ここ数日、天候が安定していない。
私の村の天候は、室蘭方面の天候とほぼ同じだ。天気予報は室蘭を基準として生活している。
先日、私の村も大いに荒れたが、室蘭では突風で送電線の鉄塔が倒れ、停電が数日続き人々の生活は、困窮を極めているようだ。
私の子供の頃、停電はよくあった。風が強く吹くと裸電球の光量が薄くなったり濃くなったりして、間もなく停電があることを知らせた。ロウソクやランプはすぐ灯すことができる位置にあった。
今の停電は、サドンデスだ。世の中の終わりが突然やってくる恐怖感がある。
しかし、どんな夜中でも電力会社の作業員の復旧活躍で、我慢できる範囲内で点灯する。
陰で支える人々の労苦に対しありがたいと思うのだが、原発事故での電力会社の不誠実さが脳裏の前面に出る昨今は、電気料金を支払っているので当たり前のような感じを抱く。
しかし、室蘭市の長時間にわたる停電で、人々の生活の復旧のために寒波と吹雪の中で、懸命に復旧作業を展開する方々に、思いを馳せないわけにはいかない。
そう思いながらも、電力会社内部では、これで電気の有り難味を実感し、原発再稼動に利するような展開になるなどと、内心喜んでいやしないかと、つい邪推を働かせてしまう。
原発再稼動を主張する政治家同様、私も悪魔の心を持ってしまったようだ。
※村には今日も雪がちらついている。

寒風吹き荒れる中、一人の見知らぬ老夫人が「コーヒー飲みたいんだけど、いいべが」と店に入って来た。
完全な津軽弁だ。青森の三厩(みんまや)から、私の村の、ある家に滞在しているという。その家では老夫婦が二人で暮らしていたが、今月初めにご主人が亡くなり、私も葬儀に参列している。
奥さんが一人ぼっちになったので、49日まで滞在しているという。
自分が住む三厩のアパートの隣の部屋に、老婦人の長女夫婦が引越ししてきた。自衛隊員のご主人の転勤だったそうだ。生まれたばかりの子供がいたので、そのおばさんは親代わりのお世話をしたのであろう。それから長い年月が経っても親戚づきあいをしてるという。長女のご主人は退職されたが、現在函館に住んでいる。冬になると両親を函館に呼び、あたたかな春になると両親は村に戻るという生活を繰り返していたそうだ。青森のおばさんも一人暮らしなのであろう。毎年暮れには函館の家に招待され、みんなで正月を迎えるという。
葬儀の時の様子を思い出した。50代後半の長女は終始泣き崩れ、今にも倒れそうな気配で、参列者も心配していたに違いない。
「ここの家の父さんは、とっても気持ちのやさしい人だったから、娘さんが悲しむのもわがるな」と、参列者の声を私も聞いていた。
「おめが泣ぐのをやめねば、父さんが心配して、いづまでたっても成仏でぎないんだよ」と、おばさんはいったそうだ。
「あの父さんは本当に心のやさしい,ほどげ様のようないい人だった」とおばさんはしみじみ語った。
私は亡くなったおじさんのことはあまり知らないが、その奥さんはよく知っている。水産加工場で男性従業員の炊事を担当しているが「わがい者はみんな腹減らしているので、自分の金でおかずを買って食わせでいるんだ」といっていたのを、本人から聞いたことがある。
このご主人がいてこの奥さんがいる。
昔このような人たちが、この村にはたくさんいたのだ。
家族が一つ屋根の下で、裸電球の下で集っていた頃を思い出した、心あたたまる津軽のおばさんの話である。
私の村の天候は、室蘭方面の天候とほぼ同じだ。天気予報は室蘭を基準として生活している。
先日、私の村も大いに荒れたが、室蘭では突風で送電線の鉄塔が倒れ、停電が数日続き人々の生活は、困窮を極めているようだ。
私の子供の頃、停電はよくあった。風が強く吹くと裸電球の光量が薄くなったり濃くなったりして、間もなく停電があることを知らせた。ロウソクやランプはすぐ灯すことができる位置にあった。
今の停電は、サドンデスだ。世の中の終わりが突然やってくる恐怖感がある。
しかし、どんな夜中でも電力会社の作業員の復旧活躍で、我慢できる範囲内で点灯する。
陰で支える人々の労苦に対しありがたいと思うのだが、原発事故での電力会社の不誠実さが脳裏の前面に出る昨今は、電気料金を支払っているので当たり前のような感じを抱く。
しかし、室蘭市の長時間にわたる停電で、人々の生活の復旧のために寒波と吹雪の中で、懸命に復旧作業を展開する方々に、思いを馳せないわけにはいかない。
そう思いながらも、電力会社内部では、これで電気の有り難味を実感し、原発再稼動に利するような展開になるなどと、内心喜んでいやしないかと、つい邪推を働かせてしまう。
原発再稼動を主張する政治家同様、私も悪魔の心を持ってしまったようだ。
※村には今日も雪がちらついている。

寒風吹き荒れる中、一人の見知らぬ老夫人が「コーヒー飲みたいんだけど、いいべが」と店に入って来た。
完全な津軽弁だ。青森の三厩(みんまや)から、私の村の、ある家に滞在しているという。その家では老夫婦が二人で暮らしていたが、今月初めにご主人が亡くなり、私も葬儀に参列している。
奥さんが一人ぼっちになったので、49日まで滞在しているという。
自分が住む三厩のアパートの隣の部屋に、老婦人の長女夫婦が引越ししてきた。自衛隊員のご主人の転勤だったそうだ。生まれたばかりの子供がいたので、そのおばさんは親代わりのお世話をしたのであろう。それから長い年月が経っても親戚づきあいをしてるという。長女のご主人は退職されたが、現在函館に住んでいる。冬になると両親を函館に呼び、あたたかな春になると両親は村に戻るという生活を繰り返していたそうだ。青森のおばさんも一人暮らしなのであろう。毎年暮れには函館の家に招待され、みんなで正月を迎えるという。
葬儀の時の様子を思い出した。50代後半の長女は終始泣き崩れ、今にも倒れそうな気配で、参列者も心配していたに違いない。
「ここの家の父さんは、とっても気持ちのやさしい人だったから、娘さんが悲しむのもわがるな」と、参列者の声を私も聞いていた。
「おめが泣ぐのをやめねば、父さんが心配して、いづまでたっても成仏でぎないんだよ」と、おばさんはいったそうだ。
「あの父さんは本当に心のやさしい,ほどげ様のようないい人だった」とおばさんはしみじみ語った。
私は亡くなったおじさんのことはあまり知らないが、その奥さんはよく知っている。水産加工場で男性従業員の炊事を担当しているが「わがい者はみんな腹減らしているので、自分の金でおかずを買って食わせでいるんだ」といっていたのを、本人から聞いたことがある。
このご主人がいてこの奥さんがいる。
昔このような人たちが、この村にはたくさんいたのだ。
家族が一つ屋根の下で、裸電球の下で集っていた頃を思い出した、心あたたまる津軽のおばさんの話である。