函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

紫陽花と鹿

2020年08月31日 09時20分12秒 | えいこう語る

▼後の世、令和2年という年はどんな年だっかと聞かれれば、誰もが「コロナ禍」と「蒸し暑さ」が、印象に残ったというだろう。

▼だが「シンゾウの長期政権崩壊」というのが、トップなのかもしれない。「コロナ禍」も「蒸し暑さも」すべて、シンゾウのせいではなかったかと、総括される可能性があるからだ。

▼8月に入り外に出れば、頭が割れそうな暑さだ。砂浜に降りて日光浴などとシャレ込めば、熱中症で救急車ものだった。ここが北海道だなんて信じられないくらいだった。

▼8月の終わりの午後のことだ。早朝の庭の紫陽花の鮮やかさの中で、ブログを書くのが一日の始まりだ。

▼今年は蒸し暑かったせいか紫陽花の大輪の存在が、心を鎮めてくれた。ピンク、白、青などの中で、青色が鎮静効果があるように見えた。

▼庭に面した白い窓枠が、額縁に思える。イチイ、石楠花、もみじ、山椒、ツツジなどの緑が、キャンバスを埋め尽くしている。

▼その額縁の左側の隅に、青の紫陽花が見事に咲いている。日本画を鑑賞しているような気分にさせられる。

▼ずいぶん前だが、夏に福井県に行き、帰りに京都に立ち寄ったことがある。嵯峨野の民宿に泊り、美術館に入り日本画を鑑賞した時のことだ。

▼その美術館は石造りで、玄関前に内水がしていて、清涼感があったのが記憶にある。そこで日本画を観たのだが、夏の美術館は日本画に限るというような、強い印象を覚えたことがある。

▼我が家の庭の青の紫陽花は、40年程前のかすかな記憶を、鮮明に思い浮かばせてくれた。だが、その中に茶色の物体が動いた。・・・鹿だ。

▼近年、海外で木材が高騰しているらしく、函館港からも輸出が多い。そこで森林の伐採が続いている。

▼個人の財産なので、規制は掛けれないと役所は言うが「行政指導」をしなければ、水害などにつながるのではないかというような、広範囲に及ぶ伐採だ。

▼戦後の山林は、燃料としての需要で「禿山」という言葉が言われたのを、子供心に覚えている。そこで国が補助をし、植林に力を入れたというのは、先人たちから聞いていた。

▼現在も伐採したら、植林をしなければならないという規則があるようだが、若い人が地域から出ていき、老人だけの世帯では植林を諦める人も多い。

▼山が荒廃するするせいか、今年は海の傍に住んでいる私の家の1キロ管内にまで、熊が数回目撃されている。さらに私の庭には、頻繁に鹿が出入りしている。

▼やはり鹿だった。紫陽花の葉を食べていた。大きな目と私の小さな目が合ったのは、ガラスを通し、わずか3メートルほどの距離だ。

▼目を見つめると、飛び跳ねるように逃げるに違いない。そこで私は目をそらした。鹿は敵とみなさなかったのか、また葉を食べ始めた。

▼紫陽花は盛りを越えていたので、十分鑑賞させてもらった。生命力がある紫陽花なので、葉が食べられても来年も鮮やかに咲き誇るだろうと期待する。

▼それにしても、夏の終わりに【紫陽花と鹿】という、誰もがみたことの無い、見事な日本画を鑑賞させていただいた。

▼その数日後、シンゾウが退陣した。令和2年は「シンゾウの退陣」と「紫陽花と鹿」という日本画も記憶に留めておきたい。

▼紫陽花の葉を食べる鹿の大きなやさしい目が、ちょっぴりシンゾウと重なって見えたような気がしたからだ。

猫の賢母

2020年08月30日 03時45分13秒 | えいこう語る
▼「お盆過ぎると秋風が吹いてきましたね」というのが、長年の日常会話だったが、今年は「蒸し暑いですね」というのが定番になっている。

▼コロナの終息が見えない中、蒸し暑さはさらに気分が滅入る。店がお客様で混めば体力を消耗し、お客が来ない時は、コロナを嘆く毎日だ。

▼そんなストレス解消に、店がクローズしてから、妻と一緒に隣町の港に釣りに出かけた。店の前は太平洋が広がっているが、その前を国道278号線が走っている。

▼国道を北の方角に向かうと、すぐ長いトンネルに入る。トンネルを出たところが、古部という、谷合いの小さな漁師町だ。車で5分もかからないところだ。

▼集落という風情で、山の斜面に家が数十戸しか並んでいない。以前は民家の上に小学校があって、運動会は集落全員で盛り上がっているのを、テレビで放映されていたこともあった。

▼この集落の前浜は魚の回遊がよい場所で、定置網という大きな網が2カ所もある。男性はほとんどこの定置網に所属している。生活も安定しているようで、人口もそれなりに維持されている。

▼地域共同体としての体を成しているのか、地域外の私などにも、気軽に声をかけてくれる。その餌では釣れないとか、その針ではだめだとか、情報を聞かせてくれる。

▼そんな人情味がある土地柄なので、野良猫が5匹ほど、釣っている隣に集まってくる。この港で釣るなら、魚をちょうだいという感じだ。

▼今港湾内で釣れるのは、体長14~5cmの「ちか」という小魚だ。フライや南蛮漬などが美味しい。私の店の【縄文ランチ】という名物定食?の一品でもある。

▼「ワカサギ」に似ているが、ワカサギより人気がだいぶ落ちる。姿も美しく美味しいので、私は「チカサギ」と名付けている。

▼この魚を釣る竿は、渓流釣りのような細い竿を使用する。サビキといって小さな針が5本ほどついていて、餌を付けづに上下に動かすと、釣れる。4から5匹同時に釣れると、結構な引きがありその感触が妻は大好きだという。

▼たくさん釣れると、コロナや蒸し暑さも忘れてしまうようだ。「釣りに行くか」といえばほぼ二つ返事だ。

▼私たちが釣っている直ぐそばで、5匹の野良が待機している。「ミャー」という猫なで声は、魚をちょうだいと甘えているようだ。

▼鋭い顔つきの猫は、周囲を威嚇し奪うのも早い。若い猫は目の前に魚を投げてやっても、先輩猫に取られる。公平に食べればいいものをと思う。

▼一匹の猫が、魚をくわえて、どこかえゆっくり歩いて行った。たぶん子供に食べさせるのだろう。昨今、子供を虐待し殺す、鬼のような母親の事件が後を絶たない。

▼「猫の母親の方が立派だね」と妻が言う。戻ってきたその賢母に、さらに一匹を与えたら、また魚をくわえて、ゆっくり歩いて行った。

▼私はその後を追いかけた。子猫の鳴き声が聞こえた。2匹いたと思う。順番なのか、一匹が走ってきて魚を母猫からいただき、夕食にあずかっていた。

▼母猫はまた私たちの近くに来た。妻は猫の家族に感心し、まだいるかもしれない子猫のために、釣ったばかりの一匹を与えた。

▼今度はその場で、母猫が食べ始めた。待っていた子猫は2匹なのだと思い、美味しそうに食べる賢母を見て、私たち夫婦は心が晴れ晴れした。

▼夕暮れの静かな漁港には、猫が5匹と私たち夫婦だけだった。こんな一日の終わりは、若い時分にデートで名画を観たような気分で、国境の長いトンネルを抜け、家路についた。

シンゾウ死して改憲残す

2020年08月29日 20時10分54秒 | えいこう語る
▼在位7年8カ月という、憲政史上最長の政権を続けたアベ総理が、ついに辞任した。今回もやはり健康上(難病の潰瘍性大腸炎)の理由だ。

▼国民は難病の人間に、国民の生命・身体・財産の保全を託していたようだ。今考えれば、酷なことをしたのではないかと、ちょっぴり悔恨の情も生まれる。

▼健常者ではないシンゾウは、80回もの外遊で神経がすり減ったのだろう。しかし北方領土は、ロシアに領土返還はしないと、憲法に明記されてしまった。

▼北朝鮮拉致問題も一歩も前進しない。もはや拉致は手のつけようがなくなったようだ。我が国と最も親しい関係にある、身近な中国や韓国に対しても、良好な関係は結べなかった。

▼ただ、日本国民が最も友達になりたくない人物の、トランプ大統領とは仲良くなりすぎ「対米従属」から【対米中毒】になってしまった。身ぐるみをはがさせられそうな「日米関係」を構築したと言っていい。

▼だが、シンゾウは自民党の中で、画期的な実績を残した。国民の知る権利を脅かす【特定秘密保護法】・集団的自衛権の行使容認を認めた【安保関連法制】・治安維持法の再来といわれる【共謀罪】・等の成立が上げられる。

▼本人は辞任に際し「憲法改正」が出来なかったことを悔やんだ。だが、シンゾウ程「憲法改正」について発言した総理はいないし、改正への大きな間口を開いた総理もいない。

▼上記の法制の整備は「憲法改正」への間口を、大きく広げたからだ。もし今後、憲法が改正されれば、シンゾウは歴史に名を残すだろう。

▼トランプが再選されたら、我が国周辺事態はますます緊張の度合いを増すだろう。そうなれば、シンゾウの布石(9条改正)が、大きな影響を及ぼすからだ。

▼【シンゾウ死して改憲残す】というのが、私のシンゾウ辞任への弔辞だ。


▼数多の憲法学者から、憲法解釈が間違っていると言われる総理を、選んではならないということを、国民は肝に銘じなければならない。

▼ポスト・シンゾウと呼ばれる顔ぶれは「憲法改正論者」が圧倒的に多い。「国民主権」から「国家主権」への流れを許してはならない。

▼そろそろ国民が日常会話で「憲法」について話し合わなければならない時代に来ているようだ。

▼さらにシンゾウの弔辞に、次の言葉を付け加えたい。沖縄の慰霊祭の時の中学生、相良倫子さんのこの言葉だ。

▼「戦力という愚かな力を持つことで得られる、平和など本当はないということを」。この言葉を、シンゾウの次の総理にも、しっかり伝えるためにも。

アイヌときどき日本人

2020年08月27日 19時57分10秒 | えいこう語る

▼「アイヌときどき日本人」は、2001年に社会評論社から出版された、写真家・宇井真紀子の写真集の、なんとも衝撃的なタイトルだ。

▼さっそく、函館市中央図書館に確認を取ったら、写真集はあるという。近いうちに図書館に出かけようと思う。

▼【アイヌ民族としてのアイデンティティを持つことに揺れたり、自由な選択に躊躇する現実はアイヌ民族にその責任があるわけではない。それは数百年に渡る侵略と植民地化、同化政策と差別によって、ヤマトの政府や社会がアイヌ民族の文化、歴史、伝統を否定し、そのアイデンティティの基盤を破壊し続けてきたからに他ならない】。・・・上村英明著「アイヌ民族一問一答」解放出版社より。

▼25日の北海道新聞は、7月にオープンしたアイヌ民族の拠点施設「ウポポイ」の課題を考える、札幌でのシンポジウムを掲載している。

▼内容はウポポイの運営に関して批判的な内容だ。大きく3つに別れているが【国の政策に矛盾】では、アイヌ政策検討市民会議の代表である室蘭工大名誉教授・丸山博が「明治政府が北海道などを領土とし、アイヌ民族の生業を奪い、土地や資源を搾取した歴史を正確に伝えていない」と述べている。

▼【知識体系を生かせ】では、北海道大のジェフ・ゲーマン教授が「自然環境に適合した生活様式を保つ先住民族の知識体系や固有の言語を、現代社会でどう生かしていくかという視点が弱い。博物館と大学が連携し、アイヌ民族の研究者を育成する制度を作ることが考えられる」と指摘する。

▼【遺骨は埋葬地へ】では、アイヌ民族代表の、清水裕二が「土から生まれ生まれ土に帰る」というアイヌの死生観に立って「遺骨はもともとの埋葬地に戻すべき」だと、ウポポイの施設の周辺につくった共同墓地に反対する。 

▼建設費200億円といわれるウポポイは、アイヌ民族の代表も入り、意見を十分取り入れたのか不明だ。開業時に芥川賞作家の池澤夏樹は「観光アイヌ」になりはしないかと心配した。

▼今日のブログには、私の意見は挟んでいないが、これらの指摘が私が考えるアイヌ民族に対する考えとほぼ一致しているからだ。

▼ゲーマン教授は「フィンランドなどでは、先住民族の博物館は先住民族自身によって運営されている」と発言されている。

▼しかしこの発言に、私は少し違和感を持つ。フィンランドといえば、高レベル放射性廃棄物の地層処分場の『オンカロ=隠れ家』がある。先住民族が反対しなかったのか、気になるからだ。

▼北海道では最近寿都町が、核のゴミの地下埋設処分場の候補地に手を上げ、物議をかもしている。

▼私はウポポイと連動し【アイヌ・モシリ=人間が住む静かな大地=北海道】に、地下処分場はいらないという考えだ。

▼私もアイヌ民族について、少し本を読みだしたのは「ウポポイ」の建設がきっかけだ。だがそこにアイヌ民族を学ぶ要素は、なんとなくできていたように思う。

▼今日の私のブログのエンディングは、上村英明の主張を引用したい。上村の考えとほぼ同様の考えで、私はアイヌ民族を少し掘り下げようと思ったからだ。

▼【かつて日本が「皇国臣民としての日本民族」「古来連綿たる大和民族」意識をつくり上げて侵略戦争を行い、多大な犠牲者を生んだことも事実で、そのために大和民族という言葉に接するたびに、忌避感を覚える人もいる。しかし、歴史を考える、特にアイヌ民族や琉球(沖縄)を考える作業では、そうした事実に向き合い続けて行くことが大切だ】。

表題の重要性

2020年08月25日 08時01分56秒 | えいこう語る

▼文章を書くと表題が気になる。初めに表題ありきというのが、書きやすいのかもしれない。だが、論点を絞り切れなくなり、途中で表題を変えてしまうということもある。

▼これは誰にもあることだと思うが、最近の私は、そんな状態が増えてきた。もちろん自分の文章能力の稚拙さに原因があるのだが、私の場合は、シンゾウ政権が長期になっているのと比例しているようだ。

▼シンゾウは、あれもこれも手を付けては「説明責任」を果たさない。なので、問題が山積みになり、整理できないというのが、私の実感だからだ。

▼「私のせいにするな。お前の筆力が足りないからだ」といわれれば、そうだと納得する。俳句や短歌が好きなので、凝縮させ簡素にすればればいいだけだ。

▼ブログというのは、普段のお喋りを文書化している。これを厳密に校正しながら書いて行けば、一日がブログ一色になり、私の自由は自分で失ってしまう。

▼ツイッターを薦められるが、トランプ大統領の様な人間になりやしないかと、これまたコンピューターに疎い私は尻込みする。

▼長々と自分の主張を述べ連ねて、理解されないとなれば、私のブログはシンゾウに近い性質のようにも思える。と思いながら無駄話が長くなり、本題に入るのが遅くなってしまう、今日も変わらぬ私だ。

▼今日のテーマは「表題の重要性」だが、もっとわかりやすいものにしたほうが良かったのではないかと、すでに心が揺れている。

▼今朝の(25日)の北海道新聞に、東工大教授中島岳志が「自粛警察」『全体主義的心性過剰行動に』という分析を行っている。

▼【コロナ禍以降、従来の右派/左派というイデオロギーでは理解しない現象が続いていている】と冒頭から、鋭いジャブを打ってくる。

▼さらに【普段は国家権力の強制に懐疑的な左派が、緊急事態宣言やロックダウンを求め、政府の生ぬるい施策を批判する。一方、緊急事態条項の必要性を訴えていた右派が、緊急事態宣言の発動を批判し、社会活動の自由を訴える。彼らは疫病学的観点から「ステイホーム」を呼びかける人たちを「日本経済の破壊者」とみなし攻撃する】。

▼世の中がねじれているという中島の考えが、私の文章が長くなる理由だと気が付く。「♪右も左も真っ暗闇じゃございませんか」という歌が流行ったのが、私が20歳の頃だ。その時とと全く同じ社会背景になっているようだ。

▼これらの思想性の混乱を「私たちが繊細にならなければならないのは、自分の政治的立場ではなく、自分の中にある全体主義的心性である」と中島はいう。

▼「精神的に追い詰められ、言語化できない苛立ちが他者に向かうとき、多様な人たちの多様な事情への配慮が欠落し【自粛警察的】行動に出る。そこにイデオロギーを超えた全体主義への入口がある。連帯と脅迫をはき違えてはならない」と指摘する。

▼ふと、私が所属する函館市町会連合会が、下部の町会から、コロナ禍の中での町会活動の「ガイドライン」を作成して欲しいとの声が起き、私もそのメンバーに入った。

▼その会議に中で、ちょっぴり違和感を感じたのは、町会から陽性者を出さないというのが最大の目的となり、活動の自粛を求めようという雰囲気が最善だという雰囲気が蔓延しているように感じた。

▼そのムードに、戦時中に町会が体制翼賛の片棒を担がせられ「隣組」をつくり、戦争に反対する者を監視したという、状況に似た雰囲気をちょっぴり感じた。

▼だが、町会の「安全・安心なまちづくり」という大きなテーマの中では、そのようなことを発言できる空気ではなかった。

▼そんな曖昧な気分でもやもやしていた私だが、中島の指摘「イデオロギーを超えた、全体主義への入り口がある」という表現に目を見張る。

▼パンデミックな新型コロナで、我が国もうろたえているようだ。「時代の雰囲気に流される」ということで、我が国も先の世界大戦に真しぐらに突入していった歴史がある。

▼ここは、一つ「頬をつねって」、「目覚めよ」と自分に言い聞かす時代ではないかと、考えてみた。

▼昨日、函館市内に買い物に出かけたら、私の店によく来ていただいているご夫婦にであった。「コロナ禍で蜜を避けるので、行きたいけれど自粛しています」と、私の妻に答えたという。

▼このご夫婦は「目覚めよ!」のテーマで名の知れた、ある宗教団体の方だ。私はこんな時世だから、人類の危機を乗り越えるヒントをいただきたいと思った。

▼「自粛警察」というのは、急速な文明の進歩で、自分と違うものを排他する、ある種の潔癖症がもたらした、異常性ではないかと思う。

▼ここまで書けば、表題が適当なものが見つからなくなくなってしまう。ということで、表題はこのままにしたい。