(原題:Clear and Present Danger)94年作品。トム・クランシーによる電話帳みたいにぶ厚い原作は、ほとんどが“情報”の羅列であってストーリー性に乏しい(異論もあろうけど)。おまけに、主人公ジャック・ライアンの出番があまりない。映画でウィレム・デフォーが演じたCIAの秘密調査官の方が活躍していたりする。かなり脚色には苦労したと思うが、結果、ライアンが出ずっぱりのアクション編に仕上がっていて、一応の成功を見たといえる。しかし、どうも作品全体にスカッとしないモヤモヤが漂っており、愉快になれない。
カリブ海のヨット内での殺人事件はコロンビアの麻薬カルテルの仕業だった。しかも犠牲者は大統領(エドワード・ドナルド・モファット)の親友でもある。私怨にかられた大統領は、公安担当やCIA高官と結託し、麻薬組織壊滅のため傭兵を南米に送り込む。一方病気で倒れた上司(ジェームズ・アール・ジョーンズ)に代わってCIA副官代理となったライアン(ハリソン・フォード)は、コロンビア政府への多額の援助金を獲得するために“軍事介入しない”と議会で宣誓し承認を得る。ところがその援助金は大統領個人の軍事的スタンド・プレイに流れていたのだ。苦境に立たされたライアンは現地に飛び、事態を収拾しようとする。
元上司から“国民のために行動しろ”と言われ、一人で巨大な陰謀に立ち向かうライアンをヒロイックに描いているが“国民のため”とはいったい何? 確かに議会制民主主義のルールを無視する大統領は国民の敵だ。しかし麻薬組織もアメリカ国民にとって“今そこにある危機”なのだ。
麻薬カルテルが国家と国民にガッチリ入り込んでいるコロンビアに多額の税金を援助金としてそそぎ込むことが果たして正義か? 終盤で国に見放された傭兵を救出するためライアンは活躍するが、「ランボー/怒りの脱出」のメンタリティとどれほどの差があるのか。以上は暴論かもしれないが、もはや“国民のため”という大義名分が虚しく聞こえるほどに複雑化した国際社会の不透明さが、本来ヒロイックな活劇であるはずの映画を重くシニカルなものに見せてしまう。
“ボーイスカウトの団長みたいな”一本気な主人公が政治の世界でヒーローになるのは難しい。ラスト、大統領にケンカを売りに行くライアンの姿にいまいちカタルシスがないのは当然なのかもしれない。
アクション・シーンはかなり優れている。W・デフォーも儲け役。でも、CIA副長官代理が現地に赴いて大暴れするというのは、いくら映画とはいえ無理があると思うのは私だけ?(やっぱり私だけか ^^;)。
カリブ海のヨット内での殺人事件はコロンビアの麻薬カルテルの仕業だった。しかも犠牲者は大統領(エドワード・ドナルド・モファット)の親友でもある。私怨にかられた大統領は、公安担当やCIA高官と結託し、麻薬組織壊滅のため傭兵を南米に送り込む。一方病気で倒れた上司(ジェームズ・アール・ジョーンズ)に代わってCIA副官代理となったライアン(ハリソン・フォード)は、コロンビア政府への多額の援助金を獲得するために“軍事介入しない”と議会で宣誓し承認を得る。ところがその援助金は大統領個人の軍事的スタンド・プレイに流れていたのだ。苦境に立たされたライアンは現地に飛び、事態を収拾しようとする。
元上司から“国民のために行動しろ”と言われ、一人で巨大な陰謀に立ち向かうライアンをヒロイックに描いているが“国民のため”とはいったい何? 確かに議会制民主主義のルールを無視する大統領は国民の敵だ。しかし麻薬組織もアメリカ国民にとって“今そこにある危機”なのだ。
麻薬カルテルが国家と国民にガッチリ入り込んでいるコロンビアに多額の税金を援助金としてそそぎ込むことが果たして正義か? 終盤で国に見放された傭兵を救出するためライアンは活躍するが、「ランボー/怒りの脱出」のメンタリティとどれほどの差があるのか。以上は暴論かもしれないが、もはや“国民のため”という大義名分が虚しく聞こえるほどに複雑化した国際社会の不透明さが、本来ヒロイックな活劇であるはずの映画を重くシニカルなものに見せてしまう。
“ボーイスカウトの団長みたいな”一本気な主人公が政治の世界でヒーローになるのは難しい。ラスト、大統領にケンカを売りに行くライアンの姿にいまいちカタルシスがないのは当然なのかもしれない。
アクション・シーンはかなり優れている。W・デフォーも儲け役。でも、CIA副長官代理が現地に赴いて大暴れするというのは、いくら映画とはいえ無理があると思うのは私だけ?(やっぱり私だけか ^^;)。


