函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

私の村を紹介します。

2014年08月31日 16時34分33秒 | えいこう語る

海上保安部の船に乗せてもらいましたので、海から紹介します。

 

▼私は、昭和23年北海道椴法華村という漁村に生まれました。その頃の村の人口は、4000人近くいました。村は明治9年に隣町の南茅部から独立しましたが、その頃の人口は500人程度だったと思います。前浜は3海流が合流する魚場があり、魚が豊富なので早くに独立できたのでしょう。

※ケープタウンに似ているといわれる、銚子岬です。

 ▼村の歴史を調べると、明治時代にすでに木簡水道が整備されています。我が国では横浜・函館とほぼ同時期の水道整備でした。これは我が村の誇りの一つです。裏山には高山植物が群生する活火山恵山があり、山も美しいが温泉にも恵まれています。

※この岬に軍の監視所があり、昭和20年7月15日にグラマンに攻撃され、4名の村人が亡くなっています。

▼海辺にも露天風呂があり、干潮の時に入れるという野趣豊かな温泉です。天然の海浜露天風呂では、たぶん全国一大きなものだと思っています。時々イワシの大群やタコなども入りに来ます。

▼小さくても個性的な村でしたが、平成16年12月1日に函館市に吸収合併されました。今年で合併10年を迎えるにあたり、東京の明治学園大学の学生が10数人、私の町内会館に宿泊し平成の合併の研究を行います。私も夜お邪魔し、学生たちに平成の市町村合併とは何だったのかを、さらに戦後の地方自治体とは何だったのかを、自分の人生と照らし合わせて語ろうと思っています。私がこの村に生まれ、この村の土に帰るまでのすべてをです。つまり私の人生の総括です。人口減などで時代が大きく変わる時期に入りました。新たな地方自治を考えるチャンス到来です。久しぶりに幸せな気分です。


原発をめぐる裁判

2014年08月30日 11時13分05秒 | えいこう語る

▼原発をめぐる裁判が全国で行われているが、エネルギー政策が国策であるため、原告である地域住民にとっては不利な状態だ。しかし、3:11の福島原発の事故を目の当たりにしてから、裁判にも多少変化が見られる。

▼今年5月、関西電力大飯原発裁判で、福井地裁は3・4号機の運転差し止め判決を出した。「人格権を放射性物質の危険から守るとの観点から見ると、安全技術と設備は、確たる根拠のない楽観的な見通しの下に、初めて成り立つ脆弱なものと認めざるを得ない」とし「大飯原発から250キロ圏内の住民は、直接的に人格権が侵害される具体的危険性が認められる」との結論を言い渡した。

▼さらに8月の福島地裁。東京電力福島原発事故で避難生活中に自殺した女性をめぐる裁判で「展望の見えない避難生活への絶望と、生まれ育った地で自ら死を選んだ精神的苦痛は極めて大きなものがある」として、東電に対し賠償を命じた。 

▼福島県では、震災による「直接死」1611人に対し、自殺を含む震災後の「関連死」は、1704人だそうだ。震災とさらに放射性物質の環境汚染で、永久に故郷を奪われては、死しか選択肢のない状況に追い込まれた気持ちは、察して余りある。

※大間原発工事状況を監視する、竜。

 

▼さて我が函館地裁である。市民団体が起こしている大間原発差し止め訴訟の第13回口頭弁論で、原告側の意見陳述を開廷わずか20分で打ち切った。函館から肉眼で見える原発工事の進捗率は50%を越えた。広島と長崎に落とされた原子爆弾の原料(ウランとプルトニウム)を混合し燃料とする世界初の商業炉といえば、稼動する前から将来への絶望感が建設が進むにつれ増大する。原発に対する函館市民の精神的苦痛は世界最大級だ。もし原発スタートのスイッチがONになれば、心やさしい函館市民に中には、心臓が止まってしまう人もいるのではないかと危惧する。それを地裁は無視するというのはどのような料簡か。

▼函館市が、自治体初の大間原発差し止め訴訟を東京地裁に起こした。地裁は「自治体には人格権がない」として「原告不適格」を主張した。人間が住み共同生活をしているから自治体だ。自治体に人格権を認めないなら裁判官なんて、人格権無視の非人間的職業ではないか。

▼函館市の裁判の弁護団である井戸謙一弁護士は『裁判官とは国民の良識、社会通念がどこにあるかを探求する仕事だ』という。

▼ベルギーに40年近く住む、高校時代の友人から先日電話があった。首都ブリュッセルに住んでいるが、街のど真ん中にある原発が、7月に内部事故を起こしたらしいが、環境への放射性物質の流出はなかったという。彼が住む前からある原発だが、事故もあり古くなったので稼動中止にしたという。テレビでは毎日節電に協力をと訴え、市民も納得し協力しているという。

▼ 東京地裁と函館地裁の裁判長に告ぐ!裁判官をめざした頃の、純粋な自分に立ち返って欲しい。そして、裁判官は正義の使者であれと。函館市は『月光仮面』の故郷だということを、お忘れなく。


北海道新幹線と想像力

2014年08月29日 11時18分15秒 | えいこう語る

▼函館市町会連合会の第49回大会が28日終了した。この大会の内容は、町会役員への永年の活動を称えるもので、市長や町連会長から感謝状の贈呈がある。私も昨年、会長職10年以上の勤続でいただいている。私は勤続表彰にあまり興味を抱かない方だが、役員のなり手不足や地域の絆が希薄になっている中で、大先輩先方がボランティアで地域共同体を支え、健闘されたことを思うと、身の引き締まる思いがする。活発な町会活動なくして、健全な地方自治は成り立たないに違いないと自覚をさせられる大会だ。

▼市町連総務部長としての私の役割は、式典終了後の記念講演の担当だ。今回は「北海道新幹線・新函館北斗駅周辺整備」ということで、北斗市役所新幹線対策課の課長に講演をお願いした。要望当初は函館市に新駅をという予定だったが、より早くより近くという新幹線の路線的見地から、北斗市に決定したと聞いている。道南地域のリーダー的存在である函館市としては、北海道乗り入れに尽力を注いだだけに、駅名に最後までこだわった。

▼地元北斗市の地名の前に「新函館」のを付け「新函館北斗駅」と命名された。政治的配慮もあったようだが、私たち一般市民から見れば、長男のごり押しで弟を押さえつけたという感じがする。北斗市の市民はどうとらえているのだろうか。今後の函館市の新幹線開通後の振興策を見つめていきたいものだ。

▼講師をお願いした課長は、私の同郷でもある。函館市に対してはちょっぴり気を使うと本音を漏らしてくれた。講演内容の選定に際し「駅舎というハード面ではなく、新幹線の開通で道南全体がどの様な活性化が期待できるかを話してもらいたい」との意見もあったが、課長は終わりに新駅舎を基点として、周辺自治体がそれぞれの振興策を図って欲しいと熱いメッセージを投げかけた。

▼新駅の前には、観光バスが10数台停車するブースを用意したという。それぞれのまちが、新たな魅力を掘り起こし観光バスが各地を巡れるような魅力あるまちづくりをして欲しいとも付け加えた。

※日本一うまいと確信する、メロンのウイスキー丼だ。

 

▼「昭和39年の東京オリンピックの時、我が国で初の新幹線が走った。その時は「夢の新幹線」と呼ばれた。それから半世紀後に北海道にやってくるが、あらん限りの想像力を働かせて北海道の再生を期待したい」と、私もそんな内容の挨拶で締めくくった。

▼新駅周辺の西側日本海方面の自治体(江差、松前、知内、木古内など)の、新幹線開業に向けた取り組みは活発だが、東側、太平洋方面の自治体の動きが乏しい。開業まであと1年半である。再び「夢の新幹線」と呼ばれるよう、各自治体の職員が想像力を働かせ、少子高齢化と過疎の歯止めに死力を尽くして欲しいものだ。なんと言っても、地方自治体のシンクタンクは行政マンだ。「痴呆爺体」と呼ばれぬよう、北海道新幹線を過疎脱出の起爆剤にしてもらいたいものだ。


▼けちを付けるわけではないが

2014年08月28日 11時38分16秒 | えいこう語る

「けち」とは、心が狭くくだらないさまをいう。けちを付けるといえば、縁起が悪くなることをあえて言ったり、欠点をあげて相手をけなしたりすることだ。こんな人物は周囲から嫌われるのが相場だ。だが人間誰しもそんな傾向は心の隅の持っている。相手より自分の意見が優位だと思いたいから、たまにけちを付けたくもなるのだ。

▼私の心の片隅に潜んでいるけちさが、もろに表面化したのが今朝の新聞の折り込みチラシだ。函館市の対岸大間町で毎年9月と10月の日曜日に開催されている「マグロの祭典」だ。

 

 

▼『いよいよ大間はマグロシーズン本格化!函館からわずか90分そこはマグロの聖地だ』=このタイトルには、「大間原発建設工事がすでに50%を越え、建設シーズン本格化!函館からわずか90分、そこには世界初フルMOX燃料原発の聖地だ」。『函館から一番近い本州!大函丸で行くマグロの聖地大間町』=「一番近かったら危険この上も無い。大函丸(フェリー)も大寒に聞こえ、マグロも魔黒という字に書き換えたくなる。世界最高基準の安全という、原子力規制委員会お墨付きも、原発を聖地化しているようだ。

▼さらにマグロ祭りと連動し『フォト・コンテスト』も行う。

そこにはこんな文章が『想像もしていなかった景観が待っている、大間ドラマチックロケーション』さらにこう続く。『函館にお住まいの方は函館山山頂からの“表夜景”、反対の山々から函館山方向を眺める“裏夜景”はご存知でしょう。しかし、まだ他に函館の夜景スポットが存在するのを知っていますか?それが大間から函館を観る“横やげー(横夜景)です。このように三方を囲まれた大間町はドラマチックロケーションの宝庫。マグロだけではない大間町の魅力をぜひ体感ください』・・・だと。

▼大間から観る函館の海岸線の横夜景は、たしかにきれいだ。

想像もしていなかった景観とは、市民が逃げ失せ、電気一つない真っ暗闇の景観か?さらに函館山を頭に、釈迦涅槃図のように横たわっている、函館の姿か?。私の心は朝日に照らされ“赤心”状態だったが、このチラシを見てすっかっりけちな人間に大変身してしまったようだ。

▼ 私は「親愛なる大間町民の皆様へ」という手紙を書いた。

「福島第一原発の事故で、原発は人類の生存と相容れないものだということが実証されました。東北の人たちの痛みは、先祖の多くを東北に持つ私たちの心の痛みでもあります。・・・あなた方がたくさんの補助金を国や電源開発からいただき、幸せになることを決してうらやむものではありません。しかし、あなたたちだけがよくても、隣人である私たちが絶えず死の恐怖にさらされて生きなければならないことだけはやめてください。函館市は開港以来先人たちの絶え間ぬ努力で、世界に誇る美しい街並みを形成してきました。この美しい街並みは函館市民ならず世界全体の共通の財産です。この財産の保全のため、大間町民の皆様の勇気ある決断を期待する以外、他に方法がありません」。

▼この手紙を函館市町会連合会の役員会議に提案したが「大間町民は悪くない“そんなけちなまねをするな”」と却下された。総理大臣でも電力会社でも町長でもなく、私は大間町民の心に直接訴えたかっただけだ。

▼私は若い頃熟読した本の中の、こんな一節を思い出した。「革命は客を招いてご馳走することでもなければ、文章をひねったり絵を書いたり刺繍をすることではない。そんなお上品でおっとりしたみやびやかな、おだやかでおとなしくうやうやしくつつましく控え目なものではない。革命は一つの暴動であり、一つの階級が他の階級を打破する過激な行動である」。

▼大間原発反対運動は「国家VS自治体」の命を賭けた「津軽海峡の戦」である。なにがなんでも勝利しなければ、私たち函館市民の命が危険にさらされるのだ。函館市側の「中止や反対」ではなく「凍結」というそのものに、戦いの覚悟の希薄さを感じる。市民の多くも市長任せで、自らの戦い「市民戦」という自覚は少ないようだ。

▼アベ政権になってから、私はだんだんけちな人間になってきたような気がする。事実、周囲からもそう思われて来た。私がけちな人間でなくなるには、アベ政権の支持率が底を付く以外、解消の余地はないようだ。


命を考える8月

2014年08月24日 12時00分58秒 | えいこう語る

▼8月6日と9日は、広島と長崎に人類史上最大の殺戮兵器、原子爆弾が落とされた日だ。今年で69年を迎えたが、この歳月は、人々の記憶を希薄させるには十分な要素だ。11日は私の生まれた日で、66回目の誕生日を迎えた。父親の生存年齢を超えたので、自分の死を意識する年齢にたどり着いたということだ。

▼私の誕生日は村の八幡神社の大祭日でもあり、連合町内会長の私は神社前でイベントを仕掛けている。地域に少しでも貢献することで、自分がこの地に生まれ育ったことへの僅かな恩返しが出来るという、実感を味合える日でもある。

▼15日は終戦記念日だ。普段は善良であるはずの人間が、大量殺人を起こす悪魔になることを実証させられた日だ。そんなことが重なる8月は、私にとっては「生と死」を同時に考える熱い夏なのだ。

※久しぶりの椴法華村日の出美術館。

 

▼今年は北海道新聞と函館新聞に、椴法華村の空襲の記事が大きく取り上げられた。終戦直前の7月14日と15日、北海道各地が米軍機により空爆を受けた。私の村は津軽海峡の先端に位置し、海路の重要な拠点として灯台もある。そこに軍の監視所が置かれていたが、米軍機が上空を飛んだ時、黙って見過ごせばよかったのに攻撃を仕掛けたという。数機が戻ってきて灯台を撃破し、村中を機銃掃射したため、村民4名が死亡したと村史に記載されている。

▼その内3名の名前は確認されていたが、1名が不明なので私も気にはしていた。7月に入って地元病院に入院している隣のおばさんの見舞いに行った時、4人部屋の全員は私の知っている地元のおばさんたちだ。そこで共通の話題である、椴法華の空襲についての話を聞いてみた。その中の90歳を過ぎているおばさんの妹が、3人の中の犠牲者の1人だという。

▼妹は当時23歳で、赤ん坊を寝かせつけた所、大腿部に銃撃を受けたそうだ。子供は助かり自分は重傷を受け山小屋に避難させられたが、まもなく落命したという。戦争中だったので火葬は煙が上がるので棺桶に入れ、土葬したという。戦争が終わると棺を掘り返し、火葬したと話してくれた。なんとも痛ましい、その現場を知っていた人から語られた我が村の戦争の悲劇だ。取材に訪れた、元教師と新聞社の記者により、その記録は克明な記事となった。

▼襲撃があった当時、小学校の6年生だった私の父の妹から電話があり、その当時のことについて様々な話を聞かされた。

灯台の近くにあった監視所近くに兵舎があり、そこに慰問に行ったそうだ。6年生の叔母は真面目だったので、兵隊さんを称える歌を歌ったそうだ。4歳下の妹は、当時の流行歌を歌い踊りもしたそうだ。兵隊さんが喜んだのは妹の方だったと、笑いながら話していた。おば二人の姉は教師となり、妹は現在、全国大会で活躍する詩吟の師匠だ。69回目の終戦における新聞の特集がきっかけで、始めて語られた我が家の戦争時のエピソードだ。

▼昨日の北海道新聞の記事だ。「すぐそばにあった戦争」というタイトルで、我が村の取材をした女性記者が後記したものだ。その中で取材した椴法華小学校の校長先生の談話が載っていた。「戦争は遠い歴史の中の出来事ではなく、今、自分が暮らすまちに起きたことなのだと子供たちに伝えたい」と。

▼この言葉が胸にずしりと響いた。私も村が銃撃されたことは、歴史の一項目にしか意識していなかったからだ。NHKテレビに「視点・論点」という番組がある。視点が違えば論点まで違ってくるのだ。視点をどう正確に捉えるか、田舎生活に半世紀以上浸かってしまった私に、反省を促してくれた戦後69回目の8月である。