというが、原油の値段はあまりにも不安定だ。さらに黒字の原因は、私たち消費者だという。原発が全休したため、赤字だと言われ、無条件で値上げを受け入れたためだからだ。「値上げしなければ電気が止まる」という恐怖感を煽られ、まんまと黒字の片棒を担がせられたことによるものだ。我々市民も、電力の恩恵なしには生きていけぬところがある。そこにつけ込めば、黒字なんてちょろいものと思わせてはならない。こんな綱渡り政策で、毎年会社を維持させていたら、私たちの懐は火の車となる。火の車で電力が確保できればいいが、凍死してしまうのだ。

北電と共に変なのが、北海道の漁業生産状況の報告だ。最近漁獲高は激減している。イカやホッケ、スケソウダラ、サンマなどは20~30%減だ。我が村の地名「椴法華」の由来となっているホッケは、前年比40%減だ。小さいのは「ロウソク・ホッケ」回遊せず土地に根付き、脂の乗ったものは「根、ほっけ」などと呼ばれている。もはや「マボロシ・ホッケ」と名がついて、高級魚の仲間入りをしそうな状況になってきた。そのうちホッケ一匹が桐の化粧箱に入り、箱には「南無妙法蓮華経」と書かれ『日蓮・ホッケ』などとネーミングされ、最高級魚になってしまうなんて考えられなくもない。・・・冗談はさておき、1958年の統計以来、15年の漁獲高は最低になった。だが、ここでも逆転現象が起きている。品薄感から高値になったのと、輸出が好調で円安などにより、価格が高騰したため、黒字に転換したという。でもこんな綱渡り決算では、安定感のない漁業になってしまう。サンマも31%減だし、鮭・鱒のロシアでの漁もできなくなってきた。漁業は綱が頼りだが、綱渡り操業は御免被りたい。

TPP大将の甘利大臣が辞任し、石原伸晃さんになった。麻生さん。「石原さんは農業分野は不得手だから心配だ」という。我が北海道が最も注目するTPPだ。不得手な人がと心配するのは、農業関係者だが、はるみ知事は一向に動じない。「TPPの推進は道筋ができていて、国内的に影響がない」という。そんな考えであれば「原発再稼働」も「核廃棄物貯蔵所」も、道筋さえできれば受け入れてもいいという考えなのかもしれない。石原さんが無能のほうが、甘利さんが有能に見え、惜しい人を辞任に追いやったと国民は思うのではないか。さらに、野党が執拗に追求し、国会を混乱させたからではないかという、国民感情を引き出し、参議院選挙に有利に流れこむという作戦なのではないだろうか。

🔽その間に、伊勢・志摩サミットを成功させ、与党の安定感を誇示するという手はずだ。サミットでは、TPP論功行賞で、甘利さんも同席し、オバマ大統領から功績をたたえてもらうという、サプライズも考えられる。私はブログを書きながら、夜の夢ばかりではなく、白昼夢の世界に入り込んでしまいそうなこの頃だ。つまり、石原人事は、参議院選挙までの綱渡り人事ということだ。何とか落っこちないでほしいという、アベ総理の注文もあったのではないかと邪推もする。

とにもかくにも、アベ総理の狙いは『憲法改正』だ。そこまでは、綱渡りしてまでも、行き着くところまで行き着くという執念を感じる。それに全くついていけないのが今の野党だ。

「アベノ・サーカス」。いよいよ参議院選挙に向かって、あの手この手で観客を惹きつけ惑わす、迷演技の連続技が炸裂しそうな勢いだ。


美しい国というけれど

2016年01月29日 10時27分52秒 | えいこう語る

 

教科書会社が、検定中の教科書を教員らに見せて意見を聞き、謝礼を渡していたというのは報道で知っていた。だが、我が北海道が最多の489人とは、甘利大臣の金銭授受より、問題は大きいのではないだろうか。なぜかというと「道徳」が教科化される問題と、連動しているのではないかと考えられるからだ。最大2万円の謝礼をもらった教師もいたそうだが、選挙前に低所得の老人たちに、3万円の現金を支給する手口に似ていやしないか。お金で1票が買えるというのを、聖職者たる教師たちが、実証したように感じるからだ。北教組の加入率も低下しているようだが、教職のタガも緩んできているとすれば「戦争は教育から始まる」という歴史の、前兆が表面化した問題として、単純に見過ごしてはならない感じがする。

「教育勅語」が出された明治中期に、我が国に滞在していた語学者チェンバレンは「天皇遥拝」という「日本の新しき宗教」の「新しい布教の大要塞とも言うべきものは学校である」と指摘している。戦後になるが、1951年の天野貞祐文部大臣の「国民実践要領」には、天皇の存在を「道徳的的中心」と、記している。共に、横田耕一著「憲法と天皇制」より。さらに、現アベ総理も、著書「美しい国へ」では『教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家をつくることだ。そして教育の再考は、国家の任である」と断言している。現在の「道徳教育の教科化」をどのように考えるかは、国民全体の問題だが、やはり教育者たちに突きつけられた問題ではないだろうか。そこが「買収?」にあっているかのような教科書問題は、国家の大事ではないかと、私の「老爺心」は微妙に反応するのだ。

戦前と戦後は、教育が大変化し、国民の考えも変わったと考えているが、実は「連続性」の中で、国家は存在し続けているのではないだろうかと、アベ政権の政策で強く感じることがある。それは、一気に決着がついたというような「従軍慰安婦問題」にも見えるてくる。敗戦直後の我が国に於ける「連合国軍慰安所」の設置だ。日本軍がアジア・太平洋各地で多くの強姦事件をおこした事実を照らしあわせ、日本の婦女子を守るため国家が推進したのだ。この事実から、従軍慰安婦という制度は、国家が容認し推進したということが証明される。戦後の慰安所の設置は、多くの国民が賛同していたというから、国民自体も戦争下の慰安婦の存在は、認めていたことになるのではないだろうか。ここが慰安婦問題の難しさでもある。

さらに、当時の我が北海道の動きに驚きを感じる。道庁は直ちに警察部保安課と慰安所の設置を進めている。敗戦わずか2ヶ月あまりで、札幌だけで770人の慰安婦を集めたという。吉見義明著「従軍慰安婦」より。開拓精神旺盛な北海道は、国の影響を受けやすい土壌だということなのだろうか。北海道民として、なんだか心配になってきた最近の出来事だ。

甘利氏の辞任は、7月の参議院選に向けてのスタートの号砲かもしれない。もしくは衆参同時選挙への幕開けを示唆しているのかもしれない。野党も甘利問題だけ集中していると、戦いの陣営を強化できなくなる。それが、甘利辞任劇の、与党奇襲作戦なのかもしれない。マスメディアまで仲間に引き入れた感がある奸智に長けた与党。もはや、改憲は意のままになるのではないかと感じられる、最近の我が国だ。北海道5区の補選も、参議院選を占う重要な選挙だ。共産党が民主党に共闘を申し出ているが「候補者を下ろし、頭を下げてこい」という民主党の高飛車では、負けが見えている。平和の党と自負していた公明党を、仲間に入れた自民党の手法を見習っててほしいものだ。

たとえ甘利氏が、議員辞職したとしても、次の選挙ではトップ当選してくるに違いない。「政治家としての矜持に鑑み、辞任を決意した」と、潔い切腹を地元有権者に見せたからだ。歌手の細川たかしさんと友達という甘利氏、得意な歌は細川さんの「北酒場」だという。だが、辞任から歌うカラオケはこの曲になるだろう。

昨日の私の夢だ。カラオケで細川さんと甘利さんと私の三人が、飲んで歌っている。甘利さんは細川さんの「心のこり」を替え歌で何度も熱唱していた。♪私バカよねおバカさんよね 後ろ指後ろ指さされても アベさん一人に命をかけて耐えてきたのさ今日まで♪。私もこんな掛け声で甘利さんを応援した。「よ!次の大統領」と。


天皇と総理大臣

2016年01月28日 16時31分02秒 | えいこう語る

 

フィリピンを公式訪問されている天皇、皇后両陛下。先の大戦で、日本軍と米軍がフィリピン国内で戦争したことで、110万人ものフィリピン人の犠牲者を出したという。日本軍の虐殺などもあったことから、戦犯として捕虜にされたが、8年後当時のキリノ大統領が、日本人戦犯全員を恩赦し、その後日本との国交を回復したという。「憎むべきは戦争であり、戦争に参加させられた人ではない」というという、フィリピン大統領の寛容の精神の極みを、そこに見ることが出来る。日本人であれば「フィリピンに頭を向けては眠れぬ」という思いがする、記憶にとどめておきたい歴史の1ページだ。

天皇陛下のお言葉は、戦争で迷惑をかけたことを心からわび、その恩赦に対しても深い敬意を称し、両国が一層絆を深めていくことを願う、真心のこもった挨拶が心に響いて来る。この内容と同じメーッセージをアベ総理が語ったとしても、私はフィリピン国民も日本国民も、心からの感動を覚えないのではないかと思う。陛下が望むものは「戦争のない平和」だ。だが、アベ総理が望むものは「軍事力を背景にした平和」だからだ。

近年の陛下のお言葉には、二度と戦争を繰り返さないという、強い意志を私は感じる。大日本帝国軍は大元帥閣下であった昭和天皇の軍隊だった。その皇軍が人類史上大虐殺を敢行したのだ。二度と戦争をさせないというのは、現天皇陛下の究極の目標なのではないだろうか。だが、アベ政権は「安保関連法案」を制定させ、憲法改正を打ち出してきた。天皇陛下としては、本来ならアベ総理を呼びつけ、叱咤したい気持ちなのではないだろうか。

だが現憲法では、天皇は国事行為のみとされ、内閣の助言と承認が必要とされ、個人的な言動はほとんど制限されている。憲法第1章の天皇に関する記述をよく読めば、この章は、先の大戦での天皇の戦争責任を問う、終身蟄居の内容ではないだろうか。簡単に解釈すると、内閣の許しがなければ天皇は何もできないということではないか。

我が国の憲法でいえば、国家元首は総理大臣だが、フィリピン訪問での天皇の存在は明らかに、国家元首だ。それに、ふさわしいような、総理大臣以上の品格と威厳を持ち合わせている。総理とは身分の違えさえ感じられる、圧倒的存在が天皇陛下だ。私は、今まで感じたことがない、天皇の存在意義を、このフィリピン訪問でのお言葉の内容と、天皇から発せられる、純真な輝きのようなものを意識させられたのだ。

横田耕一著「憲法と天皇制」にこう書かれている。「天皇はいまや具体的な政治的権限を一切持っていないが、国事行為を行う権威ある存在として、国民意識を一つに統合するという、極めて高度の政治的機能を果たしているし、今後も果たすであろうことを意味している。したがって、政治的権限を実際持たなくとも、国事行為を行う主体として天皇が存在するということ自体が、日本において大きな政治的意味を持っている」という解釈だ。私はこの解釈に大いに興味をひかれる。

最近の天皇の戦争に関するお言葉には、自身の反戦の思いを率直に語っているように感じる。だが、自民党の改憲案には、天皇を国家元首とする案もあるようだ。国民統合の象徴という、極めて明確さに欠けている存在から、国家元首という、明確な存在を与えようとするアベ政権の真意は、どこにあるのか。そんなこともちょっぴり考えさせられた、今回の天皇・皇后両陛下のフィリピン訪問だ。


中国はアベ総理をどう考えているか

2016年01月27日 11時19分13秒 | えいこう語る

 

戦争を放棄した国に生まれ、世界に胸を張ることが出来ることを喜んでいた。だが、再登場したアベ総理、まるで創価学会に入信したのではと疑われるほどの、思想強化の変身ぶりをみせている。思想を共有する公明党とタッグを組み、あっという間に戦争が出来る国へと、変身させてしまった。日本文化の恩師的存在の隣国中国を仮想敵国とし、国民の不安感を利用して「安保関連法案」を成立させてしまったのだ。まるで「風林火山」の如き戦法は、国民の根強い支持も受けているようだ。

さて、恩を徒で返そうとしている日本の総理を、中国はどう分析しているか、ちょっと探ってみることにする。とはいっても、中国の歴史に疎い私なので、孔子先生に頼るとしたい。孔子の弟子の中で、政治と経済に強い子貢が、孔子に尋ねた中から、中国がアベ総理をどう分析しているかを、考えてみたい。

子貢問政。子曰、足食足兵・・・から始まる一節だ。子貢が孔子に政治の秘訣を問う。食べ物をじゅうぶんにしてやることが一番大事だ。その次は兵、つまり武器を十分蓄えること。第三は民がみな政治家を信用してついてくることだ。子貢が問いただす。三つのことを全部やるのは難しい。やむを得ない場合、この三つのうちどれを捨てたらいいか。孔子は武器を捨てればいいという。それでも大変なら、二つのうちどれを捨てたらいいかと子貢は尋ねる。食料を捨てればよい。食べ物を捨てれば人間は死ぬではないかというかもしれぬ。しかし、昔から死というものは、人間の免れえぬものだから、やむを得なければ食料を度外視してもよいだろう。政治にとって信頼しうるということが一番大事で、これを失えば国の政治は成り立たないと、孔子はおっしゃった。

日本は食べものが豊富で、賞味期限という決まりがある。だが、廃棄ばかりしているわりには、廃棄したものも売っているという、信頼できない国柄だ。戦争を放棄したのに軍事強化し、武器を製造し、海外でも戦う姿勢を示している。人民の信頼が一番大切というが、アベ総理の閣僚は、大臣室で賄賂を受け取っているという。まるで江戸時代の悪代官のような閣僚がいまだにいるようだ。さらにアベ総理自身も、数多の憲法学者に憲法解釈が間違っていると指摘されている。自国の憲法を正しく理解しない総理は、孔子が言うように、国としては体を成していないのではないか。多分、北朝鮮のトップと同様のレベルの政治感覚ではないかと、中国側はそう判断しているのではないだろうか。

だが、現在の中国のトップは、孔子から見たらどう思われているだろうか。爆買いをする民がいると思えば、食料に瀕する民もいる。少しでも政府批判をすれば、拘束はされる。軍事力を巨大化し海に基地を作り、領土を勝手に拡大し、勝手気ままに大国と虚勢を張る。これでは人民の信頼など程遠い。この二人の主導者は、私が言った最もポピューラーな言葉を思い出してほしいものだと、孔子も呆れ返った。

それは「温故而知新」だ。過去の歴史、伝統をもう一度考え直して、現在に生かす新しい意味を知る、それが指導者というものだよ。というわけで、孔子から見た現在の周辺の指導者たちは、君子に与えしない人物がいるので、やたら極東の平和が脅かされているということになる。

実行力があるというのは、総理の資質の最も必要なものだ。だが、アベ総理の憲法解釈が間違っているというのは、国民の最大の不幸だ。7月の参議院選には、さらに勢力を増し、間違った憲法解釈で憲法改正をするという目論見だ。最後だが、孔子の教えを理解できないアベ総理に、孔子はこんな短いメッセージを贈ってくれた。

「子曰、君子不器」。立派な総理というものは、単なる政治屋であってはいけないと。論語は平凡のようなものもあるが、一見平凡そうな言葉をよく噛みしめると、深い味が出てくるもののようだ。