函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

百年記念塔とウポポイと靖国神社

2024年08月03日 19時42分43秒 | えいこう語る
▼北海道民とは何者かと問われれば、私も胸張って、道民だと主張できる確かな自覚がないことに気付く。

▼そのことを考えれば、自分の中での北海道の歴史は、江戸末期ぐらいからの認識しかない。つまり私の中の北海道は歴史が浅いのだ。

▼道民の多くが自覚する北海道の認識は、北前船の往来以降の歴史から始まっているように思う。それまでは「蝦夷が島」であり‟辺境”という、野生の大地という認識でしかなかったような気がする。

▼「野生の大地」の歴史が究明されていないのが、道民としての自覚が曖昧のように思う。さらに未開の大地の‟開拓”から始まったと意識が強いように思う。

▼それまではアイヌ民族が住む大地だったのだが、明治政府の北方開拓政策により、先住民族の人権を無視した法律を作成し、和人による開拓を推し進める。

▼そういえばウクライナというのは、ロシアの‟辺境”という意味だ。ロシアの侵攻は、ウクライナは元はロシア領だという、そんな歴史的な意識の中で勃発した、領土奪回戦争のようだ。

▼ウクライナ侵攻と北海道開拓は、どこか共通項があるのではないかという思いに駆られる。「侵攻」と「開拓」が同じ意味に感じられるからだ。

▼北海道開拓のシンボルである「百年記念塔」が、老朽化と維持費増大のため解体された。この塔の解体について、道内で大きな動きは見られなった。

▼この塔の意義が、道民の合意の下に建設されたという意識が薄いのもある。先人の血と汗がにじむ北海道開拓により、今の北海道の発展があるというぐらいの、道民の認識だからだ。

▼この開拓のシンボルの解体について、賛意を示したのがアイヌ民族で、反対したのは先人たちの北海道開発の業績を称え続けていく、使命があるという意識を持った人たちだ。

▼さて開拓のシンボルが解体され、同時期に新しく建設されたのが、アイヌ民族を紹介する「ウポポイ=民族共生象徴空間」だ。

▼8月2日の北海道新聞に、ポーランド州立大教授、ケネス・ルオフが、「百年記念塔とウポポイ」『異なる近代の物語を前に』と題し、解説している。

▼ここで百年記念塔を訪れたオーストラリアの旅行者の、書き込みを紹介している。『この記念塔は北海道における文明の確立を祝うものだと書かれているが、これはまさに塔の提供する物語が、なぜ問題になっているのかを示す手掛かりになる』と。

▼塔は想定したより多額の維持費がかかるので、道庁は取り壊しを決めた。これに対し北海道の開拓者とその子孫に対し、礼を欠くという人もいた。

▼ルオフは『アイヌ民族はほとんどの土地を追われ、主に狩猟と採集にかかわる伝統的な生活を維持できなくなり、彼らは同化を強いられ、アイヌの流儀はツアー観光客の見世物として利用されることもあった』という。

▼さらにウポポイを訪れた時に感じたのは「ウポポイの展示などについて、日本近代史の勝利の物語が、多くの面で思慮深く訂正されていると受け取った」との感想を述べている。このような指摘に耳を傾けたい。

▼私も昨年ウポポイを見学した。あまりにも美しい展示様式に‟浄化作用”という感情が先行した。

▼ルオフの解説に同調しながら、百年記念塔に靖国神社を重ねてみた。この二つに共通しているのは、先人たちの偉業に対し礼を持つ心を忘れてはならないということだ。

▼だがこの意識の裏には‟夥しい犠牲”が隠されている。古めかしい言葉でいえば‟祟り”を恐れ、それを封じ込めるための塔であり、神社ではないか。

▼今年靖国神社の宮司に、自衛隊トップの退職者が就任したという。この問題は【憲法改正】と相まって、非常に問題視しなければならない事象だ。

▼【近代化の過程がどれほどの損害をもたらしたにせよ、近代性を放棄しようとする人はいないのではないか。環境を維持するために現在のライフスタイルを修正することが必要だとしても、我々は近代以前のやり方に戻ろうとはしないのではないか。そこの折り合いをどうつけるか、北海道に暮らす人たちが、共に考えてもいい時期がそろそろ来ているのではないか】とルオフは指摘する。

▼百年記念塔・ウポポイ・靖国神社を私は連想したが、さらに縄文世界遺産もそれに付け加えたい。

▼この世界遺産は「共生」がテーマだ。「SDGs」な世界は待ったなしだが、ルオフが最後に指摘した言葉が気にかかる。

▼わずか半世紀前には、快適な夏があった北海道が猛暑に見舞われている。『共に考え、共に生きる』。そこに確かな北海道の未来が待っているような気がする。

パリ五輪下での日本軍拡

2024年07月31日 19時30分13秒 | えいこう語る

▼大勢が立候補した都知事選で、日本型の選挙が変わる様相を示した。さらにパリ五輪が始まり、我が国は「自民党の脱税問題」を忘れてしまいそうな、世情になっている。

▼国民の「熱狂」の中で起きる、人間故の心理作用をコントロールするのは、なかなか難しい。過去に戦争に向かった「群集心理」は、国民の「熱狂」から始まったからだ。

▼だがこの「熱狂」をコントロールできるのも国民だ。この熱狂は全体主義につながる。それを阻止できるのが【民主主義】だ。主権は‟国民”にあるからだ。

▼その「熱狂」の流れをコントロールできなくなった状態を「民主主義」の‟危機”、又は‟劣化”というのではないか。

▼さて世界は戦争が続いている。その中で今の‟パリは燃えている”。日本女子の柔道でまさかの一本負けをした選手が、世界が注目する場所で、大泣きをした。

▼まるで彼女の涙で、セーヌ川を氾濫させるかのように。どの国の選手も、血の出るような努力を重ねている。自分だけがその舞台を独占することは許せない。

▼会場も彼女の涙にエールを送った。そこにある種の‟熱狂”を感じた。負けを認め、人のいないところで泣き叫ぶのが、勝負師の勝負師たる所以ではないかと、昭和の爺は古めかしい考えも去来する。

▼とは言いながら、柔道の切れ技がレスリング化!?していることにも、いささか眉をひそめる。我々昭和世代は、潔い切れのある【一本】が、日本人(昭和人?)の精神に共鳴するからだ。

▼五輪の活躍に胸を打つものがあるが、その陰で我が国の軍拡路線が拡大を示している。7月27日には外務・防衛担当閣僚による「安全保障協議委員会=2プラス2」が、東京で開催された。

▼さらに「核兵器」を含む米国の戦力で、日本への攻撃を思いとどまらせる『拡大抑止』に関する閣僚会議も、東京で開催された。

▼安全保障関係が悪化しているとして「紛争発生を防止するため、拡大抑止に関する議論を深める」ということで一致した。

▼米側は在日米軍を再編し『統合軍司令部』を設けることとし、自衛隊との指揮統制の連携強化を進めることででも、合意したという。

▼核の威嚇を強めるロシア、核戦力を増強する中国、核開発を進める北朝鮮を注視し、抑止力の強化を図ろうという計画だ。

▼つまり三国からの核の脅威に対し、米国の核の参加をさらに強化しようということだ。それではキシダ総理が提唱する『核兵器のない世界』と、逆行する合意だ。

▼米軍が陸海空3自衛隊を一元指揮できる体制を整え、一朝有事には日米が共同で戦闘態勢に入るということを、確約したということのようだ。

▼29日には、中国の南シナ海での進出に、日・米・豪・印各国の強化を図ることも確約された。まさしく「戦争放棄」の日本が、戦争放棄の放棄」を目論んでいる。

▼政治資金の脱税をもうやむやにする、キシダ政権。憲法など、うやむやにしたまま、憲法の実効性を無力化しようという魂胆だ。

▼自衛隊の不祥事が相次ぎ、隊員の大量の処分。さらに沖縄米軍の性的暴行事件の連絡不備などで、外相と防衛相の責任が問題視されている。

▼だがそのことを踏まえ「文民統制」の弱体化が問題視されている。この事象は文民統制上の問題を「自衛隊の体質強化」に、すり替えようとしているのではないかと疑う。

▼もはや米軍は自衛隊を「軍隊」としてみなしているということだ。軍隊には「文民統制」など全く必要ないからだ。戦争状態に入れば「文民統制」など邪魔でしかないからだ。

▼「自衛隊から軍隊へ」。憲法改正しなくても、一朝有事には「集団的自衛権行使」が適用され、自衛隊は一気に軍隊化する。

▼そんな精神の不安定状態に置かれている自衛隊員に、パワハラ、セクハラや、業者からの金品授与などの不祥事が相次いでいる。

▼規律の乱れは、そんな自衛隊内部の精神の不安定がもたらす現象ではないだろうか。それを逆手に国防の不安を仰ぎ自衛隊を強化し、憲法改正前に自衛隊を軍隊化させるのが、現在のキシダ政権ではないか。

▼敵が攻めてくると危機意識を煽り、先制攻撃を仕掛ける。それが戦争開始の常道だというのは歴史が示す事実だ。

▼『パリは燃えている』。我が国の選手たちの活躍には感動を覚える。だがいたずらに国威発揚を煽られるのではなく、冷静な心でパリ五輪を観賞し、キシダ政権の権謀術数にのせられないよう、目を見張らなければならないようだ。

   暑さにも負けぬ丈夫な頭を持つ
               三頭下

都知事選から見る日本の未来

2024年07月26日 08時58分17秒 | えいこう語る

▼北海道の片田舎に住んでいるが、首都東京都知事選はちょっぴり気になる。知事選中に3人の東京都に住んでいる方と話すことができたが、3人とも誰がやっても同じだという。都知事は利権が大きすぎるからだという。

▼田舎おやじの単純な分析では、都は予算が大きすぎるから、それに左右され知事一人では、冷静な判断ができなくなるという意味かと思ったりもする。

▼もしかして「緑の狸」もあきられ「痩せ狐」にかみつかれるかもしれないと思っていたら「狢(むじな)兄貴」がひょっこり現れ、「痩せ狐」を排除した。

▼東京都の森には、小柄だがちょっぴり獰猛な田舎の「むじな」も、潜んでいたようだ。この「むじな」ユーチューブなどの活用で、若者に浸透した。

▼「古狸」は文明の利器を十分に使いこなせないだろうと思っていたが、結構使いこなしたようだ。もしかして、東京五輪で仲間になった「デンツウ」の、協力があったのではないかと、いらぬ妄想も浮かぶ。

▼都庁のプロジェクト・マッピングも「デンツウ」が仕切っているというからだ。この会社には「鬼の十則」という掟がある。

▼その一部を紹介しよう。『取り組んだら放すな。殺されても放すな。目的完遂までは』・『周囲を引きずり廻せ。引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきが出来る』だ。

▼今回の都知事選は、今までにない新たな選挙スタイルが生まれる可能性を感じた。今後は「AI」を 十分に使った選挙が、主流になりそうだからだ。

▼「狢」とは、石丸伸二のことだが、25日の北海道新聞に東工大教授の中島岳志が、その分析を行っている。

▼その中で社会学者の伊藤昌亮は、石丸を「ネオリベラズム(新自由主義)的な『改革保守』のポピュリズム(大衆迎合主義)政治家と指摘する。

▼さらに伊藤は石丸の発するメッセージは『自分を信じて着実に努力し挑戦すれば、自己実現できる』といったニュアンスが強い。これが「自己責任」という人間観が浸透し、内面化している世代にフィットしたという。

▼伊藤はこうも言う。「思い込み」はなぜ浸透するのかというと、それは「自分だけはいつでも変われる」という思い込む中にしか希望が見つからないほど、彼らの展望は閉ざされているからだと指摘する。

▼ここに従来のリベラルが、若い世代に刺さらない要因があると考えなければならない。しかし石丸は自らの正しさを疑わず、上から説教のように話してくる。そんな強者の異議申し立てが「石丸現象」なのだろうという。

▼現職の小池知事は、かろうじてSNSを屈指し、体制を保持した。蓮舫は従来の自民党型の保守体制と同様だと、小池知事を批判したが、まさかの3位に転落した。

▼この選挙結果は、今までと違った新たなポピュリズムを、日本の政治(選挙)システムに導入したという存在を示した。

▼さらに石丸は選挙後、広島選挙区でキシダ総理に挑戦すると、明言した。「石丸現象」は、ただの奇抜な発想ではなく、日本の戦後民主主義体制への、果敢な挑戦と見える。

▼トランプ現象も、米国型民主主義の終末的現象のように思われる。トランプ後の新たな民主主義の構築が、米国にも求められているのだろう。

▼石丸現象も、戦後日本民主主義のひずみがもたらした、現象にも見える。これを現政権がどう評価し取り組むかにより、日本の将来は変わってくるに違いない。

▼つまり、「トランプ現象」も「石丸現象」も、戦後民主主義が新たな展開を迎え始めているということだ。

▼さらに伊藤は【産業構造の変化によって、テクニックさえあれば、自宅で一人で稼ぐことが可能となった。自分さえ利益を得られれば、社会のことは考えなくてもいい。この発想が、ネオリベラリズムと合流し、自己責任論に基づく自己利益の最大追及へとつながる】と指摘する。

▼都知事選後、選挙の総括が定まらないでいたが、中島の『旧世代の‟正しさ”、権威に異議』という論評に、ある一定の納得を得た。

▼中島は最後に【自己責任が内面化された社会で、リベラル派はいかに「再配分」や「セーフティーネット強化」を打ち出せるか。人間観にかかわる問題に着手しなければならない】という指摘が、正鵠を得ているような気がする。

政策評価の在り方を考える

2024年07月23日 15時12分46秒 | えいこう語る
▼「政策評価」などという言葉は、一般的ではない。だが今の日本にとって、最も必要な
要素ではないかと思う。

▼まず驚いたのは「政治資金規正法」だ。自民党の政治パーティーでの、資金運用のあり方は、だれが考えても脱税行為だ。

▼だこのが甘い汁を、まったく手放すことは、他党の勢力を強めることになる。政権与党を長く維持するためには、他の党より‟軍資金”が多くなければならないからだ。

▼【金がなければ戦にならず】だ。だから他の党も、その考えを完全に否定するものではない。もし自分の党が政権与党になったら‟軍資金”は必要だとの、暗黙の了解があるからだ。

▼「政治資金規正法」は、犯罪者そのものの自民党が、賛成多数で押し切った。そんなことがまかり通るのが‟民主主義の劣化”といわれる現在だ。

▼規則を自分流に解釈し、条文に記載されていないから行ってもいいという考え方は、そもそも教育問題に端を発している。

▼こんな体たらくの政権を維持させているのは、国民側にも責任があるからだ。「民主主義の劣化」とは「教育の劣化」ともいえるからだ。

▼哲学者プラトンの「教育とは健全な地域社会と健全な人間形成にある」という言葉が
妙に頭の隅にこびりついているからだ。

▼さらに先輩の哲学者ソクラテスの「教育の精神は批判にある」という言葉もだ。『健全な批判精神なくして、健全な教育は形成されない』という意味だと解釈する。

▼そういえばアベシンゾウ以来の我が国は、政府の行為に対し国民の『健全の批判精神』が発揮されているとは思われない。

▼政権に流され、正確な「政策批判」に欠けているのではないか。「集団的自衛権容認」などというのは、完全なる憲法違反だ。

▼それを容認してしまう社会がある。「敵基地攻撃」などという総理の発言も、現憲法下では考えられない。「違憲発言」だ。

▼そんな軍拡の動きに批判が少なすぎるから、規律正しく国民の味方だと思っていた自衛隊に、不祥事が発生しているのだ。

▼自衛隊は「憲法違反」だという正当な判断が国民から薄れている。それは教育の劣化によるものではないか。

▼教育基本法第1条。【教育は人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として、必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない】。

▼今の我が国の政治は、まったく不健康だ。憲法を改正し、戦争ができる国へと向かっているからだ。それを止められぬ主権者としての国民の教育も不健全そのものではないか。

▼そこで「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第26条(教育に関する事務の管理及び執行の状況の点検及び評価等)ということに注目したい。

▼第1項【教育委員会は、毎年、その権限に属する事務(省略)の管理及び執行の状況について点検及び評価を行い、その結果に関する報告書を作成し、これを議会に提出するとともに、公表しなければならない】。

▼しかし私が参加した函館市教育委員会の会議では、点検及び評価を、教育委員会自らが報告書を作成し、第三者委員会(教育振興審議会)に審議してもらう。

▼この第三者委員会は、教育関係者が多数だ。厳正な批判もなく承認され、議会に提出される。議会もそのような専門家?による報告は、適正とみなし承認する。

▼文科省通達に「学識経験者から意見を徴収する機会などを設けるなど、その教育委員会の判断で適切に運用すること」とある。

▼この法律は戦前、教育に対し国が関与しすぎた反省を踏まえ、戦後は一般からの独立がが図られたものだ。

▼だが次第に教育委員会活動の形骸化との批判を受け、住民代表の議会への報告「点検評価」が定められたものだ。

▼しかし問題がある。自分の仕事を自分たちで点検評価して、果たして正常さを保つことができるかというものだ。

▼それに第三者委員会なるものは、多くが学校関係者だ。多数決では報告書は間違いなく通過する仕組みだ。

▼そこに民主主義の劣化が生じているのは確かだ。だがそこに批判を加える委員はいない。議会も教育問題は専門家でしか理解できないので、教育行政には無批判的に見える。

▼教育は専門家に任せるという、長い間の国民の了解そのものが、真の教育改革を妨げているように思う。いじめ問題がこのような体制下では、絶対解決しないという校長経験者の声もある。

▼そこには長い間「天皇批判」は許されないという、暗黙の国民感情が植え付けられているように思う。

▼その感情を植え付けたのは教育だ。故に教育行政というのも、批判の対象外という国民感情がある。

▼要は「点検評価」に対する『点検評価委員会』が必要だ。脱税を行う議員が、自らを「点検評価」するなんて、公然たる八百長だからだ。

▼そんな仕組みがまかり通る世の中を、正当に【点検評価】するシステムが必要だ。例えば政府の仕事の内容を、日本学術会議が国民に「点検評価報告」をするというようなことだ。

▼学術会議は、戦前科学者たちが戦争に協力したことに対し、反省の上に組織化されたものだ。だから前スガ総理は「憲法改正」に異議を唱える、6人の学術会員の任命を拒否した。

▼アベもスガもキシダも、学術会議の報告書では、△にもならない ✕という評価だ。〇なら、御用学者会議だからだ。

▼函館市ばかりではなく、全国の教育委員会が同じ考えで行っているに違いない。「健全な教育には健全な批判」が必要だ。

▼行き過ぎを正当に批判する「点検評価」の在り方を検討しなければならない。今日のブログは「検察の不祥事」について書く予定だったが、それを忘れてしまった。

▼今日(23日)の北海道新聞社説「検察の取り調べ」『教訓が生かされているか』だ。最後に「検察は起訴を判断する巨大な権限を握る。謙虚な姿勢を常に忘れてはならない」だ。

▼謙虚さは常に背負わなければならない。だが批判精神旺盛なのも、他人からは謙虚さが足りないと思われているかもしれないが。

潔さなど見当たらない日本

2024年07月23日 10時35分15秒 | えいこう語る
▼第二次世界大戦が終了した、1945年8月15日。天皇陛下の一声で、世界最強の帝国軍は武器を放棄した。

▼爾来、日本国は『戦争放棄』を憲法の要とし、一度も他国に侵入したり相手を虐殺することもなく『平和国家』としての信頼を世界に知らしめた。

▼その【潔さ】は、世界に向かって胸を張っていい。海外からの影響を受けた「明治維新」から始まる近代化は『欧米化』でもあった。

▼それまでの長い間、相当いびつではあったが「武士道」という精神が、国民の精神の支柱となっていた。

▼それは大日本帝国憲法により、引き続き国民の中に浸透していた。国民は「潔し」という精神こそ、日本人の証であると信じていた。

▼この頃「潔さ」という精神が、国会議員から消え去ってしまっているのを感じる。「政治資金規正法改正」だ。

▼あれほど「税金泥棒」をしているにもかかわらず、改正法は誰が考えてもザル法だ。そんな法律が通過するほどの、政治の体たらくだ。

▼キシダ政権が目指す『憲法改正』など「潔さ」の欠片もないことを、我々国民は肝に銘ずるべきだ。そうでなければ日本国から「潔さ」が喪失してしまうからだ。

▼政治資金パーティー券の裏金の使い道で「公職選挙法違反」で、議員辞職を余儀なくされているのが、我が北海道選出の元衆議院議員(比例代表道ブロック)の堀井学だ。

▼スケート競技での五輪メダリストだ。その活躍ぶりと真面目そうな面差しは、道民の心に残っている。引退後政界に進出した。

▼今のアイドル出身の議員と同様、社会性に乏しい若者が、いきなり国会議員になれば、周囲に感化され同化されるのが必定だ。

▼堀井はまじめすぎるゆえに、まじめに先輩たちの言動をそっくりまねしてしまったのだ。そんな未熟な青年を、選挙民が一人前に育ててあげれなかったことも問題だ。

▼堀井が辞職すれば、前回の衆議院選での自民党比例名簿に基づき、小選挙区での惜敗率が最も高い候補が繰り上げ当選となる。

▼そこで第一に浮上したのが、落選後に参議員に当選した船橋利実だ。だが船橋は参議員を続ける意向だ。

▼そうなると次に惜敗率が最も高いのが、我が8区で、立憲民主の逢坂誠二に何度も負け、支部長の座から降ろされた前田一男だ。

▼支部長でなければ選挙に出れない仕組みだ。そこで前田は道議戦に変更し当選している。前田は復帰の可能性が出てきたが、すでに支部長となった向山淳(女性)が、8区の衆議員候補となっている。

▼戦闘能力に欠けたのか、前田は道議のままでいいという。そうなると3番目の候補高橋祐介が浮上する。

▼そこまでいけば比例代表制というのも、ダメなものを救済する制度だ。頑張って落ちた者を救う制度とは思われない。

▼そういえば、顔も険しく選挙にめっぽう強い小沢一郎も、比例復活ではないか。戦後政治史に名を残す小沢が、比例復活など‟潔し”とせず、辞職するのが小沢らしさだと思っていた私の、完全なる思い違いだった。

▼政治の世界に思いをはせるのはやめにしよう。私は以前から「政治と大相撲」は、同じ日本の体質を持った存在だと理解していた。

▼清濁併せ呑み‟ごっちゃん”が常態化し、周囲を丸く収める日本の精神を表している体質が、よく似ているからだ。

▼19日の大相撲名古屋場所での、横綱・照富士VS前頭4枚目・宇良の相撲には、久しぶりに感動を覚えた。

▼休場が続き、膝に大きなサポーターを巻き満身創痍の横綱。対する忍者のように土俵を縦横無尽に駆け回る人気の宇良。好取組だ。

▼全勝の横綱に砂をつけるか観客は期待する。技を連発しながら土俵を走り回る宇良を、必死でつかもうとする横綱。

▼最後はがっちりつかんだ横綱に、万歳をされた格好の宇良は、土俵際で全身から力を抜いて、負けを認めた。

▼その瞬間、横綱は宇良の背中を優しくたたいた。「よく頑張った」という、無言の横綱の愛情が見るものに伝わった。

▼それに対し、宇良は何度も横綱に頭を下げた。「相撲を精いっぱい取らせていただき、有難うございました」。

▼私にはそう聞こえた。鬼の形相の横綱・照富士。戦い終えて後輩の健闘をたたえる。そして感謝する宇良。まさしく『潔さ』の極致を見せた。

▼体調を崩し一時は序二段まで陥落し、引退も考えた照富士。親方や周囲からの励ましで、一人横綱を続ける。

▼国技といわれる大相撲。モンゴル出身の横綱が見せた見事な振る舞いに、日本人が忘れた『潔さ』を、久しぶりに見せていただいた。

▼戦後物心ついたころから、大相撲に魅せられて育ってきた。戦後民主主義の良さもそれなりに理解してきた。

▼昨今問題も多い大相撲も、力士一人一人が素晴らしい相撲を見せてくれている。それに比べ、国会議員の質が落ち、政治の凋落ぶりが激しい。

▼政治が国民の大きな拍手を浴びることは、もはや期待できない気がする。ふと思う。日本国民の『真の潔さ』とは【憲法9条】に拍手を送る国民が、増えることではないかと。