3密加持
2021-05-16 | 雑記
ちょうど一週間前のこと。
家のすぐ近くの池のある公園に行った。天気が良かったので少し日光浴がてら本でも読もうと思ったのである。
池の淵まで降りられるようになっていて、そこには御影石が正方形に切り出されたものが置かれており、天面は磨き上げられている。
公園は小さいので池の脇に生えている大樹に遮られた部分以外はすぐ視界に入るほどの小ささゆえ、公園に入った瞬間から、池を上から一望できる欄干に二人ほど人がいて、一人はカメラを構えているのが見えた。
何かと思い、その視線の先を辿ると、去年から住み着いていると思しき鴨を追っている。
そして鴨の周りには黄色がかった小さいのが十ほどだか纏わりついていたのである。
とまあ、要するに近所の池の鴨がヒナを産んだという話である。
しかし、次の日。整備業者が公園の周囲の草刈りだとかをして休憩しているのを尻目に池を覗き込むと、親鴨しかいなかった。
以来、子鴨たちの行方はしれない。
先日、京都の寺の池でも鴨が子供を産んだので鴨川に引っ越しさせたとかいうニュースがあった。
段ボールで誘導しました、という話とその写真が掲載されていたものだが、鴨の雛を見たその次の日、上述の雛が居なくなっていた日だが、池に段ボールが水没していたことを思い出したものである。
とはいえ、親だけいるのもおかしいので、雛たちは(いろいろな意味で)隔離されているのだろう。
それは隔離とは言わないのでは?といった辺りのことは各人のご想像にお任せする。
さて。いささか話題が古いが、以前、とある医師が新型なんとかの話でこういうことを述べていたという。これは先月の話だったかと思う。
曰く「1密、2密でも感染する恐れがあるので、一人の時でもマスクをするのが望ましい」云々と。
今はしらないが、例えばアメリカのある州では、家でも常にマスク着用を義務付けるという話が出ていたもので、特に目新しい話ではない。
それはともかくとして、この1密だとか2密だとか何を言っているのだ?と揶揄されていたのを見かけたものである。
実際におかしい。何がおかしいのか?
3密を避けよ、と去年からやかましく言われてきたわけだが、3密3密と繰り返されたが故に、言っている方も聞いている方も混乱している。
そもそも内容空疎なキャッチコピーなわけで、中身などどうでもよく、「お題目」という奴ではある。
一応内容を振り返ると、密集、密閉、密接の3種を避けよと。
人ごみと締め切った部屋と人と近距離で喋る状況となる。
余談だが、3密は分かりにくいから集、近、閉と並べてシューキンペイにしよう!というネタがあった。発生元の国のトップに準えてである。然る物理学者がそんなネタを書いていた。
これらを纏めて3密と言っていたわけだが、元々、それぞれの状況が感染を広める可能性があるから避けよという話ではなかったか?ということである。
密が三つそろって役になる。花札の猪鹿蝶やらスロットで当たり目が出るかの如くという話だったのかと。
1密2密などと日本語がおかしいぞと笑っていたのだが、そもそも3密自体がおかしい。おかしいけどおかしくはないのだが、まるで密が常に3個セットになっているかのように認識していることがおかしかったのである。今なら3個セットでお得!
その医者も一々3密に準えて喋るからバカバカしくなるのだが、密が常に3種そろっているかの如く思ってしまうのもまた、乗せられて来た故なのである。
これが上記の集近閉なら、件の医師も「集だけでも近閉だけでも感染の恐れがあるので云々」と。言わんとするところは変わらない。元々ハッピーセットならぬ3個セットだという先入観で話しているし聞いてきたからである。もっと伝わりやすくなったかはわからないが、日本語読みとはいえ某国の元首の名前を連呼するのも如何なものかと思われる。寝ても覚めても集近閉!
密にかけて以前、三密加持について書いたものである。内容を改めて書くことはしないが、仏教及び密教において、三種の密をしっかり制御しなさいという意味である。無論、どれか一つでもないがしろにしてはいけない。
相撲では心技体というのがある。これらが揃ってこそ真の関取なのだという風な話があるが、それと似ている。
三という数は洋の東西を問わず、重要視される。キリスト教然り。仏教然り。
3密のように3種の大事なものを上記の両方とも掲げていて、そのどれもをないがしろにしてはならないと言っている。
と、世の中そういう風に教育されてきたので、3密などと言われると、セットになっているのだと思いがちなのである。
とはいえ。三密加持ならぬ3密回避もまったく無意味とは言わない。
いわゆる科学的な話ではなくなるが、そもそも人の体調が悪くなるというのはどういうものか?である。
楽しそうに過ごしている人の近くにいると、なんだか楽しくなる、というのを聞いたり体験したりしたことがあるだろう。
そして、また逆も然り。機嫌の悪い人に近づくと、部屋の空氣が重いだとか言ったり言われたりする。
人というのは、菌だとかウイルスという目に見える(現代科学において物理的に見えるという意味での)ものだけではなく、目に見えていないものに左右される。
古来より、大都市で疫病が流行ることがあった。理由として挙げられるのは、人口密集による公衆衛生の悪化と言われている。後は飢饉や貧困が追い打ちをかける。
身も蓋もない言い方をすれば、汚らしくゴミゴミしている所はみな、嫌な氣分で過ごすことになりかねない。
そこまではまだ良かったとしても、飢饉や戦乱などによる治安の悪化が重なれば、嫌な氣分で過ごす人はさらに増える。嫌な氣分の度合いも上がろう。
そこで何か流行り病が出たとなれば、僕も私も!となっていく可能性は高い。流行り病だと言われたから流行った、となる。
江戸時代に江戸の町で流行った脚気は、「江戸の流行り病」と言われた。田舎に戻ると治ってしまうというのも、それを裏付ける話となっていたものである。明治時代においても日本の陸軍は「細菌による伝染病」と言っていた。実際は偏った食事による栄養不足が原因と分かったのは大正時代に入ってからである。
鬱病の人と親しく付き合い続けると、鬱病がうつったかのようになるという話がある。特に家族だとか親しい間柄で起こるという。鬱病はウイルス性の感染症ではないのにである。
世にある感染症と呼ばれるものを全て否定出来る根拠は持ち合わせていないが、当時の西洋医学も深く勉強したという野口晴哉は、身近な感染症の代表格であるはずの風邪について「風邪はうつらない」と『整体入門』だったか『風邪の効用』で言っていたものである。
病は氣からという。ウイルスや細菌は顕微鏡で見えるが、氣に至っては存在証明が不可能である。例のアレもされたのかどうかはよくわからないが。
目に見えない恐怖!などというが、そもそも目に見えない何かに動かされているのが人間である。
顕微鏡では菌やウイルスは見えるのだから、見えるものは信じられて怖くないはず。
それならば、目に見えず信じられない氣を怖がって3密を回避するのがもっともだと言える。それは信じてないか?と突っ込まれそうだが、氣にしないでもらう。
病んだ氣には迂闊に近寄らない。これが3密回避の本質であり、マスク着用の有無を確認する以上に機敏に察知できる(はず)の日本人が得意とする氣についての感覚があればこそである!
と、高らかにぶち上げてみたが、冗談染みてはいるが冗談だけでもない。
だがそんなものわからないと、そう言われるだろうから、取りあえずお伝えしておく。
よくあるリフレッシュ法として言われているものの内に、「SNS断ち」というのがある。
別に金輪際するな!というものではないが、時折、テレビや新聞なども含めた外部情報媒体に触れることを一時的に止めるという奴である。普段から滅多に触ってないとかいうレベルの人は氣にしなくてもよいが、毎日テレビを見ているなら、それも止める。
例えば土日の休みに行うだとか、月一で旅行に出かけるとかいう人なら、その時に行うといった具合に。
そうすると、手持無沙汰になってしまって、何か焦ってくる。スマホをいじろうとしたり、PCの電源を入れようとしたりするだろう。
そういうのを無視して、例えばゴロゴロするとか散歩に行くだとか、こうしてみようと思ったことをするのである。
そうしてしばらく過ごした後、顔本だとか青い鳥の奴とかを開いてみる。
すると、楽しくやっていたと思っていたのに、実は何か追われていたかのような感覚だったことに氣付いたりするという。面白いと思っているわけでもないのに何となくしてしまう、というのも同じである。
そういう、何かに氣付くというのが文字通りでおかしいが、氣付きである。氣が付くのである。
というわけで、そんな感覚がないわけではなく、普段は離れてしまっているのが現代社会なのだと言える。氣付くの反対で、氣離れとでも呼ぼうか。まあ、氣を逸らしてるというのだろうが。
氣だとかなんだを常に意識しなくてもいいが、階段をのぼる時にたまには一段飛ばしをしてみようか、ぐらいの感覚でよろしかろうと。
金は天下の回り物という。氣は宇宙の回り物とでも言えそうだが、その回り物は自身にもある。ある、という言い方は語弊のあるところだが、それはともかくとして、己自身に氣が付かないのならば、世の中にも氣が付けなくなるのは道理なのだと。
目に見えるとされていることは本当は見えなくて、目に見えないとされていることが実は見えていることなのかもしれない。
では、よき終末を。
家のすぐ近くの池のある公園に行った。天気が良かったので少し日光浴がてら本でも読もうと思ったのである。
池の淵まで降りられるようになっていて、そこには御影石が正方形に切り出されたものが置かれており、天面は磨き上げられている。
公園は小さいので池の脇に生えている大樹に遮られた部分以外はすぐ視界に入るほどの小ささゆえ、公園に入った瞬間から、池を上から一望できる欄干に二人ほど人がいて、一人はカメラを構えているのが見えた。
何かと思い、その視線の先を辿ると、去年から住み着いていると思しき鴨を追っている。
そして鴨の周りには黄色がかった小さいのが十ほどだか纏わりついていたのである。
とまあ、要するに近所の池の鴨がヒナを産んだという話である。
しかし、次の日。整備業者が公園の周囲の草刈りだとかをして休憩しているのを尻目に池を覗き込むと、親鴨しかいなかった。
以来、子鴨たちの行方はしれない。
先日、京都の寺の池でも鴨が子供を産んだので鴨川に引っ越しさせたとかいうニュースがあった。
段ボールで誘導しました、という話とその写真が掲載されていたものだが、鴨の雛を見たその次の日、上述の雛が居なくなっていた日だが、池に段ボールが水没していたことを思い出したものである。
とはいえ、親だけいるのもおかしいので、雛たちは(いろいろな意味で)隔離されているのだろう。
それは隔離とは言わないのでは?といった辺りのことは各人のご想像にお任せする。
さて。いささか話題が古いが、以前、とある医師が新型なんとかの話でこういうことを述べていたという。これは先月の話だったかと思う。
曰く「1密、2密でも感染する恐れがあるので、一人の時でもマスクをするのが望ましい」云々と。
今はしらないが、例えばアメリカのある州では、家でも常にマスク着用を義務付けるという話が出ていたもので、特に目新しい話ではない。
それはともかくとして、この1密だとか2密だとか何を言っているのだ?と揶揄されていたのを見かけたものである。
実際におかしい。何がおかしいのか?
3密を避けよ、と去年からやかましく言われてきたわけだが、3密3密と繰り返されたが故に、言っている方も聞いている方も混乱している。
そもそも内容空疎なキャッチコピーなわけで、中身などどうでもよく、「お題目」という奴ではある。
一応内容を振り返ると、密集、密閉、密接の3種を避けよと。
人ごみと締め切った部屋と人と近距離で喋る状況となる。
余談だが、3密は分かりにくいから集、近、閉と並べてシューキンペイにしよう!というネタがあった。発生元の国のトップに準えてである。然る物理学者がそんなネタを書いていた。
これらを纏めて3密と言っていたわけだが、元々、それぞれの状況が感染を広める可能性があるから避けよという話ではなかったか?ということである。
密が三つそろって役になる。花札の猪鹿蝶やらスロットで当たり目が出るかの如くという話だったのかと。
1密2密などと日本語がおかしいぞと笑っていたのだが、そもそも3密自体がおかしい。おかしいけどおかしくはないのだが、まるで密が常に3個セットになっているかのように認識していることがおかしかったのである。今なら3個セットでお得!
その医者も一々3密に準えて喋るからバカバカしくなるのだが、密が常に3種そろっているかの如く思ってしまうのもまた、乗せられて来た故なのである。
これが上記の集近閉なら、件の医師も「集だけでも近閉だけでも感染の恐れがあるので云々」と。言わんとするところは変わらない。元々ハッピーセットならぬ3個セットだという先入観で話しているし聞いてきたからである。もっと伝わりやすくなったかはわからないが、日本語読みとはいえ某国の元首の名前を連呼するのも如何なものかと思われる。寝ても覚めても集近閉!
密にかけて以前、三密加持について書いたものである。内容を改めて書くことはしないが、仏教及び密教において、三種の密をしっかり制御しなさいという意味である。無論、どれか一つでもないがしろにしてはいけない。
相撲では心技体というのがある。これらが揃ってこそ真の関取なのだという風な話があるが、それと似ている。
三という数は洋の東西を問わず、重要視される。キリスト教然り。仏教然り。
3密のように3種の大事なものを上記の両方とも掲げていて、そのどれもをないがしろにしてはならないと言っている。
と、世の中そういう風に教育されてきたので、3密などと言われると、セットになっているのだと思いがちなのである。
とはいえ。三密加持ならぬ3密回避もまったく無意味とは言わない。
いわゆる科学的な話ではなくなるが、そもそも人の体調が悪くなるというのはどういうものか?である。
楽しそうに過ごしている人の近くにいると、なんだか楽しくなる、というのを聞いたり体験したりしたことがあるだろう。
そして、また逆も然り。機嫌の悪い人に近づくと、部屋の空氣が重いだとか言ったり言われたりする。
人というのは、菌だとかウイルスという目に見える(現代科学において物理的に見えるという意味での)ものだけではなく、目に見えていないものに左右される。
古来より、大都市で疫病が流行ることがあった。理由として挙げられるのは、人口密集による公衆衛生の悪化と言われている。後は飢饉や貧困が追い打ちをかける。
身も蓋もない言い方をすれば、汚らしくゴミゴミしている所はみな、嫌な氣分で過ごすことになりかねない。
そこまではまだ良かったとしても、飢饉や戦乱などによる治安の悪化が重なれば、嫌な氣分で過ごす人はさらに増える。嫌な氣分の度合いも上がろう。
そこで何か流行り病が出たとなれば、僕も私も!となっていく可能性は高い。流行り病だと言われたから流行った、となる。
江戸時代に江戸の町で流行った脚気は、「江戸の流行り病」と言われた。田舎に戻ると治ってしまうというのも、それを裏付ける話となっていたものである。明治時代においても日本の陸軍は「細菌による伝染病」と言っていた。実際は偏った食事による栄養不足が原因と分かったのは大正時代に入ってからである。
鬱病の人と親しく付き合い続けると、鬱病がうつったかのようになるという話がある。特に家族だとか親しい間柄で起こるという。鬱病はウイルス性の感染症ではないのにである。
世にある感染症と呼ばれるものを全て否定出来る根拠は持ち合わせていないが、当時の西洋医学も深く勉強したという野口晴哉は、身近な感染症の代表格であるはずの風邪について「風邪はうつらない」と『整体入門』だったか『風邪の効用』で言っていたものである。
病は氣からという。ウイルスや細菌は顕微鏡で見えるが、氣に至っては存在証明が不可能である。例のアレもされたのかどうかはよくわからないが。
目に見えない恐怖!などというが、そもそも目に見えない何かに動かされているのが人間である。
顕微鏡では菌やウイルスは見えるのだから、見えるものは信じられて怖くないはず。
それならば、目に見えず信じられない氣を怖がって3密を回避するのがもっともだと言える。それは信じてないか?と突っ込まれそうだが、氣にしないでもらう。
病んだ氣には迂闊に近寄らない。これが3密回避の本質であり、マスク着用の有無を確認する以上に機敏に察知できる(はず)の日本人が得意とする氣についての感覚があればこそである!
と、高らかにぶち上げてみたが、冗談染みてはいるが冗談だけでもない。
だがそんなものわからないと、そう言われるだろうから、取りあえずお伝えしておく。
よくあるリフレッシュ法として言われているものの内に、「SNS断ち」というのがある。
別に金輪際するな!というものではないが、時折、テレビや新聞なども含めた外部情報媒体に触れることを一時的に止めるという奴である。普段から滅多に触ってないとかいうレベルの人は氣にしなくてもよいが、毎日テレビを見ているなら、それも止める。
例えば土日の休みに行うだとか、月一で旅行に出かけるとかいう人なら、その時に行うといった具合に。
そうすると、手持無沙汰になってしまって、何か焦ってくる。スマホをいじろうとしたり、PCの電源を入れようとしたりするだろう。
そういうのを無視して、例えばゴロゴロするとか散歩に行くだとか、こうしてみようと思ったことをするのである。
そうしてしばらく過ごした後、顔本だとか青い鳥の奴とかを開いてみる。
すると、楽しくやっていたと思っていたのに、実は何か追われていたかのような感覚だったことに氣付いたりするという。面白いと思っているわけでもないのに何となくしてしまう、というのも同じである。
そういう、何かに氣付くというのが文字通りでおかしいが、氣付きである。氣が付くのである。
というわけで、そんな感覚がないわけではなく、普段は離れてしまっているのが現代社会なのだと言える。氣付くの反対で、氣離れとでも呼ぼうか。まあ、氣を逸らしてるというのだろうが。
氣だとかなんだを常に意識しなくてもいいが、階段をのぼる時にたまには一段飛ばしをしてみようか、ぐらいの感覚でよろしかろうと。
金は天下の回り物という。氣は宇宙の回り物とでも言えそうだが、その回り物は自身にもある。ある、という言い方は語弊のあるところだが、それはともかくとして、己自身に氣が付かないのならば、世の中にも氣が付けなくなるのは道理なのだと。
目に見えるとされていることは本当は見えなくて、目に見えないとされていることが実は見えていることなのかもしれない。
では、よき終末を。