「けち」とは、心が狭くくだらないさまをいう。けちを付けるといえば、縁起が悪くなることをあえて言ったり、欠点をあげて相手をけなしたりすることだ。こんな人物は周囲から嫌われるのが相場だ。だが人間誰しもそんな傾向は心の隅の持っている。相手より自分の意見が優位だと思いたいから、たまにけちを付けたくもなるのだ。
▼私の心の片隅に潜んでいるけちさが、もろに表面化したのが今朝の新聞の折り込みチラシだ。函館市の対岸大間町で毎年9月と10月の日曜日に開催されている「マグロの祭典」だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/d6/6748d071e3f8db2ccfaee1a67bb05df0.jpg)
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▼『いよいよ大間はマグロシーズン本格化!函館からわずか90分そこはマグロの聖地だ』=このタイトルには、「大間原発建設工事がすでに50%を越え、建設シーズン本格化!函館からわずか90分、そこには世界初フルMOX燃料原発の聖地だ」。『函館から一番近い本州!大函丸で行くマグロの聖地大間町』=「一番近かったら危険この上も無い。大函丸(フェリー)も大寒に聞こえ、マグロも魔黒という字に書き換えたくなる。世界最高基準の安全という、原子力規制委員会お墨付きも、原発を聖地化しているようだ。
▼さらにマグロ祭りと連動し『フォト・コンテスト』も行う。
そこにはこんな文章が『想像もしていなかった景観が待っている、大間ドラマチックロケーション』さらにこう続く。『函館にお住まいの方は函館山山頂からの“表夜景”、反対の山々から函館山方向を眺める“裏夜景”はご存知でしょう。しかし、まだ他に函館の夜景スポットが存在するのを知っていますか?それが大間から函館を観る“横やげー(横夜景)です。このように三方を囲まれた大間町はドラマチックロケーションの宝庫。マグロだけではない大間町の魅力をぜひ体感ください』・・・だと。
▼大間から観る函館の海岸線の横夜景は、たしかにきれいだ。
想像もしていなかった景観とは、市民が逃げ失せ、電気一つない真っ暗闇の景観か?さらに函館山を頭に、釈迦涅槃図のように横たわっている、函館の姿か?。私の心は朝日に照らされ“赤心”状態だったが、このチラシを見てすっかっりけちな人間に大変身してしまったようだ。
▼ 私は「親愛なる大間町民の皆様へ」という手紙を書いた。
「福島第一原発の事故で、原発は人類の生存と相容れないものだということが実証されました。東北の人たちの痛みは、先祖の多くを東北に持つ私たちの心の痛みでもあります。・・・あなた方がたくさんの補助金を国や電源開発からいただき、幸せになることを決してうらやむものではありません。しかし、あなたたちだけがよくても、隣人である私たちが絶えず死の恐怖にさらされて生きなければならないことだけはやめてください。函館市は開港以来先人たちの絶え間ぬ努力で、世界に誇る美しい街並みを形成してきました。この美しい街並みは函館市民ならず世界全体の共通の財産です。この財産の保全のため、大間町民の皆様の勇気ある決断を期待する以外、他に方法がありません」。
▼この手紙を函館市町会連合会の役員会議に提案したが「大間町民は悪くない“そんなけちなまねをするな”」と却下された。総理大臣でも電力会社でも町長でもなく、私は大間町民の心に直接訴えたかっただけだ。
▼私は若い頃熟読した本の中の、こんな一節を思い出した。「革命は客を招いてご馳走することでもなければ、文章をひねったり絵を書いたり刺繍をすることではない。そんなお上品でおっとりしたみやびやかな、おだやかでおとなしくうやうやしくつつましく控え目なものではない。革命は一つの暴動であり、一つの階級が他の階級を打破する過激な行動である」。
▼大間原発反対運動は「国家VS自治体」の命を賭けた「津軽海峡の戦」である。なにがなんでも勝利しなければ、私たち函館市民の命が危険にさらされるのだ。函館市側の「中止や反対」ではなく「凍結」というそのものに、戦いの覚悟の希薄さを感じる。市民の多くも市長任せで、自らの戦い「市民戦」という自覚は少ないようだ。
▼アベ政権になってから、私はだんだんけちな人間になってきたような気がする。事実、周囲からもそう思われて来た。私がけちな人間でなくなるには、アベ政権の支持率が底を付く以外、解消の余地はないようだ。