ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

筋トレ不幸論

2021-06-08 | 雑記
この前の日曜、馴染みの店に久々に立ち寄って、昼飯を食べていた。

そうすると、こんなことを言われた。

「前より顔色が良くなった」と。

実は二日連続で来店しており、その日は前日にはいなかった店員さんもいて、その人が言う。

店主までそうだなぁと言い出し、挙句の果てには小学生のその息子までが言う。

ちっとも健康的な生活をしてないのだがなぁと思い、そう答えたが、後は以前は夜勤だったからだろうと付け加えると、それもあったんだろうとのこと。

何が健康にいいのか。悩ましいところである。


さて。面識はないが、とある人物が「不眠症は死ぬほどつらい」と言っていた。

筋トレしていて身体もかなりムキムキのようである。といってもネットで見たというだけの人なので、本当にそんな身体なのかはわからない。身体を動かしているのに不眠症で悩むというのは不思議だが、そう言っていた。

昨今、筋トレがブームらしく、その関連事業も広まっている。トレーニング・ジムが増えたり、プロテインがよく売られているのは周知の通りかと思われる。

ある程度の運動をすると幸福感が増すという報告もあるという。弟がそんな話をしていた。
そんな弟も毎日筋トレをしている。拙なんぞと比べたら圧倒的に引き締まった身体をしている。
幸福度が増すのかは知らんが、男の喘ぎ声の如きを聞かされるこちらは不幸になりそうである。

さて、そんな悪口は措くとして。
ではきっと幸福そうなんだろう、と思われるが、ストレスの方が多いので、いつも疲れた感じである。
そして疲労がピークなのか、調子を崩して先週末から寝込んでいる。医者に行ったら胃腸炎だとのこと。

あらかじめ断っておくが、筋トレをするな!とも、しろ!とも思わない。ただ、西洋的な唯物主義的考察で成り立っている機械的な筋トレをするというのは、脳を機械的に動かしているにすぎず、徒に繰り返せば、ただただ「硬い身体」にしかならないだろうとは思う。

プロレスラーのアントニオ猪木の修業時代は、山奥で岩石を持ち上げるといったことを行っていたと聞くが、こういうものの方が柔軟性の高い頑強な身体を作り上げるだろう。しかし、現代人にそれをやれるかというと厳しい。
拙も岩石を持ち上げに行きたいとは思わぬ。

筋トレの効用、みたいな説明を見たか読んだかしたことがあるが、利点の一つとして、結果が分かり易いというのがある。やればやるだけ効果が見えてくるからである。腕が太くなるとか、腹筋が割れてくるだとか、目に見える。
それで徒に繰り返しやすくなると。有体に言えば、依存症である。
機械的に繰り返す筋トレを行って結果が見えてくると、病みつきになってさらに機械的に繰り返すだろう。

広告媒体が散々取り上げるというのは、流行らせるのが目的であって流行った結果ではない、という点を感じているなら、こう疑うのもそれほどおかしくはないだろう。
何も筋トレだけに限った話ではないが、名詞を変えれば他の事も同じである。

さて。不眠症の話で思い出したことを一つ。

またもや野口晴哉の逸話を。

とある不眠症で悩んでいる青年がいた。もう死んでやる!とまで追い詰められていたそうだが、野口はその青年をとっ捕まえて将棋を指す。わざと下手くそに指し、何度ももう一戦!と繰り返し、三日徹夜したという。
さすがに疲れ切ったわけで、件の青年はその夜はぐっすり眠れ、以後は不眠症で悩むこともなくなったという。


この話はいくつか解釈があるだろうが、拙が思ったことを続ける。

まず、青年個人については、不眠症で眠れないから辛い、という観念に憑りつかれている。死ぬほど眠れないからこの辛さから解放されるためには死んでやる!とこうなっていたわけだ。そして死ぬほど眠れない状況を続けさせたら、死ぬほどよく眠れたと。
つまりは思い込みだとなる。思い込みを侮ってはいけない。「想像妊娠」というものを聞いたことがあるだろう。
あれはただの狂言ではなく(そういうのもあるが)、実際に女性の体内では妊娠した時と同じような体勢を取ることがあるという。

なら、不眠症は眠くなるまで放っておけばいいと言えなくもない。試したら死んでしまったとか言われても困るが。

眠れないから辛い、というのは実際にあるが、これは「条件付け」というもので、依存的傾向を強める。

以前からよく書いたものだが、例えば「これを拝めば幸せになる」という、胡散臭い宗教だとかの謳い文句があるだろう。

転じるとつまり「これを拝まなければ不幸になる」と言っているのである、と散々書いてきたものである。

死ぬほど辛いが、辛いだけでは人は死なないので、死ぬまで生きるだけである。本当に死ぬほど辛い環境なら、既に自殺するだとか過労死だとか他の死に至る病に侵されるだろうし、よく眠れている人も次の日にコロッと亡くなったりする。

話を戻すが、将棋を指している間は、眠れないだとか余計なことを考えることがなくなり、自身がしがみついていた観念を捨てさせることが出来たというわけである。

表面上はふざけたやり方だが、三日も親身に付き合ったというのは、青年もありがたかったことだろうと思われる。

とはいえ、世の中そんな有難い人だらけでもない。

個人で個人の問題を解決するというのなら、自身で自身を親身になって付き合うということになる。なんだか意味の分からない言い方だが。

不眠症というものが必ずしも思い込みだけで成り立っているとは言えないかもしれないが、こう考えてみてはいかがだろうか。
※実際に脳機能の異常で眠らない人というのはいたという。不眠症とは違うだろうが。

「辛いとどうなるのか?」と。

本当に辛かったら動けなくなるので、それでもうよかろう。ぐっすり眠れる。
こういうと怒られるだろうが、死んでしまったらそれはそれで死ぬほど辛いと思っていた通りになったと。

辛い、というのもこれまた次の条件付けに繋がっていくというのもある。

辛いから調子が出ない。出ないから仕事をミスする。ミスをして怒られてさらに辛い、といった具合になっていく。

これがまた最初に問題として条件づけられた不眠症に戻っていく。辛いのは不眠症のせいだと。

作家のひろさちやのある著作に書かれていたと思うが、まるでガンを治すために生きているかのような人の話があった。もしかしたらそういう状態になっていく、のかもしれない。

辛いけど頑張ろう、と考えるのも逆張りという奴になるだろう。前提条件の「辛い」から抜けていないからである。



やり玉にあげる形になってしまった例の人物は、所謂陰謀論者という具合の人物であった。

陰謀というものがこの世に存在しないとは思わないが、「常識」も陰謀論も「条件付け」が上手く利用されているので、深入りしないのがよろしいとは思う。前回書いた、昭和天皇の発言の趣旨の曲解などは「天皇は悪党に決まっている」という前提からなされているわけで、発言の前後の文脈を読み取る気がなく、これはそもそも貶めるための悪意か、前提による思い込みでしかない。仮に昭和天皇が悪党であったとしても、それはまともな感覚から逸脱している。マスメディアがよくやっているという、発言の切り貼りと同じになっている。

もし、拙の指摘したような硬直化した思考が故に不眠症(陰謀論もか?)だというのなら、機械的に筋繊維を肥大化させることは決して人を豊かにしないのだろう。

身体を鍛える必要はあるが、筋線維を肥大化させることは手段であって身体を鍛えるという目的に置き換わるものではない。

何が健康にいいのか。実に悩ましい所である。


では、よき終末を。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿