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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

底が抜けている

2015年01月31日 11時53分50秒 | えいこう語る

▼イスラム国人質事件が気になる毎日だ。どこへ行ってもこの話題になるが、総じていえば、なぜこんな時期にアベ総理が外遊し、イスラム国と戦う国に対し、2億ドルもの支援をしたかということだ。この支援をきっかけに、我が国もテロへの戦いに参戦するのではないかとの、意見も聞かれる。

▼ 自国が直接攻撃されたなら戦うのもわかるが、人質解放だけで戦争する国になるのは、あまりにも“変”な話だ。人命の問題に“変”とは、非常識ではないかと思われるが、戦いには「切っ掛け」や「大義名分」というものが必要らしい。湯川さんも後藤さんも捕まっていたのを分かっていての、今回のアベ総理の行動。大義名分は「人道支援」で、それを「切っ掛け」にした、新手の戦術ではないかと、繰り返し勘繰りたくもなる。そこまで、アベ総理を批判するのは非常識すぎるといわれるかもしれないが、常識的でない言動が目立つのが、アベ総理だからだ。

▼ 社会学者、宮台慎二著「日本の難点」を読み始めたら、出だしから、どんな社会も「底が抜けて」いる、とある。普通は「底が抜けている」というところで鍵括弧になるが、宮台氏は「底が抜けて」で区切る。いるのか、いないのかは、個人の自覚の問題だというのかもしれないが、これからの内容に期待したい。

▼ 「底が抜けている」ということで考えてみるが、この頃の日本、やはり「底が抜けている」のではないかと思ってきた。底がないから、なんだか真相がつかめないのだ。歯止めが効かないといってもいい。世論を読もうと試みるブログだって、簡潔明瞭に書けばいいのだが、歯止めがかからない。長い文章なんて書きたくないのだが、なんだか、だらだらと続いてしまう。

▼ その理由を、身近に探せば「憲法第九条」だ。九条が戦後、我が国の平和の「底」を支えていたのだ。国体を支えてきたといっても過言ではない。戦後は「九条が国体」だったからだ。それを壊し始めたことで「底が抜けて」来たのだ。九条の底が抜けたことで、我が国は「際限なき曖昧な国」になってきたのだ。つまり、アベ総理は「憲法第九条」に対し、テロ攻撃を仕掛けたのだ。

▼ 世界のテロとは、植民地に勝手に引いた国境を破壊することだ。この国境を自分たちで再構築するのが、テロ集団の最大目的だ。自分たちの国は、自分たちで統治するという強固な意志が、テロという手段なのだ。

▼ 米国に押し付けられた憲法を廃止し、自主憲法制定というのは、つくられた国境を自分たちで線引きするのと同じ発想だ。つまり、集団的自衛権行使を閣議決定するという暴挙は、イスラム国のテロ行為と同等のレベルなのだ。「戦後レジュームの解体」というのは、平和を犯すテロ集団の「大義名分」ではないか。

▼ 第五福竜丸の被爆者の大石さんは「みんなが真剣に考えないから」といった。真剣に考えないから、我が国は「底が抜けてしまった」ようだ。「安心・安全なクリーンエネルギー」。「安心・安全な国家のための集団自衛権行使」など。私たちは「安心・安全」という言葉を、真剣に考えなかったからだ。だから「安心・安全の神話」の底が抜けたのだ。

▼ 翻って、私たち町会活動だ。「安心・安全なまちづくり」がテーマだ。我が国がこんな状態であれば、町会の「安心・安全」という概念も、もっと真剣に考えなければならない時代に突入したようだ。そこで函館市町会連合会の、3月の会長研修会のテーマは「戦後70年・安心・安全なまちづくり」とした。町会としては、ちょっぴり刺激的なテーマなので、意義がある会長もいると思うが、真剣に考えることが、必要だということを強調したい。

▼ 憲法学者の奥平康弘東大名誉教授が亡くなった。函館市出身で「九条の会」の呼びかけ人でもある。呼びかけ人も欠けはじめている。「九条の底」が抜けては、我が国のテロ集団の思う壺になる。・・・ということは、底が抜けても受け皿に壷があれば救われるのではと、一瞬思ったが「思う壷」では救われないのだ。困った世の中だと思いつつ、今日の私のブログも、底が抜けてしまったようだ。


楽しく行こう、北海道知事選

2015年01月30日 10時22分21秒 | えいこう語る

▼富山県出身の元通産官僚、高橋はるみさんを4戦に立候補させるなどとは、道民は思ってもいなかったに違いない。極つまらない考えだが「よそ者に知事を任せる」などというのは、道民としてなんだか情けない気分だからだ。「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の広大な大地から、フロンティア・スピリッツ溢れた、地元出身の知事を出せないのが寂しいというのが、道民の大方の思いだろう。

▼ はるみ知事4戦に待ったをかけたのが、フリー・キャスターの佐藤のりゆきさんだ。テレビに出ていただけあって知名度はあるが、でっかい北海道を任せるには、行政手腕を懸念する声も少なくない。「理想と現実」は違うのではないかというのも、広大な北海道民の素朴な思いだ。でも、いつも笑顔で頑張るはるみ知事、行政手腕はあるのかもしれないが、交代してもらいたいというのが道民の本音だ。はっきり言えば、ちょっぴり飽きが来てしまったのだ。

▼ 2度3度と挑戦者を立てている民主党だが、横綱白鵬と戦う感じで、100%勝てないだろうという対戦相手ばかりだった。人材がいないのか、はるみ知事に尻込みしているのか、戦いが迫っているのに候補者を選定できないのが、いつもの民主党の知事選だ。今回も、2月もすぐ手が届くというのに、のりゆきさんを公認しようとする派と、独自候補を擁立する派との、内部抗争が続いている。もはや、いつもの負けパターンだ。

▼ こうなれば外野から、一つヤジでも飛ばさなければ気がすまなくなる。今回の知事選は「はるみVSのりゆき」しかないのだ。独自候補を立てると、はるみさんへの反対票が2分され、結果的にははるみさんを利することになるのだ。民主党がはるみ知事を支えているというのを、民主党が理解してないのだ。

▼ はるみさんには「よそ者」だとか「飽きが来た」などと失礼なことを言って申し訳ないが、最後の4選目には、新幹線の札幌延伸と引き換えに、大間原発建設・泊原発再稼動・放射性廃棄物の最終処分場への道筋を、はっきり作られてしまうからだ。さらに、冬季オリンピックの招致などという、道民の心が躍る計画などは、北海道の未来が「リトル東京化」してしまう懸念を感じるからだ。

▼ 北海道は、自然環境を守り食糧基地としての生き方が健康的なのだ。「ゆっくり走ろう北海道」「試される大地・北海道」などという、過去のキャッチフレーズを思い出して欲しい。これが健全な北海道の進むべき道なのだ。

▼ まず民主党は、のりゆきさんを候補とし、彼が主張する「反原発」を旗印に掲げ、はるみさんとの一騎打ちに持ち込むことだ。これには道民も、久々の注目対決と期待する。番狂わせが期待できそうだからだ。のりゆきさんが当選した暁には、副知事や、重要ポストに民主党の精鋭を配置し、行政運営をサポートすればいい。もし、のりゆきさんが、2期目もいけそうだったら、それでいい。もし手腕がないと見たら、次の候補を早くから選定することだ。

▼ この戦略にしか、勝機はないはずだ。今のアベ政権下でのはるみ知事の4期目は、北海道にとって非常に危険だからだ。北海道民主党は、今の党本部の意向など無視し、独自路線を歩まなければならない。オカダ代表は、大間建設を続行させた張本人だからだ。

▼ 今日は、道民として、素直な気持ちを吐露してみた。長年親しんだ「はるみスマイル」。スマイルの中に道民は、フロンティア・スピリッツを、忘れかけさせられていたような気がするからだ。春からは新雪に覆われた、新たなゲレンデに挑戦する北海道民であって欲しいと思う。

▼のりゆきさんは、現時点で、北海道の新たな未来を開く唯一の候補なのだ。「乗り雪」・・・なんちゃって。今日は午後から、市町連の総務部の会議がある。たまにはこんなのりで、会議を進めてみようかとも考えている。


人質事件で考える

2015年01月29日 10時55分57秒 | えいこう語る

▼ 私のお寺は浄土宗で開祖は法然聖人だ。その弟分にあたるのが浄土真宗の親鸞聖人で、どちらも本尊は阿弥陀如来だ。阿弥陀(如来・仏)は、西方にある極楽世界を主宰する仏様だ。法然さんは地方豪族の生まれで、幼少期に父親を殺され、周囲から敵討ちをするように言われたが、そんなことをすると、エンドレスになるといい、仏の道に入ったという。「戦争を回避する」その精神を私は尊敬している。

▼ 弟分の親鸞さんの人気は高いようだ。親鸞さんの教えに「悪人正機説」がある。善人は救われるのが当たり前で、悪人こそ往生するにふさわしいという説だ。こうなれば、悪業を行っても救われるというなら、殺された人は成仏できないのではないかと思う。ある哲学者がテレビで「悪人正機説」は、理解できないと話していた。そこで、知り合いの浄土真宗の住職に尋ねると「学べば学ぶほど、よくわからない」という答えが返ってきた。住職は「自分はまだ修業が足りない」と、謙遜したのではないかと、私はそう思った。

▼ というようなことを思い出しながら「イスラム国人質事件」を考えていた。この事件の発端は、アベ総理の「イスラム国と戦う国に対する人道支援で、2億ドルの資金提供」ということから始まった。わざわざ、戦闘地域に出向いてのこの発言は、敵に軍事資金援助を公言したということだ。集団的自衛権行使のための確信犯的発言なのか、それとも独裁的になってきたアベ政権の慢心から出たものなのか、今後の展開を注視したい。

▼ 何の対応策もないまま、湯川さんは殺害された。湯川さんは、軍事に関する会社を経営していたようだ。そんなことなら「仕方がない」というのが、一般的な感情ではないだろうか。後藤さんだけは助けようという声が大きいのも、なんだか湯川さんが可哀そうに思える。その後、身代金ではなく人質交換になって、後藤さんが助かる可能性が少し出てきたようだ。しかし、ヨルダン側は自国の人質を優先したいというのが本音だ。後藤さんは「おじゃま虫」なのだ。そもそも、危険な地域に入ること事態が、迷惑行為なのだから「自己責任論」で、押し切るコイズミさんの方が合理的に見えてくる。

▼ だが、アベさんはコイズミさんの様な冷たい人物には見えないけど、コイズミさんにあこがれているように思える。「言語道断・テロには絶対屈しない」と、ボルテージを上げるところを見ると、以前、総理の座を放棄した後に「コイズミ心臓(シンゾオ)」を移植手術したのかもしれない。

▼ 等と、下らぬことを言っている時間はない。イスラム国を生み出したのは、中東の利権を確保したい欧米列強だといわれている。だが、この事件をきっかけに、我が国が欧米列強の仲間入りをし、世界平和のために戦う国になるということだけは避けなければならない。戦争突入には何かのきっかけが必要だ。「人道支援2億ドル」がそのきっかけであれば、アベ総理は「軍事支援」を「人道支援」と書き換え、第3次世界大戦を誘引しかねない、大ペテン師ではないか。などと、あらぬ妄想が狭い脳裏を駆け巡るのだ。

▼ 混乱を沈めるのは、読書しかない。森達也著「視点をずらす思考術」だ。そこで親鸞の教えについての解説がある。阿弥陀のミダは、測るという意味で、アは反意を表わす接続語。つまり阿弥陀はサンスクリット語で「わからない」と意味を表わしているという。また「真仮偽(しんけぎ)」という言葉も、「真」と「偽」は対立概念だが、その狭間に「仮」を設定したのは「真仮偽」も「曖昧」や「わからない」などの意味を持つのではと、森さんは解説している。

▼ 「曖昧な日本の私」は、大江健三郎氏のノーベル賞でのスピーチだ。その前の受賞者川端康成は「美しい日本の私」というスピーチをしたので、それを受けて、大江氏は「曖昧」としたという。二人の主張を合わせると「美しくて曖昧な日本」だ。我が国はどうやらそんな国になってきたようだ。ということは、今の総理がアベさんというのは、納得できる。

▼ 森氏は世界にはわからないこともある。そのわからなさを仏教は否定しないと述べている。絶対神という概念は、それを信奉する信者の狭義の解釈に違いない。イスラム教であれキリスト教であれ仏教であれ「わからない」というのは共通しているのではないだろうか。私の知り合いの住職は「悪人正機説」を問われ「わからない」といった。それは「わからない」という意味悟っているので、そう言ったに違いないと、今になって思う。

▼聖戦(ジハード)というのは、神が最も嫌う語彙に違いない。お互い「テロへの戦い」と主張するが、その解決には「寛容」が大切だという。その寛容さが、法然上人の心であり「悪人正機説」も寛容さを説いたものではないかと、ふと感じた「よくわからない」今朝の私です。


真剣に考えないから

2015年01月28日 16時03分41秒 | えいこう語る

▼マグロといえば、大間と戸井という地名が先行するが、私の場合は、マグロといえば「マグロ→大間→原発→第五福竜丸→ゴジラ」と連なる。なぜなら、私が住んでいる所は目の前が津軽海峡だからだ。1954年(昭和29年)米国はビキニ環礁で水爆実験を行った。広島原爆の1000倍だというから、開いた口がふさがらない。第五福竜丸は、その海域でマグロ漁をしていて被爆した船だ。

▼ 私が6歳の時だが、漁村に住んでいたので、子供にとってあまり関心を持つ事件ではなかったが、第五福竜丸という船名と、マグロ船だったというのは記憶している。さらにその年は、洞爺丸台風だったので、実体験の恐怖の年として、洞爺丸と第五福竜丸が、共に船の名が付いていたので記憶に残ったのだろう。この事件をきっかけに、放射能を浴び巨大化したゴジラの映画がつくられたというのも、記憶の大きな要因だ。

▼ 田舎の映画館。筵が敷いている座席のいちばん前で画面にかぶりつく。ゴジラがあのテーマ音楽にのって海から現れる。子供たちは思わずのけぞったものだ。どれほどゴジラの出現の場面を、夢で見たか知れない。水平線を眺めているだけで、ゴジラを連想するくらいだったからだ。

▼ 相変わらず前置きは長くなったが、昨夜、第五福竜丸展示館の学芸員である、市田真里さんの講演会に出席した。

学芸員とは、単なる歴史の事実を忠実に伝える仕事ではなく、その背景にある、隠された事実を解明し、それを後世に伝える役割だということを実感した講義だった。

▼当時、原爆マグロで価格が暴落し魚が売れなかったのは言うまでもない。その頃に、魚肉ソーセージが大ヒットしたのだ。私たちも子供時代随分食べた。安いマグロを買い上げたのが“東洋水産”や“マルハ・ニチロ”だという。その頃の欧米列強の世界中での核実験は、相当な数だ。地球が放射能汚染に晒されたのだ。

▼ アイゼンハワー大統領の国連演説「原子力の平和利用」の呼びかけで、原子力発電所の開発が進められる。札幌の「マルイ・今井デパート」で「誰にもわかる原子力展」を開催したという新聞記事も見せてもらった。我が国の原発推進の立役者は、読売新聞社主の正力松太郎だが、メディアばかりではなく、デパートまで国策に協力していたというのは驚きだ。

▼ 先日、函館市内のこのデパートの前で「大間原発建設反対署名」を行ったが「丸井さん」と、さん付けで函館市民に親しまれたデパートの歴史の一端を垣間見たのは、ちょっと刺激的だった。私はこのデパートの、昔からのこのセールス・ポイントが好きだ。「贈り物に真心を込めて」だ。この名誉回復?のため「大間原発反対・福島第一原発事故の真相展」など、開催してもらいたいものである。

▼ 2時間近くの講演は、内容が充実したものだった。終了後感想を聞かれ私はこう答えた。「今晩、酒を飲む予定だったが、この講演は数百冊の本を読んだ気持ちだ。一番心に残った言葉は、第五福竜丸の乗組員、大石さんの言葉だ。全国各地での講演の中で“原発は事故が起きると原爆と同じだというが、それを『みんなが真剣に考えないから』と」。

▼学芸員の市田さんも、大石さんの講演を聞いていたそうだ。その2週間後、福島第一原発が爆発したという。


絆について考える

2015年01月25日 12時26分16秒 | えいこう語る

▼ 「絆」という言葉が、突然、日本中を席巻したのは、3:11東日本大震災からだ。地震による津波の脅威は、地デジになったばかりのテレビの大画面を通し、茶の間にいながらにして、自らも被災したごとく、国民すべてが大きな衝撃を受けた。だが、その直後、福島第一原発の爆発に、国民は、一斉に国家への不信感をあらわにした。

▼ 未曾有の災害からの復興には、国民の心を一つにすることが肝要だ。政府の広報は「絆」をテーマに、金子みすずの詩をテレビで流し、人心不安の解消を図る。同時に、原発事故の極端な危険性の緩和も兼ねてだ。メディアを利用した国家復興大作戦だ。しかし、このように前向きに進むものに対し、物事を斜めに見るのは好ましくないが、「絆プロジェクト」なるものが、私の心に響いてこなかったのは、国家主導の復興劇に、メディアの果たす役割が非常に大だということを感じたからだ。なぜそう感じるかというと、私は国家とメディアが手を組む時「大本営発表」という言葉を思い出すからだ。

▼ そんな復興プロジェクトの中に、♪「花は咲く」という歌がある。この歌が復興のシンボルであり、戦時下での軍歌のようなものではないかと、思わないわけではないが、今でもこの歌が流れると、胸にこみ上がるものを感じる。でも、詩も歌も、心の琴線を震わせ、同じ意識に向わせるには、効果的であるという事実を改めて実感する。というような私の、先天性の天邪鬼的発想で、国家主導の「絆」という言葉に、少なからずの違和感を持ち続けてきたのだ。

▼ 昨日の土曜、函館市内の繁華街で函館市町会連合会が、2回目の「大間原発建設反対」の署名活動を実施した。市町連の役員たちは高齢だ。寒さも厳しいので協力者は少ないと思っていたが、50人近く集合してくれた。前回と合わせれば100名の協力者だ。安心・安全なまちづくりをめざす町会役員の、熱意が伝わって来る。今回は「大間原発反対」と書かれた、幟を30枚掲げての、老体に鞭を打つような、勇ましい署名活動だ。

▼ 私はマイクを持ち連呼していたが、参加者の一人が私にこう伝えてくれた。「ある会長が、署名簿を持ち、歩いている人にボールペンを渡し、たくさんの書名をもらっていた。書いてくれた人には丁寧に頭を下げ、その姿にとても好感を持った」という。それを横で見ていたある会長が「彼がこんなに熱心だとは思わなかった」といったそうだ。

▼ 私はその二人の会長をよく知っている。普段、意見が合わない。だが、同じ行事に参加し、本人の思いがけない人柄を発見したのだ。実は、私の原発反対に対する意見に異論を唱える会長も少なくない。しかし、書名活動には協力的で、街頭に参加してきた方もいる。「わざわざすいません」というと「やることはやらなければならない」と、笑顔を見せた。183町会、人物も意見も様々だが「安心・安全なまちづくり」ということで「絆」が着実に深まっていくということを実感した。

▼ さらに、新聞の記事に驚いた。新年に巨大な生け花を作成することで有名な、函館市内の住職の談話だ。「福島原発の事故で拡散した放射性物質は、土壌や水だけではなく、森や生きものも汚染した。仏教では生き物は平等である。大間原発反対の気持ちをこめ、花を生けた」と語り、「函館市町会連合会が集める署名に協力するため、檀信徒650世帯に署名用紙を送った」とあった。

▼ 市町連では、政党色の強い団体や、あまり名前の知らない団体との連携は、よそうという意見もあるが、市民一丸となって取り組まなければならないので、オープンにというのが私の意見だ。生け花の住職のお寺は法華宗で、私の村は「椴法華」だ。村名の由来はもちろん法華宗に縁がある。そのつながりで「絆」ができたのかとも、ふと思う。

▼戦後70年の今年。町会の「安心・安全なまちづくり」にも、大きな変化が期待されそうな気がする。その変化に「絆」という、市民の自発的な心のつながりが、必要なのではないかと考えさせられた、大間原発反対の町会連合会の、書名活動の一端でした。