▼自民党議員の「脱税問題」を審査する「倫理審議会」に関係者が出席するかしないかで、もめていた。
▼一般的にこの問題は、国民の代表者である議員が起こした事件なのだから、国民に公開で審議会を開催するのが常識だ。
▼ところが公開か非公開は、審議会が決めるという法律があるようだ。こんな法律は「納税の義務」を課せられている国民からすれば、いわゆる「ざる法」だ。
▼国会議員だけ許される法律など、ありはしない。最高法規である憲法の「第99条」には、天皇であっても、そして国会議員でも憲法尊重擁護の義務を課せられているからだ。
▼そこにまさかの総理出席だ。自民党の重鎮ばかりが出席の対象になっていて、国民が望む委員会に出席しないのは、もはや自民党は国民の信頼を失うと判断したのか、総理の出席は前代未聞だという。
▼自らが議長を行うということなのか。それとも一般議員として傍聴側に座るというのか、何とも意味不明な総理だ。
▼政界には「禊」というのがある。問題を起こし一度失職し、出直し選挙で勝利すればそれを「禊」が済んだとなすという、勝手な考え方だ。
▼これは古事記の「禊」から、引用した政界でしか通用しない言葉だ。古事記の「禊」とはこうだ。
▼イザナキの神が母が死んだので「黄泉の国」へ行ったが、体が穢れたので川に飛び込む。そこで穢れを落としたが、そこからさまざまな神を生み出す。
▼政界の禊とは、一度選挙という「荒波の大河」の試練を経て、当選すると許されるという、きわめて自分勝手な「禊」だ。
▼神の「禊」とは、その行為から「三貴神」を生み出す。「天照大神」と「月読命」と「健速須佐之男命」だ。この神が国を立派に治める神だ。
▼「神界」と「政界」の意味は全く違う。適当にごちゃまぜしてしまい、本来の意味を「曖昧」にしてしまうのが「政界」の不正解?だ。
▼今まで政界の「禊」は何度も行われたが、再度復活して、世の中を照らす政治家になったのは、誰も知らない。
▼総理が倫理審査委員会に出席する、本当の目的は何なのか。終了後総理は意見を聞かれ、国民は知るだろう。
▼マスコミや傍聴議員の多くが「✖」を出した場合、総理も「✖」としなければ、常識的におかしいということになる。
▼そこで、皆さんと同様の考えんだと答えれば、少なくても次期総理のライバルを蹴落とすことになる。それも藤井名人並みのすごい一手だ。
▼だが、自民党派閥から総攻撃は免れない。だが布石として、すでに「派閥解消」の一手は打っている。
▼キシダ総理は四面楚歌に陥るが、もはや引き下がりはしない。後は「王手」しかない。自民党、満身創痍での「解散選挙」だ。
▼もともとキシダ総理は、打たれ強いというか、打たれても感じない珍しい政治家タイプだ。この国の現状に即した「曖昧な日本の政治家」なのだろう。
▼もはや周囲の誰にも気兼ねせず「解散」の王手を何時でも打つ覚悟を示すのが、倫理審査会への出席ということではないか。
▼今の自民党では選挙は勝てないという、自民党内での流れだが、キシダ総理は「だが今の状況でも、野党もそれほど勝てはしない」と、読んでいるかもしれない。
▼今までの自民党は解党し『新たな自民党を生み出す』という‟キャッチ・フレーズ”で、ただ批判だけするだけの野党に、国民は政権を任すのですかという、強いメッセージを国民に発しての『解散選挙』だ。
▼肝心の軍資金だ。野党は‟かすかす”だ。自民党には‟軍資金”がある。決戦の準備金が今回の問題の裏金ではないか。
▼先日あるご夫婦と、自民党の脱税問題について話し合った。こんな自民党だから選挙に入れたくないが、今の野党には入れようとも思わない。結局選挙に行ったら、自民党候補に入れるのではないかという内容だった。
▼そんな国民の声をキシダ総理は、人知れず耳を立てているに違いない。今までの自民党議員ではない、新たな国を背負う自民党議員の誕生こそ、真の政界の‟禊”ではないかと。
▼『今や議会制度は、結局のところ、諸党派と経済的利害関係者の支配のための性悪な外装になっている。その結果国家と社会との区別は希薄化し、国家は社会生活のあらゆる局面への介入と、あらゆる私益保護とを要求される「全体国家」へと脱落している。ここでいう「全体国家」とは、人民の生活の全体を支配する強力な国家ではなく「全体化」したがゆえに、社会の種々雑多な要求を、すべて考慮せざるを得ない、弱々しい国家という意味で用いられている』。ドイツの政治哲学者、カール・シュミットの指摘だ。長谷部恭男著「憲法とは何か」岩波新書から参照。
▼なんだか、最近【小国日本】と化しているような気がする。田舎生まれの団塊おやじの私は、この頃【日本村】になってきたのではないかと感じる。
▼私の村も、議会政治と行政組織の弱体化で、函館市に吸収合併された。函館市民になり20年が経とうとしているが、「函館村」ではないかというのが、合併後の総括だ。市民と議会が遠い存在だからだ。
▼【小国日本】。米国式の「憲法」が良くないといい「憲法改正」を、自民党議員が大声で叫ぶが、その議員が憲法を守り切れなくなったので、改正しようとしているようだ。
▼【リベラルな議会制はすでに過去の政治形態だという。組織政党が議会内での公開の審議を通じて、真の公益を目指して熟慮を重ね、見解の一致に至ることは期待できない】。
▼【議会制民主主義の主なプレイヤーである組織政党は、競合する多様な私益を系統的に代表して互いに対峙しつつ、密室での取引を通じて、その場限りの妥協を実現するにとどまる】。と、シュミットは断言する。
▼期待もしない方がよさそうな、総理出席の『政治倫理審査会』のようだ。
▼一般的にこの問題は、国民の代表者である議員が起こした事件なのだから、国民に公開で審議会を開催するのが常識だ。
▼ところが公開か非公開は、審議会が決めるという法律があるようだ。こんな法律は「納税の義務」を課せられている国民からすれば、いわゆる「ざる法」だ。
▼国会議員だけ許される法律など、ありはしない。最高法規である憲法の「第99条」には、天皇であっても、そして国会議員でも憲法尊重擁護の義務を課せられているからだ。
▼そこにまさかの総理出席だ。自民党の重鎮ばかりが出席の対象になっていて、国民が望む委員会に出席しないのは、もはや自民党は国民の信頼を失うと判断したのか、総理の出席は前代未聞だという。
▼自らが議長を行うということなのか。それとも一般議員として傍聴側に座るというのか、何とも意味不明な総理だ。
▼政界には「禊」というのがある。問題を起こし一度失職し、出直し選挙で勝利すればそれを「禊」が済んだとなすという、勝手な考え方だ。
▼これは古事記の「禊」から、引用した政界でしか通用しない言葉だ。古事記の「禊」とはこうだ。
▼イザナキの神が母が死んだので「黄泉の国」へ行ったが、体が穢れたので川に飛び込む。そこで穢れを落としたが、そこからさまざまな神を生み出す。
▼政界の禊とは、一度選挙という「荒波の大河」の試練を経て、当選すると許されるという、きわめて自分勝手な「禊」だ。
▼神の「禊」とは、その行為から「三貴神」を生み出す。「天照大神」と「月読命」と「健速須佐之男命」だ。この神が国を立派に治める神だ。
▼「神界」と「政界」の意味は全く違う。適当にごちゃまぜしてしまい、本来の意味を「曖昧」にしてしまうのが「政界」の不正解?だ。
▼今まで政界の「禊」は何度も行われたが、再度復活して、世の中を照らす政治家になったのは、誰も知らない。
▼総理が倫理審査委員会に出席する、本当の目的は何なのか。終了後総理は意見を聞かれ、国民は知るだろう。
▼マスコミや傍聴議員の多くが「✖」を出した場合、総理も「✖」としなければ、常識的におかしいということになる。
▼そこで、皆さんと同様の考えんだと答えれば、少なくても次期総理のライバルを蹴落とすことになる。それも藤井名人並みのすごい一手だ。
▼だが、自民党派閥から総攻撃は免れない。だが布石として、すでに「派閥解消」の一手は打っている。
▼キシダ総理は四面楚歌に陥るが、もはや引き下がりはしない。後は「王手」しかない。自民党、満身創痍での「解散選挙」だ。
▼もともとキシダ総理は、打たれ強いというか、打たれても感じない珍しい政治家タイプだ。この国の現状に即した「曖昧な日本の政治家」なのだろう。
▼もはや周囲の誰にも気兼ねせず「解散」の王手を何時でも打つ覚悟を示すのが、倫理審査会への出席ということではないか。
▼今の自民党では選挙は勝てないという、自民党内での流れだが、キシダ総理は「だが今の状況でも、野党もそれほど勝てはしない」と、読んでいるかもしれない。
▼今までの自民党は解党し『新たな自民党を生み出す』という‟キャッチ・フレーズ”で、ただ批判だけするだけの野党に、国民は政権を任すのですかという、強いメッセージを国民に発しての『解散選挙』だ。
▼肝心の軍資金だ。野党は‟かすかす”だ。自民党には‟軍資金”がある。決戦の準備金が今回の問題の裏金ではないか。
▼先日あるご夫婦と、自民党の脱税問題について話し合った。こんな自民党だから選挙に入れたくないが、今の野党には入れようとも思わない。結局選挙に行ったら、自民党候補に入れるのではないかという内容だった。
▼そんな国民の声をキシダ総理は、人知れず耳を立てているに違いない。今までの自民党議員ではない、新たな国を背負う自民党議員の誕生こそ、真の政界の‟禊”ではないかと。
▼『今や議会制度は、結局のところ、諸党派と経済的利害関係者の支配のための性悪な外装になっている。その結果国家と社会との区別は希薄化し、国家は社会生活のあらゆる局面への介入と、あらゆる私益保護とを要求される「全体国家」へと脱落している。ここでいう「全体国家」とは、人民の生活の全体を支配する強力な国家ではなく「全体化」したがゆえに、社会の種々雑多な要求を、すべて考慮せざるを得ない、弱々しい国家という意味で用いられている』。ドイツの政治哲学者、カール・シュミットの指摘だ。長谷部恭男著「憲法とは何か」岩波新書から参照。
▼なんだか、最近【小国日本】と化しているような気がする。田舎生まれの団塊おやじの私は、この頃【日本村】になってきたのではないかと感じる。
▼私の村も、議会政治と行政組織の弱体化で、函館市に吸収合併された。函館市民になり20年が経とうとしているが、「函館村」ではないかというのが、合併後の総括だ。市民と議会が遠い存在だからだ。
▼【小国日本】。米国式の「憲法」が良くないといい「憲法改正」を、自民党議員が大声で叫ぶが、その議員が憲法を守り切れなくなったので、改正しようとしているようだ。
▼【リベラルな議会制はすでに過去の政治形態だという。組織政党が議会内での公開の審議を通じて、真の公益を目指して熟慮を重ね、見解の一致に至ることは期待できない】。
▼【議会制民主主義の主なプレイヤーである組織政党は、競合する多様な私益を系統的に代表して互いに対峙しつつ、密室での取引を通じて、その場限りの妥協を実現するにとどまる】。と、シュミットは断言する。
▼期待もしない方がよさそうな、総理出席の『政治倫理審査会』のようだ。