常軌を逸する殺人事件、大相撲界の八百長問題、政治や教育界における質の低下など、我が国の凋落振りを嘆く毎日が続いていたはずである。
ところが3:11の東日本大震災以降、復興に向けた国民の強い絆や献身的な活動が報道されるや、震災以前に国民に蔓延していた厭世観は、どこかに吹き飛んだ感がある。
被災地の惨状に心がつぶれそうになる毎日だが、その反面、被災場所や放射能現場の最前線で、命をかけ復旧に努力をする人々の活動が、私たちの心を奮い起こしてくれる。
しかし、それを美談として報道する傾向に多少の違和感を持つ。
死の灰の現場で働く人たちは、国民の原子炉停止の期待の中で、その状況から逃れられない運命なのではないかという、疑問と共にである。
太平戦争が始まった昭和16年12月8日。
その3ケ月後に出版された、大政翼賛会嘱託・森崎善一著『御奉公』という本がある。1章から41章まで、戦時下の国民の心構えを記している。
第1章の解説である。
「朝日が燦々と輝いて、菊の花の馨が全土の隅々に迄、満ちみちている我が大日本帝国には、忠勇の民一億が住んで居ります。
何といふ力強いことでせう。我々大日本帝国の臣民は、この立派な国に生を享けたことを感謝し、この立派な国体をしっかり自分の身につけて、正しい生活を致さなければなりません。
我々臣民の行ふべきことは色々ありますが、如何に大きな行であっても、御奉公より大きなものはなく、御奉公より重いものはないのであります。日本人の行いの中で、御奉公にまさる行はなく、御奉公の行ほど尊いものはありません。
我々日本の臣民は、一人残らず高潔な菊の花の様の香り高い姿になって、御奉公の生活を精進しなければなりません」
※夕暮れのとどほっけ村。自然は私たちに真実を語ってくれる。

私はこう感じる。
石原東京都知事が、消防救助隊の献身的活動の前に涙を流し、その行為を称えた。最前線に出動させられた消防隊員の、真の気持ちを果たして汲んだ涙なのだろうか。石原氏独自の美学の、陶酔の涙なのではないだろうか。
もう一つ、気になる行動がある。大阪府の橋下知事の「国歌問題」だ。
従わぬ教員を排除する条例の制定を行うようだ。議会多数派は知事の応援で当選した支持派だ。権力に溺れてはならない。維新の会とは、国を憂う青年将校の暴挙にならないよう、注目しなければならない。
3:11前の我が国は、政局が不安定になっても、何か大きな事件が発生すれば、マスコミの一斉報道により、大切なものを見分ける国民の視線を曇らせていたような気がする。
3:11以降、戦後構築された様々な概念が崩れ去るのを感じる。我が国は今、大きな転換を迫られている。
ここに来て反省なき政治家たちの、与野党協力体制が動き始めたようだ。
よき国家を作るためにだろうか、それとも震災後の国民の「絆」の涵養を背景に、何か国家主義的なことを企んでいやしないだろうかと、心配する。
権力を監視するのがマスコミの役割だが、今の商業ベースのマスコミに過度の期待は禁物である。
詩人の茨木のりこさんの詩を思い出す。
もはやできあいの思想・・・宗教・・・学問
もはやいかなる権威にも寄りかかりたくない
ながく生きて心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合なことやある
寄りかかるとすれば
それは椅子の背もたれだけ
ところが3:11の東日本大震災以降、復興に向けた国民の強い絆や献身的な活動が報道されるや、震災以前に国民に蔓延していた厭世観は、どこかに吹き飛んだ感がある。
被災地の惨状に心がつぶれそうになる毎日だが、その反面、被災場所や放射能現場の最前線で、命をかけ復旧に努力をする人々の活動が、私たちの心を奮い起こしてくれる。
しかし、それを美談として報道する傾向に多少の違和感を持つ。
死の灰の現場で働く人たちは、国民の原子炉停止の期待の中で、その状況から逃れられない運命なのではないかという、疑問と共にである。
太平戦争が始まった昭和16年12月8日。
その3ケ月後に出版された、大政翼賛会嘱託・森崎善一著『御奉公』という本がある。1章から41章まで、戦時下の国民の心構えを記している。
第1章の解説である。
「朝日が燦々と輝いて、菊の花の馨が全土の隅々に迄、満ちみちている我が大日本帝国には、忠勇の民一億が住んで居ります。
何といふ力強いことでせう。我々大日本帝国の臣民は、この立派な国に生を享けたことを感謝し、この立派な国体をしっかり自分の身につけて、正しい生活を致さなければなりません。
我々臣民の行ふべきことは色々ありますが、如何に大きな行であっても、御奉公より大きなものはなく、御奉公より重いものはないのであります。日本人の行いの中で、御奉公にまさる行はなく、御奉公の行ほど尊いものはありません。
我々日本の臣民は、一人残らず高潔な菊の花の様の香り高い姿になって、御奉公の生活を精進しなければなりません」
※夕暮れのとどほっけ村。自然は私たちに真実を語ってくれる。

私はこう感じる。
石原東京都知事が、消防救助隊の献身的活動の前に涙を流し、その行為を称えた。最前線に出動させられた消防隊員の、真の気持ちを果たして汲んだ涙なのだろうか。石原氏独自の美学の、陶酔の涙なのではないだろうか。
もう一つ、気になる行動がある。大阪府の橋下知事の「国歌問題」だ。
従わぬ教員を排除する条例の制定を行うようだ。議会多数派は知事の応援で当選した支持派だ。権力に溺れてはならない。維新の会とは、国を憂う青年将校の暴挙にならないよう、注目しなければならない。
3:11前の我が国は、政局が不安定になっても、何か大きな事件が発生すれば、マスコミの一斉報道により、大切なものを見分ける国民の視線を曇らせていたような気がする。
3:11以降、戦後構築された様々な概念が崩れ去るのを感じる。我が国は今、大きな転換を迫られている。
ここに来て反省なき政治家たちの、与野党協力体制が動き始めたようだ。
よき国家を作るためにだろうか、それとも震災後の国民の「絆」の涵養を背景に、何か国家主義的なことを企んでいやしないだろうかと、心配する。
権力を監視するのがマスコミの役割だが、今の商業ベースのマスコミに過度の期待は禁物である。
詩人の茨木のりこさんの詩を思い出す。
もはやできあいの思想・・・宗教・・・学問
もはやいかなる権威にも寄りかかりたくない
ながく生きて心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合なことやある
寄りかかるとすれば
それは椅子の背もたれだけ