元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

最近購入したCD(その29)。

2014-05-16 06:29:18 | 音楽ネタ
 オムニバスのCDセットである「My Dear」を購入してみた。イージーリスニングばかりを集めた、5枚組のボックスである。ポール・モーリアやレイモン・ルフェーヴルなど、この分野の代表的なミュージシャンを網羅しており、全100曲が収録されている。なお、この商品はCDショップの店頭では扱われておらず、通販のみである。

 どうしてこの商品を買ったのかというと、まあハッキリ言えば“懐かしさ”である(笑)。トシを取ってくると、ときどき無性に昔の音源に接したくなることがあるのだ。イージーリスニングはリチャード・クレイダーマンのような70年代後半から出てきた演奏者もいるが、代表作の多くが60年代から70年代半ばにかけて吹き込まれている。つまり、私が子供の頃によく聴いていた音楽ばかりだ。



 このディスクには、正直あまり上出来ではないナンバーもけっこう含まれている。しかし、その“緩さ”が時代を感じさせて、またノスタルジックな気分にさせてくれる。もちろん、ポール・モーリアによるヒット曲などは、今聴いてもクォリティが高いと思う。特に「恋はみずいろ」や「蒼いノクターン」は旋律美が光る。録音が良かったというのも、意外な発見だった。

 個人的にウケたのは、ビリー・ヴォーン楽団による「真珠貝の歌」だ。言うまでもなくこの曲は、昔NHK-FMで日曜日の夕方にオンエアされていた「リクエストコーナー」のテーマ音楽である。あの番組で知ったミュージシャン達を次々と思い浮かべることが出来て、甘酸っぱい気分になった(とはいえ、スウィートなテーマ音楽とは裏腹に、結構トンがった選曲をしていた番組でもあったのだが ^^;)。

 昔は、こういうインストゥルメンタルのナンバーがヒットチャートを賑わせていたというのだから驚く。ヒット曲の多様性は、今とは比べものにならないくらい大きかったようだ。

 そういえば実家には、このセットには収録されていないイージーリスニング界の大物であるフランク・プゥルセルのシングル盤「アドロ」がある。このレコードもかなりヒットしたらしく、また音質も良い。こういうナンバーが見直されるような音楽市場の環境は、もう二度と現出しないのであろうか。



 チョン・キョンファは間違いなく女流ヴァイオリニストとしては世界有数の実力者だが、彼女が81年に吹き込んだチャイコフスキーとメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のディスクが、廉価版として再発されたので買ってみた。オーケストラはモントリオール響で指揮はシャルル・デュトワである。

 長らくカタログから消えていたのが不思議に感じるほど、素晴らしい内容だ。特にチャイコフスキーはこの曲の代表的名盤の一つとしての地位を確立するだろう。キレの良い鋭角的な表現を披露する一方、何ともロマンティックな節回しをも併せ持ち、音楽の底の底まで掘り起こすような、スケールの大きさを見せつける。

 メンデルスゾーンも良い演奏だが、この曲は超ポピュラーであるだけに名盤が数多くある。それらに比べて殊更勝っているとは思わない。しかし、前述のチャイコフスキーとのカップリングならば、絶対のお買い得盤だ。録音もA級で、オーディオシステムのチェックにも使える。

 それにしても、80年代にDECCAレーベルに吹き込まれたデュトワ&モントリオール響の演奏は、何とまあ粒ぞろいであったことか。このほかにも何枚か持っているのだが、まったくハズレがない。ヘタな最新録音盤を選ぶよりも、(曲によっては)この頃の彼らの仕事ぶりをチェックする方が、上質な音楽鑑賞の時間を作ることが出来ると思う。
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「アメイジング・スパイダーマン2」

2014-05-15 06:26:28 | 映画の感想(あ行)

 (原題:The Amazing Spider-Man 2)前作に引き続き演出を担当した、マーク・ウェブの持ち味が発揮されている一作。物語の主眼は敵怪人との死闘ではなく、主人公ピーター・パーカーとガールフレンドのグウェンとのアバンチュールだ。これが2時間半の上映時間のかなりの部分を占める。その意味では“間延びしている”とも言えるのだが、“そういうものだ”と納得してみれば、なかなか面白い。

 ピーターとグウェンとの仲は順調だったはずだが、それぞれの進路が食い違い、次第に黄信号が灯ってくる。ある日、大企業オズコープ社の電気技師で孤独な生活を送るマックスは、事故により高圧電流を浴びて瀕死の状態になる。しかし事切れる寸前に、彼は電気を操る怪人エレクトロに変身。スパイダーマンに決闘を挑む。

 一方、ピーターの幼馴染みでオズコープ社の御曹司のハリーがニューヨークに戻ってくる。彼は父親から不治の遺伝病を受け継いでおり、余命はあとわずかだ。ハリーは自分が完治するためにはスパイダーマンからの輸血が必要だと思い込み、スパイダーマンの知り合いだと思われているピーターにそのことを依頼する。だが当然のことながら、効果が保証出来ない措置を施すわけにはいかず、ピーターは拒否。逆上したハリーはオズコープ社の地下に保管してあった得体の知れない液体を自らに注射し、怪人グリーン・ゴブリンとなってスパイダーマンに襲いかかる。

 ウェブ監督は出世作の「(500)日のサマー」でも些細なことで一喜一憂する恋愛模様(特に男の側)を微笑ましく描いていたが、ここでも優柔不断な恋愛当事者の心の揺れを丁寧に救い上げる。何やかやと自分勝手に理由をつけては恋の行く末を決めつけたり、拗ねたり、必要以上に前に出たり、まあ何と惚れたハレたの行程は一筋縄ではいかないものだと笑いながらも納得してしまう。ヒーロー物とは不似合だと思われる“緩い”展開だが、それでも大きな橋にクモの糸で愛を語る場面にはグッときてしまった。

 本作にはピーターの両親が彼を置いて去って行った事情にも触れているが、正直あまり印象に残らない。それよりも、不遇な人間関係に身を置いた挙句、単なる逆恨みで反社会的な行動を取ってしまうエレクトロやグリーン・ゴブリンと、上手くいかないリアルな恋愛事情に悩むもののそれによって成長もしてしまう主人公との対比が鮮やかだ。

 活劇場面はかなりの迫力。一本調子ですぐに飽きが来てしまったサム・ライミ監督版とは違い、仕掛けや段取りにあらゆるアイデアが詰め込まれている。アンドリュー・ガーフィールドとエマ・ストーンの主役カップルは今回も好調。表情の豊かさも身のこなしも万全で、作品を盛り上げてくれる。

 悪役側ではエレクトロ役のジェイミー・フォックスも良いが、ハリーに扮したデイン・デハーンはその愁いを帯びたマスクで世の女性ファンを惹きつけることだろう(笑)。伯母さん役のサリー・フィールドの演技の手堅さは言うまでもない。次回はヒロイン役が交代することになるが、これも期待したいものだ。
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「壬生義士伝」

2014-05-14 06:30:15 | 映画の感想(ま行)
 2002年作品。浅田次郎のベストセラーの映画化で、監督は滝田洋二郎。新撰組の顛末を東北出身の構成員・吉村寛一郎を中心に描く。

 泣かせるシーンもないではないが、映画全体としてはまとまりに欠け、いわば不完全燃焼である。冒頭、明治時代の東京で佐藤浩市扮する老境の斉藤一が偶然出会う医師が吉村寛一郎ゆかりの人物だったことから、斉藤の回想形式でドラマは始まる。

 当然観客は吉村と斉藤という正反対の性格を持つ剣士の葛藤を核に物語は展開すると思うのだが、二人の絡みは早々に終わり、途中から三宅裕司演じる南部藩の幹部と吉村との関係をその少年時代から延々と描くようになるのだから、あのオープニングはいったい何だったのかと思えてしまう。



 さらに映画は吉村の家族をメインに置くようになり、ラスト近くの官軍との戦いの後、主人公の故郷に対する想い入れを必要以上に切々と綴ったりするのだから、ますます映画の中心軸が“挙動不審”になってゆく。吉村の息子や医師の妻を扱うエピソードも取って付けたようだ。最後はもちろん最初の斉藤の場面に戻るのだが、その時点ではすでにチグハグな印象しか残らない。

 監督の滝田洋二郎は(何度も何度も言っているが ^^;)本来は“おちゃらけ映画”と“サイコ・サスペンス”しか撮れない人なので、こういう素材は畑違いだと思われる。

 なお、主演の中井貴一は良かった。朴訥さと吝嗇ぶりの裏にある侍の心意気をうまく表現している。それだけに、あの(公開当時に各評論家がさんざん指摘していた)冗長な独白場面は惜しまれる。
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「ある過去の行方」

2014-05-10 06:43:01 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Le passe)観た印象は、あまり芳しくない。「彼女が消えた浜辺」「別離」と秀作を放ったイランの俊英アスガー・ファルハディ監督作だが、話を必要以上に作り込んだ挙げ句に求心力が低下している。“策に溺れた”というのは、こういう状態のことを言うのであろう。

 パリに住むシングルマザーのマリーがイラン人の夫と別れて4年になる。子持ちの男性サミールとの再婚を予定しているため、今は本国に帰っている夫のアーマドを呼び寄せ、家庭裁判所にて正式な離婚の手続をしようとする。アーマドはてっきりマリーは新パートナーと幸せな生活を送っているものだと思っていたのだが、いざパリに着いて実際のマリーの境遇を見てみると、好調とは程遠い。特に長女のリュシーとの仲が上手くいかないマリーは、アーマドに娘の本音を探ってほしいと頼まれる。

 前二作と同様、隠されていた“真相”が各登場人物の言動により次第に明らかになってくるという構成になっているが、求心力は低下している。理由は明らかで、前作までがイラン社会における問題点が主人公達の心に重くのしかかっていたのに対し、本作は舞台が国外に移動しているためか、国情をバックグラウンドにした作劇が困難になっているからである。

 もっとも、アーマドが数年前にイランに帰らざるを得なかった“何らかの事情”が、フランスとイランとのカルチャーギャップに端を発していたことは想像に難くないが、映画はそのあたりを描かない。

 そのため、話を主人公たちの愛憎に重きを置くほかはないのだが、サミールの現在の妻の自殺未遂騒ぎという大仰な題材が挿入されているわりには、全体に緊迫したものが感じられない。やはり、国柄に付随する自らのアイデンティティからのアプローチは、単なるメロドラマを超えた場所に位置しているのだろう。

 劇中、登場人物たちが会話するシーンで、ダイアローグが終わったと思ったら一方が“まだ付け加えることがある”とばかりに無理やり続けようとするくだりが散見されるのだが、これは話をミステリアスにするためにセリフの中に伏線を張りまくろうという作者の意思が表れていることは言うまでもない。しかし、そんな屋上屋を架すがごときネタの積み上げは、いかに衝撃的な“真相”とやらが開示されようとも、それまでの小賢しい意図が見透かされてしまって、インパクトはかなり弱い。

 ハッキリ言って、ここに描かれた登場人物達の直面する“逆境”は、当事者以外はどうでもいいようなことなのだ。イラン社会の特殊性に立脚したような前二作の筋書きが、意外にも広範囲な訴求力を持っていたことに比べれば、本作での“頭の中だけで考えたような”プロットの運びは、かなり見劣りすると言わざるを得ない。

 マリー役のベレニス・ベジョやアーマドに扮したアリ・モッサファなどキャストは皆熱演だが、映画自体の内容が低調なので、さほど成果は上がっていない。
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「アイリス」

2014-05-09 06:14:30 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Iris)2001年イギリス作品。99年にアルツハイマー症で世を去った女流作家アイリス・マードックと夫ジョン・ベイリーが最後に過ごした数年間を彼等の若い日々を織り交ぜながら描く。監督は英国演劇界の重鎮リチャード・エアで、夫ジョンを演じたジム・ブロードベントは本作でアカデミー助演男優賞を獲得。ヒロイン役のジュディ・デンチと若い頃のアイリスを演じたケイト・ウィンスレットもオスカー候補になっている。

 とにかく、J・デンチとJ・ブロードベントの演技に圧倒される。アルツハイマー症で物忘れが激しくなり、やがて人格さえ崩壊してゆくヒロイン。しかもそれは作家としてのアイデンティティを喪失するという悲劇を意味する。そんな彼女に戸惑いながらも献身的な愛情を注ぐ夫のジョンの姿には胸を打たれる。



 しかしこの映画の優れた点は、それと平行して、彼等が出会って一緒になるまでの若い頃の姿を同等に展開させていることだ。怖い物知らずに生き生きと若さを謳歌する二人と、病気により無慈悲に引き離される老境の彼等が同じ一組のカップルだという現実。ただし愛情は少しも衰えず、一方が意識を喪失する寸前に互いの思いが真の高みに達する感動的な一瞬さえも映し出す。リチャード・エア監督の人間に対する洞察の深さとポジティヴな視線には感じ入るばかりである。

 青春時代の二人を演ずるK・ウィンスレットとヒュー・ボナヴィルの演技も素晴らしい。ロジャー・プラットのカメラとジェームズ・ホーナーの音楽、そしてジョシュア・ベルのヴァイオリン演奏が美しさの限りだ。上映時間を1時間半にまとめた脚本の緻密さにも注目したい。
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「そこのみにて光輝く」

2014-05-06 06:38:32 | 映画の感想(さ行)

 どうしようもない連中の、どうしようもない言動をリアルなタッチで描いているのに映画は暗くならない。それどころか“感触”は柔らかく全編に渡って温かい空気感が漂う。作者のポジティヴな視線が印象的な佳編だ。

 業務上の事故がトラウマになり、休職中の主人公・達夫は無為な生活を送っていた。ある日彼はパチンコ屋でチンピラ風の若者・拓児と知り合い、意気投合する。拓児は浜辺のバラックのような家で、姉の千夏と母親、そして脳梗塞によって寝たきりになった父親と暮らしている。

 拓児は前科があり、保護観察中だ。千夏は家族を養うために身体を売っており、拓児の保護司である会社社長の中島とも愛人関係にある。達夫は千夏に惹かれて交際するうちに復職することを決意し、拓児も一緒に雇ってもらうように経営側に掛け合うが、千夏を食い物にする中島の態度に怒った拓児は、傷害事件を引き起こす。佐藤泰志による同名小説の映画化だ。

 やはり佐藤の原作による「海炭市叙景」(熊切和嘉監督)と同様、舞台になる函館の町が行き場の無い登場人物達の心情のメタファーになっているが、本作はあの映画ほど絶望的ではない。ドン詰まりの人生ながら、どこかに未来に向かってブレイクスルーする道が存在しているはずだという、確固とした信念が垣間見える。

 彼らは社会の底辺で生きているが、決して捨て鉢になってはいない。互いのことを思いやるとき、まさにタイトルの“そこのみにて光輝く”というフレーズ通りに、取るに足らない人間が“輝き”を放つ瞬間を見事に掬い上げているのには感心する。

 最初は孤独に見えた達夫も、長らく会っていない妹からの手紙が示すように、決して一人きりではない。対して物事を功利的にしか見ない中島は、経済的に恵まれていても最後まで“輝き”を見せることはないのだ。もちろんこれを“貧乏人イコール人情に厚く、金持ちイコール人間的に冷たい”という単純な図式に持って行くほど作者は愚かではない。本作の作劇は彼らがいかにしてそのような人間性を持つに至ったかを、微分的に暗示することに長けていると言える。

 呉美保の演出は堅牢で、一点の緩みも無い。また監督が女流であるせいか、達夫役の綾野剛に対して強い思い入れを感じさせる(笑)。実際、綾野の演技も今までのキャリアの中で最良とも言える出来映えだ。拓児に扮する菅田将暉も「共喰い」に続く快演で、荒削りながらナイーヴな持ち味を全面展開している。千夏を演じる池脇千鶴は腰の据わった力演を見せ、上半身(特に二の腕)に生活感のあるテイストを滲み出しており、まさに貫禄たっぷりだ。

 高橋和也や火野正平、伊佐山ひろ子といった脇の面子も実に良い。終盤での、浜辺に佇む主人公達がオレンジ色の陽光に包まれる情景は、何とも言えない感慨を観る者にもたらす。若くして世を去った佐藤泰志の著作はそんなに多くはないが、是非とも他の小説の映画化作品を観てみたいものだ。
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サッカー観戦に行ってきたが・・・・。

2014-05-05 06:48:07 | その他
 去る5月3日(土)に、福岡市博多区の東平尾公園内にある博多の森球技場(レベルファイブスタジアム)にて、サッカーの試合を観戦した。対戦カードはホームのアビスパ福岡と大分トリニータである。

 当スタジアムには毎年1,2回Jリーグの試合を見るために足を運んでおり、今年は初めての観戦になるが、この試合はその中でも最低の内容だった。サッカーには詳しくない私が言うのも何だが、とにかくアビスパの選手は下手だ。去年見たときよりも、確実に技量が落ちている。



 決してトリニータの選手達も格別に上手いというわけではないが、アビスパが下手過ぎる。前半に先制したものの、後半は思わぬところでPKを取られ、それからの展開がグタグタになり結局勝ち越されてジ・エンドだ。思えば、前半の得点もマグレだったんじゃないかとも思ってしまう。

 終盤近くになってもなかなかボールを奪えない状況が続いたせいか、観客席もシラケた空気が漂い、ゲームセットの笛を待たずに退場する者も目立った。別に“とにかく勝てば良い”とは思わないが、結果的に負けを喫しても勝ち点を取りに行くガムシャラな姿勢が欲しかった。しかし、最後までそれは見られなかった。

 それにしても、大型連休の最中だというのに観客は7千人にも満たないというのは、いかがなものか。経営危機が伝えられているのにこの有様では、来年以降の存続に見通しが付かなくなるのではないか。



 私が思うに、本拠地を東平尾という“僻地”に持ってきてしまったのも低迷の遠因になっているのではないか。地下鉄の終点で下車して、またバスに乗り換えるか長い道のりを延々と歩かなければならない。これではアクセスが悪すぎる。

 福岡市中央区にあった平和台球場の跡地にスタジアムを建設すれば良かったのだ。もっとも、ここには“鴻臚館(こうろかん)”という遺跡があり、むやみに大きな建物を作るわけにはいかないという意見もあろう。しかし、鴻臚館なんて佐賀県の吉野ヶ里遺跡などと比べると観光的価値はほとんどない。そんなものの保護よりも、スポーツ振興を優先させるべきだった。

 まあ、今さらそんなことを言っても仕方が無いのだが、とにかく福岡市からJリーグの火を消さないためにも、頑張ってくれとしか言いようが無いのが辛いところである。
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「アクト・オブ・キリング」

2014-05-04 06:29:33 | 映画の感想(あ行)
 (原題:The Act of Killing)ドキュメンタリー映画の体を成していない、ワザとらしい作品だ。個人的にはまったく評価出来ない。こんなのが各映画賞を取ってしまうのだから、暗澹とした気持ちになる。

 1965年9月30日の軍事クーデターに端を発したインドネシアの政変において、百万人規模の大虐殺が行われたという。手を下したのは後に国家元首となるスハルトに率いられた民兵組織だと言われる。アメリカの映像作家ジョシュア・オッペンハイマーは当初人権団体の依頼でこの虐殺の被害者を取材していたが、当局側から横槍が入り被害者への接触を禁止される。そこで対象を加害者に変更したのだが、彼らの口から出るのは過去の行為の“武勇伝”ばかり。



 そこで作者は掟破りの方法を提案する。加害者の所業を自分たちで映画にして、カメラの前で演じてみろというのだ。すると彼らはまるで映画スター気取りで、嬉々としてその“作品”の製作に取り掛かる。

 要するに、作者が面白いネタを見つけられなかったから、取材対象の側に内容を丸投げして何とか帳尻を合わせようとしたのだ。もちろん、こっちはこんな安易な図式を信じてしまうほど御目出度くはない。

 映画の製作を持ちかけたのがネタならば、それに乗ってしまう元・加害者の連中の所業もネタだ。果ては、この映画製作騒動を通じて加害者たちの心境が変化していくという筋書きも展開されるが、これもネタであることは論を待たない。当然のことながら、本当に元・加害者の連中が“改心”の兆しを示したのかもしれない・・・・という可能性はゼロではない。しかし、元々の設定からネタを仕込みまくったことがミエミエの作劇では、映画自体が徹頭徹尾“ヤラセ”だと思われても仕方がない。



 こんな茶番劇よりも、劇中で紹介されるパンチャシラ青年団の存在が強く印象に残る。この団体は現在のインドネシアに存在する民兵で、構成員は300万人にも達するという。国を裏社会の側から支え、閣僚ですら頭が上がらないらしい。取材すべきは、元・加害者のジイサン達の猿芝居よりも、現在進行形のこの異常な事態の方ではなかったのか。それが出来ないというのならば、ドキュメンタリーなんか撮るのは辞めておけと言いたい。

 斯様に作者の姿勢はヘタレそのものであるが、映像は不必要に凝っている。冒頭の巨大なオブジェと民族舞踊のコラボから始まり、大団円の滝壺での大仰なレビュー(?)に至るまで、何かの冗談かと思えるような出し物が続く。これはたぶん製作総指揮のヴェルナー・ヘルツォークの趣味だろうが、まったくもって見苦しい限りだ。正直言って、観る価値があるとは言い難い。
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「二十才の微熱」

2014-05-03 06:57:49 | 映画の感想(は行)
 93年作品。一見フツーの大学生、実は夜には男娼のアルバイトをしている19歳の主人公(袴田吉彦)を中心に様々な人間模様が描かれる。監督は“ぴあフィルム・フェスティバル”でグランプリを受賞し、これが劇場映画デビューとなる橋口亮輔。

 「ハッシュ!」や「ぐるりのこと。」で、今や日本映画界に無くてはならない人材になった橋口監督だが、この劇場用映画第一作はかなりぎこちない。確かに丁寧に撮られている。無謀とも思えるワンシーン・ワンカットの連続もそれほど破綻は見せない。



 主役の袴田をはじめ、“恋人”の高校生を演じる遠藤雅、そのガールフレンドに扮する山田純世、主人公に想いを寄せる先輩役の片岡礼子など、キャストも好演。透明感あふれる映像をバックに、何とも煮えきらない、それでいて投げやりでもない、曖昧な青春の“気分”をとらえようとする、その姿勢はいいのだ。しかし・・・・。

 この映画の欠点は観ていてちっとも楽しくないところである。橋口監督がそれ以前に手掛けていた自主映画ならそれでいいだろう。映画マニア相手の限定公開だったら許せる。でも、金取って一般公開する以上、そこには娯楽性が必要になる。少なくともここには観客を楽しませようという姿勢はどこにも見られない。単なる技巧の羅列、自分一人が面白ければそれでいい、内輪だけでウケればいいという、きわめて“同人誌的”な発想しか見えない。

 たとえば、主人公が先輩の家に荷物運びの手伝いに行くと、父親はかつて一夜を共にした中年男だった、というコメディ的シチュエーションがあるが、そこで画面は弾むどころか極端な長回しでその設定を殺してしまう。第一、台詞の聞き取りにくさといったら腹の立つほどで、ヘタすればストーリーが追えなくなる。

 私が本作を公開当時に映画館で観たとき、客席にゲイのカップルがかなり目についた(笑)。こういう“客層”を相手にしているかのごとく、ベクトルが内側に向いた作りは気になったものだが、それからこの監督は精進してメキメキと力を付けていったのだから、まさに“男子三日会わざれば刮目して見よ”を地で行く感じだ。
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「キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー」

2014-05-02 06:35:18 | 映画の感想(か行)

 (原題:Captain America:The Winter Soldier)お手軽なヒーロー物だと思ったら大間違いだ。重量級の娯楽編で、鑑賞後の満足感はとても大きい。荒唐無稽とも思える主人公像に真面目に向き合い、それを活かすストーリーを最大限に展開させており、まったく手抜きの無い製作スタンスには大いに感心した。

 アベンジャーズの一員として世界を救った後も、キャプテン・アメリカことスティーヴ・ロジャースは米国の諜報機関S.H.I.E.L.D(シールド)で世界平和のために各ミッションをこなしていた。ところがブラック・ウィドウらと共に、テロリストにジャックされた艦船の奪還作戦に従事した後から、何やら組織内の様子がおかしくなる。

 シールド長官のニック・フューリーが何者かによって襲われ、キャプテン自身もシールドのエージェント達からの攻撃を受ける。実はシールド設立当初から内部に潜伏していた“ある勢力”が動きを表面化させ、世界征服に乗り出したのだ。四面楚歌に陥ったキャプテンとわずかな仲間は、必死の反撃を試みる。

 シールドの中に潜んでいた“ある勢力”とは、第二次大戦の亡霊のような存在だ。だからといって“前時代的だ”と片付けられるものではなく、少しでも“憂国派”みたいなスタンスに共鳴した者ならば、現時点でもそのテーゼに簡単に絡め取られてしまう。危険分子を出現の可能性の段階で潰してしまうことが出来るのならば、より良い世の中になっていくのではないか・・・・などというシンプルすぎる方法論を疑問も持たずに信じ込んでしまう手合いは、今も昔も多数存在すると思う。

 そもそもキャプテン自身が第二次大戦の生き残りみたいな存在であり、今回のバトルは主人公にとって過去における自身の“状況”と相対することにもなる。しかも敵のコマンドーはかつての“同僚”だ。ひょっとしたら互いの立場が入れ替わっていたかもしれない二人の対決は、痛切でもある。

 そして、現代における正義とは何なのか、平和を守るとはどういうことなのか、そういうテーマに衒いも無く真正面からぶつかっていく作り手達の志の高さは評価したい。

 アンソニー&ジョー・ルッソ兄弟による演出はテンポが良く、アクション場面はかなり練られていて、安っぽい部分など微塵も無い。大金を掛けたクライマックスのカタストロフ場面も凄いが、中盤のフューリー長官が襲撃されるシーンは緊迫感が溢れ、手に汗握らされる。

 主演のクリス・エヴァンスはアクがなさ過ぎるが(笑)、清廉潔白なヒーロー役にはうってつけだ。ブラック・ウィドウに扮するスカーレット・ヨハンソンは少し老けたが(こらこら ^^;)、存在感はかなりのもの。長官を演じるサミュエル・L・ジャクソンも無手勝流を発揮している。そして何より、珍しく悪の側に回ったロバート・レッドフォードが儲け役。この超ベテランも演技の幅が広がったようだ。ファルコン(アンソニー・マッキー)やエージェント13(エミリー・ヴァンキャンプ)といった新キャラクターも加わり、アベンジャーズ一派はますます好調。次回作も期待したい。
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