元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「小野寺の弟・小野寺の姉」

2014-11-17 06:35:08 | 映画の感想(あ行)

 ヘタな映画だ。御膳立てだけは思わせぶりだが、作劇は陳腐で描き方も通り一遍。監督が素人だからイケナイのか、撮らせたプロデューサーに責任があるのか、そんなことはどうでも良いが、とにかく安手のテレビドラマ並の訴求力しか持ち合わせていないのには閉口する。

 東京の下町の一軒家に住む小野寺進とその姉のより子は、早くに両親を亡くしてから、ずっと2人で生活している。進は33歳でより子は40歳にもなるが、今のところ浮いた話はない。より子は内向的な進が新しい恋愛に踏み出せないことを心配しているが、進は姉よりも先に幸せを掴むことに対して気後れしている。

 そんな“膠着状態”になっていた小野寺家に、ある日一通の手紙が誤配達される。2人はわざわざ本人に手紙を届けに行くのだが、それを切っ掛けにこの姉弟の間に波風が立ち始める。

 そもそも、向井理と片桐はいりが姉弟役というのは無理がある(笑)。元ネタの舞台劇ではそれで良かったのかもしれないが、登場人物のクローズアップも併用される映画版では、設定から考え直すべきであった。それにいくら進が身だしなみにも気を遣わないオタクなキャラクターであっても、演じているのが向井なので“オレってモテないし”と言わんばかりの態度を示しても、観ている側としては嫌味としか思えない(爆)。

 小野寺家に誤配された手紙の宛先は“岡野薫”とあるのだが、名字も住所も大きく異なる場所に間違って届けられるほど、日本の郵便事情はヒドくはない。岡野薫は絵本作家を目指す若い女で、進と仲良くなるのは約束通りの筋書きながら、進のアドバイスを何の疑問も持たずに受け入れてしまうのは噴飯物である。素人の意見に左右されてしまうようでは、プロにはなれない。演じる山本美月の拙さも相まって、主要キャラクターであるはずの彼女の存在感は限りなく小さく見える。

 より子は勤務先の眼鏡店に出入りする業者の男と良い雰囲気になるが、両者の外見上の“格差”は物凄く大きく(何しろ相手の男に扮しているのは及川光博なのだ)、事前に結末が分かってしまう。進と薫との仲も予想通りの展開しか示さず、結局は序盤に提示されたモチーフの配置を一歩も逸脱すること無く終わってしまう。

 この姉弟は一連のやり取りを経て“成長”しているのかというと、たぶんそうなのだろう。しかし、常人から見ればイレギュラーな地点にいた二人が、少しばかりノーマルな路線に近付くプロセスを何の芸も工夫も無く漫然と追うだけでは、映画にはならないのだ。

 これが初監督になる西田征史は原作者でもあるが、やはり演出力が足りない。外連味のある設定を無理矢理納得させるような力業が必要なはずだが、アマチュアに近いこの監督にそれを望むのは不適当だろう。別に観なくても良い映画だ。
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“つつじ寺”の紅葉を見に行ったが・・・・。

2014-11-16 08:13:25 | その他
 先日、佐賀県三養基郡の基山町にある大興善寺に行ってきた。つつじの名所として“つつじ寺”という呼び名が付けられたこの名刹は以前5月頃に訪れたことがあったが、実は紅葉の名所でもある。しかし、まだ時期が早くてあまり色付いていない。残念。



 しかし、それでも由緒ある寺の建物がうっすらと赤みを帯びた木々をバックに佇む様子は、やっぱり美しい。そして今回印象に残ったのが、この地の空気が美味しいことだ(笑)。何を今さらと言われそうだが、福岡市内と比べると格段の違いがある。短い時間だったが、リフレッシュすることが出来た。

 前回は基山駅までJRを利用し、そこから臨時バスで寺に向かったが、今回は自家用車を使った。それで改めて気付いたのだが、佐賀県鳥栖市から福岡県筑紫野市に至る鳥栖筑紫野道路が無料開放されていたことだ。聞けば2007年に料金徴収期間満了に伴い無料になったという。このあたりはめったに車で行かないので、そんなことも知らなかったのだ(爆)。



 この土地の名物には他に基山茶や破れまんじゅう等があるが、今回はこれも名産の柿を買って帰った。家で食べたが、実に美味しい。特に熟した柿をスプーンですくって食すると、濃厚な味わいがある。機会があればまた訪れたいものだ。
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「シャンティ デイズ 365日、幸せな呼吸」

2014-11-15 07:47:11 | 映画の感想(さ行)

 大して期待していなかったが、意外にも楽しめた。序盤こそライトなテレビドラマのような雰囲気だが、映画が進むに連れて次第に作者が訴えようとしているテーマが浮き彫りになり、ラスト近くには何と感銘さえ覚えてしまった(笑)。観て損はない佳作だ。

 親に内緒で青森から東京に出てきた海空(ミク)は、偶然テレビで見たモデル兼ヨガ・インストラクターの空美(クミ)の美しい容姿と優雅な身のこなしに魅了されてしまう。早速彼女が講師を務めるヨガ教室に通い始める海空だが、それだけでは飽き足らず、ストーカー的に空美を追い回すようになる。

 図々しい海空を鬱陶しく思っていた空美だったが、純粋で一途な海空の素顔を知り、男にだまされて無一文になった彼女を自宅に居候させることにする。そんな中、空美は男友達との関係が上手くいかなくなったことを切っ掛けに、順調だと思われていたモデルの仕事も行き詰まり、ドミノ倒し的に逆境に追いやられることになる。

 要するに“人生、ポジティヴに向き合えば何とかなる”という処世訓に収斂されるような主題なのだが、本作はその重要な小道具としてヨガが取り上げられているところが興味深い。

 ヨガは単なる健康法やエクササイズではなく、心身を解き放つ“修行”としての側面が大きい。誰しも前向きなスタンスの重要性は頭では分かっていても、それを実践することは難しい。だからこそ、やり遂げたときの達成感は大きいのだが、映画の中でそれを正面から説くとすると、込み入った手練手管を弄する必要がある(しかも、成功するとは限らない)。

 対してこの映画は、ヨガという“存在そのものがポジティヴ”なモチーフを挿入することにより、作劇が実にスムーズに展開する。登場人物達はいくら困難にぶち当たっても、ヨガにより心の声を聞き、平常心を取り戻すことが出来る。さらに本作は、人間の心というのは元々ポジティヴな性質を持っていて、絶望や苦悩といったものはイレギュラーなものであると喝破しているかのようで、このあたりは得点が高い。

 監督の永田琴の仕事を見るのは初めてだが、演出リズムは平易でバランスが良い。海空を演じる門脇麦の存在感は圧倒的で、嫌味になる一歩手前で奔放なヒロイン像を表現する実力には感服してしまう。空美に扮するのは映画初出演の道端ジェシカだが、頑張ってはいるものの演技が硬い。まあ、容姿を買われて起用されたと思えば文句は無いだろう(個人的にはモデル仲間を演じる石田ニコルの方が好みだ ^^;)。

 ゲイのバーテンダーを演じる村上淳や空美に助言する初老の男に扮した螢雪次朗といった、脇の面子も手堅い。それにしても、エンドタイトル前に5分間の“瞑想の時間”が設定されていたのには面食らった(笑)。まあ、映画を観た後で深呼吸して心を落ち着かせるのも、たまには良いものだ。
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「愛・旅立ち」

2014-11-14 06:35:48 | 映画の感想(あ行)
 85年東宝作品。前にも書いたが、80年代はやたらアイドル映画が作られた時期だ。その大半が毒にも薬にもならないお手軽映画であったことは言うまでも無いが、中には製作意図がまるで分からない怪作も混じっていた。本作はその最右翼で、観た後はまさに茫然自失。よくもまあこんな企画が通ったものだと驚くばかりだ。

 無鉄砲な若者・誠は交通事故に遭い病院に担ぎ込まれるが、幸いにして命をとりとめる。彼は同じ病院に入院していた少女・ユキと知り合い、心惹かれるものを感じる。ユキは天涯孤独で、しかも先天的な心臓疾患で余命幾ばくも無い。ある日、ユキの愛読書の主人公が彼女の前に姿を現わし、一日だけ元気な時間を与えてくれるという。

 一方、将来を悲観した誠はビルの屋上に立ち、自ら命を絶とうと考えていた。そこに駆け付けたのが“一日だけ健常者になった”ユキで、彼女の説得に応じた誠はユキと恋仲になる。だが、彼女に残された時間はあとわずかだった。

 よくある“難病もの”かと思ったら、これが全然違う。冒頭映し出されるのは、何と宇宙空間。そこに母親と赤ん坊が現れて“神とは何か”みたいな会話を始めるのだから面食らってしまう。さらに、倒れたユキに誠が人工呼吸を施すと、突然大地震が起こって彼女は蘇生したりと、ワケの分からないモチーフの釣瓶打ちだ。

 SFX担当に川北紘一が名を連ね、しかもあの丹波哲郎も出ているというのだから、つまりは丹波御大の“大霊界シリーズ”の番外編と言って良いのかもしれない(爆)。監督は舛田利雄で、前に「ハイティーン・ブギ」等のアイドル物を手掛けているが、この映画に限っては霊界パワーに飲み込まれたような酩酊ぶりだ。

 言い忘れたが、誠を演じるのは近藤真彦で、ユキに扮するのは中森明菜である。二人に関しては、演技面ではどうしようもない。たとえ脇に勝野洋や萩尾みどり、峰竜太、吉行和子といった手練れが控えていても、まるで無駄だ。

 なお、薄幸そうな役柄を辛気臭そうに演じる中森を見ていると、最近の“生きているのか死んでいるのか分からない”状態の彼女とオーバーラップしてしまう。かつての同輩だった小泉今日子の健在ぶりと比べると、何ともやるせない。関係ないが、劇中のユキの名字は“小泉”である。楽屋落ちでも狙ったのだろうか(苦笑)。
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「悪童日記」

2014-11-10 06:56:57 | 映画の感想(あ行)

 (原題:A nagy fuzet)ピカレスク・ロマンとして退屈させない出来だとは思うが、重要な箇所が描かれていないこともあり、諸手を挙げての評価は出来ない。アゴタ・クリストフの同名ベストセラー(私は未読)を、クリストフの母国ハンガリーで映画化したものだ。

 第二次大戦後半、双子の兄弟が祖母が暮らす農家へ疎開してくる。二人は村人達から“魔女”と呼ばれ忌み嫌われていた意地悪な祖母に重労働を強いられるが、逆境に負けないためにあらゆる方法で肉体的・精神的な鍛錬を積み重ねる。やがて戦況は逼迫し、ナチスの進駐やユダヤ人の摘発、ドイツ軍に代わって村に進行してくるソ連軍の所業など、理不尽な出来事が多発。その中で双子は自分達だけの“正義感”を創出し、それに逆らうものを容赦なく“断罪”してゆく。

 戦争によって価値観が変わってしまう子供を描いた作品にはスピルバーグの「太陽の帝国」等があり、また異常な環境に置かれた子供が自分なりの“世界”を構築するという話としてはテリー・ギリアムの「ローズ・イン・タイドランド」等があるが、本作はそれらに比べて特段優れているとは思わない。

 確かに二人が付ける日記の内容とその映像処理は、通常の世界からは掛け離れた因果律を形成していると思うが、圧倒的に凄味が足りない。そんな小賢しい“遊び”よりも祖母の不気味な存在感の方が完全に勝っている。しかも、やがて双子は何の伏線も無いままにこの祖母と心を通わせてしまうのだから呆れてしまう。

 この祖母は娘である双子の母親とは不仲で、その娘婿ともそれまで会ったことがない。そのため彼女は双子を“牝犬の子供”と呼ぶのだが、そんな関係性を無視するかのように双子がいつの間にか祖母の側に付いてしまい、実の両親を異分子として見るようになるという筋書きは、安易に過ぎるのではないか。

 さらにはラストの処理などは唐突で、(原作ではどうなのかは知らないが)奇を衒ったものとしか思えない。残虐行為を平気で行う双子の描写はケレン味たっぷりで見応えはあるのだが、ホラー映画としての興趣しか感じないのだ。この監督(ヤーノシュ・サース)には馬力が足りないと思われても仕方がないだろう。

 主人公の双子を鮮烈に演じるアンドラーシュ&ラースロー・ジェーマントはもともと素人で、彼ら自身の生い立ちも複雑であることも相まって独特の存在感を醸し出しており、ピロシュカ・モルナールやウルリッヒ・トムセンらの脇を固めるベテラン陣も悪くないのだが、どうも映画自体が非力なのでインパクトに欠ける。

 子供を主人公にしたピカレスク劇としては、フォルカー・シュレンドルフの「ブリキの太鼓」ぐらいの衝撃性を持ち合わせていないと、観る側も満足できない。
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SOULNOTEとNmodeのアンプを試聴した。

2014-11-09 06:39:39 | プア・オーディオへの招待
 我が国のオーディオ・ガレージメーカーの雄である(?)SOULNOTENmode、その両方の新作アンプを聴き比べることが出来たのでリポートしたい。SOULNOTEの新製品はda3.0、NmodeのニューモデルはX-PM7である。鳴らすスピーカーはDynaudioのConfidence C1 platinum、プレーヤーはPS AUDIOの製品が使用されていた。

 当然のことながら、メーカーが違えば音は異なる。da3.0は私が所有している同社のsa3.0と共通した音色と音場・音像展開を示してくれる製品だ。もちろん値段はda3.0の方がずっと上なので、より高いクォリティを体感出来る。SOULNOTEの音が好きなリスナー(私も含める)にとっては、納得出来るパフォーマンスである。



 ただ、今回の試聴で強い印象を受けたのはX-PM7の方だった。同社にはX-PM10という製品があったが、X-PM7はこの後継モデルとして位置付けられる。フラットでワイドレンジな音というNmodeのテイストは踏襲されているが、本機はその質感の高さが尋常ではない。聴感上のレンジはda3.0に勝る。特に低域は“いったい、どこまで伸びているんだ”と思わせるほどだ。しかも、不自然な強調感は皆無で見晴らしが良い。

 定価はda3.0が35万円でX-PM7が27万円だ。値段だけ見ればda3.0の方がランクが上だと思いがちだが、da3.0はDAC(デジタル・アナログ・コンバーター)やヘッドフォン端子などを装備し、けっこう多機能だ。対してX-PM7はセレクターとヴォリュームしか無く、リモコンさえ省かれている(リモコンを付けるだけで定価が5万円ほどアップするという ^^;)。だから実質的には両者は同格と言って良い。



 二機種のうちどちらか選べと言われれば、X-PM7をチョイスしたい。da3.0も優れたモデルだが、DACを内蔵させる必要があったのか疑問だ。もっと機能を削って売価を下げた方が良かったのではないだろうか。そして、見た目の高級感もX-PM7の圧勝である。

 ただし、X-PM7は低出力であり、大音量派には向かない。たぶん極端な低能率のスピーカーとの相性も良くはないだろう。用途は限られるが、その限られた使用条件の下で高い音質を得ようとするには、この製品は適している。

 個人的には、X-PM7に合わせたCDプレーヤーもリリースしてほしい。最近は基本性能がしっかりした従来型CD専用プレーヤーを見かけなくなっただけに、発売してくれれば市場において注目されるはずだ。
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「ジャージー・ボーイズ」

2014-11-08 07:00:00 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Jersey Boys )クリント・イーストウッド監督らしく、対象を突き放して描こうとして実は何も描けていないという、悪いクセがここでも出ている。しかしながら音楽シーンはそこそこ良く撮れているので、その分は酷評するほどのことでもない。全体的な出来としては“中の中”ぐらいの、当たり障りのない一本だろう。

 1950年代、ニュージャージー州のベルヴィルはイタリア系移民が数多く住む小さな町だった。しがないチンピラ暮らしをしているバンドマンのトミー・デヴィートは、美しいファルセット・ヴォイスの持ち主フランキーを自分のグループに加入させる。その歌声は、地元マフィアのボス、ジップ・デカルロも魅了するほどだった。やがて天才的ソングライターのボブ・ゴーディオが参加し、ベースのニックを加えた4人組“フォー・シーズンズ”は、62年の「シェリー」の大ヒットを皮切りに快進撃を開始する。しかし、トミーの身勝手な行動により、4人の結束は次第に揺らいでいく。

 ブロードウェイで好評の同名のミュージカルの映画化だが、日本では上演されていないため本作がどの程度元ネタを踏襲しているのかは不明だ。しかし、ミュージカル劇をベースにしている割には随分と“薄味”な作りであるのは気になる。たぶん舞台では往年のヒット曲が流れてそのたびに熱く盛り上がるのだろうが、映画では平板だ。

 とはいっても、先日観た「舞妓はレディ」のようなママゴトめいた出し物とは大違いの、質の高いパフォーマンス場面が展開されていることは確かである。それなりに楽しめる出来であり、特にフォー・シーズンズを知らない若年層には大きくアピールすることだろう。しかし、その音楽の力は演奏場面だけに限定されていて、映画全体を覆うような高揚感に結び付くことは無い。さらに、各登場人物が観客に向かってナレーションを敢行するに至っては、作劇自体の“事務的な冷淡さ”みたいなものが強調されてしまう。

 そもそも、地元の刑務所を出たり入ったりしていたトミーがはたらいていた悪事と、その片棒を担がされたフランキー達との関係をメリハリも無くサッと流してしまうのは、結束が固いはずの“ジャージー・ボーイズ”のアイデンティティーをもどこかに置いてきたような扱いではないか。

 呆れたのは、67年に発表されたフランキーの代表作「君の瞳に恋してる」が出来た背景には彼の娘の死が関係しているという描き方が成されていること。実際に彼の娘が麻薬中毒でこの世を去ったのは、それよりずっと後の80年なのである。事実を意図的に曲げているのは、気分の良いものではない。

 ジョン・ロイド・ヤングをはじめとするキャストに特筆すべきものは無い。強いて挙げればデカルロに扮したクリストファー・ウォーケンの存在感ぐらいだ。プレスリーが一線を退いてからビートルズ等が台頭してくる60年代半ばまでの音楽シーンを振り返るという意味では観る価値はあったが、映画としては大して評価は出来ない。
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旧伊藤伝右衛門邸に行ってきた。

2014-11-07 06:47:37 | その他
 福岡県飯塚市幸袋にある、旧伊藤伝右衛門邸に足を運んでみた。筑豊の石炭王と言われた伊藤伝右衛門が、大正時代中期から昭和初期にかけて造営したもので、彼自身の本邸でもある。言うまでもなく、この建物が一躍脚光を浴びたのは、NHKの連続テレビ小説「花子とアン」の副主人公である蓮子のモデルとなった柳原白蓮ゆかりの地であるからだ。

 すでに放映は終わっていたので、一頃の混雑は見られないだろうと思っていたのだが、日曜日だったこともあり予想に反してかなりの賑わいだった。特にドラマに関係の深い展示物が置いてある部屋は、満員電車並みの人だかりだ。



 それにしても、この屋敷は広い。さらにどの部屋も細部まで贅を尽くした意匠が施され、見て飽きることが無い。二階にある白蓮の居室は意外とこぢんまりしているが(それでも一般の家屋に比べれば相当大きな間取りだ)、日本庭園を一望でき、見晴らしは実に良い。

 その日本庭園だが、これも手の込んだ作りの美しい回遊式庭園で、国の名勝にも指定されている。まだ紅葉の季節ではなかったが、木々の葉が色付く頃には雅な姿を見せるのだろう。



 ついでに著名な菓子メーカーである千鳥屋の飯塚本店にも行ってみた。この店舗も昭和初期に作られた年季の入った建物で、二階の和室では千鳥屋が所有する黒田官兵衛ゆかりの品々が特別展示してある。まあ、これもテレビドラマの便乗企画なのだが、同社の創立者の財力を窺い知ることが出来る。

 なお、旧伊藤伝右衛門邸内の電話が置いてあったスペースには、千鳥屋のチラシが貼ってあったそうで、昔からこの地域の人々に和菓子類が親しまれてきたことが分かる(“ひよこ”でお馴染みの吉野堂も飯塚が発祥の地だ)。久々に千鳥饅頭を買って帰ってしまった(まあ、福岡市内でも買えるのだが ^^;)。
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「パトリオット」

2014-11-03 06:10:17 | 映画の感想(は行)

 (原題:The Patriot )2000年作品。大味な作風で知られるローランド・エメリッヒ監督の映画の中では、かなりマシな部類である。もっともそれは題材になっている史実の重みと、主演のメル・ギブソン御大の存在感によるものだろうが、決して観て損するようなシャシンではない。

 18世紀後半のサウス・キャロライナ州で、かつてインディアンとの紛争で活躍したベンジャミン・マーティンは、18歳の長男ガブリエルを頭に、男手ひとつで7人の子供を育て、農民として平穏な生活を送っていた。そんな時、宗主国のイギリスとの間で独立戦争が起こる。血気盛んなガブリエルは父親が止めるのも聞かずに従軍するが、2年後に彼は負傷して帰還する。

 さらに悪いことにガブリエルを追って英国軍のタヴィントン大佐率いる一軍が村に侵攻し、狼藉の限りを尽くす。次男のトマスはそれに巻き込まれて死亡し、ベンジャミンは復讐を誓う。

 物語は単純明快で、家族のために命を張ろうとする主人公の決意が愛国心へと繋がるプロセスは無理がない。また、手勢を集めて正面から立ち向かうこともあれば、ゲリラ戦を仕掛けて敵軍の攪乱を狙うなど、戦闘場面はヴァラエティに富んでいて飽きさせない。また、この監督にしては珍しく描写にキレがあるのも見逃せないところだ。時代考証がけっこうシッカリしているのも興味深く、特に一発ずつ弾丸を詰めないと発射出来ない当時の銃を小道具にした対決場面は面白い。

 ギブソンは相変わらずの俺様主義で画面上を闊歩するが、ガブリエル役の(今は亡き)ヒース・レジャーのナイーヴな好演も見逃せない。また憎々しい敵役ジェイソン・アイザックスと、主人公に味方するフランス軍将校に扮したチェッキー・カリョは儲け役だ(カリョが出てきた時“こいつは残虐な方法で捕虜を拷問して「掃除」してしまう奴ではないか”と思ったら違った ^^;)。

 キャレブ・デシャネルのカメラによる美しい映像と、ジョン・ウィリアムスの音楽も効果的。上映時間が少々長くて中だるみする箇所もあるのだが、鑑賞後の満足感は決して小さいものではない。
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「蜩ノ記」

2014-11-02 06:43:17 | 映画の感想(は行)

 退屈な映画だ。特に前半から中盤にかけては、睡魔との闘いに終始した(笑)。別に、作品全体のテンポが一様にゆっくりとしていることが欠点だとは思わないが、それに合わせて情報(プロット)の提示も不十分になっていては評価出来ない。小泉堯史監督にしては珍しい失敗作だ。

 19世紀初頭の豊後の小藩・羽根藩にて、若侍の檀野庄三郎は城内で刃傷騒ぎを起こしてしまう。家老の中根兵右衛門の計らいで何とか切腹を免れた彼だが、その代わりに山奥の寒村に蟄居させられている元の郡奉行である戸田秋谷の監視を命じられる。秋谷は、7年前に藩主の側室との不義密通の罪で10年後の切腹と家譜の編纂を命じられており、あと3年に迫った切腹を前に逃亡しないか見張るのが庄三郎の役目である。

 彼は秋谷の家に同居して家譜の編纂を手伝うことになるが、誠実な人柄の秋谷はとても不義密通をやらかすような者には見えない。やがて庄三郎は、秋谷が切腹を命じられる原因となった事件の真相を探ろうとする。

 原作の葉室麟による同名小説(第146回直木賞受賞作)は私も読んでいるが、とにかく不義密通騒ぎの筋書きが分かりにくくて閉口した。読者にちゃんと伝える気が無いのではと思ったほどだ。ならばこの映画化ではそのあたりが平易に説明されているのかというと、全然そうではない。作劇のテンポの遅い間に筋書きをちゃんと示してくれれば良いものを、晦渋さまでも原作を愚直にトレースしているので、観ている側にはストレスが溜まる一方である。

 では文芸物の時代劇らしい風格が感じられたかというと、それも不発。画面は汚く、奥行き感は無い。カメラワークには洗練された箇所が見当たらず、凡庸な展開に終始。

 キャスト陣にしても、秋谷役の役所広司とその妻に扮する原田美枝子の所作だけは何とか体裁が整えられているが、庄三郎を演じる岡田准一はNHKの大河ドラマの主役として力演を見せた者と同一人物とは思えないほどの大根ぶりだ。青木崇高や寺島しのぶ、井川比佐といった面々も生彩が無い。

 そして、秋谷の娘を演じる堀北真希は最低だ。原作でもこのキャラクターはクローズアップされていないのでそれほど演技力を要する役柄ではないのだが、それでも堀北のようなパフォーマンス能力のカケラも無い者が画面をウロウロしているだけでも気分が悪い。彼女はデビューして約10年にもなるのに、演技力を高めるどころか演技を上手くやろうとする意志さえ感じられないのだから呆れる。

 舞台が今の大分県であるにも関わらず、ロケを東北で行っているという意味不明な製作方法も含めて、観る価値を見出せない映画である。
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