先日、Twitterのアカウントを開設したと書いた。特にここのリンクを貼ったりはしていない。
勢いで開いたもので、何をしたものかと途方に暮れているので、ここと同じくらいの妙な話をちょっと書いたぐらいである。
というわけで、今朝、Twitterに書いた話でも書いておく。
半ば冗談でこのブログ内の自称を「拙(せつ)」とやってきた。とあるゲームの忍者キャラの自称らしいが、本当かまでは確かめていなかった。
武士なら「拙者」というのは時代劇などのイメージで広まっている。僧侶なら「拙僧(せっそう)」というのもあるし、現代でも自著のことを示す際に「拙著(せっちょ)」と言ったり、自身に纏わることを人に伝える時にへりくだって使う言葉である。
さて先日。漫画の『美味しんぼ』を見ていたら、アメリカ人の落語家というキャラが「拙」と自称していた。
故なき言葉ではなかったのだなと安心したものである。別に不安だったわけでもないが。
しかし妙ではある。『忍者ハットリくん』の自称は拙者。そして前述のゲームの忍者キャラは拙。
以前にも書いたが、実は古文書に「拙者」と書かれていても「せっしゃ」と読まなかったのではないか?と推測したものである。
かつて、江戸時代の終わりまでは、文章を書くときは漢文調というのが日本の決まりだった。
もっと時代を遡れば、朝廷の公式文書は漢文だったりする。江戸の時代も漢籍は必須科目であったから、武士同士がやり取りする手紙も漢文調と相成る。
勿論、中国語で読んでいたわけではなく、現代の学校でも習ったことのある人は思い浮かぶであろう、「訓読」をするわけである。レ点だとかを着けて行きつ戻りつする読み方である。
拙者という言葉が漢籍にあるのかどうかまでは知らないが、この訓読で実は~者と書いてあるのを「~ハ」と訓読する例がいくつかある。まあ、見た覚えがあるという程度で、具体例は挙げられないが。
学者だとか賢者といった言葉は、この「者」がついてようやく人を指す言葉かのように思われる。
実際にそういう風に定着しているわけで、別にこれを否定しようという話ではない。
とはいえ、「大賢は大愚に似たり」という言葉があるが、「者」はないのにどちらも人を指している。
日本語の漢字言葉の癖というのか、同じ意味を重ねるというのがある。漢語的だとありがたく聞こえるからだという風に、文学者の高島俊男氏がかつて書いていた気がする。
例えば、「皮膚」というのは、どちらの字も実際は「かわ」を指す。
かわ科、では極まりが悪いので、皮膚となっていると。同じ意味の漢字を並べているというのは枚挙に暇がなく、趣旨とは違うのでここまでとする。
拙何某と漢文調で書かれていたとしたら、別に意味が通じないわけではない。そもそも中国語でもない。
分かりにくいだろうから、英語に置き換えると変だというのがわかる。 I am 何某となるところが、I 何某となって片言になるのである。
翻って、上述した「~者」を訓読の際に「~ハ」としていた例があるというのを思い出していただく。
丁度、英語でいう is や am に当たるのである。
拙者何某を訓読するならば、「拙ハ何某」となる。申、だとかくっ付けたりしてあれば、「拙ハ何某ト申ス」となるわけだ。
さて。そうなると「拙僧」だとかどうなるのか?そういう疑問が沸く。
わざわざ「私は何某という僧侶です」などと名乗らなければならない状況というのは、日常的とは言えない。
僧侶然とした格好で相手も僧侶だと判っている状態で「わたしは僧侶です」と名乗るのは奇妙である。
ただし、武士に向かって手紙を書く際には、「拙僧」と書いたであろう。知己でもない相手に送るなら、身分を伝える必要があるだろうから。
「拙僧」があるなら、「拙士」とか「拙侍」という風な言い方があってもおかしくないが、そういう言葉があるかはわからない。
ただし、江戸時代は武士の時代である。大小二本を腰に差していれば、誰が見ても武士だと判るわけで、武士が武士に手紙を書くときに「拙侍」のような言葉を使うというのも考えにくい。
かようなわけで、「拙者」というのは別に侍だけの言葉ではなかったのではなかろうかと。
拙僧何某なら、「拙ハ何某トイウ僧」となる。ハが勝手に入って来たのは訓読にはよくある奴ということで。
もしくは拙僧者何某か。
とはいえ、拙者も拙僧も、一々こう読んでいたら七面倒くさい。定型文化し、そして口語化していったものと思われる。
「拙者」における拙と者、「拙僧」における拙と僧は、文脈毎にだが、同じことを指しているわけで、上記した「皮膚」の例と同じ具合といえる。
本当は武士は「セッシャ」と言わなかったのではなかろうか?という辺りから考えていたのだが、「拙者」を多用する武士は「セッシャ」、「拙僧」を多用する僧侶は「セッソウ」と訓読ではなく音読したものを口語で使うようになったのだろうと。
長々と書いたが、拙者は「わたしは~といいます」で、拙僧は「わたしは~という僧です」の略した読み方だったのだというわけである。
なんだろうこれは。何かのレポートか?ともかく、以上である。
では、よき終末を。
勢いで開いたもので、何をしたものかと途方に暮れているので、ここと同じくらいの妙な話をちょっと書いたぐらいである。
というわけで、今朝、Twitterに書いた話でも書いておく。
半ば冗談でこのブログ内の自称を「拙(せつ)」とやってきた。とあるゲームの忍者キャラの自称らしいが、本当かまでは確かめていなかった。
武士なら「拙者」というのは時代劇などのイメージで広まっている。僧侶なら「拙僧(せっそう)」というのもあるし、現代でも自著のことを示す際に「拙著(せっちょ)」と言ったり、自身に纏わることを人に伝える時にへりくだって使う言葉である。
さて先日。漫画の『美味しんぼ』を見ていたら、アメリカ人の落語家というキャラが「拙」と自称していた。
故なき言葉ではなかったのだなと安心したものである。別に不安だったわけでもないが。
しかし妙ではある。『忍者ハットリくん』の自称は拙者。そして前述のゲームの忍者キャラは拙。
以前にも書いたが、実は古文書に「拙者」と書かれていても「せっしゃ」と読まなかったのではないか?と推測したものである。
かつて、江戸時代の終わりまでは、文章を書くときは漢文調というのが日本の決まりだった。
もっと時代を遡れば、朝廷の公式文書は漢文だったりする。江戸の時代も漢籍は必須科目であったから、武士同士がやり取りする手紙も漢文調と相成る。
勿論、中国語で読んでいたわけではなく、現代の学校でも習ったことのある人は思い浮かぶであろう、「訓読」をするわけである。レ点だとかを着けて行きつ戻りつする読み方である。
拙者という言葉が漢籍にあるのかどうかまでは知らないが、この訓読で実は~者と書いてあるのを「~ハ」と訓読する例がいくつかある。まあ、見た覚えがあるという程度で、具体例は挙げられないが。
学者だとか賢者といった言葉は、この「者」がついてようやく人を指す言葉かのように思われる。
実際にそういう風に定着しているわけで、別にこれを否定しようという話ではない。
とはいえ、「大賢は大愚に似たり」という言葉があるが、「者」はないのにどちらも人を指している。
日本語の漢字言葉の癖というのか、同じ意味を重ねるというのがある。漢語的だとありがたく聞こえるからだという風に、文学者の高島俊男氏がかつて書いていた気がする。
例えば、「皮膚」というのは、どちらの字も実際は「かわ」を指す。
かわ科、では極まりが悪いので、皮膚となっていると。同じ意味の漢字を並べているというのは枚挙に暇がなく、趣旨とは違うのでここまでとする。
拙何某と漢文調で書かれていたとしたら、別に意味が通じないわけではない。そもそも中国語でもない。
分かりにくいだろうから、英語に置き換えると変だというのがわかる。 I am 何某となるところが、I 何某となって片言になるのである。
翻って、上述した「~者」を訓読の際に「~ハ」としていた例があるというのを思い出していただく。
丁度、英語でいう is や am に当たるのである。
拙者何某を訓読するならば、「拙ハ何某」となる。申、だとかくっ付けたりしてあれば、「拙ハ何某ト申ス」となるわけだ。
さて。そうなると「拙僧」だとかどうなるのか?そういう疑問が沸く。
わざわざ「私は何某という僧侶です」などと名乗らなければならない状況というのは、日常的とは言えない。
僧侶然とした格好で相手も僧侶だと判っている状態で「わたしは僧侶です」と名乗るのは奇妙である。
ただし、武士に向かって手紙を書く際には、「拙僧」と書いたであろう。知己でもない相手に送るなら、身分を伝える必要があるだろうから。
「拙僧」があるなら、「拙士」とか「拙侍」という風な言い方があってもおかしくないが、そういう言葉があるかはわからない。
ただし、江戸時代は武士の時代である。大小二本を腰に差していれば、誰が見ても武士だと判るわけで、武士が武士に手紙を書くときに「拙侍」のような言葉を使うというのも考えにくい。
かようなわけで、「拙者」というのは別に侍だけの言葉ではなかったのではなかろうかと。
拙僧何某なら、「拙ハ何某トイウ僧」となる。ハが勝手に入って来たのは訓読にはよくある奴ということで。
もしくは拙僧者何某か。
とはいえ、拙者も拙僧も、一々こう読んでいたら七面倒くさい。定型文化し、そして口語化していったものと思われる。
「拙者」における拙と者、「拙僧」における拙と僧は、文脈毎にだが、同じことを指しているわけで、上記した「皮膚」の例と同じ具合といえる。
本当は武士は「セッシャ」と言わなかったのではなかろうか?という辺りから考えていたのだが、「拙者」を多用する武士は「セッシャ」、「拙僧」を多用する僧侶は「セッソウ」と訓読ではなく音読したものを口語で使うようになったのだろうと。
長々と書いたが、拙者は「わたしは~といいます」で、拙僧は「わたしは~という僧です」の略した読み方だったのだというわけである。
なんだろうこれは。何かのレポートか?ともかく、以上である。
では、よき終末を。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます