函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

思慮浅き日本の思慮浅き私

2016年02月29日 16時15分38秒 | えいこう語る

 

人間が侵す犯罪で、地上最悪なものは戦争だというのを知ることが出来るのは、第2次世界大戦だ。ナチスと大日本帝国の行為は、悪魔そのものだったのではないかと、世界は認識している。だが、白旗寸前の我が国に、原爆を2発も落とした米国こそ『キング・オブ・悪魔』に違いない。だが米国は勝者だ。同じ戦いでも、スポーツは終了すれば平等になるが、戦争はそうはいかない。敗者には、制限された人権ぐらいは保障されるが、属国として生きることを強要されるのが落ちだ。

だが、いつまでも属国としての不名誉に甘んじてはならいと思う感情が、愛国心なのだろう。愛国心といえば右翼の方の専売特許と思われがちだが、愛国心は誰にでもある。国を愛する心は、故郷の自然やそこに住む人間の営みにより醸成されるもので、誰かに強制されて生ずるものではない。

海や山や川との会話で、子供の心に故郷を、そして、日本を愛する心を育んできたというのは、戦前そして戦後を過ぎて、どのくらいの間、国民に共有されていた、愛国の感情なのだろうか。団塊世代の私の感覚では、1964年(昭和39年)に東京五輪が開催され、国民全員が新幹線に乗って、故郷の原風景を置き去りにしたあの頃が、国民の自然発生的愛国心の喪失が始まったのではないかと考えている。

それとは別に、占領下での「民主主義」「人権主義」「平等主義」「平和主義」の4大主義の徹底により、愛国精神まで骨抜きにされたという見方もある。白川敬裕著「憲法がヤバイ」には、自民党改正草案にも「個人主義」の助長を抑えるための条文が記載されているという。改正草案の本質は「国民が自助、共助の精神を持ち、基本的人権を尊重し、和を尊び、社会全体で互いに助けあうこと」だと解説し、愛国精神の復活をめざしているのも伺える。

属国からの自立が、自民党の改正草案ならまだしも理解を示すことができるが「属国から同化」へという「日米国」の建設に向け、準備がなされているのではないかと感じてくるこの頃だ。日米国とは、日本と米国が軍事力で合体し、世界の経済まで支配しようというのが、私が推測する「日米国」だ。

2月29日北海道新聞「言葉で読む」欄からだ。2014年、武器輸出を原則禁じた「武器輸出三原則」を撤廃し「防衛装備移転三原則」を閣議決定した。防衛装備なる言葉は、武器という言葉を捨て多様に見せかける、まやかしだろう。当時、極端に野党の反対が無いように感じたのは、武器の輸出は我が国の経済を活性化するという与野党の共通した考えが根底にあったからだろう。その後、アベ総理が豪州へ外遊し、日豪共同の潜水艦開発を発表したのは驚いた。それも12隻を新造し、総額4兆円というから世界最高のセールスマンだ。

そこに米国が開発する戦闘システムを搭載する予定だという。中国が東シナ海にに軍事基地を構築しているので、日米豪による、中国封鎖作戦だろう。それに、先日、ゼロ戦の三菱が、ステレス型戦闘機を発表した。中東情勢の悪化で、フランスの戦闘機が売れ始め、雇用も増えているという報告もある。次は外遊と称し「零式ステレス戦闘機」を、武器産業界のトップと共に、中東にセールスに行くアベ総理の日程が、計画されているのかもしれない。

保坂正康と半藤利一共著「昭和を点検する」に、第1次大戦後の戦争を分析した次の言葉がある。「戦争とは軍隊だけの戦いではない。勝利のためには軍事力という以上の総合的な生産力、科学技術力、ひいては教育や文化力による、国民の士気の向上にいたるまで、国家の総力を動員する必要がある」という。アベ総理の安保関連法案の真意は、そこにあるのではないだろうか。教育現場での「道徳の教科化」や、総務大臣の「政府批判の放送会社の電波を止める」発言は、その特質が表面化したものだろう。

さらに、軍隊の本質というものに触れ、軍部自らが「統帥権干犯」をなす存在だとも指摘する。満州に勢力を拡大する軍部を諌めようとしていた天皇に対し、石原莞爾、板垣征四郎の関東軍幹部は、天皇を意見を無視したのだ。軍の刑法に照らせば死刑に値するが、新しい満州国という国家を、あっという間につくってしまう大成功を収めたので、国民はバンザイで彼らの凱旋を歓迎した。結果オーライという感じだ。

アベ総理も関東軍幹部と同じ考えにあるのではないだろうか。原発も潜水艦も、戦闘機も海外に売り込む。結果・日本経済が立て直れば、オーライだろうと。世界一優秀な種子島ロケットだって、売り込めば最高性能のミサイルだ。外貨を稼ぐには軍事産業の育成が今後ますます必要になる。高額なセールスに対する対価は、豊富な政治献金となって戻ってくる。アベ総理の顔にはそう書いているような気がしてならない。

明治維新の大立役者といわれる、山岡鉄舟の言葉だ。維新後華族に列せられると「食ふて寝て働きせぬ後褒美に蚊族(華族)となりて、亦も血を吸ふ」と詠んだという。今の政治家(蚊)にきかせたい言葉だ。

「思慮浅き総理の下に思慮浅き我れあり」。アベ政権の独裁的政治手法を憂う、今日も変わらぬ私だ。


自民党憲法詐欺

2016年02月27日 11時49分27秒 | えいこう語る

 

「戦争という惨めな時代を再来させないために、9条があり、そのことによって、13条の個人の尊重・幸福の追求の権利が保障される。というが、その13条を保障するためには、軍事力を強化しなければならないという逆説理論で、9条そのものを空洞化しようとする動きがある」と指摘するのは、弁護士の内田雅敏さんだ。内田さんは「戦争をさせない1000人委員会」のメンバーだ。

私も含め多くの国民は、9条が変えられることを心配している。だが9条は、日本国憲法が世界に誇れる、最優秀条項だ。世界から悪魔と恐れられた、ナチスと大日本帝国軍。戦争をしないと世界に宣言した9条は、そう簡単には変えることは出来ないはずである。

そこで13条を保障するためには、9条を変えなければならないと、矛先を13条に向け、13条の空洞化作戦にでたようだ。手を変え品を変え、ああ言えばこうの、新手のオレオレ詐欺と同様の手口ではないか。弁護士の白川敬裕著「憲法がヤバイ」でも、自民党憲法改正草案13条のほうが、よっぽどヤバイのではないかと、内田さんと同様の指摘をしている。

現13条。「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。

自民改正草案13条。「すべての国民は、として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない」。

個人と置き換えたのは、戦後の個人主義の助長を抑えるため改めたと、自民党の説明にある。公共の福祉に反しない限りが、公益及び公の秩序に反しない限りと置き換えたのは、基本的人権が国家(公)により、制限を加えられていることを意味するのではないだろうか。だが、基本的人権を尊重するのは国民ではなく国家なのだ。

そもそも憲法とは「国民の権利、自由を守るために、国家権力を縛る」ということだ。それが国民主権で立憲主義の本質なのだ。自民草案は、憲法が現在に適応できなくなったから、改正するというのではなく、根本から改竄するという、民主主義を解体しようという犯罪的意図が見受けれる。自分たちに都合が悪くなるので、隠蔽や改ざんするというのは、原発組織と同様ではないか。

自民党の改憲意図は、13条を蔑(ないがし)ろにし、9条を空洞化に持ち込むという、姑息な心理作戦なのだ。我が国の多くの憲法学者が、アベ総理の憲法解釈を憲法違反だと断言する理由が、ここではっきりしてきたようだ。

最後にもうひとつ。自民草案には、97条が改正ではなく、削除されているという。日本国憲法第97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことの出来ない永久の権利として信託されたものである」。

もうすぐ3月だ。ウニ漁が終了し、前浜では甘海老漁が解禁になり、間引きコンブ漁も始まる。周囲の山々は雪に覆われているが、乾燥された昆布の甘い香りの風が、村中にそよぎ、春は一足先に北海道南端の我が村にやって来る。毎年変わらぬ思いだが、平和で幸せだなということを、立ち止まって感じることが出来る季節だ。

冬の閑漁期に、少しは憲法について勉強してみた。思いはたくさんあるが、憲法第97条を削除する「アベ政治を許さない」というのが、日本国民としての、私のささやかな矜持だ。


歌は心で選ぶ

2016年02月26日 11時33分01秒 | えいこう語る

 

今読んでいる本は、自民党の憲法改正草案と現憲法との比較の、白川敬裕著「憲法がヤバい」だ。読後の感想をまとめるのもいいが、憲法ともなるとそれぞれの条文について、集中的に理解していくのが必要と思う。そこで今日は、私たちに身近な「国歌」についてだ。1880年(明治13年)、法律には定めなかったが、国歌として採用された。法制化されたのは1999年(平成11年)だ。当時の野中官房長官は「学校現場での強制はしない」と明言したが、従わない教師への罰則や校長の自殺など、たかが歌だが、やはり国歌かというほど、問題が絶えない。

まずは自民党の改正草案の前文だ。「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって・・・」とある。さらに第3条1項「国旗は日章旗とし、国家は君が代とする」2項「日本国民は、国旗および国歌を尊重しなければならない」とある。歌というのは「好きか嫌いか」ではないだろうか。歌詞やメロディーが自分の心の琴線を震わせた時「好きな歌」になるのだ。また年齢を重ねることで物事の解釈にも深みが出れば、好きな歌も変わってくるというのが自然だ。

それが自民党案では「国歌を尊重しなければならない」である。その根底には前文の「我が国が天皇を戴く国家」という規定が、強制化を帯びさせ、国歌を尊重しなければならないと続いているのではないだろうか。国歌である「君が代」は、明治の採用以来、天皇を崇拝する歌として国民が馴染んできたものだ。戦後生まれの私でも、そうだと思っているので、私は君が代は、伝統ある天皇家の「皇歌」として捉えている。平和を熱望する現天皇の言動に共感を覚えるので、天皇を称える歌としての「君が代」は現時点では好きだ。

「君が代」が好きなのは、私の心の問題だ。人が嫌だと思う歌を尊重せよと強制することなど、あってはならないことだ。自分が好きな人と別れて、親が決めた人と結婚させられるのと同じだからである。このように個人を守ってくれているのが、現憲法第13条「すべての国民は、個人として尊重される・・・」だ。だが、自民党案の一番危険なのは、この第13条の改正をターゲットにしていることのようだ。まだ本を読み終えていないので、今日はこの条文に触れないことにする。

話題を変える。昨年、大間原発反対集会を函館市町会連合会が主催した。講演の最後で、福島のことを忘れてはならないと、全員で「花は咲く」を歌うことに決定していた。だが福島原発事故に詳しいある方から、東日本大震災と原発事故の被災者は、この歌が嫌いな人が多いので、やめたほうがいいという意見をいただいた。そこで歌詞を確認してみた。

♪「真っ白な雪道に春風が香る 私はなつかしいあの街を思い出す 叶えたい夢もあった変わりたい自分もいた 今はただなつかしいあの人を思い出す 夜空の向こうの朝の気配に 私はなつかしいあの日を思い出す 傷ついて傷つけて報われずに泣いたりして 今はただ愛しい人を思い出す・・・花は花は花は咲く私は何を残しただろう」♪

私はこの歌詞を改めて読んで、この歌の合唱を中止した。私は普段この歌を聞くと、被災者に思いを馳せ涙がこみ上げてくる。だが被災者にとって、この歌がどれほど心に重くのしかかるのかなど、予想だにしなかった。たとえ国歌であろうと、尊重を強要し斉唱を強制するなどあってはならない。

「歌は心で選ぶ」。歌の好きな私は、たとえ国歌であろうとも、歴史的背景や自分の信条から考え、歌うか歌わないかは個人の自由にしてほしいと思う。国家がでしゃばって、いいことがないとして成立したのが現憲法だということを思い出した、自民党憲法改正草案である。


嘘も生成する原子力発電所

2016年02月25日 13時50分27秒 | えいこう語る

 

原子力発電所で電力をつくる過程で、高レベル廃棄物が生まれる。そこには、地上最強の猛毒と言われるプルトニウムが含まれている。だが、原発でのプルトニウムは測定可能だが、電力と同時に、測定不能な「嘘」という人為的高レベル廃棄物も含まれているのだ。

嘘というのは、何でも知っている人はだまされにくいが、一般的には物事をよく知らない人がだまされる。原子力について、一般の人で知識を持っている人はほとんどいない。だが、広島に落とされた原爆がウラニウムで、長崎はプルトニウムだということぐらいは知っている。だから、原発は危険だぐらいは国民も思っている。しかし、原子力の専門家や電力会社や国までもが、原発を推進する立場から「安全・安心」だと太鼓判を押してきたので、私たちは、福島第一原発事故まで、まんまとだまされていたのだ。

とはいうが、原発は嘘が多いというのは気付いていたのだ。電力会社の隠蔽体質なども、報道で知っていた。東海村での事故では、2人が被曝して死んだのも記憶にある。それでも原発に反対できなかったのは、大きな事故が起きなかったからだ。だが、福島の爆発をみて「広島と長崎」の原爆投下を思い出した人は多いと思う。しかし、事故後、環境への放射線汚染が少なくなったことと、アベ総理が世界に向かって「収束宣言」した時は、もしかして、大丈夫なのかなという気持ちも少しはあった。早く安全になってほしいという気持ちが、嘘だと断定できなかったのだ。

今日(25日)の北海道新聞に、事故後4日目で、東電本社が管理していた原子力災害対策マニュアルには、炉心損傷割合が5%をこえれば「炉心溶融=メルトダウン」と明記されていたが、その情報は社内で情報共有されていなかったため「炉心損傷」としか発表されていなかったという。その事実を、事故から5年経とうとする今になって、発表したというから開いた口が塞がらない。

マニュアルができていても、それを活用しないというのは、原発の安全神話が崩れるのを恐れたためだ。原発推進には膨大なお金が動き、その利権の確保のためには、確かな情報を公開することは出来ないからだ。原発推進派には、戦前の大本営発表と同じ,隠蔽体質が存在しているのだ。「5%の損傷でメルトダウン」。専門家であれば、頭から離れられない数字だ。決して忘れることなど出来ないのだ。

メルトダウンは、釜に穴が開き地下に漏れるのだ。漏れた放射性物質は地下水と混ざり、海に放出されると甚大な被害につながる。それを、今になって350億円も使い、凍土の遮蔽壁を設けるという程度の対応だ。それとて完全ではない。メルトダウンというのは、原発は作ってならない、再稼働などしてはいけないという重大事故なのだ。

我が国が戦後経済復興をするためには、原発による電力確保は最重点課題だった。少しぐらいの事故は隠蔽しようというのは、原発推進派の暗黙の了解なのだ。国民は原子力による電力には知識もなかったのを幸いに、安全・安心であるということしか教えず、しかも、いずれは電気料金がタダになるとまで宣伝した。原作者の手塚治虫さんの「漫画・鉄腕アトム」が、時代の流れの中でその安全神話の一翼を担ったというのは、歴史の悪戯なのだろうか。戦後、生活を維持するために最も必要だったのが食料と電力だった。国力を回復するためには、エネルギーを必要としたのが「原子力村」という、嘘を付くのが当たり前という「錬金村」を作ったのだろう。

そんな嘘付き体質は原発だけではなかった。電力にはやはり嘘が混じっていたというのが、2月25日の北海道新聞朝刊の一面記事だ。大手電力会社以外で電気を販売する日本ロジック(本社東京)という会社が、安売りで顧客を伸ばしていたが、資金繰りが厳しく、事業者登録を取り下げたという。なんとこの会社、2014年3月期には4億円だったのが、16年の3月期には150倍の600億円を超える収入だという。なんでこんなでたらめな結果になるのか、やはり、電力自体に嘘という元素が含まれているからではないだろうか。

この「嘘」という元素、実は半減期が一番長い元素なのかもしれない。それでも国は、実験炉の実績もないのに、世界初のフルMOX燃料を燃やす大間原発をつくるのを認めている。その会社は、なんと原発が初めてという会社だ。それでは、日本ロジックと似たような、嘘つき会社なのではないだろうか。世界最高規準と豪語する、日本原子力規制委員会の「世界最高」という言葉にも、嘘がこびりついているような気がしてくる。

今思い出したのだが「総括原価方式」だ。嘘つき電力会社が使うお金を、すべて消費者が賄っていたということを知った時は驚いた。さらに事故を起こした東電が、黒字というのも驚いた。それでも私たち国民はなんの抵抗も出来ない。そんな国民だから、安保関連法案など、いとも簡単に成立させられてしまうのだ。

今日の結論がなかなか出てこない。ただ、片田舎のおじさんでしかいない私の抵抗は、アベ政権を交代させることと、大間原発の建設は認めないということの、2点だということを確認した、2016年2月25日のえらくシバレル朝だ。今日は、私の妻の誕生日なので?、少し力が入ってしまった次第です。


憲法改正を考える

2016年02月23日 11時54分17秒 | えいこう語る

 

1947年5月3日施行の日本国憲法。GHQによリ1周間足らずで作られた英文をそのまま訳した「押し付け憲法」であると主張したのは「自主憲法期成議員同盟」の会長だった、元首相でA級戦犯の岸信介だ。さらに「植民地憲法」とも呼んでいたようだ。岸は、日米安保条約を結んだが、その目論見には、いずれ、自主憲法を作成し、自衛隊を米軍並みの国防軍にしようという、国家再生計画があったのではないだろうか。

改憲を主張するアベ総理は、祖父である岸の意志を継ぐのが、総理としての自分の使命だと過信しているのだろう。憲法改正を主張する人たちには、先の戦争を、日本国民は「自虐史観」で考えることを、GHQに徹底洗脳されたからだという。沖縄戦、東京大空襲、広島、長崎の原爆投下での米軍の虐殺を、なぜ糾弾しないのかとも言う。東京裁判は、戦勝国による不公平裁判とも主張するが、今の日本が、米国にそれを主張出来るはずはない。そもそも、自国の権益を主張しあうことが、軍事力の出動をバックに大量虐殺に走るからである。

その結果を踏まえ、成立したのが日本国憲法ではないか。村上義雄著「朝日ジャーナル・現代を撃つ」に、憲法が出来た当時の状況について、歴史学者の色川大吉氏の解説がある。GHQが憲法草案作成に着手していた時、憲法学者の鈴木安蔵ら7人の憲法研究会メンバーが、すでに動いていたことをGHQ民政局で憲法起草にあたっていたマイロ・ラウエルが知り、鈴木さんらの草案を参考にしたという。その内容はここに記さないが、天皇の存在も「天皇ハ国民ノ委任ニヨリ専ラ国家的儀礼ヲ司ル」とあるように、現憲法に十分反映されている内容であった。

鈴木さんらの憲法草案は新聞に大きく出たため、天皇批判も公然と起きた。だが、当時の東久邇内閣には、戦時中の指導者がそのまま残っていたので、占領軍の圧迫の方がましだという気分があったという。それでも、当時民間の憲法草案は13種類もでているので、憲法については意見が自由に述べられたということになる。ただ、憲法を速やかに作成するためにGHQは、天皇制とか国体護持をめぐる日本の内的な要因を計算に入れておかないと、早期作成は出来ないと考えていたようだ。

マイロ・ラウエルのノートには、日本人による草案を評価した内容があるという。占領下であるので、日本政府が押し付けられたというのは確かだろうが、GHQ草案の起草過程で、民間の考えとか世論の反映とかが認められているのが現憲法だ。焼け野原の日本で、当時、第九条の戦争放棄の条文など、どれほどの日本人が胸を熱くしたかは、想像に難くない。『現憲法は成立事情の特殊性は考慮しても、そのなかに日本の民主主義の人民の伝統が生かされている。それらをさらに発展させなきゃいけないと思う』と、色川さんは結んでいる。

A級戦犯の岸さんは釈放され、総理となり日米安保条約を提携した。それが、自衛隊を国防軍にし、憲法改正を声高に叫ぶ孫のアベ総理に受け継がれた。もし、岸さんがA級戦犯で処刑されていたなら、我が国の戦後はどのようであっただろうか。岸さんを釈放し総理にしたのも、もしかして、いずれは日本に軍隊を保有させ、最前線で活躍してもらうたの、GHQの戦後処理政策の一環なのかもしれないと疑いたくもなる。

歴史の転換点は周到に用意されているのだろう。私たち戦後世代も、のんびりと平和を享受してきた。だが、目の前に憲法改正という、少なくとも戦争を出来る国にしようという転換点が迫っているのを肌身に感じている。憲法制定前年の1946年、日本各地で勉強会が開かれ、民間人による独自の憲法草案が多数提出されたという。それに比べれば今はそんな状況にはない。

憲法制定から69年目を迎える今年だが、我が国の立憲主義と民主主義は、どれほどの成熟を見せているのか、世論調査で掌握してみてはいかがだろうか。今年は申年である。先の戦争はわずか71年前に終了し、2000万人以上の犠牲者を出した。そのことへの反省を忘れては、日本国民は「サル以下」といわれても仕方ないであろう。