▼「第100回・日本国総理大臣杯」は、予想通り「キシダフミオー」が優勝した。二頭対決なら「コウノタロー」の目もあったが、4頭立てになった時点で、勝負がついた。
▼所謂「八百長レース」だ。それぞれの厩舎が、同じ党の所属だからだ。長年の競馬愛好者なら
、こんなつまらない勝負はない。命をたぎらせるレースではなかったからだ。
▼優勝馬は引退寸前の馬だったが、それぞれの厩舎のオーナーが手を組んで復活させた。だからコロナ戦争を走れ切れるか、気力と知力が未知数だ。
▼対抗馬だった「コウノタロー」。鼻息だけが荒かったが、途中でコースを間違え失格になった。というのが、競馬好きでもない素人でも予想できるレースだった。
▼次の「第49回衆議院特別レース」も、単調な展開になりそうだというのが、大方の予想だろう。大穴が期待できない、野党厩舎が多いからだ。
▼さて、後味の悪いレースが終わったので、昨夜、故半藤一利著「昭和史をどう生きたか」東京書籍を開いてみた。
▼昭和史に詳しい保坂正康との対談で「沈黙を守る人々」というテーマで、先の戦争で生き残った人物に面会したエピソードが掲載されている。
▼美濃部正は、昭和20年2月の御前会議で公然と特攻作戦に反対した。軍令部の参謀もいる中なので、抗命罪で死刑になるかもしれないと思いながら「私は【死】しかない作戦に、命令ををくだすことはできない」と言い切った。それで美濃部部隊は沖縄の特攻作戦から外された。他部隊からは「勇気がない」と言われたと。
▼美濃部は「なぜあんな愚かな作戦をやってしまったか、そのことをずっと問いかけている。今の日本も経済だけでものを考えるという点で、同じ過ちを犯しているのじゃないか。戦争とはいえ100パーセント死を意味する命令を出す権利は、指揮官と言えども持っていない」と語ったという。
▼美濃部のその記事を読んだ、大企業の役員という人から電話がかかってきた。「ありがとう、よく書いてくれた。美濃部さんは私たちにとって神様のような存在だ」と絶句して、嗚咽を漏らしていた。私も泣かされましたと保坂は言う。
▼吉見信一は、マーシャル群島のウイッゼ島に、警備隊指令として赴任していた。終戦の時は3千名いた守備隊が千数百名になっていた。ほとんどが餓死だ。51歳になってから大学に入り直し医者になった。慶応の医学部に就学し、襟章を外した軍服姿で通学した。卒業して、なりてのないの船医になる。ウォッゼ島の近くを通るたび花束を捧げ、部下の冥福を祈ったという。その後町医となり、91歳まで現役で働いた。半藤の取材だ。
▼この二人の人物から、再び今回の総裁選挙をを振り返ってみたい。と思ったが、戦意喪失した兵隊のようになってしまったので、やめることにした。
▼周囲にふり惑わされず、自分の信念を通すというのは、自民党には期待できない。その間、ただ批判だけに終始していた野党も、さらに国民の期待を失ったことは付け加えておきたい。
▼所謂「八百長レース」だ。それぞれの厩舎が、同じ党の所属だからだ。長年の競馬愛好者なら
、こんなつまらない勝負はない。命をたぎらせるレースではなかったからだ。
▼優勝馬は引退寸前の馬だったが、それぞれの厩舎のオーナーが手を組んで復活させた。だからコロナ戦争を走れ切れるか、気力と知力が未知数だ。
▼対抗馬だった「コウノタロー」。鼻息だけが荒かったが、途中でコースを間違え失格になった。というのが、競馬好きでもない素人でも予想できるレースだった。
▼次の「第49回衆議院特別レース」も、単調な展開になりそうだというのが、大方の予想だろう。大穴が期待できない、野党厩舎が多いからだ。
▼さて、後味の悪いレースが終わったので、昨夜、故半藤一利著「昭和史をどう生きたか」東京書籍を開いてみた。
▼昭和史に詳しい保坂正康との対談で「沈黙を守る人々」というテーマで、先の戦争で生き残った人物に面会したエピソードが掲載されている。
▼美濃部正は、昭和20年2月の御前会議で公然と特攻作戦に反対した。軍令部の参謀もいる中なので、抗命罪で死刑になるかもしれないと思いながら「私は【死】しかない作戦に、命令ををくだすことはできない」と言い切った。それで美濃部部隊は沖縄の特攻作戦から外された。他部隊からは「勇気がない」と言われたと。
▼美濃部は「なぜあんな愚かな作戦をやってしまったか、そのことをずっと問いかけている。今の日本も経済だけでものを考えるという点で、同じ過ちを犯しているのじゃないか。戦争とはいえ100パーセント死を意味する命令を出す権利は、指揮官と言えども持っていない」と語ったという。
▼美濃部のその記事を読んだ、大企業の役員という人から電話がかかってきた。「ありがとう、よく書いてくれた。美濃部さんは私たちにとって神様のような存在だ」と絶句して、嗚咽を漏らしていた。私も泣かされましたと保坂は言う。
▼吉見信一は、マーシャル群島のウイッゼ島に、警備隊指令として赴任していた。終戦の時は3千名いた守備隊が千数百名になっていた。ほとんどが餓死だ。51歳になってから大学に入り直し医者になった。慶応の医学部に就学し、襟章を外した軍服姿で通学した。卒業して、なりてのないの船医になる。ウォッゼ島の近くを通るたび花束を捧げ、部下の冥福を祈ったという。その後町医となり、91歳まで現役で働いた。半藤の取材だ。
▼この二人の人物から、再び今回の総裁選挙をを振り返ってみたい。と思ったが、戦意喪失した兵隊のようになってしまったので、やめることにした。
▼周囲にふり惑わされず、自分の信念を通すというのは、自民党には期待できない。その間、ただ批判だけに終始していた野党も、さらに国民の期待を失ったことは付け加えておきたい。