▼国会の防衛論争を観て感じるのは、野党側の防衛論は、与党側の自衛拡大の考えでは「戦争」になるのではないかという、疑念の議論だ。
▼両方の意見を聴いていると、もし戦争になった場合、我が国の防衛対策は、万全かというような討論に感じる。
▼つまり「防衛論争」という、土俵に上がってしまえば、万全の防御体制を布かなければだめだという議論になる。
▼「防衛論」というのは、防衛について論ずるものであって「戦争放棄」について語るものではない。与野党の国会論争を観てそう実感する。
▼これは新憲法ができた当初からの「国会審議の防衛論争」の“からくり”だ。しかし国民は、その論争で「戦争をしない国」を、どう維持するかを聴きたいと思っているが、それは間違いだ。
▼今月のブログでも書いたが、国会での防衛論争は、完全な防衛とは何かを追求する“土俵”での勝負だからだ。
▼土俵に上がってしまえばおしまい、という言葉が野党側から出るが、まさにその通りだ。だが土俵に上がらないのは“臆病者”のそしりを免れないのが、現在の我が国だ。
▼真面目で実直そうな顔の“キシダ山”は、横綱になるとすぐに、周辺有事を煽り「敵基地攻撃能力」と「防衛費増強」を持ち出した。つまり野党に、強烈な張り手をかましたのだ。
▼この背景には「コロナ戦争」がある。コロナ軍の我が国への侵攻は、際限なく押し寄せる。その対応に、国産ではなく米国製のワクチンを、国民が半ば無批判的に受け入れたからだ。
▼キシダ山は、これで悲願の【憲法改正】は、手中に入ったと判断した。そこで「自衛力増強」にでた。
▼晋三も菅もやれなかったことを、自分の代で成し遂げようという覚悟だ。意外や「自衛の為」とあれば、国民の賛成も過半数を超えている。
▼やはり米国製ワクチン接種の効果は、日本人の“米国化”に効果があったのだ。国民の過半数が「国防意識」に目覚めたからだ。そういえば米国のワクチンは、軍の管理下にある。
▼敗戦を境に日本は変わった。そして“よい意味”での“国体”も失った。天皇は残ったのではというが、天皇も占領国が日本軍同様【使いかっての良い存在】として残したのだ。
▼戦後我が国は「対米従属国家」として生まれ変わった。だが、コロナ戦争が始まり、そこで戦後が終了したとみるべきだ。
▼新しい対米関係は、コロナを境に【対米同化】へとシフトされるのだ。その覚悟を日本が示したのが、防衛費「GDPの2%」だ。
▼さらに米国は「本当の覚悟」を要求する。それは「台湾有事」となった時、日本が最前線で中国と戦うことだ。そして北朝鮮やロシアともだ。
▼そこで戦後からずっと国会で論争していた「敵基地攻撃」を閣議決定したのだ。それは昔から親戚づきあいだった中国への「縁切り宣言」とでもいうべきものだ。中国の怒りは、山よりも高く、海よりも深いに違いない。
▼「戦後レジームの解体」とは、新たな【米国従属国家】としての始まりなのだ。と気がついた時、中国から十数億の矢が日本へ飛んできた。
▼目が覚めた!。朝食を済ませ国会の防衛論争を観ていながら、あまりの茶番劇に、国会議員同様眠っていたのだ。
▼我が国の防衛論争は「核保有」や「小型核使用」まで突き進むに違いない。最新鋭の武器を保持しなければ「国家防衛」など意味がないからだ。
▼今日は晴天だ、風がないので海岸散歩に出かけようと思う。だが私は、水平線を眺めると、突然敵艦隊が出現するのを想定するのだ。
▼ノルマンディー上陸作戦と沖縄戦を思い出すからだ。それにゴジラの上陸?!もだ。この感覚が消えない限り、私は【9条改正】には反対する。