▼イスラム国人質事件が気になる毎日だ。どこへ行ってもこの話題になるが、総じていえば、なぜこんな時期にアベ総理が外遊し、イスラム国と戦う国に対し、2億ドルもの支援をしたかということだ。この支援をきっかけに、我が国もテロへの戦いに参戦するのではないかとの、意見も聞かれる。
▼ 自国が直接攻撃されたなら戦うのもわかるが、人質解放だけで戦争する国になるのは、あまりにも“変”な話だ。人命の問題に“変”とは、非常識ではないかと思われるが、戦いには「切っ掛け」や「大義名分」というものが必要らしい。湯川さんも後藤さんも捕まっていたのを分かっていての、今回のアベ総理の行動。大義名分は「人道支援」で、それを「切っ掛け」にした、新手の戦術ではないかと、繰り返し勘繰りたくもなる。そこまで、アベ総理を批判するのは非常識すぎるといわれるかもしれないが、常識的でない言動が目立つのが、アベ総理だからだ。
▼ 社会学者、宮台慎二著「日本の難点」を読み始めたら、出だしから、どんな社会も「底が抜けて」いる、とある。普通は「底が抜けている」というところで鍵括弧になるが、宮台氏は「底が抜けて」で区切る。いるのか、いないのかは、個人の自覚の問題だというのかもしれないが、これからの内容に期待したい。
▼ 「底が抜けている」ということで考えてみるが、この頃の日本、やはり「底が抜けている」のではないかと思ってきた。底がないから、なんだか真相がつかめないのだ。歯止めが効かないといってもいい。世論を読もうと試みるブログだって、簡潔明瞭に書けばいいのだが、歯止めがかからない。長い文章なんて書きたくないのだが、なんだか、だらだらと続いてしまう。
▼ その理由を、身近に探せば「憲法第九条」だ。九条が戦後、我が国の平和の「底」を支えていたのだ。国体を支えてきたといっても過言ではない。戦後は「九条が国体」だったからだ。それを壊し始めたことで「底が抜けて」来たのだ。九条の底が抜けたことで、我が国は「際限なき曖昧な国」になってきたのだ。つまり、アベ総理は「憲法第九条」に対し、テロ攻撃を仕掛けたのだ。
▼ 世界のテロとは、植民地に勝手に引いた国境を破壊することだ。この国境を自分たちで再構築するのが、テロ集団の最大目的だ。自分たちの国は、自分たちで統治するという強固な意志が、テロという手段なのだ。
▼ 米国に押し付けられた憲法を廃止し、自主憲法制定というのは、つくられた国境を自分たちで線引きするのと同じ発想だ。つまり、集団的自衛権行使を閣議決定するという暴挙は、イスラム国のテロ行為と同等のレベルなのだ。「戦後レジュームの解体」というのは、平和を犯すテロ集団の「大義名分」ではないか。
▼ 第五福竜丸の被爆者の大石さんは「みんなが真剣に考えないから」といった。真剣に考えないから、我が国は「底が抜けてしまった」ようだ。「安心・安全なクリーンエネルギー」。「安心・安全な国家のための集団自衛権行使」など。私たちは「安心・安全」という言葉を、真剣に考えなかったからだ。だから「安心・安全の神話」の底が抜けたのだ。
▼ 翻って、私たち町会活動だ。「安心・安全なまちづくり」がテーマだ。我が国がこんな状態であれば、町会の「安心・安全」という概念も、もっと真剣に考えなければならない時代に突入したようだ。そこで函館市町会連合会の、3月の会長研修会のテーマは「戦後70年・安心・安全なまちづくり」とした。町会としては、ちょっぴり刺激的なテーマなので、意義がある会長もいると思うが、真剣に考えることが、必要だということを強調したい。
▼ 憲法学者の奥平康弘東大名誉教授が亡くなった。函館市出身で「九条の会」の呼びかけ人でもある。呼びかけ人も欠けはじめている。「九条の底」が抜けては、我が国のテロ集団の思う壺になる。・・・ということは、底が抜けても受け皿に壷があれば救われるのではと、一瞬思ったが「思う壷」では救われないのだ。困った世の中だと思いつつ、今日の私のブログも、底が抜けてしまったようだ。