函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

何がなんだか

2012年03月31日 11時48分21秒 | えいこう語る
今の日本、何一つとっても納得のいく状態ではないようだ。
消費税増税に「不退転の決意で臨み政治生命を賭ける」などと勝手にいわれても「あんたなんかと一緒に心中できない」と思っている国民が多いはずだ。
与党内はもめにもめるし、連立与党の国民新党との対立は、“ドジョウVS泥カメ”の田んぼの片隅での泥仕合いだ。小沢軍団からも離党の準備が始まったようだ。
消費税を最初に取り組んだ時の、財務官僚の内輪の会話を思い出す。
「消費税は麻薬だ。一度手を付けたら病み付きになる」。
※海に白鳥がいた。縄文露天風呂に続くバイパスが完成し、ずいぶん近くなった。




3・5・8・10%・・・∞。たぶんエンドレスの増税路線なのだろう。
東電への公的資金の導入は、現在の要求分も含めると3兆5千億円になり、この金額は消費税の2%に相当するという。
さすがにボケ寸前の私の頭でも、こう考えてしまう。
東電は4月から電気料金を値上げし、値上げを拒否するところには電力を止めるともいう。電気が必要なら金払えと国民を恐喝する。
国に対しても、エネルギー政策は国策なので、被災地への賠償資金は法律にのっとり国が出せと、いとも簡単に請求する。
暴力団でも取り締まる法律があるのに、なぜこんな倫理観のない企業を、取り締まる法律がないのだろうか。政治家もしこたま東電から、政治献金を懐に入れたに違いない。
原発政策を続けると、事故があれば国民負担ということが分った。
しかし、原発を廃炉にする費用も、国民負担だ。
「進むも地獄、止まるも地獄」。考えれば、恐ろしいものを作ったものである。
消費税は国家が使う麻薬で、原発は、国民が「安心・安全」と国にいわれ、使わされた麻薬なのだ。
ということは、我が国は「麻薬漬け」にされ、思考能力をずたずたにされた国なのだろうか。
何がなんだか私の頭も、朝から大混乱してしまう。
今朝の新聞、小さな記事で「原子力安全委員会斑目委員長、続投」とある。
「委員長を辞めるといったのに、やめないでくれと言う。私っていったい何なのでしょうか」という、自分がよくわからない斑目さんの声が聞こえてきそうである。
斑目さん、政府や電力会社の暴走を見た目には監視しながら、意味不明の笑顔で、原発再稼動を着々と進めていくのだろう。
春が近づいているのに、なぜか心が弾まないのは、テレビに大写しされる野田首相の大顔のせいかもしれない。最近の野田さん、オオム真理教のアサハラに雰囲気似て来ていませんか。


視界不良の国

2012年03月27日 16時01分15秒 | えいこう語る
福島原発事故から1年が過ぎたが、国民は放射線は薄れていると考えていやしないだろうか。いや、そう思いたいだけなのだ。
国民だって放射線は簡単には消えないということは知っている。だから、なおさらそう考えたいというのが人間の心理だろう。いやなことは忘れなければ、いつまで経っても解決しないという、心理が働くからだ。
そんな心理が強く作動したのか、原発周辺町村の役場が地元に戻り始めている。
広野町に続き川内村が元の庁舎に戻ってきた。役所として、まちの再生は急務だろうが、事故の収束がはっきりしないのに、あまりにも危険な行為である。
そんな記事が掲載された次の日に「2号機の原子炉格納容器の水位は、底から60センチ」と、東電が発表した。炉心溶融を起こし、毎時9トンの水を注入しているのである。ほとんど水が漏れているのだ。それも放射線に汚染された水である。にもかかわらず東電の発表は、「危険ではない」という。
東電が危険だという時は、たぶん「爆発した時」であろう。
周辺町村の役所も、原発誘致を推進した責任を強く受け止めていることは、充分理解できるが「カムバック故郷」キャンペーンには、住民の生命の安全を最優先してほしいものである。
※養殖昆布漁の朝。


福島県のある定時制高校で、こんな会話がされていたという。
「3号機が不調のようだね」という先生の問いに「いっそのこと原発全部が爆発すればいい」と生徒が答えたという。
「福島市はこんなに放射線が高いのに避難区域にならないのはおかしいのではないか。これって、福島とか郡山を避難区域にしたら、新幹線を止めなくちゃならないし、高速も止めなくちゃならない。要するに経済がまわらなくなるから避難させないということだろう。つまり、俺たちは経済の犠牲になって見殺しにされるのだろう」と、発言したそうだ。
事故当時、福島はチェリノブイリと同程度のレベルと判断されたのである。
「絆」という「復興キーワード」のもとに、私たちはこの事故を、心理的に過小評価してはならないと、東電の「危険ではない」という発表を聞いて、なおさら考えざるをえなくなる。
昨日の国会中継である。北朝鮮のミサイルを迎撃するという。北朝鮮側は「観測衛星」だという。それを打ち落とせば、北朝鮮政府は「宣戦布告」と判断しないだろうか。
福島の高校生の発言ではないが、政治不信がこれほど世の中に蔓延すると「大阪維新の会」のような、新・国家主義が台頭してくるのだろう。


春は逆戻りできない

2012年03月26日 11時35分32秒 | えいこう語る
朝起きて、まるで真冬に逆戻りしたかのような雪が降っていた、とブログに書いたりするが、この頃はお昼頃には路上から雪は消え、水蒸気が上がっている。
庭に積もった雪も、雪かきもせずにいても、翌日見れば相当量減っているのが実感できる。ダイエットでいえば、1月で10キロ減量という感じだ。
ここまで雪解けが進むと、地上のありとあらゆる生物は、冬は終わり季節は春であることを実感しているのだろう。
※日曜朝の庭の雪景色。


柏崎刈羽原発6号機が運転を中止し、残りは我が北海道泊3号機1機だけとなった。54機中53機が停止してても、私たちの生活には何の支障もない。
電力の3分の1を占める原発が、止まれば大変なことになるといった政府や電力会社は、やはり得意の嘘をついたのであろう。
春は嘘が似合わない季節だ。
この場に及んで原発再稼動を唱え、国民を冬の季節に逆戻りさせようとする政府。国民のためにならぬ政府なら、政権交代の後は、国民によるクーデターしかない。
次の総選挙はあれやこれや迷うことなどない。原発推進の候補を落とすだけの選択でいい。
選挙ポスターに「原発推進」か「脱原発」かを明記させればいい。明記しない者は推進派とみなす。そんな選挙でいいのではないかと思う。
政治家の使命とは「国民の生命・身体・財産の保全」である。これらを守らなければ政治家の資質などないからだ。
選挙後に政治家が、自分たちが生きのびるため勝手に大連立など組ませてはならない。
脱原発の議員が集まり、必然的に大連立を組むのが、正しい方向に向かうのである。多くの混乱があるが、そこには“希望”があるからだ。
政治家が政治家たる使命を果たす、それを後押ししてやるのが国民の使命である。
そう考えれば解散総選挙も、春と同じく待ちどうしい限りではないか。


災害も「流行」の一部分

2012年03月24日 15時18分07秒 | えいこう語る
昨日、函館市立図書館に行き、東日本大震災の写真集を見た。
2冊見たところで、別の本を選んだ。涙がこぼれてきたからだ。
※お菓子屋さんの玄関。


私たちが住む道南地方は、先祖が東北地方の人が多い。言語が同系なので被災者の悲しみが、直接心身に伝わって来るのを感じるからだ。
昨年の災害から、一日たりとも東北地方のことを考えない日は、なかったと思っている。同族意識がそうさせるのかもしれないが、遅々として進まぬ被災地の復興や政治の混迷、さらに原発再稼動への動きなどを見るに付け、災害から1年経った今、日本人は東北のことをどう考えているのか気に掛かる。
先日、函館出身で長く東京暮らしをしている人と話す機会があった。
震災後の影響を聞くと、東京は景気はよくなっているという。災害のことは薄れ掛けているのではないか、ともいう。
景気は“気分”だ。いつまでも心が沈んでいては、経済は好転しないのだ。
最近、私が持つ東京のイメージは、こんな状態だ。
「AKB48」「韓流(Kポップス)ブーム」「東京スカイツリー」等、“気”も一極集中で大いに盛り上がっているようだ。都会は流行を次々に作り出すことで、不景気ムードを払拭しようという意気込みが感じられる。
大災害であろうが、それも昨年の“流行”の一つにしてしまっているのではないだろうか。都会の人が薄情だということではない。東京は“元気作りが上手”だと感心しているのだ。
それに比較し、我が函館市はというと、元気がまったくないのである。元気になる“仕掛け”が下手なのである。
最近函館市が、街の活性化と称して建設した、五稜郭の「函館奉行所」と郊外の「縄文文化交流センター」。失礼と思うが、私には新しい「お寺」か「神社」が建ったような、話題性もなく躍動感も感じられないものに見える。なぜかというと、函館市は「魅力ある街」全国トップクラスにあるが「魅力が眠ったままの街」だからである。眠りから目を覚まさせる「王子様」が、現れにくい土壌のようだ。
でも、今日も新しく立派な市立図書館には、大勢の市民で溢れている。学ぼうという市民が多くいることに、この街の未来は暗くはないと期待する。
図書館は人間の潜在能力を引き出す場所である。そんな意味では「函館のまちづくり」の発信基地は、この図書館が担っているのではないかと、ふと思ったりもする。
※お菓子屋のレジの後ろに、五稜郭公園が見える。桜の時期には、東山魁夷の絵にも負けない風景が広がる。


今朝は、また冬に逆戻りしたかのような雪だ。函館の桜の開花も、少しは遅れるという巷の噂である。
今年は雪をたくさん食べた桜が、満開に咲き乱れるに違いない。
特に東北の被災地には、昨年以上の豪華な桜が咲くことを祈りたい。


埋蔵文化財の危機

2012年03月22日 15時10分37秒 | えいこう語る
東日本大震災から1年が過ぎたが、被災した町並みの復興が、まったく見えない状態だ。
被災された人たちの焦燥と精神的苦痛は、計り知れないだろうが、その状況をテレビで見つめている国民も、苛立ちを覚え始めている。
それに業を煮やしたか、瓦礫の全国自治体での受け入れの声が、広がり始まっているようだ。 広大な大地を持つ我が北海道も、知事が放射能汚染の国の安全基準を、さらに独自に強化した上での受け入れを証明した。これが民意を無視する「政治的判断」という行為だろう。
国も引き受けるところが少なければ、国有林内に処理するということも考えているようで、瓦礫処理は一挙に加速度を増しそうだ。まもなく、ブルトーザーやダンプカーの走る音が、被災地に響き渡るに違いない。
心配することがある。
被災された東北の県には、縄文の貴重な遺跡が埋まっていて、北海道・北東北縄文遺跡群は、2015年の「ユネスコ遺産登録」を目指しているからだ。
この度の大災害は、過度の文明社会を享受した私たち国民へ、大きな警鐘を打ち鳴らした。その反省を踏まえれば、これからの新たな日本のあり方を探るには、自然との共生を図った縄文時代に、多くのキーワードが隠されているような気がするからだ。
以前全国各地に、重機の音が鳴り響いた時代があった。田中内閣の日本列島改造計画が実施された時である。国土の均衡ある発展が基本理念で、地方分権時代の幕開けであったはずだが、当時、遺跡の重要性は地域発展のお題目の下で、抹殺されたことがあったのである。
造成中に遺跡が発見されれば、工事の遅延や中止も考えられる。夜間、人の見ていないところで、多くの遺跡が破壊されたことがあるからだ。実際私が勤めていた会社でも、夜間工事を行い内部処理していた話を聞いていたからだ。
貴重な人類の財産は発掘されてこそ、人類の後退と進化が証明されるのである。消滅させては未来を語るに、大切なものを見落とす恐れがあるかもしれないのだ。


世界遺産に登録される意味とは、いったいなんであろうか。復興の前に充分検討し、復興の美名の名の下に、真の復興が妨げられるのを防ぐべきである。
復興は巨大な公共事業である。天下り、談合、政治家の口利き、政治献金など、様々な利権の復活を招きかねない。
「ふるさと再生」は「倫理なき復興」がないよう、国民は鷹の目のような鋭さで監視を怠ってはならないようだ。
作家の高村薫氏が、21日の北海道新聞で論じている。
「抜本的な対策を国に急がせるのも、まったく理性の仕事である。過度の楽観も悲観もせず、着実に日々を生きながら、声高な主張や異なる意見を封じ込めるような「正しさ」に距離を置いて、好きなだけ迷い、悩んで待つ春だ」と。