ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

3密加持

2021-05-16 | 雑記
ちょうど一週間前のこと。

家のすぐ近くの池のある公園に行った。天気が良かったので少し日光浴がてら本でも読もうと思ったのである。

池の淵まで降りられるようになっていて、そこには御影石が正方形に切り出されたものが置かれており、天面は磨き上げられている。

公園は小さいので池の脇に生えている大樹に遮られた部分以外はすぐ視界に入るほどの小ささゆえ、公園に入った瞬間から、池を上から一望できる欄干に二人ほど人がいて、一人はカメラを構えているのが見えた。

何かと思い、その視線の先を辿ると、去年から住み着いていると思しき鴨を追っている。

そして鴨の周りには黄色がかった小さいのが十ほどだか纏わりついていたのである。


とまあ、要するに近所の池の鴨がヒナを産んだという話である。


しかし、次の日。整備業者が公園の周囲の草刈りだとかをして休憩しているのを尻目に池を覗き込むと、親鴨しかいなかった。

以来、子鴨たちの行方はしれない。

先日、京都の寺の池でも鴨が子供を産んだので鴨川に引っ越しさせたとかいうニュースがあった。

段ボールで誘導しました、という話とその写真が掲載されていたものだが、鴨の雛を見たその次の日、上述の雛が居なくなっていた日だが、池に段ボールが水没していたことを思い出したものである。

とはいえ、親だけいるのもおかしいので、雛たちは(いろいろな意味で)隔離されているのだろう。
それは隔離とは言わないのでは?といった辺りのことは各人のご想像にお任せする。


さて。いささか話題が古いが、以前、とある医師が新型なんとかの話でこういうことを述べていたという。これは先月の話だったかと思う。

曰く「1密、2密でも感染する恐れがあるので、一人の時でもマスクをするのが望ましい」云々と。

今はしらないが、例えばアメリカのある州では、家でも常にマスク着用を義務付けるという話が出ていたもので、特に目新しい話ではない。

それはともかくとして、この1密だとか2密だとか何を言っているのだ?と揶揄されていたのを見かけたものである。

実際におかしい。何がおかしいのか?


3密を避けよ、と去年からやかましく言われてきたわけだが、3密3密と繰り返されたが故に、言っている方も聞いている方も混乱している。

そもそも内容空疎なキャッチコピーなわけで、中身などどうでもよく、「お題目」という奴ではある。

一応内容を振り返ると、密集、密閉、密接の3種を避けよと。

人ごみと締め切った部屋と人と近距離で喋る状況となる。

余談だが、3密は分かりにくいから集、近、閉と並べてシューキンペイにしよう!というネタがあった。発生元の国のトップに準えてである。然る物理学者がそんなネタを書いていた。

これらを纏めて3密と言っていたわけだが、元々、それぞれの状況が感染を広める可能性があるから避けよという話ではなかったか?ということである。

密が三つそろって役になる。花札の猪鹿蝶やらスロットで当たり目が出るかの如くという話だったのかと。

1密2密などと日本語がおかしいぞと笑っていたのだが、そもそも3密自体がおかしい。おかしいけどおかしくはないのだが、まるで密が常に3個セットになっているかのように認識していることがおかしかったのである。今なら3個セットでお得!

その医者も一々3密に準えて喋るからバカバカしくなるのだが、密が常に3種そろっているかの如く思ってしまうのもまた、乗せられて来た故なのである。

これが上記の集近閉なら、件の医師も「集だけでも近閉だけでも感染の恐れがあるので云々」と。言わんとするところは変わらない。元々ハッピーセットならぬ3個セットだという先入観で話しているし聞いてきたからである。もっと伝わりやすくなったかはわからないが、日本語読みとはいえ某国の元首の名前を連呼するのも如何なものかと思われる。寝ても覚めても集近閉!

密にかけて以前、三密加持について書いたものである。内容を改めて書くことはしないが、仏教及び密教において、三種の密をしっかり制御しなさいという意味である。無論、どれか一つでもないがしろにしてはいけない。
相撲では心技体というのがある。これらが揃ってこそ真の関取なのだという風な話があるが、それと似ている。

三という数は洋の東西を問わず、重要視される。キリスト教然り。仏教然り。

3密のように3種の大事なものを上記の両方とも掲げていて、そのどれもをないがしろにしてはならないと言っている。

と、世の中そういう風に教育されてきたので、3密などと言われると、セットになっているのだと思いがちなのである。


とはいえ。三密加持ならぬ3密回避もまったく無意味とは言わない。

いわゆる科学的な話ではなくなるが、そもそも人の体調が悪くなるというのはどういうものか?である。

楽しそうに過ごしている人の近くにいると、なんだか楽しくなる、というのを聞いたり体験したりしたことがあるだろう。
そして、また逆も然り。機嫌の悪い人に近づくと、部屋の空氣が重いだとか言ったり言われたりする。

人というのは、菌だとかウイルスという目に見える(現代科学において物理的に見えるという意味での)ものだけではなく、目に見えていないものに左右される。


古来より、大都市で疫病が流行ることがあった。理由として挙げられるのは、人口密集による公衆衛生の悪化と言われている。後は飢饉や貧困が追い打ちをかける。

身も蓋もない言い方をすれば、汚らしくゴミゴミしている所はみな、嫌な氣分で過ごすことになりかねない。

そこまではまだ良かったとしても、飢饉や戦乱などによる治安の悪化が重なれば、嫌な氣分で過ごす人はさらに増える。嫌な氣分の度合いも上がろう。

そこで何か流行り病が出たとなれば、僕も私も!となっていく可能性は高い。流行り病だと言われたから流行った、となる。
江戸時代に江戸の町で流行った脚気は、「江戸の流行り病」と言われた。田舎に戻ると治ってしまうというのも、それを裏付ける話となっていたものである。明治時代においても日本の陸軍は「細菌による伝染病」と言っていた。実際は偏った食事による栄養不足が原因と分かったのは大正時代に入ってからである。

鬱病の人と親しく付き合い続けると、鬱病がうつったかのようになるという話がある。特に家族だとか親しい間柄で起こるという。鬱病はウイルス性の感染症ではないのにである。

世にある感染症と呼ばれるものを全て否定出来る根拠は持ち合わせていないが、当時の西洋医学も深く勉強したという野口晴哉は、身近な感染症の代表格であるはずの風邪について「風邪はうつらない」と『整体入門』だったか『風邪の効用』で言っていたものである。


病は氣からという。ウイルスや細菌は顕微鏡で見えるが、氣に至っては存在証明が不可能である。例のアレもされたのかどうかはよくわからないが。

目に見えない恐怖!などというが、そもそも目に見えない何かに動かされているのが人間である。

顕微鏡では菌やウイルスは見えるのだから、見えるものは信じられて怖くないはず。

それならば、目に見えず信じられない氣を怖がって3密を回避するのがもっともだと言える。それは信じてないか?と突っ込まれそうだが、氣にしないでもらう。


病んだ氣には迂闊に近寄らない。これが3密回避の本質であり、マスク着用の有無を確認する以上に機敏に察知できる(はず)の日本人が得意とする氣についての感覚があればこそである!
と、高らかにぶち上げてみたが、冗談染みてはいるが冗談だけでもない。

だがそんなものわからないと、そう言われるだろうから、取りあえずお伝えしておく。

よくあるリフレッシュ法として言われているものの内に、「SNS断ち」というのがある。

別に金輪際するな!というものではないが、時折、テレビや新聞なども含めた外部情報媒体に触れることを一時的に止めるという奴である。普段から滅多に触ってないとかいうレベルの人は氣にしなくてもよいが、毎日テレビを見ているなら、それも止める。
例えば土日の休みに行うだとか、月一で旅行に出かけるとかいう人なら、その時に行うといった具合に。


そうすると、手持無沙汰になってしまって、何か焦ってくる。スマホをいじろうとしたり、PCの電源を入れようとしたりするだろう。

そういうのを無視して、例えばゴロゴロするとか散歩に行くだとか、こうしてみようと思ったことをするのである。

そうしてしばらく過ごした後、顔本だとか青い鳥の奴とかを開いてみる。

すると、楽しくやっていたと思っていたのに、実は何か追われていたかのような感覚だったことに氣付いたりするという。面白いと思っているわけでもないのに何となくしてしまう、というのも同じである。

そういう、何かに氣付くというのが文字通りでおかしいが、氣付きである。氣が付くのである。

というわけで、そんな感覚がないわけではなく、普段は離れてしまっているのが現代社会なのだと言える。氣付くの反対で、氣離れとでも呼ぼうか。まあ、氣を逸らしてるというのだろうが。

氣だとかなんだを常に意識しなくてもいいが、階段をのぼる時にたまには一段飛ばしをしてみようか、ぐらいの感覚でよろしかろうと。


金は天下の回り物という。氣は宇宙の回り物とでも言えそうだが、その回り物は自身にもある。ある、という言い方は語弊のあるところだが、それはともかくとして、己自身に氣が付かないのならば、世の中にも氣が付けなくなるのは道理なのだと。


目に見えるとされていることは本当は見えなくて、目に見えないとされていることが実は見えていることなのかもしれない。


では、よき終末を。


転がる先の杖

2021-03-29 | 雑記
先日、対立する意見の両方を読んでいた。

いわゆる陰謀論という事柄ではある。しばらく前にも、ヤフーニュースだかで「陰謀論」と見出しに出てきたりで、話題になっている。

どのような話を耳にしたのかというと、いわゆる陰謀論というのが広まったのは、その陰謀論で指摘されている支配層が広めたからだという話であった。

陰謀とは陰で謀ると書く。目立たないように見つからないようにするから陰謀であって、広まったら陰謀とは言えない。
外交機密というものがあるが、脅されたりで外国、つまりはお互い仮想敵国なわけだが、その相手方に渡しかねない状態になった時にどうするかというと、公開してしまうというのがある。外交員だとかの命も守るためにである。
機密として手に入れるから効果が高いのであって、周知の事実としてしまっては意味が無くなるのである。本当に漏れてしまうと国がひっくり返るようなものは、末端には渡さないものである。

陰謀を陰謀論として広めるとどうなるか?知った人々の具合によって、二分されることが想定される。

陰謀論と書いたが、「兵法」を想像して貰えば早いかもしれない。

隣り合ったAとBという国があり、お互いの領土を奪おうと常々狙っているとしよう。

AがBに対してこういう話をばら撒く。諜報員を使ってB国内で吹聴させるのである。
「A国は飢饉で国がガタガタだ」といった具合の「機密情報」を流させる。他にも「政変があって統率がとれなくなっている」だとか、そういう具合である。無論、それ自体は嘘である。
そしてB国はそれに乗ってA国を攻めに国境を越えてみたら、満を持して待機していたA国に主力を撃滅され、B国は国防もままならずに併呑される、といった具合である。


よく陰謀論界隈で取りざたされる言葉に「工作員」というのがある。諜報員は工作員の一種となる。

大体の使い方は、いわゆる陰謀論を論破してくる相手に向かって「工作員」と罵ることが多いように見受けられる。

「工作員」と呼ばれた方はどういうことを言っていたかというと、上記の通りに論破することと、陰謀論に嵌ることで国内感情が分断されることになるという指摘をしていることが多いようである。

さて、工作するにはどこが一番か?上記の例を改めて見てもらうと分かり易いだろう。

A国人がB国人の振りをして嘘を流す、というのが効果的だったというのがお分かりかと思われる。
もしくはB国人を買収するという方法もあるが、過程は関係ない。
ついでに、「工作員」と罵られた人たちも同じことを指摘していたが、受け入れられなかったようである。

グループのリーダーを追い落とす際にも似たような手法が使える。

まずはその意見に同調し、どんどん盛り上げておく。そして最後の最後で登り切るであろう梯子を落としてしまうという訳だ。

こういう話は陰謀論界隈限定ではないが、陰謀論と呼ばれる話の中には、根拠薄弱な物や、証拠写真として提出されているものが合成であったりと、ネタには事欠かない。

スピ系だとか宇宙だとかになると、示された根拠を調べることすら普通では無理となる。

とはいえ、今まで定説だとされていたことが、ある実験や新史料の発見で覆されるということはある。


面白いことに、先ほどから書いてきた対立の話は、同じ結論を述べている。

それは「新しい時代になっている」であった。

新しい時代では嘘が通じなくなるので、嘘を付くと罰せられるぞ!とお互い言い合っているのである。

どちらが正しいかと?「正しい」という言葉の定義によるといえばよるが、どちらも正しいことには違いない。

先ほどのA国とB国に振り分けるなら、合成写真やら薄弱な根拠まで振りかざす陰謀論者をAとして、それにまともな論拠(でない可能性もあるが)で論破して諭しているのがBとする。大多数の人はBの内にいる。Aと直接関わることは少ない。

AはAで正しいと思っている。根拠がデマであったりすることがあるのは、「正しい」と思っているが故である。

BはBで正しい。現代社会で提示されている根拠を示して論破しているからである。これまでの現状に繋がる現代社会を「正しい」と思っているが故である。


個々人がどこまで認識し考えているかは計りようがないが、逸脱が多く見えるのはAとは言える。
Bについては、元Aだった人も多く、アレルギー反応の如くになっている人もいるだろう。かくいう拙もそういう具合で、AとBを行ったり来たりに近い。

このように分断されているというわけだが、これを軍事や政治方面に当てはめると、Bの状態に分類できる内で、これまでの現状にすがっている状態の人が大半だと、国防上、無防備な面が多くなる。例の風邪の注射の件なんかが顕著だろう。

反対にAのような現状打破を前面に打ち出すと、諸外国から袋叩きに遭う可能性が高くなる。例の注射の話で例えるなら、契約の内容はともかくとして、一方的に取引を破棄するのは問題となり得る。


日本は二本立てで動いているから日本(にほん)、というのを聞いたものである。

もしかしたら、この状態が「正しい」のかもしれないと思えてくる。


何故か?この世を支配している存在があるとして(陰謀論でいう略称D・Sではなく)、意見が対立しているほうが、状況に合わせて転がしやすくなるからである。転がすこと自体は既定路線なのだと。我々は生きているつもりで、転がっているだけなのかもしれない。

その転がった先がどういうものかは、正しく神のみぞ知る、といったところかと思われる。
転がっている最中は文字通り目まぐるしいだろうが、あれやこれやと目を配ると酔ってしまう。
車酔いを防ぐ方法として、一点を見続けること、というのがある。
土台、全景を目に焼き付けることなど不可能である。なれば一点に集中すべし、となる。
一点に集中していると、そのうち集まって全景になり得るかもしれない、などと考えるのも一興である。

情報だらけので車酔いの如くの時代なればこそ、「自身が何を求めているか」の一点を見据える。
そうすれば、デマの吹聴やらそれに乗せられることも、現状にすがるだけもなくなるのかもしれないが、人のことは言えないのでこの辺りで終わりとする。


では、よき終末を。


グノーシスはアザラシに神を見いだすか

2021-03-26 | 雑記
よく見ている動物の動画を紹介しているツイートがある。

大体、ペットの動画が多く、犬や猫が大半だが、他の動物のも紹介されているときもあった。

先日、寝る前に「そういえば、アザラシの動画見たことないな」などと思いながら寝て起きた次の日に、そのツイートを見ると、アザラシの動画が上がっていたという。

引き寄せか!?などと喧伝する気はないが、なんだか面白いなと思ったものである。

とはいえ、振り返ってみると、引き寄せの法則やらを見て回った時に聞いた話に近い流れだったなとは思う。

寝ながらなんとなく考える
    ↓
そのうち考えた事も忘れて眠りに落ちる
    ↓
起きたらびっくり

と、こういう具合である。


引き寄せの法則とやらで言われるこの流れをもう少し踏み込んで書くと、望みを叶えようとする時は、確かに強く願い続けて叶える、という方法もあるようだが、一度願ったら願ったことを忘れてしまう、というのがある。

それは何故かというと、願うということは対象が欠乏しているからというわけで、分かり易い言い方をすれば、「お金が欲しい」と望むとき、それはお金が足りないが故となる。
「お金が足りない」からお金が欲しいと願うことになり、結果、お金がないという願いが叶い続けるのだと説明されている。とはいえ、寝転がってて金が入ってくるというわけではないが。

上述のアザラシの動画の話の流れに当てはめると、こうなる。

アザラシの動画が見たい
   ↓
今は見ている状態ではない
   ↓
見たいと思い続ける
   ↓
見ている状態ではない、が継続
   ↓
いつまで経っても見られない、もしくは時間がひどくかかる

という風になるそうだ。

別に他のところで探せばいいだろうが!とお𠮟りを受けるところだが、一言書き忘れた。
その見ていたツイートでアザラシの動画が上がっているのを見たことがなかったな、が正確なところである。


しかし、海外の然るスピリチュアルの教祖みたいな人が急に辞めてキリスト教に入信し、今までやってきて広めてきたことはいけないことだ!とか言い出したという話があり、公式ブログの膨大な量のうち十二ほど箇条書きに翻訳したのを読んだものだが、「引き寄せはするな!」というのがあった。

翻訳して解説を付けていた人が冒頭で断っていたが、キリスト教に入信したが故の立場からの発言なので、全部真に受ける必要はないとしていた。そのリンクを貼って紹介していた人が「翻訳した人は何か困ったように書いている」と感想を述べていたものである。

きっとアザラシは悪魔なのだな。悪魔は魅力的である。
ついでに、上記のスピリチュアルの教祖は、「ハリーポッターは見るな!」と書いていた。

伝統的にキリスト教は魔術を弾圧してきたもので、大雑把に言えばキリスト教は「神」が人間の上にあって、人間は下僕であるとするが、魔術などのオカルトの教義はその逆とも言えることを提唱する。

グノーシスと言って、異端という意味合いの名称というか分類があり、キリスト教の萌芽時代にも宗派によっては「人は神になれる」ということを提唱していて、主流派から異端扱いを受けて隠れていったり消えていったという流れがあるという。

上記の元スピリチュアルの教祖のキリスト教的見解から行くと、東洋思想はまさにグノーシスになってしまうだろうが、現代社会で主流のキリスト教の宗派内でそういう歴史は習うことはないだろうとは思う。

そのキリスト教が実は弾圧していた魔術の技術を取り入れているなどと言われたら、どういう反応をするだろうか。別にお伝えしようとは思わないが、そのスピリチュアルの教祖の行動には別の意味があろうという見解もある。

何かにつけ、独創的でかつ革新的だったりする主張や行動様式を提唱する人物は教祖的な存在として祭り上げられることが多い。
歴史的に偉大な人物で容易に思い浮かぶのは、釈迦かと思われるが、流れは同じである。

以前にも書いたが、悟った釈迦はもう黙っていよう、人には伝わらないからと考えたが、帝釈天に頼まれて(当人も聞きたいからと)伝導を始めたと『スッタ・ニパータ』にある。

話が逸れた。つまりは、人に道を説いて自力で歩んでもらおうというものだったのに、教えてくれた人についていけばいいのだな!と勘違いするというのが古来からの人の習性であるといえる。
ヒヨコの刷り込みと同じ状態になってしまう。意図せず起きるし、意図して起こせばカルトになる。

それなので件のスピ教祖は「子供たち」に自力で道を歩んでもらおうと、独り立ちしてもらおうと考えたが故の今までの経歴の全否定なのではなかろうかとのことである。当人がそう考えているかは分からない。

それを聞いて思い出した話があった。

整体の創始者、野口晴哉が何かで書いていた。例の如くうろ覚えで引用ではない。

整体を教えているのは、自身で自身の健康を保つための訓練であるのに、道場に通う人達は「ここで整体指導を受けてるから大丈夫」だなどと言っている。誰もそこから上に出てこようとはしない。
とぼやいていた。

これもどこかで読んだが、晩年の野口の記述に「整体で人を治す意味なんてあるのか?」という具合なこともあったようである。

スピでいう「その人の選択だから」とでもいえばいいだろうか。実は死ぬ定めの人を無理矢理延命していただけではないのか?と、そのような懐疑を抱いていたようである。

教祖には教祖の悩みがあるのだ、などと言ってしまうのは簡単である。

最初から人心掌握して栄華を誇るためなら悩むことはなかろう。別の悩みが出るかもしれないが。

野口の場合は、当初は治療家、後にのその技術を教えていき、晩年の方は児童教育を考えていた。

本当に人を健康にしていくには、子供のころからそういうことを考えられるようにしなければならないと考えたのだろう。

その志は一貫して、人を、世の中を健康にしたい、といった具合だったのかもしれない。

『整体入門』の活元運動の話の最後のところに、そのようなことを述べていたものである。


実はまた話が逸れていたので戻す。


さて。あなたが教祖でそのような局面に遭遇した場合、どうするか?
これを考えてみるのは実にいい機会である。
演劇の役作りの手法として昔聞いたものだが、その役柄になり切るのではなく、あなたがその役の立場だったらどう振舞うか?を考えるというものだそうな。
欧米でその手法が出る前までは、真にその役になり切るというもので、これが実に演劇をつまらなくしていたという。ただただ、生々しい話を架空であるはずの舞台で見せられるという退屈なものに成り下がっていたという。
この手法を提案したのは、ベルトルト・ブレヒトだったとも聞いたが、詳細は忘れた。


人は役者で人生は舞台だ、という考え方がある。

あなたは「あなた」の教祖だとして、「あなた」に対してどう振舞うか?こう考えてみるのも一興であろう。


では、よき終末を。


鍋をひっくり返す話

2021-03-22 | 雑記
唐突だが、ブログを削除してしまおうと考えた。

というわけで、今までありがとうございました。



というのは悪すぎる冗談だが、たまに作っていた鍋の話でもしようかと考えた。
唐突とも思えるが、開始当初はお酒の話のブログには違いなかった。タイトル通りではある。


鍋の話の前に、しばらく前にあった話を書いておく。

去る三月四日。何の因果か「鶴岡八幡宮に行くぞ」となり、本当に参拝してきた。

とても単純なきっかけで、とあるお店に飾ってあった版画に、鶴岡八幡宮と下に小さく書かれたのがあった。

昔から見ていたが、とある日、急に気になって「どこにあるんでしたっけ?」とお店の人に尋ねた。

それからまたしばらくして、友人と出掛けた時に「ついでに鶴岡八幡宮まで行くぞ!」と冗談で言ったら実際にルートを調べ始めたものの、現在地から二時間ぐらいとのこと、そして夜だったので断念したのだが、上記のその日に本当に行くことになった。


実はそこの話はどうでもよく、さらに江ノ島まで足を延ばして、江ノ島を歩き回ってきた。

江ノ島まで食事をし損ねていたので一息ついた後、観光スポットの神社はどこだと適当に歩き始めたら、どうも反対に進んでいた。目の前にあった公園の地図を確認すると、その地図を設置していた公園の先の住宅街に「避難経路」という記述があり、どうやら参拝コースに繋がっているようだ。

初めてきた場所の癖に堂々と住宅街の間を歩き、「避難経路」と書かれた矢印を頼りに階段を昇っていくと、二十段くらいはあったか、真っすぐな階段の中腹に、茶トラの猫がこちらに背を向けて座っている。犬のお座りと同じな座り方である。

「おい。猫がいるぞ」と友人に声をかけつつ近づいて行ったが、その猫はまったく逃げようとも振りむこうともしない。

目の前に立ってようやくこっちを向いてきたので、指を鼻先に差し出すと、二三匂いを嗅いだかと思ったら、今度はその場にスフィンクスのように腹ばいになった。

指の匂いを嗅がせる前に撫でたかは忘れたが、撫でても顔の目の前に足が降ろされても微動だにせず、観光地の猫とは実に人に慣れているか、もしくは侮られているのか、などと件の友人と話つつ、昇って行ったものである。

一通り回って、昇った方とは違う、土産屋などが立ち並ぶ方から降りていくと、やはり観光地。人が多い。そりゃそうだ、と言いたいところだが、そうなってくれなければ困る。
大通りの脇へ入る道を覗き込むとカフェがあったり、また色々と見に行きたくはなるが、ちと遠い。

それはさておき。本来の参拝コースだった道を下っていくと、途中、観光客が声を上げた。
とある店の脇に猫がいるという。見ると、住宅街を昇って行った途中にいたのとそっくりな茶トラの猫であった。

女性の観光客達が「可愛い!」と声を上げていたので、撫でるのは辞めた。同じ猫だったのかはわからないが、歓迎だけでなく見送りまでされたのかもしれない、などと思ったものである。

江ノ島で見た猫の話がだらだらと続いたが、本題の鍋の話にする。

とはいえ、この鍋の作り方も大昔に書いたかもしれない。


これはずっと昔にテレビの料理番組で見たものである。神田川俊郎が作っていた。

拙は関西出身だが、大阪ではないので実際に見たことはなかったが、上方では「ハリハリ鍋」というものがあるという。

本来はクジラの肉を使うもので、野菜は水菜、別名京菜を使う、関西の鍋である。水菜限定かはわからないが、テレビで見たのは水菜を使っていた。詳しく知りたい方はご検索のほどを。

クジラの代わりに鶏のもも肉を使う。というわけで読んでも作れなさそうな具合の作り方を記す。


材料 

鶏もも肉一枚。ぶつ切りではなく、そのまま焼いてステーキに出来るようなあの状態の奴。

他の具として、先ほど書いた水菜、ゴボウ、後はキノコ類だとエノキがよかろうか。後は長ネギの白い部分。青い部分も使うが、具ではない。テレビで見た鍋には長ネギを入れていたかは覚えてないが、折角なので入れてあげよう。

水菜は煮た時に食べやすい大きさに切り、ゴボウはささがき。長ネギは五分切りでも斜めでも。エノキは適度な大きさにほぐす。

出汁を作る際に必要な物

昆布、煮干し、生姜のスライス数枚、長ネギの青い部分。
水、醤油、日本酒、味醂、砂糖。拙は何故か味醂を買おうとしないので、酒と砂糖を多めにして代用している。

そしてこれらを入れて煮る鍋!土鍋が一番だが、蓋が出来る鍋を。


作りかた

鍋に水を張り、鶏もも肉を沈める。そこに上記の出汁を作る際に必要な物、で示したものを全部混ぜる。分量はわからない。まともに計ったのは真似して作った時の数回ぐらいで覚えてはいない。

醤油味の鍋なので、醤油でほんのり色づく程度、ではなかったとは思うが、薄口醬油だったかもしれない。薄口醬油を別に用意して作ったことがないので、拙が作ったものはまるでかけソバのように暗い色となる。

その辺りは創意工夫で乗り越えてもらう。

煮干しはお茶のパックなんかで包んでおくと取り出すのが楽だと、テレビで見た時にやっていたが、その辺りもご自由に。

そして最近別の話で行き当たった、生姜のスライスと長ネギの青い部分を入れるという部分。

実はこれ、中華料理の厨房で使われていたりする。葱姜水(ツォンジャンスイ)といって、水に漬けて一時間ほど置いたものを、肉や魚の下処理に使ったりする。一時間、は以前見た中華料理の動画で言ってた話だったと思うが、この鍋だけでなく、色々使えるものなので、覚えておくと料理の幅が広がるかもしれない。肉が柔らかくなるという話も、作り方を調べると書かれている。

昆布や煮干しが一緒に入るなら、先に水戻しするかのように漬けておくべきか?と思うかもしれない。
火にかけて沸いたらあくを取り、蓋をして火を止めそのまま数時間冷ますので、そこまでしなくてもいい。
ただ、昆布については沸騰直前で取り出すのが好ましいと思われるので、鶏肉を沈めるずっと前に水に漬けておいて、蓋を外す前に取り除く、が正当とは思われるが、家庭料理なのでそこまで気にしなくてもよいかもしれない。


3時間ほど放置して冷えたら、ネギや生姜、昆布に煮干しといった具にしないものを取り除き、鶏もも肉も取り出して一口大ぐらいに刻んで、ささがきのゴボウと共に鍋に戻して火にかける。

ゴボウにゆっくり火を通した方がいいかもしれないので、弱めがいいかもしれないが、ささがきにしておくと火の通りも早い。そしてゴボウから味もでる。

沸いてきたら他の具を入れる。水菜は火を通し過ぎないように、食べる直前にいれて、さっと食べるのがよろしいかと。

薬味を書いてなかったが、山椒とか大根おろしなどをどうぞ。七味唐辛子にも少々山椒が入っているので、辛いのが苦手でなければ。

締めは雑炊でもいいし、うどんでもいいと思われる。


こうして、酒が進み過ぎて二日酔いとなるのであった・・・。



などと書いたが、これを書いている前夜は水炊きを作っていたというのが妙なところ。

本当はもも肉だけでなく、手羽先か手羽元も使うのだが、家の目の前のスーパーは手羽元がいつも売り切れなのか、値札だけしかないことが多く、もも肉だけで作っていることが多い。

そのせいもあって、上記の鍋を思い出したのだろう。しかし、そのスーパーには水菜が売っていないという悲劇が拙を苛むのであった。


暖かくなってきたが、鍋によく使うアブラナ科の野菜は解毒効果が高いと評判だそうな。

冬場に体にたまった毒素を排出するのにもいいかもしれない。横文字でデトックスとか言われるが、汗をかくのもいいデトックスである。

汗をかきすぎて風邪を引いてしまった、という苦情は受け付けられないが、そういう人は野口晴哉の『風邪の効用』を一読することをお勧めする。

人間万事塞翁が馬という。書いた作り方が細かくないが、鍋がひっくり返ったとか割れてダメになったとかいうのでもなければ、どうとでもなる。場合によっては鍋自体がおじゃんになったが故のもっと別の結果が引き起こされることもあり得る。

先日、とあるところで読んだ面白い話があったので、掻い摘んで書いておく。


どこか遠方の神社に参拝に行ったら、その直後に交通事故に遭ったという。願い事はご縁をということだったらしいのだが、その後がとんでもない。
結構な怪我で入院したそうだが、そのままお世話になった看護師とご結婚なさったのだとか。


というわけで、暖かさがはっきりしだしてきたこの頃は、鍋を食べて大汗かいて風邪を引くのもよろしかろう。

コロナ?美味いね、あれは。黄色くてシュワシュワしてて。


では、よき終末を。


もえる季節

2021-03-03 | 雑記
この時期になるとよく尋ねられることがある。コロナウイルスが猛威を振るっているのにマスクしてないのはどういうことだ!ではない。

花粉症は平気なんですか?と。

ほぼ問題ない。外を歩き続けていると水っぽい洟が少し出たりすることはあるが、単純に普段のマフィアっぽい服装が薄着なので冷えただけである。家で布団に入ってぬくぬくしていると何ともない。
時折いがらっぽくなることもあるが、それもすぐなくなる。
涙目が酷く続くということもない。が、先月だったか、起きたら少々息苦しい日があった。まさかコロナを通り越してゾンビに・・・ということもなかった。(ゾンビ云々は以前の記事などを)

それで、そう尋ねられた時に実は昔、と話を切り出して色々伝えたりしていたものであった。

その昔というのは今から十年以上前である。

毎年、一月の終わりから二月にかけて風邪を引いたかと思ったら鼻水が止まらない。ティッシュの一箱はすぐなくなるという勢いであった。

当初は風邪だと思い込んでいたが、後年、花粉症じゃないかと言われても気にしていなかった。

それから数年後。ここの古い記録には残っているが相手先はすでに消滅済みの話に繋がる。

所謂陰謀論という奴だが、健康にまつわる話は文字通り死活問題である。

病気にさせられて病院で薬を処方させるというのはあり得ない話ではないと。

そもそも拙は風邪を引いても風邪薬は飲まないとほぼ決めていた。ドラッグストアで買える風邪薬の「葛根湯」はたまに飲んだりしていたが、基本的に薬は使わなかった。経緯は思い出せないが、すぐ薬に頼るのは自身の免疫を下げるだけだと。

後に野口整体の話に触れて、間違いではなかったなと確信したものである。余談が過ぎた。

話を戻して、その所謂陰謀論の所で書かれていたところに、タバコの話があった。
タバコが実際言われているほど体に悪いものではないというのは聞いたこともある人がいるだろうが、花粉症の症状を緩和するという話もあった。他には脳のとある細胞に働きかけて記憶力を上げるという報告もあるという。

それで試してみようと思ったものの、実際どうだろうかと悩んでいたら、そこの別のところに、アグニ・ホートラというものの話があり、詳細は省くが、アグニ・ホートラの話も加味して問題ないだろうと踏み切った。

そしてキセルを買って来て、日本製のキセル用のタバコを吸い始めたところ、次の年からだったか、花粉症らしい症状が緩和したか止まったかは思い出せないが、現在進行形で何ともないとなっている。

それで、花粉症にはタバコが効くと、時候の挨拶的になっているこの時期にはこれこれこうでこういうのがあるみたいですよ、と話をしたりしてきたものである。

とはいえ。愚弟も喫煙者だが、花粉症で寝る時にマスクしているとかいう状況。

他の知り合いも喫煙者だが花粉症。挙句の果てには「花粉症は治らない!その時のは花粉症ではなかったのだ!」と力強く否定されたものである。

花粉症でなかったとして、何かの病的症状だったのが劇的に緩和かなくなったことには違いない。


最近ようやく不思議に思ったので、一体何が拙の病状を止めたのかを考えようというわけである。


いきなり胡散臭い方面からのネタだと、「波動が高いと花粉症にならない」とかいう話を見たものである。

ベジタリアンでもないし、酒はガバガバ飲むし、世の中の大多数は以下略と思っているような奴の波動とやらが高いとは思えないし、計りようもない。

今もベジタリアンだとかヴィーガンで花粉症でないというのなら、それが原因と推察できるが、前述の通り違う。
実際に菜食主義者でも調子が悪い人もいる。花粉症の人もいるとか小耳に挟んだ気がする。

健康的な生活をしているとは言えない。夜勤の仕事で昼間は寝ていることが多い。そして今は仕事が減っているので家でゴロゴロしている日も多い。

タバコについては、拙についてはそうだとしか思えないタイミングだったが、他人については非喫煙者が試して変わったとは身近では聞いていないのでわからない。

さて。巷では花粉症と呼ばれるこの病状。原因は本当に花粉のせいか?という話がある。

忙しい人は空を見上げる機会がなかろうし、見かけたとしても気にしないだろうが、あさっての方向に飛んでいく飛行機が細い雲を流しながら飛んでいるというのを見たことがあるかもしれない。

拙はちょくちょく街中を歩いて空を見ているものだが、色々な方向から飛んでいるのを見る。

話は飛ぶが、アメリカでそういう飛行機が飛んで行った後に地面に落ちたものを拾って検査すると、様々な重金属が検出されたという。本当かはわからないが、現代では考えられないナノロボットのような何かが体に埋まっていただとかもある。ここは別の話と混じっているかもしれないが。

そこでアメリカ市民は国に抗議したところ、連邦政府だか軍だかは忘れたが、「この期間に飛行機を飛ばして散布したことは本当です」と認めたという。飽くまで一定期間とすっとぼけているのがお国とやらのいつものことではある。

つまりは、環境は色々と汚染されており、水にも空気にもアルミなどの重金属はふんだんにあり、電磁波がそれらと共謀して日々体を蝕んでいる、というのが実際の所で、花粉は目くらましとなる。

となると、現代社会では生きていけませんな。皆花粉症になるしかない。花粉症だけではないが。


しかし、花粉症らしい症状がなくなった。これがわからない。


先ほど、マイナスイオン云々という話を読んだが、体に害を及ぼすものはプラスの荷電で、マイナスイオンは文字通りマイナスの荷電で、ぶつけるとウイルスなどは電磁差といってたか、姿を保てなくなり、文字通り殺菌されてしまうというしっかりとした科学的根拠があるという。
電磁波や重金属もプラスの荷電で、人体を酸化に傾けて惨禍を引き起こすというわけである。
その反対は塩基性。つまりアルカリである。還元作用が重要となる。

体に必要なミネラルというのは、特に野菜や果物に多く含まれているものはアルカリの物が多い。

そこで思い出した話がある。

昔の日本は、「灰汁」というものを使っていた。煮込み料理や鍋ですくうものとは違う。

藁を燃やして灰にし、それに水や熱湯をかけてからその上澄みを使うのである。

これは強力なアルカリ溶液となり、掃除や洗濯など日常の様々な箇所で使われていたという。

とある猿の動物園では、生ごみを焼却した灰を置いてたら、猿が寄って来て食べていたという。

炭焼きをしていると、最初は白っぽい煙だが、炭が出来上がってくると紫の煙になり、これにはミネラルが豊富だという話もあった。


タバコ以外で実践していることを書いていなかった。

先ほども少し触れたが、アグニ・ホートラである。検索して見つかるような正式なものではなく、論理だけ拝借したものであるが。

細かい話は省くが、動物性のものと植物性の物を一緒に自然の炎で焼くと、人体や環境に良い影響を与えると言われている。これはインドに古代から伝わるアーユルヴェーダに則っている話であり、インドやネパールなどでは昔から行われている。
炭素の同位体でフラーレン分子と呼ばれる、サッカーボール状の炭素分子が高速回転するとかなんとか。ちなみに、このフラーレン分子に纏わる研究はノーベル賞を取っている。

拙が行っているのは実に単純で、蜜蝋入りの蠟燭を明かりにしているだけである。仏具店などで「あさみどり」という名前で売られている、少々お高い蝋燭である。
仏具店に蝋燭とマッチを買いに行くマフィア・・・。我ながら奇妙である。


というわけで、灰汁や炭焼きの件もあるので、タバコの煙にも還元作用、マイナスイオンの効果があると考えられる。

尚且つ、アグニ・ホートラもどきを続けてきたが故の健康体なのだろうといえよう。


火の始末については各人でお気を付けを。家が燃えたとか煙たいだのとか言われても困る。


それでも、何をするかの前に、己自身を顧みるのが先決であることは言うまでもない。



では、よき終末を。




這いよるコント

2021-03-02 | 雑記
宇宙考古学というものがあるという。

考古学を宇宙的観点から調べようというものだそうな。

有名どころでは、ゼカリア・シッチンがいた。宇宙考古学と言っていたのかは忘れたが、確かに人類の起源を宇宙との関りの中で説いていた。宇宙といってもこの場合は宇宙人がどのように関わってきたかである。

レプティリアンだとか爬虫類人という言葉を聞いたことがあるかと思われる。所謂陰謀論の界隈で広まった。日本にその概念を伝えた有名人が、デーヴィッド・アイクである。

そのアイクはかつて、シッチンの講演会だかで質問をしたら、ものすごい剣幕で怒られ否定されたという話を書いていたものである。

有名な話でもあるが、シッチンがなんと述べていたかをいつもの如くうろ覚えで書いておく。


それは・・・遠い宇宙の話・・・。

実際遠い方だと思うが、惑星ニビルと呼ばれる星があり、高度な文明を持った存在が住んでいた。あまりにも高度なので、自身の姿を自由に変えたり空を飛べたりと、まるで神様のような存在であったという。

ある時、その惑星ニビルの環境が悪化。この問題の対処にはゴールド、つまり金が大量に必要だと判明した。お金が掛かる、というのとは違う。

しかし、ニビルに埋蔵されている金では圧倒的に足りなかった。それでニビルの住人アヌンナキは、金を探しに宇宙へ飛び出したという。嫁さんがいるのに途中で浮気して子供をこさえたりしたそうな。
正妻の子供はエンリルという。親父さんのアヌンナキもその嫁さんも人間の姿に近いので、人間とあまり変わらない姿だという。
そして、妾腹の子はエンキという。浮気相手が蛇みたいな感じだったので、半分人間半分蛇の姿だとのこと。
この二人は仲が悪かったようで、価値観の相違からよく争っていたという。

さて、なんやかんやで地球に舞い降りたアヌンナキ、もしくはアヌ王とも呼ばれる存在とその子供たち。

ただ、自分たち自身で掘り出すのは、地球の環境が向いていないのであたかもマスクしたまま走り回るかのような状況になってしまう。そこで、当時の地球にいた生物の遺伝子をいじって命令通りに動かせる生命体を作り上げた。
それが人間の先祖の一つだという。
中東あたりの「エデンの園」と呼ばれた場所で、アダムとイブを飼育していたというのである。

詳細は語らないが、その人間の先祖にあたる存在からとある物質を抽出し、他の宇宙人に配布していたともいう。つまりは、「エデンの園」の正体は人間牧場だったというわけである。

シッチンがこの先のことを語っていたかは忘れたが、よく出回っている記述である。

それで、アイクはこの辺りまでの話と現代までの話を繋いで、「人類はレプティリアンに支配されている」という説を述べているというのは想像が付くだろう。

しかし、事情はさらに込み入る。込み入るという程ではないが。

さて、アヌ王に二人の息子がいたと書いた。

「エデンの園」の管理を息子の一人に任せた。任されたのはエンリル。
エンリル自体は人間を自身の保護の手の内に収めておきたいと考えており、言わば人間は奴隷のままでよいとしていた。

そしてもう一人の息子のエンキは正反対で、人間は賢くなって独立せねばならぬ、と考えていたという。厳しい父親のようである。

創世記の記述は余りにも有名ではあるが、蛇がイブをそそのかして知恵の実を食べさせ、怒った神は二人をエデンから追放した、とある。そしてエンキは半人半蛇の姿である。

つまりは、どちらも神と呼ばれた存在の眷属で、勝手なことをしたあいつは悪い奴だ、ということで蛇(エンキ)はエンリル側から悪魔と呼ばれるようになったという。

実際に旧約聖書の原文では、神々と書かれていたりする。

それからもお互いは反目しあったりして、これが現代にまで続いていると、シッチンが語っていたと聞く。
たまに協力したり、お互いの子供を結婚させて和解しようとしたりと、なんだか家族ドラマのようである。
そして、その二人がやり過ぎる時は、共通の孫娘や、アヌ王が直々に止めに入ったりしていたというので、笑えてくる。

何故このような話をするのかというと、前々から疑問に感じていたわだかまりがあったからである。

そういう存在の直系の子孫が地球を牛耳ってきた、というのが陰謀論の話で持ち上がる話なのはご承知の方も多いだろう。

金融も政治も経済も人も支配するのが目的だというが、その話を掻い摘んで喋ったりした時に、どうしても納得が行かない気持ちが出てきたものである。

言葉にならなかったが、先日、その事について言及していた記述を読んだものである。

「もう既に権力も財産もあるからそれ以上持つ必要はなく、そういうのに執心しているのは下っ端だ」という風に。

尚且つ、ずっと喧嘩している兄弟のコントロールは、どうしようもない所に行く前になされていたという。

つまり。元々は全部支配されているので、殊更に支配支配とわめく意味もないのだろうという風に思ったというわけである。

とはいえ、実生活が脅かされるようなものについては、個々人が判断して対処していく必要はあるが、この世というオンラインゲームのプレイヤーとしては各人のプレイスタイルで構わないのだろうと。だからといって人を故意に傷つけるだとかあくどく稼いだりしていいというわけではないが、そういう選択をする存在もあるのがこの世の実情であり、そのような存在すら支配下にあるのだろう。

さて。その神様と呼ばれた存在だが、歴史上色々なところに現れて何か教えたり、場合によっては人と化け物にそれぞれ分かれて演劇をしていたという。もしくは戦争だったり。

似たような話で、ラブクラフトが始めた『クトゥルフ神話』と呼ばれる作品群に登場する邪神の一柱に、「ナイアルラトホテップ」だとか「這いよる混沌」だとか呼ばれるのがいる。
同じ時代の別人物に同時に宿って、お互いを喧嘩させたりする。しかも、冗談のようだが、お互いがお互いをそれだと認識してなかったり、片方は当人?とわかってやったりと、めちゃくちゃをするという。

かつて、靖国神社のA級戦犯がどうこうで分祀しようという話があったが、分祀とはそもそも他の場所に神を移すのではなく、写すのである。靖国神社にいる神様を引っこ抜いて別のところに置くということはないのだが、ナイアルなんとかの如く、アヌンナキ達も、それと同じようなことをやって来たとなる。


ともかく。神様のような存在のやる事は表面上はよくわからないし、価値観も知識も違うので、話を聞くことが出来ても理解できるかどうかはわからないかもしれない。

人はわからないから知ろうとする。もしくは恐れて無視する。

洞窟から出た瞬間の日の光は眩しくて痛いかもしれないが、必要な痛みである。

そんな脅すような言い方は別として、この世は普段から知らされているようなものではなく、「這いよる混沌」によるコントの世界なのかもしれないと面白がるのも一興だろう。

ところで、人に尋ねる時に「あの」というが、大体「あのぅ」と伸ばすことが多い。

まるで「アヌ王」と呼び掛けているかのようで、思いついて一人で笑っていたものである。


では、よき終末を。


血で血を洗う抗争はぬぐい難い

2021-02-09 | 雑記
毎度のことだが、何を書くかまとめてから書き始めているわけではないので、よくわからない話になる。

とはいえ、これを書こうと考えていることがあったりはする。そして酒を呑み過ぎたりで忘れてしばらくしてから思い出したり忘れたりという具合である。

マーク・トウェインだったかが友人にあてて長々と書いた手紙の最後に「時間があったらもっと短くしていた」というのを先日目にしたが、それと比べたら恐らく短いので、このままでいく。


実は子供のころから気になっていたことがあった。それはッ!この世は嘘偽りでしかないッ!!ということではなく(無いわけではないが)、昔も触れたこともある、夜横になって目を閉じると、瞼の裏で光が見えるという現象である。

子供のころはそれが面白くてまるで万華鏡のように思え、面白がって見ているうちに眠りに落ちるという風だったように思う。

数年前に、改めてその現象を思い出す機会があったのだが、ある日を境に万華鏡のような具合ではなく、光の靄が蠢く形が主になった。何か模様を繰り返し表現しているようだったり、色も一定、もしくは数種類だったり、それが形を変えながらグラデーションするように変色していったりという具合である。

たまにあったのが、電子機器の基盤のような模様が見えたりしたものである。幾何学的な、某空中に浮かぶ城のアニメ映画の終盤の主人公と悪役の最終決戦の場面などに見られる黒い石の模様のようだったりといった具合であった。
それが天井の方に見えたと思ったら雪のような物が降ってきて、という話がその数年前となる。リンクは貼らないが、横道に過ぎるのでそういう話があったと言うに留める。

そして先月かそれくらいだったのだが、この現象のことを調べていたわけではないが、行きあたった。

丹光というそうな。読みは「たんこう」もしくは「たんみつ」というそうだが、パッと検索して出てきた以前読んだサイトだと、Web上の読みは「たんみつ」、スピ界隈では「たんこう」だそうな。

サイトによって見える人の特徴の数や表現が違うが、その内の一つに子供がよく見るとか子供のような心を持っている人が見えるとある。

気功の世界では、それが見えると「地に足のついた状態になっている」と評されるようだが、今の状態はどうなのかはよくわからない。

見えるものの形や色とその状態(綺麗かすすけてるか)で何を示しているかが違うという。たまに見ていたと書いた幾何学模様だとか象形文字のような物が見えるというのもあった。

長々と書いたが、子供のころから気になっていた現象は独自のものではなかったというので、人に説明しやすくなったなと思った次第である。

そう。思い出した。

このことを知る前からあったのだが、丹光と思しきものが見えているとき、なんとなく部屋が見えることがあった。見える人には起こることだという。試しに目をつぶっている目の前で手をかざしたりすると、見えているように思える。

思える、と自信なさげに書いたのは、体の感覚が勘違いさせているのでは?といえなくもないからである。しかし、手についてはそうなるのだが、部屋がうっすら見えるのは寝る前に記憶したとも言いづらい。部屋の様子なんぞ一々細かく覚えているとは言えまい。それが自宅ならまだしも仕事柄自宅以外で寝る機会もあって、その時ですら起こっていたからだ。

というわけで、色々気になったり疑問に思ったり試してみたりしたことがつながっているのだなと感動したという話であった。


謎の感動をしつつ、よくわからない話を続ける。


しばらく前に、とあるところで厚生労働省のHPの画像だったかリンクを見たものである。

IDESコラムvol.9とあって、タイトルが「ゾンビ・アポカリプスに備える」となっている。
気になって検索してみたら、しっかり出てきた。

厚生労働省はホラー映画の見過ぎか?と思わなくもない。拙も色々と聞いてこないまま見ていたら、というより見た時点で色々と調べ始めそうだが、そんな話を書いている。

このvol.9だけでなく、IDESコラムの他のナンバーも検索一覧にゾンビ云々と書かれているのが出ている。

厚生労働省だけでなく、アメリカでもゾンビ対策の話をやっている、というのも同時に見たものである。いや、同時にだったかは忘れた。その辺りは曖昧である。

記憶が曖昧になったのは、拙がゾンビになりかけて・・・とかいう訳ではないが、これに纏わる事件をずっと前に耳にしていたからで、アメリカでゾンビ対策云々もその時聞いたような?といったところである。

凡そ十年ほど前に見た、とあるサイトで紹介されていたアメリカでの事件である。厚生労働省の話を紹介していたところでも載せていた。

件の先日見たところに書かれていたのは覚えていたのと同じ事件で、ある夜、通行人がいきなりホームレスに襲い掛かって、その顔をかじり始めたという。
ちょっとやそっと殴ってもビクともせず、仕方ないから射殺しようと撃ち込んだのはいいが、絶命するまでかじり続けたという。ホームレスの男性は顔の半分を失ったが、命は助かったとのこと。撃ち込まれた銃弾は四発だったか。普通の状態なら一発で致命傷とならなくても、行動を抑止するには十分となるはず。

しかし、数発撃ち込まれて絶命するまで止まらなかった。

昔見た方の所に同じく書かれていたのは、同じくアメリカのとある家庭で、母親が娘を殺害して食べていた、とかいう話もあった。食べて殺したのかもしれないが、その辺りは忘れた。

上の事件の内容だけでも衝撃的だが、問題は二つ目の事件の方で、容疑者の顔写真が載っていた。

骨格は人の形をしているが、少なくとも凶悪犯だとかそういう意味ではないところでの、人の顔をしていなかったのである。

先に厚生労働省のHPに書かれている話をしてしまったのでそのままだが、行動といい体力といい顔の人外ぶりといい、正しくゾンビと言わざるを得なかった。


時折、こういった事件が起こっているようだ。時折なのは、余り表ざたになっていないだけという可能性もあるだろうが、そこまではわからない。

そこで何故こういう事件が起こるのか?ということを考えてみよう。

いきなりだが、ご存じだろうか。臓器移植で人格が変わったという事例が多々報告されているということを。

臓器ではないが輸血で変わった、というのは詳しく見ていないのでわからないが、あり得ない話でもないかもしれない。
例えば、ユダヤ教徒は定められた工程で血抜きされた肉を食べる。血を呑んではいけないと(旧約)聖書には書かれている。
エホバの証人は輸血をしてはいけないという。日本でも話題になり、ビートたけし主演のドキュメンタリードラマがあったと記憶している。

後は、熊は基本的に人を好んで食べる動物ではない。
というのも、何かの拍子に人の味を覚えた熊が人を襲うのだという。
北海道の開拓時代にあった有名な事件を調べ・・・ない方がいいが、人ばかり襲われて食われている。
余り気分のいい話ではないので、閲覧注意である。

とはいえ、すでに「アポカリプス」しておいたので続ける。
アフリカのとある部族だったか、その部族出身の人物が昔聞いたという話では、食糧問題による部族間抗争で敵対部族の人を食べる時は「徹底的に煮た」という。そうしないと危ないからだと言い伝えられていたとのだとか。

パプアニューギニアにはクールー病という風土病があるが、これもまた人肉食から来ている。
Wikipediaによれば、理屈は狂牛病と同じようである。クールー病で亡くなった人を葬儀で食べるという習慣があったとのことである。
この場合は、ゾンビになるのとはちょっと違う気がするが、参考までに。

さて、話が前後するが、アメリカのゾンビ事件で上に書いた二つとは別の件だが、その当事者の前後のやり取りが書かれていた。

「変なものを食べてしまった」
「何を?」
「人だ」

人は熊ではないとはいえ、人を食うと人を食うようになるのかもしれない。


何故このような話を書いたのかというと、実は歴史上でも詳しく調べないと出てこなかったり証拠自体消されたりしているので追えなかったりするというが、昔からあったという。

なら、今はないのか?とはならないだろう。上記の如くである。

大量の奴隷を輸入していた国々がある。火葬の習慣がない国で大量の死人が出る可能性があるのにである。

また、現代のアメリカでは子供がよくいなくなる。日本でも報道されるのは氷山の一角とはいえ、結構な数の子供が行方不明になっているという。

熊に食われたか?アメリカの一部地域ならワニの可能性もある。が、ちょっと無理がある。


既にこの手の話をご存知の方には言うまでもない話だったが、ちょっと視点を変えた関連のある話にする。


去年から続くコロナ騒ぎ。

実態はかなり嘘としか言いようのない話だというのは聞き及んでいる方も多いだろう。

そういう話を知らない人がここを見ている可能性もあるが、そんな人は途中で挫折していると思われる。

話を戻すが、厚生労働省のお達しに「死因は何であれコロナにしておくように」と書かれていたという話も去年の早い段階で出回っていた。

風邪の一種でマスクは症状のない人が無理して付けていると却って健康を害する可能性があるとすら書いているという状況だが、マスコミは「マスクして怖がって家にいろ!」とやり続けている。

生活を自粛させて経済を停滞させて空きテナントに外国を入れていく、某国からの亡国のエージェントとして活動している政治屋が!と腹を立てる向きがあるし、実際にそういうのもあると言える。

ところで、去年。トランプ氏は「コロナの99%は無害」と述べていたという。

そして、マスクは絶対にしないわけでもなかった。人ごみの中ではする?そういうわけでもない。

この言葉の意味はというと「残りの1%は危険」だというのである。

そのトランプ氏がとある施設で視察中の動画を見たことがあるが、その時はマスクをしていた。それを見た時はこの話を聞く前だったので妙に思ったものだが、「残りの1%」の危険性がある場所ではマスクをしていたという話らしい。

それが、上のゾンビの話に関係があるという。

コロナウイルスはTウイルス(某有名ホラーゲームのゾンビ化ウイルス)か!?と思うが、そうはならないのでご安心を。


実は、上記の事件のような状態の人が各国で増えているという。

それで尋常とは言えない厳戒態勢で搬送されたり、人死にの出た事件として発表されているのだとか。

処分されずに捕まった状態のゾンビのような人は、狂犬病と同じ反応を示すという。
一例として水に過敏に反応するというのが、狂犬病にかかった人及び犬にある。この話をしていた人の考察によれば、狂犬病の犬というのは墓場で人の死体を食べたのでは?と。
そしてそのゾンビ状態の人からは、狂犬病と同じく唾液で感染する恐れがあるという。飛沫感染の可能性という、コロナで散々言われていた事と重なるだろう。
トランプ氏がマスク着用で視察した施設というのは、そういう所だったのだろうと言われている。


政治家やマスコミがコロナを怖がってくれと頼んでくるのは、実際はもっと危ないものがあるので夜は出歩くなという話を、恐怖で収拾が付かなくならないように隠しているところもあるという。
とはいえ、そういうことが起り得るのは色々と危ない「残りの1%」の場所だけではある。あからさまにおかしな人物(前述の如く)が見当たらないなら、別にマスクも怖がる必要もなく、普通に過ごして構わないとのことだとか。
つまり、風邪の症状としてのコロナは余り強くないが、煙幕(目に見えないが)として撒かれたものなのである。

ゾンビといいグール(食人鬼と訳される)といい、夜な夜な人を襲って「食事」をする。
だから飲食店の夜間営業を抑えろということなのかもしれない。
万が一紛れ込んでいた場合、コロナのクラスターどころではない。
無症状が無症状をうつすというのは「Tウイルス」のキャリアかもしれないからといえようか。
「ゾンビ・アポカリプスに備える」というのは戯言ではないとなる。

ところで、その「コロナ」だが。

有名人や政治家や王侯貴族ばかり罹っているのは気のせいだろうか?

この件についてはご存知の方も多いかもしれないから今までとわざと触れなかったが、人を支配する立場の存在というのは「人を食ったような」奴が多い気がしないでもない。

そのような方々は「食わせもの」だったりもする。ほのめかすような言い方だが、後は各自お調べのほどを。

そういえば、ミンチから人の歯が出たり、血液が足りないからと自衛隊員から献血をしているそうな。

世の中「食わせもの」が多い。一杯食わされたのだろう。

では、よき終末を。


ここは隣の村ぢゃよ

2021-02-05 | 雑記
一昨日のことであった。少々現金が必要だったので駅前に向かった。夕方の4時過ぎだったか。

タバコを買ったりして、カフェに行こうかどうしようか考えたが、少々寒い。

カフェは少し離れている。では近くで軽く吞んでしまおうと、馴染みのネパール料理屋を覗いてみたら、ディナータイム開始直前だったが、入れてくれた。

しばらく呑んでから外で一服していると、女性が入口に立った。看板が準備中なのに気付いて引き返しかけたが、「僕もここで呑んでる途中なんで大丈夫ですよ」と入店を促したところ、何を呑んでるのかと雑談になり、その女性客もラム酒を二杯ほど飲んだりしたものだった。

そんなわけで陽気な気分になったので、ついオンラインゲームにログインして、おしゃべりをしてくるという有様であった。

ゲーム辞めたんじゃないのか?と問われそうだが、辞めなくてはならないものでもないし、やらなければならないものでもない。それぐらいである。
とはいえ、雑談だけで終わってしまったが。


さて。前回は題名に「遊びは地球よりも古い」とやったが、これは最後の方に引っ張り出してきた『ホモ・ルーデンス』の出だしのもじりである。

当初は「宇宙よりも古い」にする予定だったが、我慢した。我慢の子である。

何故そんな言い草をと?疑問に思われるかもしれないが、その事は後回しにする。


ご存知の方もおられるだろうが、「テレビなどの通信網を乗っ取って世の中の真相を暴露する放送が行われる」という話が数年前からあるという。

世の中の真相、というとどういうところまでなのか。その主体はアメリカだというが、他の国についてはどうなるのか?と色々と不思議に思えるところもある。何年か前にアマゾンで他の部族とまったく交流がない新発見された部族がいたというが、そういう人達にはなんと話したものか?などと冗談っぽく思ったものである。あるとして、その意義を疑っているというわけではない。

ただ、ある種の緊急放送が行われた国がある。先日、軍事政権になったミャンマーである。
内容は上記のように期待されているものではなく、何故軍事政権に移行することになったかを放送していたという。ミャンマー限定の話だと。
とはいえ、そういうことはやろうと思えば出来るのが現代といえなくもない。

世の中の真相というが、ひた隠しにされてきた話というものはかなりグロテスクである。所謂陰謀論といわれるものであるが、全てが正しいかはともかくとして、受け入れがたいからなのか大手の情報で流れないから事実無根なのか、デマだと言う向きもある。証拠を示しても前提が違うせいで受け入れようとしない、というのは普段でも起こり得る話ではある。

では、それまでの前提をどうして金科玉条とするのか?

おどろおどろしい言い方をすれば、洗脳である。そして、洗脳されている状態の人間は洗脳の自覚がない、というのは、別に某カルト宗教団体などに限った話ではない。

その前提を覆そうと他者に試みるのはよした方がよかろう。相手から聞きに来るなら対応すべし、とは思う。

こういう話は冗談だと思ってもらえる方がこちらとしてもありがたいので、以下に冗談をいくつか並べてみようと思う。

大手マスコミは本当のことしか流さないし、学校教育は生きていくのに必要で、それらから醸成された認識、つまり常識は疑うべからざるものであり、ニュートンから始まった古典物理はアインシュタインらが覆したが、覆した本人たちが疑義を呈しているから古典物理は本当で、医者は自身や家族にワクなんたらを打たないけど健康には問題がないので一般人には打つし、マスクはウイルスなんぞ突き抜けるけど何故か例のホラウイルスは防げるらしく、恐ろしい頻度で取り換えるのでもなければ着けっぱなしでは不衛生な上に酸欠で健康が阻害される恐れがひどく高いのだが健康上必要であり、某OS会社の創設者はワクなんたらに出資しているが専門家ではないのにニュース番組でその安全性を尋ねられたりしているし、目に見えないものは存在しないから訳の分からないものは無いのである。

と、途中で冗談が混じってしまったが、冗談である。

世の中の方が冗談染みているのは気のせいだろう。恐らく。


思想家の呉智英が言っていたと昔書いた話だが、科学というのは宗教だという話があった。

何故か?ある現象に対して「それは科学的ではない」と、何かの折に口にすることがあるかと思う。

しかし、その科学的という前提が科学的なのかどうかは考えた事が無い。そうだと教わってきただけなのである。

ガリレオが地動説を科学的に調べて主張した時、教会は何と言ったか?
「教義に反する」と、異端扱いにして葬ったものである。

「それは科学的ではない」という時、実は科学的な見解ではなく、「教義」を述べているに過ぎなかったのである。

世の非科学的と言われるもの全てに当てはめる必要はないが、そうなり得ることは往々にしてある。

この世は冗談がきついものである。

冗談を続けよう。


世の中には悪辣な人物や存在が必ずいるものだが、何故存在することになったのか?
どうしてそのような存在やそれに纏わる問題を目の当たりにすることになるのか?

この世はオンラインゲームと同じような状態だと先日書いた。
ゲームによるのだが、所属する陣営を選んで始める、というものがある。
敵対陣営の他のプレイヤーとは話すことが出来ないだとか、敵対陣営の領地に入るとNPC(ノンプレイヤーキャラ。例えるならドラクエの町や村の人)に攻撃されたりする。

さて。敵対陣営のプレイヤーの操作キャラたちとは戦うことになるのだが、敵対しているから相手は悪党でプレイヤーも人間じゃないのだ、とはならないだろう。それぐらい嵌り込むというのもあり得る話ではあるが、敵対していることは事実であっても、その中の話でしかないのである。

我々が生きている三次元の物理世界も、同じことだという。

では、どうして嫌な目に会ったりするのかというと、これがまたゲームの企画という奴である。
先日も書いたが、お化け屋敷は人を驚かせる場所であり、驚いたり怖がったりするのを楽しむのである。
いくら怖かったからといって、家に戻って晩飯を食べながら思い出して怖がり続けているのは異常であろう。

つまり。感情を醸成し体験するゲームが、我々が生きている世界なのだと言える。

体験であって、持ち物ではない。「ゲーム」内での通貨やアイテムが「現実」では使えないのと同じである。お化け屋敷の恐怖体験を自宅まで持ち帰るのは異常だとも既に書いた。

また、喜ばしいとされる体験も然りである。

これが大昔の宇宙の遥か彼方から現代の地球上に至るまで繰り返されてきたことなのだと。

遊びは地球より古いではなく、宇宙より古い、と書きかけた理由である。


冗談にしか聞こえないし、確認のしようもないが、世の真相というのは自分で感じ考えたものだけである。誰かが言っていた、何かに書いていた、というのは後付けと言えなくもない。ただし、大昔から続く感情育成のゲームだというのは、人から聞いた話だと言うのは白状しておく。

目に見えるものしか存在しないというのなら、鏡などの映るものが無ければあなたの顔は存在しないことになる。目で見る以外の方法で確認しているに過ぎない。
皮肉めいた自己矛盾であるが、矛盾を矛盾と感じないのも、というのはもうよろしいか。

唯物教からするとこの話は異端審問ものだろうが、「それでも遊びは宇宙よりも古い」とガリレオの如く述べるつもりである。

では、よき終末を。


遊びは地球よりも古い

2021-02-03 | 雑記
同じような題材を繰り返し取り上げては似たような事を書き上げる、というのを延々続けてきた気がするが、恐らく今回もそうなる。

というわけで、昨日の話でもしよう。

昨日は朝から目が覚めており、雨だから洗濯もしづらいかと思っていたら、日が高くなったころには晴れていた。

そこは気にしていないが、朝も早くから上空で唸る音がする。午前中は曇っていたので、何が飛んでいたかはわからないが、見えなくてもわかる。米軍基地からか、米軍基地へ飛んでいる軍用機である。

飛行機が飛んでいると思ったらその後にはヘリコプターまで飛ぶという状態で、ここ数年、時折飛んでいくのを見かけることはあったが、ここまで激しく飛び交うのは初めてである。

まるで戦争でも起こっているか、起こりそうなのでその準備をしているのか。などと言うと呑気に過ぎるが、実際に今は戦争中である。

安倍が去年、まだ総理だった時に田原総一朗に向かって、このようなことを述べたという。
「コロナ禍は第三次大戦」と。これは検索するとネットの普通のニュースに出てくる話である。

現代の戦争は、以前の物とは違う様相を呈している。軍同士の白兵戦による武力衝突は主なものではなくなった。

戦争とはいささか趣が違うが、先日、ミャンマーが軍事政権になった。空港も閉鎖され、首都はネットなどが繋がらなくなったという。選挙の不正があったとかで、アウン・サン・スー・チーらを拘束したという。経済アナリストの藤原直哉は「この流れ、どこかで見たような?」ととぼけた調子でツイートしていたものである。

その人物(スー・チー)については、『週刊新潮』の毒舌コラム、「変見自在」で昔、彼女はミャンマーの人間というよりイギリス人だ、という風なことを書いていたが、今回の件でその事が浮き彫りになったといえよう。

現代は情報戦が主となっている。とはいえ、人間が直接行う工作がなくなったわけではない。
その辺りはお調べ頂ければと存じる。取りあえず豆知識を一つ。
情報という言葉はそもそもが軍事用語だったそうな。敵情報告だったか、そのままの意味の言葉の略である。

軍事政権になるというと、似たような意味合いの言葉で独裁政権という物を連想されるかと思われる。
どちらもいいイメージがないというのが、拙も含めた現代人の認識であろう。
しかし、民主主義を標榜しながら裏で不正な手続きで政治を壟断しているのは、見た目が違うだけで独裁政治とは言えないだろうか。少なくとも、軍人は政治家と比べるまでもなく、国という物に対して真摯な態度で臨んでいるのだろう。実際に命懸けで国という物に奉仕しているのだから。
軍自体が実は外国勢力に乗っ取られていたり、または分断工作をされていたりでこうなった、という推測も出来なくはないが、そんな間抜けな軍が防衛の振りをしている国はとっくに別の国になっている。

と、別に国際情勢の話をしたかったわけではなく、昨日の話を軍用機云々で始めたせいなだけであった。

挙句の果てに、「コロナ禍は第三次大戦」という発言まで持ち出してしまったので、後には退けぬ。
などというのはないので、いつも通りよくわからない話に戻るとする。


昔、物理学者の二大陣営というのか、とある論争があった。決着したとかそういう続報は探してもいないので知らないが、こういう話である。
この世はホログラムだと主張するのと、この世はシミュレーションだと主張する学者たちが集まって議論したというのである。

知らない人には何のことだかさっぱりわからない話だが、掻い摘んで説明する。

まずはシミュレーションだという話をすると、この世は人類が持っているのとは別次元の能力を有したコンピューターで世界を一瞬一瞬シミュレートして作り上げているのだ、という説である。宇宙規模のコンピューターならそれが可能だろうという。
書いているこっちも訳がわからないが、そういう話だったと記憶している。

そしてもう一つの、ここでもよく触れてきた、ホログラムだとする説。
量子力学という奴で、何回か前にも触れた、アインシュタインとヨギの対談における、ヨギの発言である。
「我々が月を見ていない時は月は存在しない」という発言に集約されている。

ホログラム説の方は量子力学の解説などでもよく触れられるので聞き及んでいる方も多いかと思う。シミュレーション説の方も量子力学の一派なのかどうかは申し訳ないが調べていないのでわからない。

ただ、この議論だか論争の話を聞いたときに思ったものである。

「なら、シミュレートされたホログラムなんじゃないのか?」と。


この世はホログラムである、という話をまともに聞いたのは、実はデーヴィッド・アイクの著作からだったのだが、彼はこの三次元物理世界はまやかしで「映画を見ているような状態」と説明していた。

また、とある動画で例えられていたのが、3Dのゲームだった。操作キャラが入り込んでいない場所は、実際は描画されておらず、遠くの山にバズーカを打ち込んでからそこを見に行っても何もなっていないという風な説明をしていた。例えば地図に目的地のビルがあるとしても、その場所に近づかなければキャラが触れられる形で描かれていないというわけである。

例え話の方がわかりにくくなってきたので改めるが、物質と呼ばれるものは、人間が認識していないと、つまり見ていないと全く別な状態だったり違う動きをしているという。見ていないとモヤみたいになっているが、一たび見るとシャキッとするのか、確認されている動きや形になっているという。

月の話も3Dゲームもここを聞いているとわかる、のかもしれないが、そういう話を今の物理学者はやっている。

ネットの掲示板で見たのは、「オンラインゲーム」と例えていたが、恐らくこれが一番しっくりくるだろう。今時のゲームは大抵CGによる3Dになっているので、わざわざ3Dのゲームという必要もなくなっている。

何がどうしっくり来るのかというと、アイクの話に、である。

ちょっと説明が煩雑になるが、ゲームでキャラを操作して壁にぶつかるとする。実際に壁があるわけではなく、ゲーム内の規定の速度や角度で触れる時、壁としての約束事が出てきて、壁にぶつかってその先には行けなくなる。
実際には壁ではない。ただのCGで描かれた絵である。その約束事(プログラム)が無い状態の開発環境だと、自由にすり抜けることが可能である。絵を描いてから「この範囲に入ると進めなくする」と設定するからである。ただ、そうされていてもプログラムのミスや想定外の方法(バグなど)ですり抜けることもある。

そこはともかくとして。少なくとも映画をただ見ているというよりは、オンラインゲームでアバター(ゲーム内の自キャラ)を操作している状態という方が現実世界の説明に近い気がしたのである。

アイクは「映画を見ていることを忘れている」と説いていた。映画の登場人物に感情移入してしまって、現実との区別が付かない状態なのだと、所謂現実からしたら非現実な話に聞こえるが、そう述べている。

オンラインゲームのキャラは自身が操作して他のプレイヤーとやり取りをしたりしているが、決して現実の存在ではない。が、もし、そのキャラに人格があるとするならば、画面の向こう側で操作している存在に、普通は気が付くことはない。

つまり。我々はとあるオンラインゲームの操作キャラなのかもしれない、となる。実際にそういうゲームがあるとかいう話ではなく。

アイクが言うにはその映画を見ている、後は拙が付けたした「オンラインゲームのプレイヤー」としての存在が人の本体で、それをアイクは「意識」と説明している。原著では「Consciousness」と頭文字を大文字にしたりして、強調して書いているようだ。我々が普通に認識できるような形での存在ではないと。

これがアイクだとかスピ系の話ならそれで終わろうが、それを示すような話を物理学者がしているというのが昨今なのである。アイクも著作で「最先端の物理学では云々」とやっていた。

相対性理論には、「物質とエネルギーは同じもの」と書かれているという。
エネルギーと呼ばれるものに元素記号はないのだが、これが物質を作り上げているという。
そして、物質を規定するのは人が認識した時。それはすなわち意識である。意識はエネルギーと相成るとのことだそうな。思考は脳の中での伝達物質の反応と言われるが、思考するからそう脳が動いたとなるだろう。


なんだか妙な話になったので、意識を変えよう。


この世は幻というのは、量子力学の話を持ち出すまでもなく、古来から語られている所である。

そういうものの内で、神道、仏教、そしてキリスト教のイエスが共通して語っていることがあるという。

それは、「今に集中せよ」である。

神道では「中今」。仏教では「只今」。イエスは「明日の事を思い煩うな」と語っている。

と、やはり変な話になってきた。ここはもう一言で区切ろうと思う。

世は幻かもしれないが、少なくともその今は現実である。その今を放棄した場合は、幻に振り回されるというわけである。明日を思い煩うことになる。


幻だとかなんとかいうから妙な話になっているので、簡単に言えば、この世はお化け屋敷なのである。死ぬほど怖がらせに来るが、実際には死なない。アバターは死ぬとしても。


当初書こうと思っていた話をようやく持ってこれる気がする。もう少々お付き合いのほどを。


オランダの歴史学者で、ホイジンガという人物がいた。

『中世の秋』という著作が有名で、アカデミックな功績を積み重ねていたのだが、晩年、その功績を投げ捨てるつもりで書いた著作があった。
『ホモ・ルーデンス』という著作で、これもまた有名である。
ホモなんたら、という言葉から想像できる通り、この言葉の意味は「遊ぶ人」である。遊び人ではない。

人間の文化は「遊び」によって発展した、という文化史の考察である。

その「遊び」の定義はちょっと忘れた。過年自殺した(らしい)西部邁が書いていたが、流石に全部は覚えていない。
厳格なルールがあること。非日常的であること。とか書いていた気がする。後は宗教の話にも触れているので、神聖さを感じられるなどか。

久しぶりにホイジンガの話を思い出してサラっと調べてみたら、大雑把な言い方をすれば「全部遊び」と言っているようにも聞こえる。

それはともかくとして、言いたいことは簡単である。

この世というオンラインゲームに我々は「遊び」に来ているのだと。

子供じみた感覚で物事を眺めては、色々な「遊び」をして楽しんでいる。所謂楽しいというものではないものも含めてである。お化け屋敷は怖がって楽しむものである。

そうした「遊び」に没頭するうちに、この世というオンラインゲームの大型アップデートに繋がるのかもしれないなと。


現代はホイジンガの言う「遊び」の精神が廃れていると言える。
ホイジンガがそういう指摘や考察を『ホモ・ルーデンス』でしていたようだ。

己はオンラインゲームのアバターだ、という「遊び」をしてみるのもまた一興かもしれない。
少なくとも、徒に環境を怖がるだけの、余裕がない状態よりは良くなるだろう。


では、よき終末を。


ゐきている子供

2021-02-02 | 雑記
先日は、かつて関係のあった人物の言動の変遷について書いた。
こちらが振り回されたことについては大昔の記事にあるが、特に関係はない。

陰謀論者のダイエットジプシーというよくある?組み合わせだと一言で表現出来てしまって情けなくなってきたが、この二つが常にくっついているのが当たり前というわけでもない。

というのも、所謂陰謀論者であるとかダイエットジプシーであるかは関係なくその行動心理というのを考えればよいのである。そうすると、共通項が出てくる。

物事を類型化することによって、例えば神話だとかの共通項を調べたりする、というのはレヴィ・ストロースが始めた構造主義という奴だが、人間の行動心理やパターンといったところにも応用が利く。そもそも神話を書いたのは人間なのだから。

彼の人物のかつて存在したHPで、如何に努力して来たかを書いていた。当時はヴィーガンにたどり着いた、となっていたものである。

大雑把に言えば、食べているものが悪い!となって、素材の良し悪しやらジャンクであるか無いか、挙句の果てには畜産は動物を殺すのでその怨念が・・・というのを言い出す。
怨念云々は否定しない。ないと断定出来るものではない。

無論、そういったことを調べていくうちに、自然環境やら政治経済の仕組みの矛盾や酷いところに氣付いていって、所謂陰謀論というところにたどり着く人も多い。

今回は陰謀云々は省いて、ダイエットについて書こうと思う。ダイエットのやり方ではないので、ジプシーはまた放浪していただこう。


実際に調べたわけではないが、外来語の「ダイエット」という言葉には、計画という意味があると聞いた。

なら、これからは流行りの言葉で「アジェンダ」に言い換えてみるか、などと昔も書いた気がする。

どこかのOS会社の創設者は、お注射で一割ぐらい人口を減らせて調整できるだろう、などとフォーラムでしゃべっていたという。所謂陰謀論界隈のブログやらで言われるほど、おどろおどろしい言い方ではないようだが、ともかく、そう言っていたという。アジェンダ二千なんたらとか、そういう計画のプレゼン会での話である。

人体の脂肪を減らすのがダイエットという計画ならば、人口を死亡させて減らすのがアジェンダという計画と言えようか。言わなくてもいいが。

似たような言葉については、先日触れた、アメリカのフルータリアンダイエットの提唱者のインタビューにもあった。

単純な話で、人口は食糧供給で上がり下がりするだけなので、減ったらその分減るだけだ、という話である。

いつの人かは忘れたが、戦前より前の時代の著名な欧米の学者も、「今の食糧事情では何億人が限度」という言葉を述べていたが、今現在人口がその予測を遥かに超えて増えているのは、実に簡単な話で、食糧がその分を賄ってこれたからである。偏りがあるのは、そもそもの経済が「経世済民」になっていないからだが、ここでは扱わない。

余談が過ぎた。

というわけで、人にこういうと怒る人は怒るだろうが、敢えて言う。

太るのがそんなに嫌か?と。毎日ではないとはいえ、夜勤をやっている癖にまったくはた目からは太ってない寧ろ前より痩せた、などと散々言われる拙が言うと嫌味にしか聞こえないだろうが、ランナーが関取みたいになったのならまだしも、顔が少し膨らんだとか、腰回りが前よりきつくなった、とかで痩せよう!と言い出すのは如何なものかと考える。

病的に膨らんで病気になってしまった、とかいうのならばわかるが、大抵の人は病的な状態をどうしようという話ではないのに、痩せようとする。

痩せたら痩せたで、また太った、リバウンドだと、今度は別のダイエットに飛びつく。

そういうわけで、何故太るのかを考えてみよう。

食い物が悪い!
間違いではない。脂肪と炭水化物の塊ばかり食べていては確実に太る。
砂糖は特に刺激が強く、精神病の原因だと指摘されてもいるほどである。

味なんたらや人工甘味料が神経をおかしくて過食を引き起こしているからだ!
というのは実際報告されている。大手メディアには乗らないが、そういう研究報告はある。
テレビだかで味なんたらの毒性のことを述べたら、当の会社の部長だかが家にやってきて、撤回を求められたとかいう話があると、先日、どこかで見たものである。


ここからはいつも通り怪しげな話にしようか。

痩せたい人はまず、何を考えているか。

太ったのが嫌だから痩せたい。そう考えているのが大半だろう。

その視点は、「太っていること」についてのみ向かっている。
つまり、太っていることについてで頭が一杯なのである。

当人は瘦せようと考えているが、その頭の中は太っていることを年がら年中探し回って、自身にダメ出しを繰り返す。
そうすると、無意識のうちに「ああ、わたしは太っているのだな」と考え、どんどん太るのである。

当の本人は「痩せろ痩せろ」と命令しているつもりが、実のところは「太ります太ります」と身体は理解しているのである。

この齟齬が無くならない限りは、ダイエットジプシーではなく、ファットジプシーになり続けるだろう。追い求めているのは実は脂肪なのだと。


ちょっと違う話になるが、関連のある話を。
著名な矢作直樹という方がおられる。ご存知の方も多いだろう。

六十を過ぎているのに、ひどく若々しく見える。が、十年近く前ぐらいだったか、その当時は髪の毛が真っ白だったという。改めて検索して出てきた写真は髪が真っ黒である。

とある講演でしゃべっていたのだが、昔は白くて今はどうして黒くなったのかということについて、こういう風に言っていた。
曰く「体に感謝した」と。

続けていると、どんどん髪の毛が黒くなっていったのだとか。

矢作氏は所謂スピリチュアルな話を書いて出している人ではあるが、実体験としてそう述べていた。

体が余分な栄養を蓄えて将来に備えていることについて腹を立てるのは、生きている身体、つまり命を罵っていることになる。

罵られて喜ぶ人間は普通はおるまい。計略に嵌った相手が負け犬の遠吠えで罵ってきたというのならば、「我が意を得たり」とほくそ笑むところであろうが。


所謂陰謀論とレッテルを貼られた情報群がある。

無論、全部が正しいわけではない。荒唐無稽なだけの与太話もあるし、表面上しか準えていないものも多い。

数年前に耳にし、また最近はよく広まってきた言葉に、ディープ・ステート略称DSというものがある。一昔前はイルミナティと呼ばれていたものとほぼ同じ、らしい。

これは最近公になったというわけではない。こういう言葉が広まったのは最近なのだが、戦前の日本の新聞では、大統領選挙の裏にユダヤ資本家の暗躍とか堂々と書いていたという。その記事の見出し部分には「地底政府」というキャッチもついていた。井戸端会議で主婦の方々が国際金融についておしゃべりしていたぐらいこういう話は広まっていたという。

さて。これらは時代が下り、所謂グローバリズムという流れで大金持ちが多国籍に渡って陰に陽に支配する現代になると、ぱったりと出なくなっている。その話をすると、陰謀論だとなる。

2011年のあの地震が来る何年か前、もしくはもっと前までは、人工地震の実験がどうたらという記事も新聞に載っていたという。その何年か前にぱったり消え、今は陰謀論である。

とはいえ、さらに巧妙な話もある。行動予測プログラミングという心理学のテクニックがあって、例えば上記なら人工地震の話を事前に広めておいて、人々の間で不和を起こしやすい方向に持っていくというのもあるにはある。だからといって、人工地震が嘘だという話でもないというのが巧妙である。

話が横道に入ったので戻すが、我々の普段の生活においても、「陰謀論」がまかり通っていないだろうかと。

常識を疑うと白い目で見られる、というのはまさに上記に示したのと同じ流れになってはいないだろうかと。


成功するには努力がいる、とはよく言われてきたところである。
しかし、痩せる努力をし続けている人が痩せられたかというと、余りなさそうである。
でなければ、ちょっと検索するだけでとんでもない数のダイエット関連の情報が出てくるこの状況を説明する言葉が見当たらない。

努力はいるが、努力の向け方が間違っていた、と考えるべきだろう。

矢作氏のように「体に感謝した」というだけで髪が黒くなってきたというのは端から相手にしない割には、高価なダイエット食品を買ったり、わざわざ苦痛を身体に与えたりするというのは、生命というものに対して唯物的な判断しか下せないからといえる。

努力はいらない、とは言わないが、それは内面的な方に対して必要なのであり、外面的な事は結果といえる。


では。意識を変える方法とは?となる。

言うは易く行うは難し、といったところになるが、単純なことである。

「己の直感に従うこと」である。

所謂常識というのは、別にあなたが決めたものでもない。それを語る相手が決めたわけでもない。
振りかざして相手を抑えつけようという意図の下で行使されることがほとんどである。

今ある常識を全部かなぐり捨てて己の感性に従うのだ!とやるのは突飛に過ぎるが、身体は正直なもので、己のやりたくないことや触れたくないものについては、拒絶感を絶えず供給している。

子供が学校に行きたくない、登校日に腹が痛くなって動きたがらない、というのもそうだし、仕事を続けていたら鬱的状態がひどくなったり、ひどい腰痛やらガンになったりするというのは、そういう心の声を無視してきた結果という話もある。仕事をしていてそうなった、というのは、別に仕事だけが原因とはいえないところもあるので、個々人によるだろう。

それはさておき。話は代わる。

ある日の夜。帰宅した時に弟が拙にこう言ってきた。

ネットのとある診断で中等度のHSPと出た。だから兄貴がいつも言っている「自分らしく生きろ」ってのはと言いかけたので、「わしもその診断で同じ結果だったわ」と一蹴しておいた。

HSPというのは、ハイリー・センシティブ・パーソンの略で、けったいな言い方をすると酷く神経質な人ということになる。飽くまででわざとけったいな言い方をしただけで、こういう診断だとかは若い頃はともかく、今となっては西洋医学的な話は真に受けないことにしている。

これを足かせとして認定してどうにかしようというノリが下らないと、たまたま見かけた話を目の当たりにしてバカバカしく思ったのである。実際はどうかはわからないが、世の平均にはめ込もうとしているようで氣味が悪い。

Wikiにはこうある。
生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」という意味、と。気質の後に「を」がいるような気がするが、原文ママという奴である。

それはつまり。自身の危機察知能力が強いというわけである。他の人が不覚にも嵌り込んでしまうような所を上手く回避できる可能性が高いというわけである。

これは一つの強みではないかと。平均的労働者としてはすぐダメになる奴と言われるだろうが、知ったことではない。


そんな拙が昔から何を考えて生きてきたかは、何度か書いたかもしれない。

何故生まれ、生きているのか。である。

これもかつて書いたが、中央公論の紅白の表紙の古典シリーズのうちの『大衆の反逆』の前書きにこんな話があった。

曰く、生きるために考えるというが、考えるために生きるという部分もあるのではなかろうか、と。
考えるために拙が生きていると決定したわけではないが、今でもこれは覚えている。

そういう訳で、前回書いた人物の言動をバカバカしく思ってしまうのは必然であった。

ただでさえ鈍った感性をさらに鈍らせる現代社会の弊害から一歩も抜け出してはなかったのだと。

自慢話のようになってくるので、この話はここまでとする。


話が長くなったが、あなたがはっきりと自覚していない兆候というのは、あなたに対する警告であったり、反対に瑞兆だったりする。

そのシグナルは様々である。耳鳴りのスピリチュアル的意味とは?みたいなものに深く首を突っ込む必要はないが、長らく蓄積されてきた統計ではあるので、モノによっては参考にしてみるのもいいだろう。分かり易いのは体の痛みである。鬱屈した感情が体の各部位に痛みとなって出てくるという。


あなたの顕在意識というのは、言わば大人である。大人ぶっているというべきかもしれない。

そんなあなたの身体というのは、子供と同じである。ダメな子だと叱り続けられた子は、ダメな子に育つのは有名なところである。

自分の直感に従うというのがよくわからないという場合、手っ取り早いのが、普段こうしなくてはああしなくては、と思いがちなのを一度取りやめて、自身の身体という子供を褒めそやし甘やかせばよろしい。

子供というのは目を見張る存在である。驚異的ともいえる。
そしてまた、所謂大人となった存在もかつてはそんな子供であった。
生まれたての子供は泣いて乳をせがむだけなのに、褒めそやされるものである。

そんな生まれたままの子供が、自身の中にいるわけである。
生まれて尚且つ今も生きていることを喜ぶのが道理であろう。

道理が捻じ曲げられているのだから、狂氣と病氣が蔓延するのもまた、道理である。


では、よき終末を。


脳裏を過ぎる目玉の話

2021-01-30 | 雑記
昨日は昼の帰り道に突風が吹いて、日差しは強かったのに酷く寒く感じた。

夜勤明けで元気な時はちょっと歩き回ろうか、などと考えるのだが、中止することに。

年始に一、二度顔を出したきりになっていた、馴染みのネパール料理屋で飲もうかと思ったが、シャッターは開いているのに人がいない。何やら片付けもしていないような具合なので、ラーメンを食べて帰るという状態であった。

茶を飲み風呂に入り、少々一人用のゲームやったりしてそれから眠り続けて早朝にこれを書き始めたと相成る。

廃墟にしか見えない団地に住む蛮族のような人々と戦う羽目になるとかいう、奇妙な夢を見たりしていたものである。


さて前回。興味関心が別の方に向いたのでゲームをする気がなくなってしまったと書いた。

所謂陰謀論、と書いたが、具体的に書くと、アメリカの大統領選挙関連を見て回っていたのである。

もうバイデンが大統領でしょ?というのがメインメディアの流しているところではあろうが、その具合もなんだか奇妙だと感じている人もいるかもしれない。

一月二十日の就任式の日の午後十二時過ぎに、CCB、じゃなくてCCP(中国共産党の略称)が、何故かアメリカの前政権の国務長官等に制裁を科したことを発表しただとか、これだけでも奇妙である。それらの人物は中国に関係を持たず、資産すら置いてないのにである。
上記の時刻までは、アメリカの大統領はドナルド・トランプ氏であったのだから、行うならそれ以前が普通であるのにだ。

そのMr.トランプはというと、「前大統領府」というオフィスを開いて、公式事業を行うと発表したという。これまた前代未聞のことであるという。

また、アメリカでは、ワシントンを州にしようという話が持ち上がっているのだとか。この議題はアメリカの民主党が持ち出してきたという。ちなみにトランプ大統領は共和党で、バイデンは民主党。
色々と聞き及んでいたのでこの話も驚かなかったが、ワシントンは実は州ではないという。ワシントンD・Cと書かれているのをご存じだろうが、コロンビア特区という意味である。

ではあそこは何なのか?1871年だったか、それ以来、あそこは別の国なのだとか。分かり易い例で言うとバチカンである。バチカンと見るとつい「バカチン」に読みそうになる。

今までアメリカの大統領はワシントンはホワイトハウスに居を構えて政治を執り行ってきたはずなのに、こういう動きが出てきている。掻い摘んで動きを書いたが、奇妙だと感じられただろうか?他にもあるが、割愛する。

ともかく。こういう奇妙な話を散々見ていると、映画より映画過ぎて、酒吞みながら見つつゲラゲラ笑ったり嫌な気分になったり(恐ろし気な話も盛沢山である)と、予想の付かない状態で困るぐらいとなり、寝るちょっと前に料理の動画やらアニメを見るぐらいか、昨日のように疲れて寝まくるといった具合となっている。単純に寒い時は冬眠っぽくなる癖もある。

余談だが、以前までやりまくっていたオンラインゲームのメインの自キャラの恰好の元ネタ(それ風なだけだが)が、冬眠(冬限定かはしらんが)するとか言われているので、春に戻って「冬眠してた」とか言おうかと考えているが、通じるかはわからない。ネタのためにプレイ時間を犠牲にする上に通じるかわからないレベルというのは気合の入れ過ぎである。


界隈の盛り上がりにほだされて、拙もツイッターを始めて何やら呟こうかと一瞬考えたが、辞めた。

過去の例が脳裏に過ぎったからである。詳細は過去に散々書いたが、所謂陰謀論界隈は関わらない方がよいだろうと考えたものである。

その辺りは嫌な目にあった人間なら誰しも考えるところである。

少々、関わった人物の言動の経緯を書き記しておくのも無駄ではないだろうとして、記しておく。

大まかにいえば、世の中は闇の組織に支配されていて、我々が普段当たり前に行っていることの悉くが毒されていて、それに気付かない。このままいけば人口が思い切り減らされて思考も奪われ、奴隷の如く生きることになる、というのが陰謀論と言われているものの主張である。

これは間違いではない。何故なら、数多ある証拠を同じように検証したからといって、同じ結論を出せるわけではないからである。それならば、結論から証拠を遡って説明しても理解しない人はいるのは当然だろう。
とある学者だったか、そういう証拠を積み重ねる思考にも閃きだかがいるものだと、先日見たものである。

件の人物はというと、理解しない奴ら(日本人)は馬鹿だ。馬鹿だから死のうが知ったこっちゃない。と言い出した。言い出した、というより表立って見せていたHPや掲示板とは別にあった、拙やその他のメンバーとやり取りしていた裏掲示板で言っていた。関わった時から言っていたかは流石に思い出せないが。

そして、拙がその人物が書いた脚本による、ニコニコ動画で配信していたラジオの再生数がある程度行かないなら、もうここは閉める!と表のHPで書いて実際に閉めた。

所謂陰謀論界隈には、自然天然の食べ物がどうたらというのがよく目に付くと思われる。実際にこれも根拠のあることで、極端ともとれる人はヴィーガンを主張する。

その人物も同じく、そういう健康志向的な話も並行して主張していた。陰謀論とは関係ないレベルでも言われるような、地球のためにだとか、ああいうのと同じだと思ってくれればいいだろう。

関係ないレベル、とは書いたものの、実際は関係があったりするのだが、話が込み入るので詳しくは触れない。

件の人物は、「人は自然に帰って果物と葉野菜で生きるのが正しい」と主張しだした。HPを閉める理由の一つでもあった。専念するからと。

その人物がそう主張する原因となった、アメリカのスポーツドクターの本があった。翻訳家でもあるその人物が出版する予定もあったのだが、版権料で揉めて流れた。

さて。果物と葉野菜とあって少量のナッツ類で指導するスポーツドクターの著書にあった話として読みもし、彼らも主張していたとある言葉がある。
それは、「人が肉を食べて美味いと思うのは習慣に過ぎない」というものである。

果物が美味いと思うのも、太古の昔からの習慣ではあろうが、それはおく。

そうしてHPを閉めた後、購入していた農地で自然農業的なことを行いながら生活を始めたそうだが、同じドメインでリニューアルして再開していた。

一年か二年したぐらいか。たまたま知人から話を聞いて見に行ったら、何とインスタみたいな具合で更新しているHPにステーキ焼いて食べてるだとか書いていた。

飽きれたものだと思ったが、ドメインの契約が切れ、そのHPは完全に消えた後、別のHPが立ち上がっていた。

その新HPに堂々と書いていた。どうして肉食べるのか?という質問に対しての答えが以下である。

「体が喜ぶから」

一つ擁護ではないが、彼らが焼いて食べているステーキの牛は、グラスフェドという、牧草だけで育てられた物だという。友人にこの話をしたら、「丸ノ内のOLか!」と笑える突っ込みをしていた。

以前、フルータリアンになるために生きてきたのだ、などと主張していたのは何だったのか。そう思わざるを得ないが、別に彼らをコケにしたくて書いてきたわけではない。


件の人物は所謂スピリチュアル的な話もHPで書いてきたものだが、どこまでいっても現代社会の大きな弊害である、唯物的な思考から離れていなかった。だからダイエットジプシーを繰り返していたのである。陰謀論もその一環でしかなかった。ずっと昔にラジオで、「彼らの言動に霊的というと妙だが、そういうものが感じられない」と非難したものである。

金融を支配するロスなんとかやら闇貴族やら、それらを支配する目に見えない存在(レプティリアンだとか宇宙人だとか)が消えてなくなれば、人は自由になるのだろうか?無論、自由な環境が与えられる可能性はある。

しかし、少なくともロスなんとかがいないであろう、釈迦の時代から、それよりも昔から、人は不自由だった。宇宙人やらはずっと昔からいるというが。

それは人の心が、魂が不自由だったからである。

何故不自由だったのか?己自身以外のものに依存しているからである。つまりは振り回されているのだと。

所謂カルト教団だとかでなくても、こういう言葉は聞くだろう。

「こうしないと大変なことになるぞ」とか「こうすれば幸せになるよ」と。

これらは常に片方だけではなく、お互いを補完している。


何かがあるから何かがないから良いだの悪いだのというのならば、生まれたばかりの赤ん坊は不幸となる。乳を飲み、すやすやと眠る赤ん坊を不幸だと言うのはこの世に生まれ落ちた事自体を不幸だという言い草以外ではあり得ない。

人の本質は、地球環境に沿った健康的な生活をやっているからだとか、世の中の不正に気付いて糾弾するとかいうところにはない。

それらは肉体を維持する生活上での必要なのであって、人のすべてではないのである。

野口晴哉がこういうことを言っていた。

「目玉を捨てろ。意識から離れろ。その先に命の本質がある」と。

目玉から入るものが全てと思い、仮初の意識を己自身だと思い込むのが現代社会なのだから、命の本質から常々遠ざかるのは自明の理といえる。


現世の混迷は、人が以前の状態を続けようとするならば、長引くだろう。

ただ、一昔前よりは変わったかもしれないとは感じている所である。


では、よき終末を。


月と尽きせぬホラ話

2021-01-26 | 雑記
年末から、それまでずっとやっていたオンラインゲームをピタリと辞めてしまった。

いきなりいなくなると不審がられるというか心配されるだろうかと思い、一、二度ほど顔を出したが、メインの方はご無沙汰となっている。何人かは顔を出した方とメインでも共通の人はいるので、問題はなかろう。

理由はとても簡単だった。家でのんびりしたいのに、あくせくゲームするのは勘弁願う所存である。別に忙しく仕事をしているような身分ではないので、さらに思い切りのんびり過ごそうと思ったというところである。

とはいいつつ、とあるアクションゲーム(オンラインのプレイではない)の追加キャラを買ってここ一週間はそれをしていたが、それぐらいである。後は料理の動画を見ていた。

酒呑みながらゲームをやっていた奴がゲームを辞めて何をしているのかというと、勿論酒を吞んで・・・というのは本当だが、別の方に興味が湧いてしまったからである。

昔、ゲームを辞める!と宣言して辞めた時と状況が似ているが、あの時は理屈で辞めていたので、今は自然に離れた気はする。とはいうものの、春に大型アップデートがあるので覗きに行くかもしれないが、どちらにしても今は気が進まない。

かつて、どのような理屈で辞めたのかというと、人によって受け取り方がまるっきり違う一言で示せる。何度もここで書いてきた所謂「陰謀論」という奴である。

こう書くと、まるでテレビゲームが洗脳システムでプレイしていると頭がおかしくなるのだ!と言っているようにも聞こえる。まったく外れでもないが、その程度の話ではない。

洗脳システムというのならば、そもそも現代社会の成り立ちがすでにそうである。

だから、ゲームで洗脳とかいう甘っちょろい話ではない。ゲームについて強いて言うならば、「洗脳の強化及び補助」が関の山である。

そんな風に考えるものだから、少し他人と距離を置こうと考えたのである。オンラインといえど、肉親より毎日のように話をしてきた人もいる(一人暮らしが長いのもある)が、肉親も知り合いも、どちらも他人である。


十年一昔とはいう。拙が深く関わっていたころとは随分風向きが変わった気がする。

そして、当時と比べれば情報の伝達速度が格段に上がった。ツイッターは十二年ほど前からあったが、スマートフォンの普及と性能の進歩により、拙の若かりし頃、というほどでもないが、その時と比べれば情報の深化と共有の広まり方は目を見張るような具合である。

無論、流言飛語の類はどこにでもある。カタカナで書くとデマ。

しかし、普段の我々の生活上の約束事を成り立たせている常識、つまり「情報」がデマで出来ているとしたら?嘘偽りとまでは行かなかったとしても、統制されているとしたら?嘘偽りかそれに近いものを真実として思い込むのを何というのか?人それを迷信と言う。

かつて「陰謀論」として統制されていた情報群に、細菌、ではなく最近触れる人が増えてきた。

しつこく書くが、「陰謀論」という名目自体は隠したい真相から大衆の目を逸らすためにアメリカの某諜報機関が開発し流布した言葉及び手管である。

きっかけは去年から続く、風邪の話である。厚生労働省のHPにも「風邪の一種」と書かれているのに、エボラのような扱いを受けているアレである。その割には、危険極まりないはずなのに気軽に郵送して検査出来るとか、冗談にしか思えない。エボラというよりホラである。

一年かかって日本人を五千人も殺したという、とんでもない奴だが、去年の自殺者数は二倍になったという。確か、小泉政権時代で年間の自殺者として数えられた(わざとらしい言い回しである)のは三万人だったか。それが倍なら六万人となろうか。二倍なら九万人か。

あのホラウイルスは実に恐ろしい奴である。さして手を下さずに我が国をこれほど痛めつけようとは。

そうしてお店は空き家になっていって、代わりに入るのは中華料理店やら外国語ばかり目立つようになっていくという有様は、実に恐怖であろう。

げに恐ろしきホラウイルス!というわけで、ホラ話を続ける。


以前に、パスツールが死の間際に自説の誤りを認めたという話を書いた。

あのホラウイルスはというと、感染症の原因として認められるにはとある四原則を満たさなければならないのだが、どれも満たしていないのだという。コッホの四原則である。
無症状が無症状をうつすだのという話があったが、海外の研究で「感染をまったく認められなかった」という報告が出ていたとも聞く。無症状と言うより無脳症かもしれぬ。

ホラのウイルスはそんな具合なのに、危険だ危険だ日本の街をスマートにしチャイナ!と政治屋が何かやっているのを騒ぎすぎてバレて来ているというわけだが、もう少し踏み込んでみよう。

PCR検査の元を作ったキャリー・マリス博士は生前、インタビューか何かでPCR検査は病気の診断に使えるものではない、としゃべっていたというのはご存知の方もいるかもしれない。

彼は他にも色々と医療業界に煙たがられる発言をしている。HIVはないだの、ワクチンもAIDSも医療業界の利権ででっち上げられたものだ、等々と。

AIDSの原因とされているHIVは、実は単独分離ができていないという医者の証言があるという。単独分離がされないと、感染症として立証できないのである。ちなみにマリス博士は医者ではなく、遺伝子工学だかの学者である。

真逆(まさか)のホラウイルスとは・・・。よもやホラ話の方が現実味を帯びて来ている!

さて。テレビや大手新聞などの主要メディアが騒ぐことは嘘であるという前提でいえば、AIDSも散々騒がれていたのだから、そうなるのは当然の帰結となる。判断は個々人に委ねるが、そういう前提ならばという論理の話である。


それと、これについては拙も詳しく見てはいないが、このような話を目にした。

それは「ウイルスが感染症を引き起こすことを確認されたことがない」というものである。

前にも、ウイルスと呼ばれているものは細胞が病的症状を起こした結果排出される、エクソソームであるという説を書いた。

同じものを見ても皆が同じように答えを出すとは限らない。というわけで、主流になっているウイルスが感染症の原因とする説について異議を唱える研究者も数多くいた。

するとどうだろうか。その説を唱えていた研究者が二百人ほどバタバタと亡くなってきたという。

どこかで見たような流れではなかろうか?見たことがないなら、色々お調べ頂ければと。検閲が激しいので辿り着けるかは保証の限りではないが。

ところで、身長180cmの男性が160cmのクローゼットで首つり自殺をすることについて、どう思われるか?
そういえば、前述のキャリー・マリス博士も、一昨年の八月ごろに、自宅で変死していたと聞く。
最近、日本のマスコミ、じゃなくて塵芥も「変死」と妙な言い草をしているようである。自殺についてかは不明である。


変死といえば、ホラウイルスにかかって自宅療養中に急死!というニュースが最近飛び交っている。

だからこれはホラじゃないんだぞ!怖いんだぞ!とやるわけだが、今までただの風邪と馬鹿にされがちのものでも死ぬ。その時はちっとも数えず脅しもしなかったと思うが、いかがだろうか?あのホラウイルスは違うんだ!というのなら、比較できるものを示して考えられるようにしないと、ただの扇動であり、実際扇動でしかない。センドウ多くして船、山に墜落す。

PCR検査で陽性になった女性が自殺したというニュースもあった。ある人は怖がってない、ある人は怖がる。まあ、どっちでもお好きなように、という世の中なら死ぬこともなかっただろう。「家族に迷惑がかかるから」と言っていたとか遺書にあっただとか聞く。恐怖に取り囲まれてどうしようもなくなったが故の不幸といえる。

それとホラウイルス療養中の急死についての、オカルト的見解を書こうと思う。話が行き当たりばったりで申し訳ないが、読み物だと思って頂く。


前に、「共感呪術」について書いた。まるでウイルス兵器は呪いの藁人形のようだと。

呪術だったか魔術だったかは実はあやふやだが、同じものだと思ってもらう。魔術だった気がしないでもない。

さて。それが書かれている『金枝篇』に収録されていた、アフリカだかの人の話がある。

所謂未開部族というのは、何となく想像できるように、現代人にしてみれば訳のわからない掟がある。
例えばある動物は狩らない。その動物は部族の先祖だから、といった禁忌の一つで、所収の話の人物の部族の禁忌には「バナナを食べてはいけない。食べたら死ぬ」というものがあった。
とあるパーティーでその人物に「先ほどあなたが食べた料理にバナナが入っていましたよ」と伝えると、その人物はたちどころに死んでしまった、と著者のフレイザーが受け取った手紙に書かれていたという。

生まれた時から「バナナを食べたら死ぬ」と微塵も疑わずに育てば、その精神力が心臓を止めることは可能なのである。精神力というより魔力である。実際は同じものであり、迷信で人は死に至ることもあり得るのである。

翻って、ホラウイルス療養中の急死。はたまた精神力で心臓を直接止めたわけではないが自殺。

どちらも共通の前提があるのはお分かりだろう。そもそも医者にかかってホラ宣告を受けている時点でそうなる。

「ホラウイルスは死ぬほど怖い」である。自殺してしまった女性の方は、本人が死ぬ以外のことを気にかけての事だが、主語は大事ではない。
話が逸れるが、人間の脳の言語機能として、主語は関係ないというのがある。

自宅療養中を想像してみよう。一人暮らしなら元々辛いかもしれないが、同居している家族がいたとしても、近寄ってはならぬ!となって、「普通の」風邪の時と比べても寂寥の思いが山積みになる上に、無意識化に植え付けられた上記の文言がさらに精神を蝕む。

これで死ぬなという方が無理である。バナナを食べて死んだとある未開部族民と何も違いはないのである。バナナで死ぬは迷信だが、現代社会もまた、迷信と呼ばれていないだけである。


氣の毒というが、まさに世の中全体へ氣の「毒」が蔓延している。呪いと言い換えてもいいだろう。

その毒は糖衣で包まれているが、それ故、一たび飲み込めば蝕まれていることを自覚しづらい。
さながら、遠い世界に連れていかれるような味わいなのだろう。恐らく月辺りか。はたまた月を撃つのかもしれない。

それらがホラウイルスだけではないことは、常々語ったり語らなかったりしてきたところである。


ところで先日、こういう話を聞いたものである。

「呪いを解くには?」という話で、ひどく簡単な話である。

「気づけばよい」とのこと。


かつて、アインシュタインとインドのヨギ(ヨガの行者)が対談をした。

ヨギはこう言ったという。「月は我々が見ていないと存在しないのです」と。

アインシュタインは猛反発し、対談は平行で終了となったが、結局現代ではアインシュタインらが始めた現代物理学の見解は、上記のヨギと同じになっているという。


ホラウイルスが本当に怖いのか、我がホラ話が単なるホラ話ではないかは、気づくかどうかではある。
それはつまり。あなたが見ないので我がホラ話は存在しないことになり、裏を返せば、ホラウイルスの恐怖を見れば恐怖のホラウイルスが存在することになる。
呪いの藁人形はコケにするが、恐怖のホラウイルスは信じるのが、現代社会の呪いである。


では、よき終末を。


イカとエビの舞い踊り

2021-01-09 | 雑記
昔々『侵略!イカ娘』という漫画があった。アニメにもなっている。

海から人の姿をしたイカが、海を汚す人類を滅ぼすのだぁ!と上陸したものの、上がった先の海の家を経営している家族に返り討ちにあい、居候することになるとかいうノリで始まるコメディである。
タイトル通り、海からの侵略者?は女の子である。
イカはエビが好物なのか、その主人公の女の子も時折「エビエビ♪」と歌っていた。

さぞかし作者はイカが好きなのだろうと思ったら、単行本の著者近影に「イカアレルギーです」とあった。

好きか嫌いかはともかく、体が受け付けないものを勉強して尚且つ作品にするというのは、どう評すればいいか言葉が見当たらなかった。


イカと言えば、南米のペルーだったかにイカという名前の町だか地域がある。

特産はイカでもなく、エビでもない。石である。

御影石だとか宝石というわけではなく、大小さまざまな石に絵が掘られているというのが、四、五十年ほど前に話題となった。

きっかけは、その近所に住む医師が往診に出向いた際に、おまけで貰った石ころであった。

何やら模様が刻まれているな、というぐらいで、受け取った当初は部屋に飾って忘れていたとかいう、よくある話であったのだが、ふと改めて見てみると、その異様さに気付いたという。

石に描かれていた絵は、あり得ないものを詳細に描き出していたというのである。

以来、その医師は件の石を自宅に収集するようになる。そして、このことを公表しようとすると、事件が起きた。医師が殺されたとか石が割られたというわけではない。

なんと。軍隊が出てきて緘口令を敷き、地元新聞には嘘を描かせて封印したというのである。

それに携わった軍の士官が医師の元を尋ねたか呼ばれたかで、混乱を招くのでこの件は上記の如く行ったと伝えられたのだとか。

ちなみに、当時の新聞には、石に絵を描いたという地元民のインタビューが掲載されたのだが、曰く、「新聞見て勉強して描いた」などと答えていたという。

上記の医師が言うには、専門的な生物学や医学の知識がないと描けるはずがないと突っ込んでいた。

その石には、例えば脳の外科手術と思われる絵や、恐竜と思しき生き物と人類が共に過ごしている絵など、既存の古代史をひっくり返すような内容であり、新聞を見たくらいでは描けるはずもないのである。

と、実は昔読んだ本にあった話で、実は途中で止めた。石の詳細だとかドキュメンタリーに興味が余り沸かなかったからである。

翻訳書籍なので、翻訳者がどう思っているのかが気になり、上記の話くらいまで読んで、後書きを読んで終わった。翻訳者はこう書いていた。

「翻訳作業中、ずっと頭痛がした」と。今までの常識が覆されて、日常が壊れたような気分になったからだ、という風に書いてあったと覚えている。進化論は嘘だったのか?という風な疑問を投げかけていたような気もするが、今は手元にないので確認できない。

その後書きの中で、気分転換に読んだという古代史についての本のおかげで、さらに頭痛が増したという。
申し訳ないが、その題名は忘れた。覚えていることは、その本のことを別の所で見たことがあるというのと、翻訳者の頭痛が増した理由ぐらいである。

古代史の本、と大雑把に言ったが、古代史学の腐敗を暴露した本である。

権威が真っ当な発見や見解を潰して既得権益を守ってきたという。現代の古代史の見解はそこから変わっていないのだとか。


古代史だとか歴史というのは、言ってしまえば、普段の生活に影響がないように見える。
見える、と書いたのは実際あるからだが、そこを深めると長くなりすぎるので割愛する。


権威が既得権益を守るために、正当性を欠く行為を繰り返している、というのは、以前にも書いたが、医学にも確実にある。
日本でがん治療に使われる抗がん剤は、WHOの発表によると使用禁止のものだという話を先日目にしたものである。

医学界ではタブーとなっている学説もある。「千島学説」でお調べ頂ければと思う。何故タブーなのかは言わずもがなである。


抗がん剤の話をしたので、ついでに。この話もずっと昔にしたものだが、白血病の治療についてである。
骨髄を移植するのが治療法だと、子供のころによくテレビで流されていたもので、覚えている。

では、骨髄が血を作るという説はどこから来たのか?

実をいうと、死体を解剖した際に骨髄の中に血があったから、という理屈なのだとか。
生きている状態で本当にそうなっているのかは確かめられていないのだが(上記「千島学説」の調査を願う)、西洋医学は死体を解剖するのが好きらしいので、通説となっている。


少し歴史の話に戻す。

ねずさん、というペンネームで本を書いたり講演をしている、小名木善行という方がいる。

ちなみに、善行はゼンコウと読む。HPはこちら


詳細は省くが、第二次世界大戦のあとの日本において、GHQの指令の元「公職追放」というのが行われた。

まともな教師や学者はそれでほとんどいなくなり、戦前にあった歴史研究の資料も失われ、二流三流の学者の論文などが論拠として権威を持つことになったのが、現代までの流れとなっていると指摘している。のさばったのは共産主義者やシンパの学者だとも指摘していた。当時のアメリカは、共産主義がどれくらい恐ろしいものかをよく知らなかったのも悪影響を及ぼしている。

詰まり。エビデンスを出せと言われて出せるのは、これはイカがなものかとされる状態なのである。
詳細を述べると、階級闘争史で彩られた共産主義者の見解が現代の権威でありさらに一般認識とされており、尚且つそれを覆す権威がない状態なのである。エビがいないとなるので、イカ様の勝ちと見なされる。


余談だが、エビデンス、と聞くとエビのデァンス(dance)としか思えなくて困っていたら、本当にエビが踊っているGIFアニメーションを描いた人がいた。



竜宮城ではタイやヒラメの舞い踊りだが、権威の旧套墨守で出来上がっている現代、というよりこの世という竜宮城は、イカとエビのダンス・マカブルという有様なのである。

このような状態でエビデンスが見たければ、漁港か魚河岸に行くしかなかろう。活きのいいエビデンスが見られるだろうが、それよりもイカ娘を探してエビを食わせる方が夢があろうなと思う次第である。

では、よき終末を。


感染症と呪いの藁人形

2021-01-05 | 雑記
大晦日から夜勤連続で、挙句の果てに一月三日は友人が餅を持ってくるというので雑煮(のようなもの)を作って出かけたりと、ちょっと忙しかった。忙しいというほどでもないが、飲み過ぎたので、昨日はゴロゴロし続けていた。

さて。先日、ブログを開いてみると、元日のアクセスがとんでもない数字になっていた。といっても、ここの平均値からしたらというところだが。

元日に読みたくなるような記事があったのかどうかは、拙にもわからない。


何日か前から書こうと思って考えていたことがある。大雑把に言えば、「固定観念や既成概念を疑うということ」を書こうかと。もっと平たくいえば「常識とされているものを疑うこととは」である。

それに纏わる話だと、去年に書いたパスツールの持説撤回の件がある。

病原菌原因説、というのだったか、菌があるから病気になる。だから殺菌消毒を、という現代社会の当たり前の光景になっている話である。

これを同僚が真っ向から反対して、健康を保てば菌の有る無しは関係ない、ということで延々討論を繰り返していたところ、パスツールは死の間際の病床で自説は間違えていたことを認めたと言われている。

方や病に倒れ、もう片方は元気に病床の論的に討論を見舞いに行く。はてさて。

では、何故パスツールの仮説が大手を振るって現代社会に蔓延しているのか?
「常識」で考えれば、間違っていなかったからだろうと思われるだろう。

しかし、「常識」は辞めて考えるべきである。既に上記の時点で疑問しかないといえるからである。


医者の仕事はなんであろうか?病気を治すことだと人はいう。どの人がいうのかは知らぬ。

この世のありとあらゆる病気を治療してしまったら、医者はどこへ行けばいいだろうか?仙人になって山で霞を食う生活をするのだろうか?
三国志の時代の医者、華佗は「神医」というあだ名があるが、ありとあらゆる病気を駆逐して「医仙」になったとかいう医者は聞いたことが無い。これからもこの状況が未来永劫続くなら、聖永の先にも現れまい。

回りくどい言い方を辞めると、詰まり、医者とは「医療行為で生活する存在」である。
「医療行為」である。治療ではない。
「医仙」(これは拙の造語だが、あるかもしれない。「詩仙」というのはある)にでもなるならば別であるが、「医療」を為す相手がいなければ生活がなりたたなくなる。

世の医療従事者というのが全員そうだとは言わないが、とても矛盾した存在であるとは思わないだろうか?

これでもまだ回りくどいので、パスツールの説の話に戻す。

論破されたという説が大手を振っている理由は、医療関係者が潤うから、である。

昨今のコロナ騒ぎを振り返っていただきたい。

マスクに消毒薬にPCR検査。医療業界がこれほど潤った年もそうあるまい?
病院は儲かったが、看護師が儲かったわけではなかったりするので、やってられないと辞めていく人も増えたと聞く。

この話はここまでにして、感染症とは何か?を考えよう。

哲学者ニーチェは自著において「科学者は結果と原因を取り違えている」と述べていた。

感染症と呼ばれるものの原因が実は結果であったという説が出ている。
病的症状を起こした結果の排出物をつまみ出して、原因だといっているとなる。
その排出物の名前はエクソソームと言うそうな。

スペイン風邪の時代に遡ると、症状を起こしている患者の鼻水を採取して、健康な別の人の鼻に塗る、だとか、症状のある馬に袋を被せてくしゃみだとかの呼気を採取し、別の馬に被せて吸わせる、といったことを行ったそうだが、感染しなかったという。

あの時代にもマスクしなされ、というのが流行ったそうだが、関係なく発症し、多くの人が死んでいった。これには別の原因があって、アスピリンの過剰投与が原因だという指摘がある。

ヨーロッパで発症してたのに、同時多発的にはるか離れたアジアの山の中で発見!ということがあったそうな。そういえば、コロリンは南極にも現れたとか?

常識的な見解はこれくらいにして、別の方面から話をする。

ウィルスが人体に憑りついて、まあこれでいいか、発症するというのが現代の常識に於ける見解である。

でなければ、ウィルス兵器など作れるわけがないだろう?となる。

いわゆる科学的な見解なら、ウィルスの遺伝子をいじって凶悪化させて症状を重くして云々は理解できる。

では、エクソソームであって原因ではないというのなら、いじろうがいじるまいが、実際は関係ないことになる。


ここで一般常識でない話に持っていくとする。

『金枝篇』という人類学の古典がある。その中に、「共感呪術」というものがある。

呪いたい相手の影に木の枝だとかを打ち込む。胸あたりに刺しこんだとすると、相手は胸がやられるという。心臓なら死ぬと相成る。

日本ので分かり易く例えるなら、「丑の刻参り」である。相手の写真や髪の毛やらを藁人形に込めて五寸釘で夜中に、という奴である。

漫画のネタどころか現実にされたとかいう話もあるのだが、惚れさせたい相手に自身の体液を込めた飲食物を提供するというのもある。これも「共感呪術」だろう。

COVID-19と名付けられたウィルスは、中国の生物兵器研究所から出てきた、とは散々言われている。元はアメリカだかカナダから持ち出されて、という話もある。
それはともかくとして、ウィルスの遺伝子をいじって生物兵器へと仕立てる。まるで殺したい相手の髪の毛を藁人形に込めているかのようである。でなければ、体液云々のやり口である。

ところで。直接関わる話ではないのだが、うまい例え話をしている面白い立場の人がいた。

内海聡という医者の名前はご存じだろうか。うつみんとか名乗っていたりする、自称キ〇ガイ医である。

とあるYouTubeの番組で、ワクチンのことについてしゃべっていた時に、ワクチンの中身についての例えがこうだった。

「魔女が魔法の鍋で呪いの薬を作るような」と。


我々は科学という名の全世界規模の呪術にかけられているのやもしれない。

常識、既成概念、固定観念。こう言い換えてもいいが、まずは隗より始めよ、である。


では、よき終末を。


氣が気でない

2020-12-14 | 雑記
いつからかは思い出せないし思い出す意義も薄いのだが、このコロナ騒ぎの中、マスクを着けずに出歩いている。

仕事場はある種の接客業。予防線として「従業員にマスク着用を義務付けて接客しております」とのことで、マスクをさせられている。それが始まった時は事務所内で外していたら、「着けろ!」と言われたものだが、いつごろからか言われなくなってしまった。面倒になったのかもしれない。

マスクしないと飛沫がどうこうというのだが、マスク如きでは実際は防げていない。隙間から好きなだけ出入りするのでご安心のほどを。
では、マスクでは防げないのではないか?と思われた方は、賢いというより普通である。
などとほざく拙も、一時期マスクをしていたので、おあいこさまということで。


さて。話はひどく胡散臭くなる方を一度する。それからまた上の話に戻るとしよう。


とある界隈で、「全世界緊急放送」なる言葉が飛び交っている。

然る人物が地上の放送を一時ジャックし、世の真相をばらして世の中を思い切り替えていく、というのである。
それぐらいの力を持つ人物や組織というと・・・まったく知らない人でも想像はつくかもしれない。

嘘か本当かはわからない。しかし、昨今、今まで嘘や陰謀論だなどと片づけられていたことが実は真実だったという暴露が相次いでいる。
前回にも触れたが、アメリカの国防総省だかが「UFOは実在する」と発表していたり、国家機密に携わっていた研究員やとある国家のトップクラスを務めていた人物が晩年に頭の中身を疑われるような発言(地球外生命体がいるだとかコンタクトしていたなど)をしていたりする。
これまた前から何度も書いているが、「陰謀論」という言葉自体が陰謀であるとも書いた。
アメリカのジャーナリストが調べたところ、ケネディ大統領暗殺事件を調査して報告したウォルフォウィッツ委員会だったかの発表が、大多数の観衆の目撃証言と食い違い、これはおかしいと真相を追及されて困ったので、頭にCのつく組織が「陰謀論」という言葉を開発。そのような人物は頭がおかしいというレッテルを貼り封殺した、というのだとか。
その流れとは直接関係ないが、作家やジャーナリストが問題を探っていったら、例えば金の動きを追っていくとロスチャイルドだとかに行きついたというただの研究報告を、都合が悪いから「陰謀論だ」と封殺するという流れも理解がしやすいかと思われる。この件は以前、井口和基博士が書いていた。

拙も余命幾ばくも無いので、ここで真相を語ろうと思う。拙は実は・・・金星人なのだ!※鑑定はこちら

というのは措くとして。話を戻す。

細菌とウイルスは同じものではないが、とりあえず体内で悪さをすると病気になるというのは同じであろう。

恐らく、ここ最近の状況で調べたりしている人は聞き及んでいる方もいるだろうが、感染症についての確固たる四原則というのがあり、それに沿っていないものは感染症の原因とはならない、されているものがある。
発案者の名からとり「コッホの四原則」という。

徳島大学の名誉教授、大橋眞教授は、昨今のコロナ騒ぎにおいて、新型コロナと言われているものは、このコッホの四原則にまったく沿っていないと非難していた。主流メディアにはほぼ流れないが、いつぞやYのアホーなニュースだかにようやく乗ったぐらいで、拙が話を聞き始めた時はなかった上に、大橋氏の動画が一部削除されたりというほどの検閲がされていたものである。話が込み入るので、別のYが頭に着く動画サイトの件は割愛する。

上記でも少し触れた、理論物理学者でいわゆる陰謀論的な話をブログで書いている井口和基博士も、「コロナウイルスは軽いからマスクした方が防げる」と自前で計算して話していた。「富嶽」だったか、日本のスーパーコンピューターがマスクの有無で飛沫がどうなるか、というシミュレートをして、マスク必要!という判定が出たとかいう話を受けて書かれていた。


思うに。風邪は感染するのか?何を言っている、感染症というではないか?と思われるだろうが、聞いてもらおう。新型コロナが恐ろしい生物兵器ならばこの限りではない可能性はあるが。

感染症というものの理論は、コッホよりも前に遡る。パスツールが提唱した、細菌原因説である。

新型コロナと騒がれているものに当てはめてみよう。飛沫にウイルスがあるから出すな食らうなと言っている。
ウイルスが人体に付着して侵入し、症状を出すには、ある程度の数がないと起り得ない。それこそ何万だとか何百万、何千万か。ともかくたくさんである。

細菌原因説はつまり、原因物質があるからなる、という理屈である。だから殺菌して減らせばいい!となって、今はそこかしこに消毒液である。

実は、これに真っ向から反対していたパスツールの同僚がいる。そして延々討論していたそうだ。名前は失念した。
細菌が原因ではなく、健康を損なっているからなるのだと。免疫原因説、とでもいうのか、そういうことを唱えていた。

晩年、病んで伏せっていたパスツールの元に赴いて討論を繰り返すうちに、なんとパスツールは死ぬ前に自分の説が間違っていたことを認めたという。

この話は大きくは広まらなかった。何故か?それはご自身で紐解いていただきたい。


拙の狭い知見の内でももう一人、「風邪はうつらない」と言っていた人物がいる。

整体の創始者、野口晴哉である。

風邪はその人の体の偏りが酷くなって行った時に、通常に戻すための作用なのだという。

『風邪の効用』という書籍にもあるが、風邪を引いて療養する時はゆっくり寝かせるわけで、一人で落ち着かせる必要がある。こういう風に述べている。引用ではないことをお断りしておく。

本当はうつらないが、一人にして落ち着かせる必要があるので、子供などには「うつるといけない から」などと言って入らせないようにする。と

でも、家でインフルエンザ皆かかるじゃないか、などと反論されるだろう。

人の体の偏り、と書いたが、つまりは生まれ持ったものも含めた習慣である。これを細かく調べてまとめ上げた「体癖(たいへき)」という理論もある。

同じ親から生まれてその習慣に慣れ親しむというのは、同じタイミングで同じことが起こり得る。同じ親でない場合でも、習慣の影響は大きいだろう。

鬱病はうつる、などというが、鬱病はウイルスが原因ではない。なのになる。

病は気からというが、家庭内でインフルエンザが流行るのは大体、誰かがワクチンを打ったあとが多いという証言も何かで聞いたものである。
ワクチンに何が入っているか、という話は別として、そもそもが間違いである。わざわざ病気にならないようにとその病気のことを考えて尚且つ、その病気の元といわれているモノを入れるのだから。

その病気のことを考えるあまり、その病気になったり却って悪化したという話も、野口整体(野口晴哉の流れの方を敢えてこう呼ぶことになっている)で聞いた。

あるおばあさんが骨の密度が少し薄いから、骨粗鬆症にならないようにカルシウムを多くとりましょうと言われ、そのおばあさんは毎日せっせと取っていたそうだが、ある時骨折してしまった。調べると、骨粗鬆症になっていたという。

野口晴哉は今でいう、引き寄せの法則と同じことを言っていたものだが、こう解説していたと思う。曰く、カルシウムが足りないと気に掛けるあまり、「氣」が働いて自身の体はカルシウムが足りないように働いてしまうという。

とり過ぎた栄養素というのは排出されるのだが、排出する際にカルシウムについてはリンやマグネシウムを骨から取り出して一緒に排泄するという。するとどうなるか?骨はカルシウムを固着できなくなる。

栄養についても野口は言っていた。医者がこれこれにはこういう栄養があって、これを食べなさいというのには意味が無いと。食べたものの栄養を摂っているのではなく、氣が体に必要な栄養を集めているのだと。

これに纏わる面白い実験のことを思い出した。これまたカルシウムの話である。

鶏に限った話ではないが、卵といわれて想像するものは殻に包まれたものを思い浮かべるだろう。あれもカルシウムで出来ているというのも周知の事実。

ある実験で、それぞれの牝鶏に違う餌を食べさせると卵はどうなるか?というのがあった。

片方は普通に。もう片方はカルシウムを排除してかつカロリーは前者と同じにする。

すると、卵はどちらも異常なし。牝鶏も異常なし。


病も健康も氣から。今一度お考えいただきたい。


では、よき終末を。