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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

核のゴミの住民投票

2020年10月30日 20時32分46秒 | えいこう語る

▼片岡春雄という名前が、今北海道では最注意人物だ。核のゴミの文献調査に応募した、日本海に面した寿都町という漁業が主体のまちの町長だ。

▼高齢化や人口減。それに加え近年の地球環境の変化による、一次産業の不振などの影響で、寿都町ばかりではなく、全国の地方自治体が財政難にあえいでいる。

▼核のゴミの誘致に手を上げれば、莫大な交付金が出るとなれば、全国各地で誘致活動に手を挙げる自治体が多発するだろう。さらに、調査だけで最終処分場の拒否をするのも可能だという。こんないい話は滅多にない。

▼「好事魔多し」という言葉が、私は好きだ。世の中、簡単に手に入るものなど、眉唾物が多いということを、何度か経験しているからだ。

▼核のゴミ地下埋設処分場が、安全になるのが10万年もかかるという。そこで未来社会に責任を持つべきだとする、寿都町の反対派が「住民投票」を求めるようだ。

▼それを受け議会が審議する。だが賛成が多い議会では否決されるだろう。そうであれば、反対派の住民による「町長のリコール請求」となるに違いない。

▼日本初の住民投票条例制定に動いたのが、高知県窪川町だ。四万十川が南北に貫く、当時人口2万人弱の町だ。

▼1980年に、町長が四国電力の原発誘致の発言をしたのをきっかけに、反対派は住民投票条例制定を議会に要求した。

▼それに対し町長は【住民投票制度は、議会制民主主義を破壊するもの。決着を直接住民に訊くのは卑怯な手段、執行者としてやるべきことではない】と、自己中心的な考えで一蹴し、提案はあっさり否決された。

▼そこで反対派の住民は、町長のリコールに出た。投票率91%を超え、町長の解職が成立した。だがその後の選挙に解職された町長が出馬し、返り咲いた。

▼原発誘致の意思決定は「住民投票で決める」と、選挙公約したからだ。町長は公約を守り、住民投票条例は本会議で可決された。その後町長は原発誘致が不可能と考え、辞職した。

▼住民投票を行えば、反対票が過半数を取る可能性が高いということになり、住民投票は行わないまま条例だけが残った。今井一著【住民投票】「観客民主主義を超えて」岩波新書より。

▼この窪川町の住民投票条例を参考に、新潟県巻町の原発誘致で、住民投票条例が出来た。その第3条第2項に注目したい。

▼【投票結果においては法的拘束力はないものの、町長は地方自治の本旨にもとづき、住民投票における賛否いずれかの過半数の意思を“尊重”しなければならない】とある。条例は議会が作る。

▼自民党改憲草案第3条第2項は【日本国民は、国旗及び国歌を“尊重”しなければならない】とある。この場合の尊重は、教育現場では“強制力”を発揮するだろう。

▼だが巻町の尊重は、ただ尊重するという文言だけで、強制力がないという意味だ。尊重するだけでは実効性が少ないが、尊重し過ぎれば強制力を持つ。法解釈も執行者の意のままのようだ。

▼だが、体制側の都合のいいように解釈されるのは、民主主義国家としては、あってはならないことだ。シンゾウやスガは、法解釈が国家主義的観点からの理解だ。それが最も危険な状況を生むことになる。

▼寿都町や隣の神恵内村の、核のゴミ文献調査の誘致は、単なるよその自治体の問題ではない
。自分もその町の住民の一人として捉えることが必要だろう。

▼住民投票は公職選挙法の縛りを受けない。戸別訪問もOKだ。東北電力は80人以上の社員を巻町に送り込み、全世帯にビラやパンフレットを配布したという。有名なスポーツ選手やタレントを使ってのテレビ宣伝も行なった。

▼沖縄県の普天間基地移設に関する住民投票の時のことだ。推進側は歌手の松山千春を呼んで、講演会を開いた。呼んだのは松山と同郷の、当時沖縄開発庁長官の鈴木宗男だ。

▼松山は【どこかに必要なものを、自分たちが嫌だからと言って、他に持って行けという無責任なことは言えないでしょう。国際平和を考えるなら感情論ではなく、賛否両派が話し合い妥協して結論を出してほしい。海上ヘリポートは国家的事業です。こうした国が望む重要な事業を蹴ったところの面倒を見る気は国にはない。それが政治の手法というものであって、そういう手法をおかしいということ自体がおかしい】と聴衆に語り掛けた。

▼寿都町の反対派は、脱原発の小泉純一郎を呼ぶという。賛成派は松山千春のこの沖縄での発言を知れば、彼を呼ぶかもしれない。人口約3000人の静かな田舎町は、核のゴミ問題で二分される。

▼住民投票は、直接民主主義を行使できる、民主主義の基本だ。寿都町民だけではなく、道民全体がこの問題を注視しなければならないようだ。

全てが監視されているという未来

2020年10月30日 20時32分46秒 | えいこう語る
▼GAFA=グーグル・アップル・フェィスブック・アマゾンの頭文字だ。これらの巨大企業を利用している人々は、住所・氏名・何を購入したか・何に興味があるか、などの個人情報を、自ら進んでこの4社に提供してるという。

▼27日の北海道新聞で、東工大の中島岳志教授は、このことについてドイツの哲学者マルクス・ガブリエルの分析を紹介している。

▼ガブリエルは【デジタル全体主義】という概念を提示する。現代人は自分の行動を写真で撮り、オンラインで公開する。すると、プライベート空間がネット上に公開され、私的領域と公的領域の区別がなくなっていく。かつての全体主義体制では、自分の考えを隠そうとしたが、今は自ら喜んで、公に晒している。このような状態を【市民的服従】と呼び、全体主義を自ら引き寄せていくメカニズムに警告を発する。

▼国民が知らず知らずのうちに、個人情報を提供してしまうという社会は、異常で危険だ。憲法第19条の「思想および良心の自由」を、国民自らが放棄しているともいえる。

▼私たちの行動パターンこそが、ネット社会の中で商品化されている。この状況を「監視資本主義」というようだ。

▼「監視すること」よりも「監視されているという思い」を国民に植え付けることによって、国民を効率的・効果的に服従させるメカニズムがあるとしたのは、フランスの哲学者ミシェル・フーコーだ。現在はこの原理が起動する寸前にあると中島教授は訴える。

▼憲法解釈によれば「19条」は、公共の福祉により制限される場合もあるが「公共の福祉」とは、人権相互の矛盾・衝突を調整する原理で、他人の人権と衝突しなければ、絶対な自由が保障されるべきだという。

▼自民党改憲草案の「19条」は、現憲法に2項を追加している。「何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、または利用してはならない」とある。

▼私の様な田舎者のボンクラは、もっともだと思うが、法学館法律事務所の伊藤真の解釈によれば【この情報の自由な流通は、表現の自由の本質部分なので、情報取得が制約されると表現の自由を侵害、それによって支えられている民主主義そのものにも、重大な障害をもたらす恐れがある】と指摘する。

▼つまり、自民の改憲草案を正確に解釈すれば、この2項の追加により、政治家や公務員の適格性を正確に判断できなくなる可能性も生まれて来るという。

▼前アベ内閣や菅内閣をよく注視すれば、伊藤が指摘する2項の解釈が、理解できる。「アベもスガ」も説明責任を拒否しているからだ。

▼「アベよりスガ」は、2項が追加されれば、日本学術会議の人事に関する問題など、口が裂けてもだんまりを通すだろう。自分たちに都合の悪い情報公開など、完全に無視する姿勢に出ているからだ。

▼スガ総理は「マイナンバーカード」の普及促進を一気呵成に進めるという。だが、その情報処理事業を、米国の企業アマゾンに一任するという。

▼政府による完全な情報漏洩違反だ。どうりで自民の改憲草案では、現憲法「第97条」の、国民に与えられた基本的人権の条項を、削除している。

▼日本学術会議は、日本の英知が集結する組織だ。それをないがしろにするスガ総理は、憲法改正へのアクセルを強く踏んだようだ。

▼秋田県生まれの【ナマハゲ総理】は「政府に反対する者はいねがー」と、大声を出して、反政府の考えを持つ者を脅かす。

▼【今起きていることに繊細にならなければ、取り返しのつかない事態を招くだろう。今が自由を死守する正念場だ】と、中島教授は指摘する。

▼私が昨年秋田県で見た本物のナマハゲは、人々の勤勉と嘘をつかない人間を育てる、教育者のように思えた。

▼だがこのナマハゲ総理は、戦争放棄を掲げた日本国憲法を崩壊させる、悪いナマハゲのようだ。底意地の悪く、善良な国民をイジメる人物のように思えてきた。

▼このようないやな時代は、私たち国民が自ら引き起こしたに違いない。

この道や行く人なしに秋の暮

2020年10月25日 20時40分20秒 | えいこう語る

▼「この道や行く人なしに秋の暮」。この句は芭蕉が51歳で亡くなる寸前の句だという。

▼我が家の早朝の庭は、イチイの木と紫陽花の葉、石楠花の葉だけが緑だ。だがその緑色も晩秋色をしている。

▼枝だけがむき出しになった広葉樹。今年のもみじは10月に吹いた海風で、紅葉することなくちりちりに枯れ、茶色と化してしまった。

▼そんなもの悲しさを漂うを庭を眺めながら、朝刊を開いた。【核禁止条約1月に発効。批准50ヶ国、日本は不参加】だ。

▼私が新聞の一面に期待するのは、戦争が起きない平和な世の中であってほしいという希望からだ。

▼世界で最初の被爆国。それも二発も落とされ、地獄と化した我が日本。核禁止条約の旗振り役は、日本の責務だろう。

▼我が国のプルトニウムは47トンもあるという。長崎に落とされた原子爆弾がプルトニウム型だ。それが5~6000発も作れる量だという。

▼我が国の科学技術では、種子島から発射されるロケットに核爆弾を装着するのは、容易なことだという。世界中もそう見ているようだ。

▼だが、原爆を落とした米国の指示で、核禁止条約に参加できないという、なんとも矛盾した立場に立たされている。

▼これらの矛盾を解決するためにも【核のゴミ地下埋設計画】は、国是だ。文献調査に手を挙げる自治体には、交付金は糸目は付けない。受ける自治体も、そこは十分承知の上だ。

▼ふと、この芭蕉の「この道や行く人もなしに秋の暮」という、むなしさが漂う句が浮かんできた。もう一度庭を眺めてみた。

▼早朝で暗かった庭の木々の間に、秋晴れの北海道の青い空が広がっていた。


  核墓場アイヌ・モシリは拒否death!
                三等下
※アイヌ・モシリとは、「人間が住む静かな大地」というアイヌ語です。つまり北海道という意味です。

寿都町は小泉純一郎よりホセ・ムヒカを

2020年10月25日 20時40分20秒 | えいこう語る
▼核のゴミは地上では危険すぎるので、地下埋設しか方法がないと、人々は思い始めている。だが、地下埋設をしても安全になるには、10万年かかるという。

▼10万年という年月は、歴史を振り返れば日本は存在していない。国家という概念もなくネアンデルタール人の時代だったというのは、社会学者の大澤真幸だ。(25日の北海道新聞)

▼旧石器時代にネアンデルタール人は、火(エネルギー)を使っていたが、4万年ほど前にこの人種は消滅したという。

▼人類が原子力のエネルギーを使うようになってから、僅か70年しかたっていない。原子力の燃えカスは「死の灰」と呼ばれる。

▼その処理さえできなくて、地下に埋め隠すしか処理能力がないのは、現在の人間が多分地球を消滅させるかもしれない。

▼原子力は、人間がコントロールできないものだというのは、10年前の福島第一原発事故が証明している。しかし、原子力ムラの科学者たちは、それに気付かぬふりをしている。

▼原子力は温暖化問題などの環境問題を解決する、人類にとって必要なものだと言い張る。だが地上最大の猛毒と称されるプルトニウムが生じるゆえに、いまだに処理できないでいる。

▼因みにプルトニウムとはギリシア神話のプルートーからの命名したもので、海の女神で「富める女」という意味だ。我が国の原子力ムラの住民は、この神を崇め奉っているのだ。

▼話がずれたついでに、もう一つ付け加えさせていただきた。ネアンデルタール人のことだ。科学誌ネイチャーが最近発表したのは、新型コロナの重症化リスクが、ネアンデルタール人に由来するものであるという。

▼夢がある科学の研究だ。このように科学が人類の真の成長につながってほしいものだ。もう少し様子を見て、それについて得意の妄想を働かせてみたいと思う。

▼核のゴミの処理は、環境問題に関わるものだが、そこに倫理学も加えなければ、解決しない。
つまり環境倫理学という、比較的新しい学問の分野の取り組みが必要なのだ。

▼この環境倫理学は1970年から80年代に、米国で確立されたという。大きく三つの主張を掲げている。

▼1・自然の生存権の問題。2・世代間倫理の問題。3・地球全体主義だ。つまり環境倫理学は、従来の意思決定の枠組みの中で「自然を守りましょう」というような主張をしているのではない。

▼【なぜ人類は地球生態系を破壊するシステムを持っているのか。それを回避する有効な決定システムを持っているか】という問いだ。加藤尚武著「環境倫理学のすすめ」発行・丸善より


▼日本のゴミは世界一だという。つまり、便利なもので溢れかえっているのだ。世界一便利な国が世界一の不便を生んでいるのだ。

▼出過ぎる核のゴミを、交付金をちらつかせ、地下埋設しようとしている。だが安心状態になるには10万年もかかる。未来の人類に、そのようなものを残していいわけがない。

▼もし地下で核分裂が起きれば、人間の存在に必要な水の確保すらできなくなる。現人類は未来を創造する力に欠けているのではないか。欠けているのではない。単なる無責任なのだ。

▼核のゴミの処理問題は環境問題の領域では解決しない。倫理学を持ち込んで、国民すべてが考えなければならない問題なのだ。

▼「富の女神」の誘惑に負けない、倫理学の分野をより身につけなければならない。経済の誘惑に倫理が廃れば、受け入れた地方自治体は、地獄と化し【核のゴミの墓場】と言われるだろう。

▼行き過ぎた近代文明の発達の中で、昔の方がよかったと思うことがある。だが、不便な昔に帰れるかと言えば、心もとない。

▼1800年代に活躍した、米国の自然保護運動のジョージ・B・エマソンの言葉だ。【自然はその美しさや崇高さで我々の魂を浄化する。自然と精神とは同じ根を持つもので、自然の過程は精神の言葉の翻訳である。自然の霊性に目覚めて生きることが、本当の人生である。そこには自然への愛と畏敬を中核とする精神主義的な「清貧」という生き方が示される】。

▼このことは【世界一貧しい大統領】と呼ばれ、世界の尊敬を集めた、ウルグアイ元大統領、ホセ・ムヒカ・コルダ―ノが、赤貧の美しさを世界中の人々に教えてくれた。

▼「核のゴミ処理問題」。寿都町は、元総理の小泉純一郎より、ムヒカ元大統領を呼んだ方が、いいと思うのだが。

過疎の村のお寺参り

2020年10月24日 07時15分23秒 | えいこう語る
▼人口800人程に減少してしまった私の故郷。私は昭和23年生まれだが、子供の時道路が舗装されるというのは、まったく考えもしなかった。

▼今は人が通る道路はすべて舗装され、雨水が道路に溜まることもなくなった。赤とんぼの大群が飛び交う光景など、もはや記憶から消去されてしまったようだ。♪赤とんぼの歌など、口から出てくることもなくなった。

▼数年前に亡くなった隣のおばさんがお嫁に来た時の話だ。夕暮れ時に提灯を先頭に、木の橋を渡って花嫁行列したという。おばさんの不安だった様子がうかがわれて、私が好きな昔話の一つだ。

▼そんな風情も、とっくにコンクリートの橋で、台無しになってしまった。今この橋の下では鮭の遡上が始まっている。立ち止まって眺めていると、料理の名人だったおばさんの顔が浮かぶ。

▼周囲の山々を見渡すと、木材の需要が増えたといい、森林伐採で山が泣いているようにも思える。里山が崩壊し始めているせいか、空き家も多くなった人家付近に、鹿や熊の出没情報が聞こえている。

▼イカやイワシなど、子供の頃はお金を出して買うものだとは、思ってもいなかった。イカ漁の最盛期には、水平線に漁船がびっしり並び、その灯は「漁火銀座」などと、粋な言葉で呼ばれた。

▼イワシやイカが、前浜に大量に打ち寄せ、手づかみでバケツいっぱいに拾った。夏の川は子供たちの天然プールだった。私が子供の頃の川は、今は90歳に近い老川になってしまった。

▼昨日菩提寺のお寺参りがあった。私の役目は帳場だ。施餓鬼料を計算し帳簿に記名し、それを住職に渡す。

▼読経が始まると、住職がその帳簿を読み上げる。「00家先祖代々南無阿弥陀仏」と唱えると、そこの家の人や親戚たちが、一斉に賽銭を投げる。そんな光景が何十年も続いている。

▼昨日はあいにくの雨だったが、それでも40人ほどのお参りがあった。「しばらくだね~母さん元気だったの」と、代わり映えもない会話の中に、返ってくる言葉から、健康状態を探る。

▼コロナ禍のお寺参りなので、消毒液やビニールシートも張っての対策を講じている。「かあさん額を出してちょうだい。体温を測るから」ピーと音がして、体温が表示される。

▼「健康状態良好」というだけで、笑顔が出る。「身体は丈夫だけど、口だけは悪いの」というのも、恒例の会話だ。

▼お参りはほとんどが未亡人ばかりだ。町会の活動に参加する人も、未亡人だ。だが未亡人は、いつも明るく元気でオシャレだ。

▼80歳に近い二人の未亡人が連れだってやってきた。「雨の中ご苦労さんです」というと「お寺参りはいつも天気がいいのに、やっぱりコロナのせいだべか」という。

▼「額を出してください体温を測るから」。「二人とも正常です。“ニンシン”はしていません?」。

▼一瞬目の動きが制止したように見えたが、大声で笑った。未亡人は常に元気に溢れているのだ。という笑い声が本堂に響く、過疎の村のお寺参りでした。