元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「マンディ 地獄のロード・ウォリアー」

2019-01-12 06:36:48 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MANDY )何やら、とんでもないものを観てしまったという感じだ。一般人がカルト集団に戦いを挑むという設定で、鑑賞する前はピーター・フォンダ主演の「悪魔の追跡」(75年)のような映画だと思っていたが、まるで違った。これはアクションでもホラーてもない、現実から完全に遊離した与太話だ。しかも、そのひねくれ具合が“単なる駄作”という次元を超えてカルト映画の域まで達している。近年を代表する怪作である。

 舞台は83年のカリフォルニア州にあるシャドーマウンテンで、冒頭に主人公レッドが林業に従事する様子が映し出される。しかし、現実的な描写はそこで打ち切られ、森の中の一軒家でのレッドと恋人マンディとの同棲生活から異様な雰囲気が漂う。マンディはどう見ても並の神経の持ち主とは思えず、そんな女と付き合うレッドも相当な変人だと思っていたら、突如現れたジェレマイア率いる邪教集団(?)がマンディを誘拐。彼女はレッドの目の前で惨殺されてしまう。

 傷ついたレッドは復讐を誓い、粛々とそれを実行するのだが、そのくだりが常軌を逸している。彼はあらかじめ準備していたかのように“武器”を製作し、一時的にピンチに陥っても御都合主義の権化みたいなプロセスで脱出し、敵を撃破する。さらに、レッドの前に立ちはだかるバイク部隊(?)に至っては、すでに人間の形状を留めていない。

 ならばアクション場面にカタルシスがあるのかというと、それも怪しい。テンポは悪いし、画面が暗くて全貌が掴めない。かと思うと、主人公の心象風景みたいなイメージが画面が延々と展開される。そして終盤には、この物語が地球上の出来事ではないようなことも暗示させる。

 監督はジョルジ・パン・コスマトスの息子パノス・コスマトスだが、とにかく個性的なのは確かなようだ。主演のニコラス・ケイジはヤケクソ的な熱演で、もう“フツーの役柄”には戻れないのではないかと思うほど(笑)。マンディに扮するアンドレア・ライズボロー、敵の首魁を演じるライナス・ローチ、いずれも変態度100%である。

 これが遺作となったヨハン・ヨハンソンの音楽は効果的だが、それよりも冒頭に流れるキング・クリムゾンの「スターレス」には参った。断じて誰にでも奨められる映画ではなく、人によってはまるで受け付けないシャシンだとは思うが、この、ある意味“思い切りの良さ”には感服する。製作国がアメリカではなくベルギーだというのも、何だか怪しい(爆)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「十字砲火」

2019-01-11 06:31:07 | 映画の感想(さ行)

 (原題:CROSSFIRE )1947年製作のアメリカ映画だが、日本公開は86年である。エリア・カザン監督の「紳士協定」と同時期に作られ、共に反ユダヤ主義をテーマとする内容であったが、本作も人種差別の何たるかを鮮明に暴き出し、強いインパクトを残す。この時期の米映画を代表する力作だ。

 第2次大戦が終結し、兵士達が戦地から復員してきた時期に、ある町でユダヤ人の復員兵のジョセフ・サミュエルが殺されるという事件が起きる。担当警部のフィンレイは、事件当時の夜にサミュエルが3人の復員兵とホテルのバーで一緒だったことを突き止める。フィンレイはそのうちの一人であるモンゴメリーと彼の上官であるキーリー軍曹に事情を聞くが、モンゴメリーと一緒だったミッチェルが泥酔して前後不覚になったという証言を得る。

 しかもミッチェルはサミュエルと意気投合して彼のアパートまで行ったという。そこでミッチェルが一番怪しいということになったが、納得出来ないキーリー軍曹はフィンレイ警部と協力して事件の再調査に乗り出す。やがて意外な真相が浮かび上がってくるのだった。

 犯行の動機は、人種的偏見による逆恨みである。復員兵がまともな職に就けないのは、ユダヤ人が悪い・・・・という短絡的思考により、犯人は凶行に及んだ。劇中でも説明されるが、このケースはたまたま犠牲者がユダヤ人だったが、マイノリティならば誰でも犯人の憎悪の対象になり得る。

 ささくれ立った空気が横溢する大戦直後の雰囲気を、監督エドワード・ドミトリクはシャープに再現する。絶妙のキャラクター設定と強固なプロットで、上映時間を1時間25分にまとめた手腕も素晴らしい。

 沈着冷静なフィンレイ警部に扮したロバート・ヤングのパフォーマンスは万全だが、キーリー役のロバート・ミッチャムの戦争に疲れ果てた表情も印象に残る。ロバート・ライアンやグロリア・グラハム、ポール・ケリーといった他のキャストも良い味を出している。J・ロイ・ハントのカメラによる切れ味のあるモノクロ映像は、登場人物達の鬱屈した心情を投影していて圧巻だ。

 なお、本作によりドミトリクはいわゆる“赤狩り”の対象になり、辛酸を嘗めた。そんなアメリカの影の部分を背負っているあたりも、この映画の存在感を強調している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「メアリーの総て」

2019-01-07 06:36:08 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MARY SHELLEY)英国の若き女流作家メアリー・シェリーが「フランケンシュタイン」を執筆するまでを描いた作品だが、クリエーターの内面を鋭く抉った作劇を期待すると裏切られる。これはいわゆる“女性映画”なのだ。ヒロインが不遇な生い立ちや甲斐性の無い周りの野郎どもとの軋轢にもめげず、何とか自分の信念を貫いたという、一種の苦労話を主人公に寄り添って綴った映画である。そう割り切れば、大した不満も覚えずに最後までスクリーンに向き合える。

 19世紀前半のイギリス。社会思想家のメアリー・ウルストンクラフトを母、無神論者でアナキストであったウィリアム・ゴドウィンを父に持つ少女メアリーは、妻子ある詩人のパーシー・シェリーと出会う。作家志望の彼女はパーシーの独特の存在感に魅せられ、情熱に身を任せて駆け落ちする。しかし、もとよりパーシーはいい加減な男で、メアリーは辛酸を嘗めることになる。

 あるとき、メアリー達は詩人バイロンに誘われてスイスにある彼の別荘で過ごすことになる。だが、悪天候のため彼らは一歩も外に出られない。そこでバイロンが“皆で一つずつ怪奇小説を書いて披露しよう”と持ちかける。

 メアリーは十代であの小説をモノにしたのだが、その迸るような才気は描出されないし、強烈な製作動機も見られない。せいぜい、熱心に本を読むシーンが挿入されるのみだ。しかし、監督のハイファ・アル=マンスールの前作「少女は自転車にのって」(2012年)がそうであったように、作品の焦点は主人公の葛藤などではなく、男性および社会との関係にあることは確かだろう。

 パーシーやバイロンらのいい加減さや、社会の無理解ぶりは(史実かもしれないが)ヒロインの“意識の高さ”を際立たせるモチーフとして機能しており、本作のフェミニズム的内容を強調する。ただし、押しつけがましさが感じられないのは良いと思う。

 そのことに大きく貢献しているのが、主演のエル・ファニングのキャラクターである。外見の可愛らしさもさることながら、ソフトで人当たりの良い持ち味が、作品をいたずらにセンセーショナルな方向に行かせない。このキャスティングは成功だ。

 パーシー役のダグラス・ブースやバイロンに扮したトム・スターリッジは楽しそうにヘタレ男を演じているし、父親役のスティーヴン・ディレインも渋い。そしてポリドリを演じるベン・ハーディが、「ボヘミアン・ラプソディ」の時とはまるで違う雰囲気だったのには個人的にウケた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ハンドフル・オブ・ダスト」

2019-01-06 06:24:16 | 映画の感想(は行)
 (原題:A Handful of Dust )88年イギリス作品。女性ファンの高い支持を得た「モーリス」(87年)に続くジェームズ・ウィルビィ主演作だが、個人的にはこちらの方が好きである。とにかく、不条理な状況に追い込まれて身悶えするウィルビィが、マゾヒスティックな興趣を呼び込んで圧巻。好き嫌いは分かれると思うが、見応えはある。

 1932年、田園地方に住む富豪のトニー・ラストは、ロンドンのプライベート・クラブでジョン・ビーヴァーという貧しい若者と知り合う。トニーは彼を自らの邸宅に招くが、田舎暮らしに退屈していたトニーの妻ブレンダはジョンに興味を示し、たちまち2人は懇ろな仲になる。やがてトニーは離婚の危機に陥るが、彼はすべてを忘れるためアマゾンの奥地に旅立つ。



 だが、彼の地に同行した探検家のメッシンガー博士は遭難死し、トニーはジャングルの真っ直中に取り残される。絶体絶命の彼を救ったのが、トッドという現地人だった。トニーは文盲のトッドのために本を朗読してやるが、そのことがまた彼を窮地に追い込んでゆく。

 トニーは英国の上流階級の人間であるが故に、プライドを捨てきれない。カミさんに浮気されても、やせ我慢して辺境の地へ赴く。その苦しい内面をひた隠し、不幸に向かって突き進む屈折した男のダンディズムが、ウィルビィの引きつった表情で描かれるとき、何とも言えないロマンティシズムが画面を覆う。ラストの扱いなど、まさに情け容赦が無い。

 チャールズ・スターリッジの演出は淡々としているが、決して弛緩しておらず、堅実なタッチで主人公を追い込んでゆく。奇しくもジョンに扮するのは「モーリス」でもウィルビィと共演したルパート・グレイヴスで、さすがのトリックスターぶりを発揮。クリスティン・スコット・トーマスやジュディ・デンチ、アンジェリカ・ヒューストン、アレック・ギネスなど他のキャストも実に濃い。

 ピーター・ハナンのカメラによる深みのある映像。ジョージ・フェントンの音楽も的確だ。原作はグレアム・グリーンと並ぶカトリック作家であったイーヴリン・ウォー。彼の作品は読んだことは無いが、いわゆる“冗談のキツい”作風として知られているようで、機会があれば接してみたいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「裸の島」

2019-01-05 06:15:16 | 映画の感想(は行)
 昭和35年作品。新藤兼人監督の代表作とされているもので、私は“午前十時の映画祭”にて今回初めてスクリーン上映に接することが出来た。ドラマの設定はなかなか野心的で、当時としてはかなりのインパクトがあったと想像するが、現時点で観てみると随分と無理筋の作劇だということが分かる。時代により印象が異なってくるというのも、映画の宿命なのだろう。

 周囲約500メートルの瀬戸内海の孤島に、その夫婦は住んでいた。幼い息子2人のほかには、島には誰もいない。夫婦は島の斜面を耕し、麦とさつま芋を植えて生計を立てていたが、島には水が無い。そのため隣の大きな島に舟で渡って水を汲んでくる必要がある。夫婦の仕事の大半は、この水を運ぶ作業に費やされる。長男は小学生で、親の漕ぐ舟に乗って別の島にある学校に通っていた。ある夏の日、長男が突然に高熱を出した。父親は医者を呼ぶため、必死の思いで舟を急がせる。



 まず釈然としないのが、この一家がどうしてこの小さな島で暮らしているのか、理由が分からない点だ。最初は彼らが村八分に遭って島に追いやられているのだと思ったが、島の外の住民と何か重大なトラブルを抱えているという描写は一切ない。それどころか、村の名主も長男の通う学校の生徒や教師も親切に接してくれる。

 一家で尾道市に旅行に出かけるシークエンスに至っては、ほのぼのとした明るさがあって暗い影は微塵も無い。彼らの境遇に関して合理的説明が無い以上、一家は好きで島にしがみ付き、勝手に苦労を背負い込んでいるだけの、単に変わった者たちと思われても仕方がないだろう。また、長男が病気に罹ったため父親が医者を連れてくるというくだりもおかしい。どう考えても、息子を舟に乗せて医者のいる島へ出向いた方が理に適っている。

 たぶん公開当時は登場人物たちのシビアな状況を通して、家族の絆を問い直しているという評判が先行したのだろう。セリフなしという方法論も革新的に映ったに違いない。だが、斯様に物語の設定に説得力が欠けているため、個人的には現時点での評価は厳しいものになる。それでも、夫婦を演じる乙羽信子と殿山泰司の演技は確かなものだ。黒田清巳のカメラによる、素晴らしく美しい映像。林光の音楽も見事と言うしかない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カー・ウォッシュ」

2019-01-04 06:32:52 | 映画の感想(か行)
 (原題:CAR WASH)76年作品。洗車場の一日を追った映画で、何もドラマティックなことは起こらない、淡々としたタッチで進行する。もちろん“何もドラマは無い”というわけではなく、数多い登場人物にはそれぞれの生活やポリシーがあり、時として(個々人にとっての重大な)事件が起きる。ただ、それが映画として面白くなるのかといえば、そうではないのだ。

 ロスアンジェルスの下町にある“デラックス・カー・ウォッシュ”には、経営者のミスターBをはじめとする個性的な従業員が揃っていた。客の方もタクシー代を払わずに女子トイレに身を隠す黒人娘とか、指名手配の爆弾魔と思しき怪しい男とか、成金の牧師とその取り巻きとか、いろいろと賑やかだ。閉店後にも、ミスターBがその日の売り上げを計算しているところに、クビになった店員が腹いせに強盗に入るというハプニングが起きる。



 全体的にそれぞれのエピソードが単発的に並べられるだけで、盛り上がることは無い。たとえば本作と同じような構成であるジョージ・ルーカスの出世作「アメリカン・グラフィティ」(73年)のように、ひとつの大きなテーマに収斂されるような仕掛けは見当たらない。

 しかしながら、全編を覆うディスコ・サウンドの賑々しさには目覚ましいものがある。ローズ・ロイスによるお馴染みのテーマ曲をはじめ、ノーマン・ホイットフィールドが担当したスコアはどれも万全だ。くだんの牧師の助手としてザ・ポインター・シスターズが登場するシーンは、盛り上がりの少ない本作において、唯一画面が華やかになる箇所である。

 キャストはリチャード・プライヤーを除いて印象に残らず。マイケル・シュルツの演出は特筆出来るものはないが、脚本を若き日のジョエル・シュマッカーが担当している点が興味深い。アクションやサスペンス専門と思われる向きもあるが、シールやスマッシング・パンプキンズなどのプロモーションビデオを作成しているなど、音楽関係の仕事もこなしている。そういえば「オペラ座の怪人」(2004年)も彼の作品であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする