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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

2015年への希望

2014年12月31日 10時18分55秒 | えいこう語る

『裁判所は、法解釈決定権を持つことによって、基本的には二つの役割をはたす。一つは、国民の権利保障という役割であり、もう一つは、国家の法秩序の維持という役割である。この二つの役割は、民主主義と人権保障を基盤とする憲法体制のもとでは、相互に矛盾しないはずである。なぜならば、この体制のもとで、国家は国民のための国家であり、私たち国民の権利を保証することのよってのみ、権力の正当性を維持しうるものだからである。国民の側からいえば、誰も高い税金を払って、自分たちを抑圧する国家体制の維持を望む人はいないであろう。自分たちの権利を保障してくれる国家であると思えばこそ、それに権力の行使をゆだねているのである。国民のこの信頼がくずれれば、国家はもはや体制を維持しえない。』    渡辺洋二著「法とは何か」

 

2014年、最後に読んだ本の中の一節です。

函館市が国と電源開発に対し起こした、大間原発建設差止め訴訟。来年には東京地裁の判決が下る。

法とは何か、民主主義とは何か。戦後70年は、それらの総括の年でもあるようです。

今年も北海道の片田舎からの、誠に勝手な自己主張にお付き合いいただき、ありがとうございました。

新年は、平和な年へ向う、希望の年でありますように。

           

                                                                               2014年12月31日

                                                                               函館市椴法華村 かわぐちえいこう


ブログが長い理由

2014年12月30日 12時13分30秒 | えいこう語る

▼ 最近、自分のブログが小難しくなり、だらだらと長くなっている。自分でも何とか修正しなければと思う。俳句や短歌のような簡潔明瞭な文章をめざしているのだけれど、それがそうならない。その理由は、第2~3次アベ内閣のせいだ。なぜなら、今までの常識を覆そうとして、曖昧な表現ばかりし、その延長線上に国民を危険な状況に追いやる可能性がありそうなので、その真意を究明しようと思えば、おのずとあれもこれもの、とりとめのない文章になってしまうのだ。

▼ でも、本当はアベ総理のせいばかりでもない。自分の筆力の拙さは実感しているが、元々たくさん語りたい性格なのだ。その性格をアベ総理が引き出しただけなのである。「積極的平和主義」一つとっても、その不可思議な言葉が国民を不安に陥れそうなので、私の推察はどうしても多くなる。ほとんど邪推かもしれないが、アベ総理は国民に邪推を起させる、意味不明の人物のようだ。

▼ 「漁師の自覚」という短い文章を書いてみる。新年初めの、めでたくも豪快な話題は、津軽海峡のマグロ漁だ。大間が勝つか戸井が勝つかの、海の男の壮絶な戦いに、今年は景気の良い年でありたいという、人々の思いが重なり、テレビに注目する。高額なご祝儀相場も、新年の挨拶代わりの話題となる、津軽海峡の新年マグロ漁の話題だ。そんなマグロ漁師の粋な言葉だ。「医師・教師・漁師で、俺たちも師が付いているので、頭を使う仕事だ」という。以前は「腕と度胸だ」などといっていたが、コンピューター制御の立派な船で操縦しマグロを捕獲するのは、頭脳の勝負ということなのだろう。海を守る森林の勉強会に参加した時、漁業関係者が「俺たちの存在は低い。昔から士農工商といわれ、漁業は入っていないからだ。」そんな自虐的な会話で、その場に軽い笑いが起きたのが印象に残っている。「海の男のプライド」を日本中に見せ付ける「津軽海峡のマグロ漁」。漁師も、師の域に達するという自覚は、漁業の未来に大きな期待を与える、力強い言葉ではないか。

▼ こんな短さでブログを終えたいのだが、海峡のマグロ漁といえば、浮かんでくるのが大間原発だ。この連鎖は、我が国の原子力政策、さらには集団的自衛権行使、そして、アベ独走内閣へと続いてしまう。やはり、私の文章が長くなるのは、アベ総理のせいということになる。

▼ 最近、政治が急激に動き出したということは、アベ総理の影響力が強まったということだ。影響はインフルエンスというが、風邪のインフルエンザは、この言葉から派生している。相手にうつり、影響を与えるということだ。

▼ もしかして「アベノミクス」とは、我が国に昔から潜伏していた病原菌が、突如浮上し、猛威を振るう新型のインフルエンザのことではないだろうか。その熱に犯され、私のあらぬ妄想の連鎖が止まらないのである。

▼ この新型インフルエンザを根絶するのはどうしたらいいか、それには健全な野党という新薬が必要だ。今朝の新聞には、民主党代表選挙に、ホソノ・オカダ・ナガツマの3名が立候補するようだ。果たして、この新薬、アベノミクスという新型インフルエンザに効果があるだろうか。

▼ ということで、アベ総理が再浮上してから、私のブログは限りなく長引く。一日でも早く、特効薬の出現を期待している。できれば、三人の力を1つにした、新薬「ミンシュミックス」ができれば、効果を期待できると思うのだが。

▼一言二言、つけ加えたくなるのが、アベノミクス患者の典型的な症状だ。私は熱に弱い体質で、38度が入院ラインだ。来年は特に症状が悪化しやすい気がする、戦後70年だ。入院しない前に、新薬の発売を切に期待したいものである。


大間原発と民主主義

2014年12月29日 14時19分41秒 | えいこう語る

▼ 自家用車で、日本海周りで札幌に向うと、岩内町の海岸の先に周囲の景観を圧倒する、頭頂部が丸い泊原発が見える。この原発の燃料はウラニウムだ。広島に落とされた原子爆弾と同じだと思うと、泊原発そのものが広島ドームと重なって見える。この原発誘致の要因になったのは、ここが北海道最古の炭鉱で、閉山後の急激な人口減に対処するためだ。化石燃料による大気汚染から、原発によるクリーンエネルギーへの転換は、この地が最も受け入れやすい環境にあったためだろう。

▼ 福島第一原発事故以後、多くの国民の意志である反原発に対し、我が国は原発を重要なベースロ-ド電源と位置づけ、強固な推進政策を取る。原発は世界的に見れば、軍隊を保有する国にとって、最強の武器である原爆を保有するために、欠くことのできない存在だ。今後軍隊を持とうとする我が国も、同様な考え方なのだろう。国家の考えと、国民の考えが対立する原発政策は、私たち国民に、真の民主主義とは何かということを、問いかけているのではないかと私は思う。

▼ 今月、大間原発の施行業者である電源開発が、規制委員会に安全審査の請求をした。世界最高基準とアベ総理が豪語する基準に適合すると、稼動にお墨付きが与えられるのだろう。函館市が自治体初の原発訴訟を起しているが、その時点で原告却下という判決が予想される。国民の命の安全より、原発の安全を支持する、司法の不公平かつ不正義な判決を、私たちは待つことになるに違いない。

▼ さらに、今日の北海道新聞は、規制委員会が安全とすれば、原子力災害対策特別措置法による、原発から30キロ圏内の避難計画作成を函館市が拒否した場合「住民保護放棄」ともとられかねないという、いわば原告と被告が入れ替わる可能性があるという内容の記事だ。「窮鼠猫を噛む」というのが一般的だが「猫窮鼠を噛む」という、国の奸知に長けた作戦が始まりだした予感がする。

▼ それに対する、函館市長のコメントはまだないが「そんな姑息な手段には、断固反対する」という、強気の発言が聞かれるはずだ。市長に「国家に反抗し、函館市の振興補助に影響がないか」と尋ねたことがあるが、そんなことはないという。だが、霞ヶ関の官僚だった人物に聞いたが、影響ははっきりあるという。

▼ 沖縄知事選で、基地移転推進派の知事候補に、年間3000億円の振興補助を約束したが、反対派の知事が当選すると、あからさまに減額を発表した。これが、善良な国民に対する国家の仕返しなのだ。

▼ 函館市長は、自分で物事を解決したいという、責任感旺盛な人物だ。だが、大間原発に反対することで、函館市がどんな国家からの嫌がらせや圧力があるのかを、自分一人で抱え込まないでほしい。要望する予算が却下されたり、確定していた予算が削減されたりする事実があれば、市民に公表してほしいと思う。

▼ 情報を共有することで、市民がまちづくりに参加する自覚を持ち、自主自立の精神が涵養されるからだ。国家に刃向う自治体には「兵糧攻め」が、常套作戦だ。飢え死にしたくなければ降参せよとの姑息な手段だ。「市民を餓えさせないために、苦渋の選択だった」などと、元沖縄県ナカイマ知事のような、政治家特有の発言など無用だ。情報を共有することで、市民も函館のために何をなすべきかを、自問自答するに違いない。

▼ 繰り返すが、市民にとって不利益な情報でも共有することで、市民一丸となった「大間原発反対運動」が勢力を保つことができる。「権力は国民にある」というのが、主権在民の主旨なので、そのことを市民が自覚することが、この戦いの要だからである。自覚した市民は、みな市長を支持するだろう。

▼そんな意味で大間原発問題は、戦後民主主義が自分たちの中で、どんな影響を及ぼしたのかを判断する、最良の機会ではないかと私は思うのだが。


STAP細胞事件

2014年12月27日 11時00分06秒 | えいこう語る

▼「STAP細胞はあります」という、小保方晴子さんの表情を見て、どうしても嘘つきと思えないというのが私たち夫婦の一致した見解だ。長く生きて来て、嘘をつく人は表情や言葉の端々に、その色合いを覗かせるものだと思っているからだ。だが理化学研究所の調査委員会の発表は、ES細胞が混入していると断定した。だが、どうして混入されたのかの、判明がないままでの幕引きには納得できない。かといって、科学にまったく素人の私たち夫婦が、勝手に論じても埒があかない。

▼ 科学という営みに対する一般的な考え方、すなわち「科学は確かな正解を答えてくれる」という期待について、これを「科学の完全無欠幻想」と呼ぶそうだ。ドイツの社会学者オートウィンは、政策立案者が抱きやすい科学への「四つの幻想」を指摘している。

※「確かさの幻想」=将来の予測を行う際に政策立案者は、正当な根拠で裏付けられる以上に予測内容に自信を持ちやすい。

※「擬似確信の幻想」=ある問題について、その一部についてしか成り立っていない「確かさ」を全面的に成り立つものだと思ってしまう。

※「絶対的真理の幻想」=証拠の正しさ(真実性)について政策立案者が過剰な確信を持ってしまう。

※ 「応用可能性の幻想」=ある問題について正しいとされた結論を過剰に一般化して、他の問題にも当てはまるものだと確信してしまう。

▼ 「科学の完全無欠幻想」の下では、時間がかかったとしても、最後は必ず白黒のはっきり付く確実な正解を与えてくれると考えている人は多いが、実際には地震学の研究に典型的に見られるように、研究が進むにつれて不確実性が減るどころか、謎が深まることもあるという。

▼ この社会学者の説は、今読んでいる原発裁判録の中に記載されていたものだ。原発の推進派と反対派の主張は、このような確信の中で、平行線を保ちながら進んでいくのだろう。最後は最高裁の判断だが、国策ゆえに片寄っているのが日本の原発裁判の現状だ。法の精神とは「正義」だが、正義は権力側に付くのが世の常のようでもある。

▼ 小保方氏と理化学研究所の対立だが、研究所そのものが権力側だ。故に権力側に有利なのは当然で、小保方氏の処分は一般的には妥当なのだ。だが、科学だけに「幻想」がつきまとうので「理研」は「利権」という意味で呼ぶのが、正しい呼び名ではないかと思う。

▼ マスコミにも一言いいたい。佐村河内と小保方さんを「ウソ」の両雄にする報道は控えてほしい。「キモイ」と「カワイイ」は、まったく次元の異なるものである。二人合わせて「キモカワイイ」などと、決っして混同させないでほしい。

▼ 今日のブログの結論を急ごう。近年、我が国の品位を著しく貶める張本人は、最高権力者のアベシンゾウとマスコミなのだ。これが「STAP細胞事件」を総括した、我が夫婦の結論である。でも、これも「幻想」と呼ばれる、範疇なのかもしれないけど。

▼ 「STAP細胞はあります」という、余力を振り絞っての小保方さんのあの優しい声が、「幻想の世界」に誘う魔法の言葉のように聞こえるのは、私たち夫婦だけだろうか。


2014年はどんな年

2014年12月26日 13時28分48秒 | えいこう語る

▼「日本人は将来、2014年を記憶に残っていない年として振り返るだろう。この年、我々日本人は、何一つとして決定的なものを選択しなかったからだ。」今朝の北海道新聞に掲載された、社会学者の大澤真幸氏の、何とも刺激的な文章だ。氏は私より10歳下の1958年生まれだ。年下に「あなた方先輩は、この1年眠っていたのか」と叱責され、思わずたじろいだというような感じだ。

▼ この様な問いの背景には、年末の衆議員選挙の結果がある。極端に低い投票率、アベノミクス等の政策が積極的に支持されているわけでもないのに、野党が与党より魅力的な選択ではなかったためと解説する。

▼ 2014年を振り返って、日本政府が新たに選択したものといえば「集団的自衛権の行使容認」ぐらいのものだ。日米同盟を受け入れるほかない選択肢として集団自衛権がある。国会で十分議論されることなく閣議決定したことも、他に選択肢がなかったからだという。

▼ しかし、これとていつか破局を迎えるのではないかというくらいの予感を抱いているが「これしかない」ものではなく、もし可能ならば、決定的に異なるシステムを選ぶことを欲しているのではないか。不可能なこと(と見えること)を要求し、不可能が可能だと示して欲しいという、無意識の願望が、現在の日本人にあるのではないかと指摘する。

▼ この指摘は、函館市民の大間原発に対する感覚に似ているような気がする。エネルギー政策は国策であり、大間原発は現在建設中だ。事故が起きたら破滅だが、函館市が国を相手取って訴訟を起している。市長を支持していれば、それでいいのではないかという、市民が多いように感じる。他に選択肢がないというのが、今の我が国に蔓延する、どこか吹っ切れない国民感情のような気がする。

▼ 昨日25日は、東京地裁で大間原発訴訟の第3回口頭弁論がおこなわれた。自治体からの提訴は原告不適格とし、門前払いの様相だったが「今のところは判断保留とし、実質審理に入るつもりだ」と裁判長が述べた。これに対し市の幹部は「中身の部分で審議に入れそうなので、一歩も二歩も前進だ」と話している。だが、弁護団の河合弁護士は「最終的な判決で原告適格が認められない可能性もある」と厳しい談話を残している。

▼ 我が国の原発裁判、行政訴訟では高速増殖炉もんじゅが、唯一高裁で勝訴し、民事訴訟では滋賀原発第2号機が、地裁で勝訴したが、いずれも最高裁で敗訴だ。さらに、大飯原発再稼動反対は、地裁で勝訴したが現在係争中だ。そんな、司法の国側よりの姿勢を、河合弁護士は指摘したのだろう。

▼ 函館市の投票率は、全国の市の中でも下位だ。言い換えれば、函館市長の支持率はアベ総理の支持率に似ているようだ。一生懸命努力しているので、他に選択肢がないのでという感じのような気がする。では一体、函館市が反対する大間原発の市民の関心度はどのくらいなのだろうか。函館市町会連合会は市民各団体にも呼びかけ、12月15日から「大間原発建設反対市民大署名運動」を開始した。その結果が3月には集計される。

▼ 27万市民の関心率がどの程度か、数字が公表されて始めて、市民として、今何をしなければならないのかの、問題提起としたい。函館市町会連合会がめざすものは、まちづくりへの市民参加だ。2011年4月「函館市自治基本条例」が施行されたが、市民の認知度は低い。市民の憲法といわれるこの条例を、熟知することが市民の責務ではないかと考える。なぜなら、この前文に「一人一人がまちづくりの主体であることを自覚し、市民自治によるまちづくりを進める」と明記しているからだ。

▼ 市町連の新たな役割は,この条例を広く市民に浸透させることではないかと思う。大間原発が市民参加への大きな足がかりであると思えば、市町連の存在も意義深いものになるのではないだろうか。

▼ 前述した大澤氏は、最後にこんなメッセージを発している。「来年は戦後70年だ。従来の日米関係を放棄しうるという前提で行動してみよう。その瞬間、日本人は真に自由になるはずだ」と。

▼不可能を可能にするという発想が望まれ、2015年が歴史に名をとどめる、そんな年にしなければならない。私たち函館市民の戦後70年も、そんな意気込みを持たなければならないようだ。