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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

五里霧中

2011年05月26日 13時59分49秒 | えいこう語る
間もなく6月だ。
海の村は、深い海霧(ガス)に包まれる。
車で走っていても、人や動物が飛び出して、轢いてしまいやしないかと、びくびくするほど、周囲が見えなくなる。
殺人事件発生の、ミステリアスな小説でも書きたい雰囲気にもなる。
若い頃は息苦しさもあったが、年齢と共にそんな季節も、楽しめるようになって来た。読書もいいし、お酒を飲むのもいい、音楽を聴くのもいい。
♪夜霧のしのびあい、♪夜霧よ今夜もありがとう、などという曲のタイトルも、なかなか素敵だ。
周囲が見えないというのは不安だが、自分の存在が見えにくくなるという、透明人間になったような感じもいい。霧隠才蔵もカッコイイ。
政治献金違反を問われている、民主党の小沢一郎。その小沢を批判する、福島原発の推進者、民主党・渡部恒三が仲直り宣言をした。
「渡部は俺に悪態ばかりついていたが、俺はシカとしていた」仲直り会場での小沢の発言である。政治家ではない、ヤクザの手打ち式での発言にみえる。
今や人気の落ちた両人、共に東北出身の代議士で、復興への協力体制をアピールしたと報道された。
正義感を装っているが、東日本復興の公共事業で、莫大な政治資金を確保するための、共闘ではないかと疑ってしまう。その資金で政権を奪取し、最後の花を咲かせようとの算段ではないか。


二人は元自民党である。最も自民党らしい政治家でもある。民主党の仮面をかぶっているが自民の狼だ。再び田中角栄流の動きをするのではないだろうか。
政治家の本性は「権力と金」に尽きるようだから。
さて昨日のテレビである。東京電力は設立当初から、経産省の天下りが続き、その役員年報酬は3,000万円以上だという。
さらに驚いたのは、関西電力の会長の退職金だ。10億円だというから空いた口がふさがらない。ふさがらないどころか、あごが外れてしまう。
電力料金からの支払いだ、つまり国民が退職金を払っていたのだ。
今回の大震災の東電の賠償額。限度を超えれば国が支払うことになる。国が支払うのは税金からだ。被害を受けたのは国民だ。被害者が賠償金を出すのだ。
どうなっているのだこの国は。
一方、野党自民党「原発を推進したのはお前たちだろう」といわれれば、言葉もないようだ。
「首相の任期は、4年間ぐらいがいいよね」といい、パリで鋭気を養っている菅さん。
とどほっけ村は間もなく深い海霧に覆われるが、我が国はとっくに五里霧中なのかも知れない。
「霧の中の必殺仕置き人」なんて、小説でも書きたい気持ちにもなる。
♪あーあー、いやになちゃうな、あーあー驚いた!
早朝から歌謡漫談でした。


八幡君逝去

2011年05月25日 11時16分25秒 | えいこう語る
八幡君(ヤハタ君=仮名)15歳が、去る4月22日に亡くなったと聞いた。
ヤハタ君と私は、特に知り合いというわけではないが、サーフサイドの前を散歩する白い小犬だ。
飼い主が漁師さんで、その持ち船の名が「八幡」なので、私が勝手にヤハタ君と名付けただけだ。
漁師さんの犬らしく、小柄ながら威勢がよかった。私が近寄ると大きな声で吠えていた。だから私とは顔見知りだが、親しいという間柄ではなかった。
1年程前には、おじいさんと一緒に散歩に出ていた。
「俺が疲れていても、時間になれば、散歩に出かけようと吠えるんだ」と、おじいさんが嘆きながらも、ヤハタ君に引っ張られ、散歩を強制されていた姿を目にしたものだ。
おじいさんが疲れてしまったのか、その後は大柄な身体のおばあちゃんと散歩していた。
そのあたりから、ヤハタ君は、私と出会っても吠えなくなり、毛並みも乱れ、精彩を欠くようになった。
おばあちゃんに聞くと、もう高齢で視力も悪くなりめっきり弱まったという。
最近、ヤハタ君の散歩する姿を見ない。
昨日おばあちゃんが、ミニ何とかという小犬を連れて散歩していた。
尋ねるとおばあちゃんがしんみり話し出した。
※ヤハタ君が散歩していた銚子ビーチ。


「半年前、片目が見えなくなり、それで側溝に落ち足を骨折し、4月22日亡くなった。15年も一緒に暮らしたので、土に埋めるのもかわいそうなので、函館市内の火葬場に連れて行った。すごい立派な火葬場で安心して見送ることができた。でもかわいそうで、私も三日間体調を崩し、病院通いをした」と、語った。
東日本大震災後、老夫婦と暮らしていた猫が、数日後戻ってきた時の二人の喜びようをテレビで観た。
「実の孫より可愛い、よく生きのびてくれた」と涙を流した。
老人にとっては、よき話し相手だったのだろう。
最近のペットブームには、急速に進みすぎた文明社会が置き忘れた、人間のやさしさと悲しさが、垣間見れるような気がする。
私も子供の頃は犬を飼っていた。近所にもたくさん犬がいた。仲良くなっても動物は先に亡くなる。子供心にはそれがとても悲しかった。
おばあちゃんと小犬。今度はたぶんおばあちゃんが、先に旅立つはずである。
おばあちゃんの傍らで小犬の泣く姿が、ふと浮かんだ。
ヤハタ君のご冥福をお祈りしたい。


海側・山側

2011年05月24日 11時58分02秒 | えいこう語る
環境決定論というのがあるが、人は住んでいる環境で、考えが左右されるようだ。
その環境に合わなければ住みにくい。だから気がつかないうちに、環境に適応してしまうのである。
でもその環境が、自分にとって快適でなければどうしたらいいか。
その環境から逃避するか、その環境を住みやすいように作り変えなければならない。しかし、作り変えるのは至難の業だ。
結婚に例えてみるとよくわかるが、我慢して環境に慣れさせられるのが、女性だ。
我慢できなければ、離婚という解決法しかない。その時子供の心に、大きな傷を負わせることが多い。自分のお腹を痛めた子供である、母性本能が働き、好むと好まざるに係わらず、環境に適応せざるを得なくなるのだ。
女性はつらい。しかし、男性もつらいのである。妻子を養うため、決して適した環境でない職場でも、我慢をしなければならないからだ。
長い人生、お互いつらいのだ。そのつらさも繰り返すことで麻痺してしまい、慣れて暮らすのが夫婦なのかもしれない。
「似たもの夫婦」とはよく言ったものである。似なければ暮らしていけないのだ。
しかし、お互い元は他人同士である。それぞれ別な環境で育ってきたので、価値観は多様であることの理解は必要である。
※トドホッケ村で、一番湘南ぽい場所。


前置きは長くなったが、私は家の前は海で、後ろは山という田舎で育った。
妻は、函館市の駅前生まれで、港函館が活気に満ち溢れ「百万ドルの夜景」が一番美しかった時代に育った。私の子供時代、確かに函館は大都会だった。
自分はマチ育ちであなたは田舎育ち、そんな思いは三つ子の魂のようだ。
私は田舎育ちを自慢しているので、それは問題にならない。
しかし、夫婦としての付き合いも長いが、妻がいまだに理解を示さないものがある。
私は方向を訪ねられると、海側を走ってとか、山側の方にあるとか、海と山でその目標を表現する。それを妻が田舎くさい表現だと、いまだに注意する。
東京に出かけた時も、私は目的の場所が、海側の方とか山側のほうだというが、妻は「馬鹿じゃないの」という。私の感覚では、それでいいのだが。
先日、神戸市内の大丸デパートがテレビに出ていた。
そこで発見したのだ。
店内の方向表示板が、海側・山側となっているのだ。
神戸では北側が六甲山で「山側」、南側が海だから「海側」なのだ。
妻にそのことを伝えると、返事はなかった。
「やったね」と思った。神戸から比べると、函館なんて田舎マチだよな、という私の勝ち誇った気持ちである。
とはいえ、私も平成16年の市町村合併により「函館市民」になったのだ。
田舎者から田舎市民になったような気がして、なんだか苦い思いがしてきた。


故郷学習

2011年05月23日 13時11分23秒 | えいこう語る
私が椴法華中学校を卒業したのは、昭和39年である。
その母校に「故郷学習」なる講座がある。
昨年に引き続き、私がその講師を務めることになった。
講師といえば、何か特別なことを教えなければという思いに駆られる。
昨年は少し気負いすぎて「昆布の歴史」を語った。
前浜で取れる昆布が、北前船に積まれどのような経路で運ばれ、食用ばかりではなく、歴史的にどのような意味を持ったのかを教えた。
ちょっぴり、歴史講座のようになってしまった。
子供たちも昆布漁の季節には、早朝から起こされ手伝わされるが、昆布に対する認識を新たにしてくれたようだ。
※山の中のシイタケ栽培。自然に囲まれ、ふっくら育っていた。


今年は6月下旬になるが、教えよう、覚えてもらおうという気負った感情ではなく、私が当時の中学生に戻り、そこから今の生活に至るまでのなかで、後輩たちに生きるためのヒントのようなものを、話せればいいと思っている。
それなら気楽だろうし、聞く生徒たちもクリラックスできると思う。
嫌いだった田舎生活、街に出てからの暮らし、好きな音楽や映画、そして故郷に戻り、故郷が大好きになったことなどである。
後一月の余裕がある。
あれもこれも語りたい。そしてこれもあれも削り、これとあれを付け加えよう、などと、楽しい時間を与えてくれる我が母校と、何よりも我が故郷に感謝したい。


佐藤孝行さん逝去

2011年05月22日 14時18分31秒 | えいこう語る
私たちの選挙区の国会議員だった、元自民党代議士佐藤孝行さんが、83歳で旅たった。
佐藤さんといえば戦後日本政治史に燦然と名を刻んだ、ロッキード事件の有罪者の一人である。
中曽根元首相の一の子分と言われ、浅黒い顔に眼光は鋭く、昔の政治家特有の恫喝の似合う政治家だった。つまり「睨み」の効く、悪代官役がぴったりの人物だった。
私は、そんな自民党らしい政治家は大嫌いだが、妙に佐藤さんには魅かれるものがあった。
私の村に来ての国会報告会、私語がうるさい漁師のおばさんたちに「かあさんがた、すこす、すじかにしてちょうだい」と言い放つ、独特のズーズー弁が、人物を引き立てていた。
ある町の公共事業、自分が推薦した業者が参加できなかった時、そこの町長を職員全員の前で恫喝したなどの話も聞いている。
佐藤さんはそんな「横車押之助」役がよく似合うだけの実力もあった。しかし、市町村議会には佐藤さんのそんなスタイルだけを真似た、恫喝という虎の衣を着たベテラン議員がいたのは、佐藤さんの負の部分の影響であろう。
佐藤さんが亡くなった翌日、函館市町内会連合会の総会があった。
懇親会の席上、私のテーブルの会長さんたちは、私より大先輩ばかりである。
佐藤さんの話題になった。自分は港湾関係の仕事に従事していたが、先生のおかげでたくさんの仕事をさせてもらった。先生は悪い面もあったが、政治家としては力があった。今の代議士にこのような人物はいないなどの話で、佐藤さんを偲び酒を酌み交わした。
※村の山の中にひっそりと咲いていた、しだれ桜の大木。
  道南が生んだ大物政治家、佐藤孝行さんの人生と重なって見えた。


私は若い頃、函館市内の会社に勤めていた。そのビルに佐藤さんの事務所があり、一度だけ選挙を手伝ったことがある。お礼に奥さんが、わざわざ私のアパートを尋ねてくれたことがあり、親しみを感じたのだ
自民党嫌いの私だが、国政報告会が村である時は楽しみにしていた。ざっくばらんで何を聞いても、丁寧に話してくれた。
おかげで自民党らしい政治とは、どんなものかを理解することが出来た。
橋本政権で念願の初入閣を果たしたとき、私も素直に喜んだ。でもロッキード事件が国民の心に染み付いていたため、不評を買いわずか12日で椅子を譲り渡した。
議員を辞した後、御子息を立候補させたが佐藤さんの影響力もすでに及ばなかった。
私が佐藤さんに「小渕政権の後は誰が首相にふさわしいですか」と尋ねたとき「たいした者はいないのさ、どんぐりの背比べだよ」と佐藤節が炸裂した。
自民党の末期を見据えていたのだろうか、その後の自民党の凋落振りは、坂を転げるようだった。
漁師の安全を願い港湾の整備に尽力をされた、自民党らしさを最後まで守り通した佐藤さんのご冥福を、心からお祈りいたします。