ウヰスキーのある風景

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諦めぬいてDistiny

2021-05-17 | 雑記
死ぬほど暇になって、そろそろ死んでしまうかもしれないと疑ってみたりしている今日この頃、十年越しにTwitterなるもののアカウントを取得してみた。

死ぬほど暇なのは昔からといえなくもないが、追撃を食らったのである。とはいえ、望んだ通りかもしれない。

それはさておき。

拙はよく、酒を食らいながらオンラインゲームをしていたものである。

先々月ほど前に、久しぶりに勢いでログインして喋っていたら、「ログがにぎやかになっている」などと言われる始末。

普段は閑散としたチャットログなのかと否が応でも感じるところだが、氣にしてはいけない。

そんな拙はちょくちょく、文字チャットなのに歌っていることがある。替え歌することが多いが、親父ギャグと言われるようなノリだと思ってくれれば結構。


というわけで、さっきTwitterに書いた替え歌をここで改めて披露する。


街を包む PCRtest
誇大な distance 動き出せば
それは紛れもなくヤツさ

コロナ Leaving me blue
コロナ Missing you true
コロナ Only few memories after you

背中にまといつく翳りは
コノヨという名の ものがたり
許されるはずもない Peace & Love

はい!

はい!は歌詞にはない。終わりの合いの手という奴なので無視してもらう。Twitterにもない。

寝ようとしたけど眠れないからネタを考えていたら不意に思いついて動いてしまった。反省しようはない。


この元の歌は何よ?と聞いてくる人はいるかは分からないが、まあ有名どころである。ヒュー!

気が向いたらTwitterのアカウントを貼っておこうかと思うが、何せ酔った勢いで開設したもので、どうするかはまったくもって未定である。

かなり前からブログはオワコンとか言われている。そのうちSNSもオワコンで、これからはテレパシーだ!とか言われかねないが、拙は年寄りからしたら若いが子供からしたら年寄りという、どうしようもない立ち位置である。
とはいえ、そもそもそういう具合で生きてきたので、それでいいのかもしれない。

というわけで一つ小咄を。

一休さんとして親しまれているアニメがある。小坊主が主人公のアニメであるが、一休という名の僧侶が実際にいたという。

そんな一休さんは、修行を頑張って見たけどこんな中途半端な自分じゃ悟りを開くなんて無理だ!一休みします!と住職に伝えた。

すると住職は「でかした!それこそが悟りぢゃ!お主はこれから一休と名乗るがよい」と言われたという。


この前の記事に「SNS断ち」という話を書いたものだが、別にそれだけではない。その個別例をあげつらうのは浮世離れしてるように思われるしそんな氣もする拙には大変だし挙げ切ると世、じゃなくて夜が明ける。

上述の一休宗純(一休さんの元ネタの実在僧侶)の話を聞いて、「ああ、そういうことか」と思って頂ければ幸甚である。


思えば、釈迦も苦行をやり続けてもう無理だと諦めたら悟りを開いたという風に仏典にある。

諦めないで諦めるという矛盾した言葉が思い浮かびそうだが、この諦めるという言葉は、元は違う。

現代では放り出すというような意味で使われているが、「明らかにする」という意味だったそうな。

上記の二つから照らし合わせて書くならば、「これ以上の苦行は無意味だ」と「明らかにした」となるのである。

その結果部分だけみて、諦めるは放り出すという意味に使われているのだろうと思われる。

だからあなたも諦めぬいて!とかいうと怒られるなこれ。

とはいえ、諦める前に諦めるのは、人の性だがちょくちょくある。

だからあなたも諦めぬいて!先っちょだけだから!とか下ネタをつい書いてしまったのは、飲み過ぎたせいである。

思えば、一休宗純は飲み過ぎで渇水病、今でいう糖尿病にかかっていたと言われている。

そうとはいうものの、人には既に諦めざることがある。

嫌でも死ぬ。悟りを開いたという釈迦も死んでいる。


人の身は有限である。釈迦は施された食べ物で死に、一休は酒の飲み過ぎで病んで恐らくそれで死んだ。

これが毒だあれが薬だと選り好みするのは、悟りから離れた姿ではあるまいか?
実際に釈迦の時代からの托鉢(托鉢自体は別宗派からあったようだが、詳細は忘れた)は、条件はあるものの、肉を托鉢されても断らずに食べていた。


薬を飲もうが毒を食らおうが、人の身はいずれから滅ぶ。

人の身が全てだと思いなすのならば、それは一つの悟りと言える。そこからすれば死は無意味であるが、その先を見ようとも考えようともしないのは悟りたり得るだろうか?

その先があるのかないのか「諦める」ために、拙は酒を食らっているのである。

この言い方は語弊があるのでもう一つ言っておくが、釈迦が弟子に向かって言っていたことはこうである。

「死後の世界があるかどうかを考えるのではなく、今をしっかり生きなさい」と。


人類が意識というものを持ってから、このような問いかけは幾多も行われてきたのであろう。

しかし、これらを現代社会で例えると、「オンラインゲームの状態」と例えるのが実にしっくりくるというのは、分かり易くていいのか卑俗になったと悲しむべきかは何とも言えない。

仏教の思想が量子力学と親和性があるとかいう話もあった気がするが、紀元前のインドと現代では表現できる語彙の量が違うので、思ったほど恐ろしいことをしてばかりでもなかったのかもしれない。

昔の滝行の如き修行は、今だとジェットコースターのようなものだったのかもしれないなと。

などと妄言を述べ・・・。

そういえば仏教の戒律に妄言を吐くなというのがあったな。

だとすると、拙は成仏には程遠いというわけである。


では、よき終末を。


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