ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

ドし難い話

2021-07-05 | 雑記
フランスの作家だったか、オノレ・ド・バルザックという人がいる。
いきなり話が逸れるが、同じくフランスはスタンダールの小説『赤と黒』の主人公の名をジュリアン・ソレルというのだが、途中で貴族に成り上がって、ジュリアン・ド・ソレルと名乗るようになる。
貴族になったらド、が付くから、王や皇帝になったら超ド級か、などという分かりにくい冗談は措くとして、バルザックのド、は貴族でもないのに勝手に名乗っていたという。おのれバルザック!

そのバルザックの著作に『役人の生理学』というものがある。生理学、と銘打たれているが学術的なものではなく、風刺である。生理学という言葉が流行った時期があったそうで、なんとかの生理学、と題された学術書ではないものが多く出版されていたという。
『役人の生理学』もその流行に乗ったものの一つで、バルザックの目でもって役人の生活振りを風刺したものである。

そこで拙もそんな話を書こうか、などと思ったが、そんなに体系立ててまとめる力量はない。
というわけで、昔話の絵本のような語り口で書こうかと思った。
当初はTwitterでやろうと考えていたが、TLとやらを汚しまくっても仕方あるまいと、思い直した。

お話の題目は『陰謀論者の生理学』と、冒頭で触れた話から付けようと思ったが、単純に『インボーロンジャのオジサン』で行こうと思う。ではでは、行き当たりばったりで書いていくが、ご覧あれ。

インボーロンジャのオジサン


むかーしむかし。あるところに。インボーロンジャのオジサンが住んでおりました。長いのでこれからはオジサンにします。
オジサンが若い頃大学で書いた卒業論文は、キョウサンシュギだかキョウサントーが世界を牛耳っているというものだったそうな。
その論文で出した図解を見せながら「キョウサントーをイルミナティに入れ替えれば、ゲンダイにも通じる」とかなんとかと、語っておったとか。

そんなオジサンは、商社勤め時代の食事の影響で、ブーチョッチョとなり果ててしまいます。
これではいけない、と一念発起してダイエットに励みます。調べていくうちに、これは魔女の呪い、ではなく食べ物も既にインボーまみれなのだと思い至ったそうな。

それからオジサンはベジタリアンだとかヴィーガンだとかを試していきました。
如何に肉を食べることが酷いことであるかという事も知り、その事に気付かない普通の人々を蛇蝎の如く嫌うようにもなりました。
努力の甲斐あって、見事ブーチョッチョからちょいブーチョッチョかもう少しぐらい痩せて、自慢しておったそうな。

オジサンの頭の中では、こんな閃きがあったのです。
「人は正しいものを食べなければならない」と。
そして「正しいものを食べれば人は正しくなる」とも感じたようです。

普通の人々は正しいことに気付いていないので、HPで周知したり、見込みのありそうな人を会員制掲示板に引き込んでは「気付かない愚かな民衆は滅んで当然だ」などと当たり散らしておりました。

そんなある日。その「正しさ」に沿った理論と実践に出会います。
それはアメリカのスポーツドクターが提唱した、果物と葉野菜を主食とする、フルータリアンダイエットというものでした。
感動の余りオジサンは叫びました。叫んだかどうかはわかりませんが。
「わたしはフルータリアンになるために生きてきたのかもしれない」とかなんとか。

それからなんやかんやで農地を手に入れ、一番の理解者である奥方と共に自給自足のフルータリアン生活を始めるとのことで、HPや掲示板も閉鎖しました。

月日は流れ。人の考えというのは良くも悪くも変わるものです。

オジサンが「このために生きてきた」と叫んだこと自体は変わってはなかったのですが、ただ一つ、大きく変わった点が増えておりました。
なんと、放牧で育った牛を食べているのです。
かつて「動物の死体を食う奴は死んでしまえ」とすら言っていたのはどこ吹く風。

さっき出てきたスポーツドクターはこう言っていたそうな。
「肉が美味いと感じるのは習慣に過ぎない」と。
肉を食うようになってオジサンは言いました。
「肉を食べるのは身体が喜ぶから」とか。

オジサンは別に棄教したわけでも転向したわけでもないのです。

ただ、人より正しいと思うことを実践しているから正しいと思う人なだけだったのです。

お釈迦様はこうおっしゃられました。
「バラモンと呼ばれるというのは、バラモンの家に生まれたからとかではなく、行いによるのです」と。

オジサンはこれからも正しい物を食べて、正しく生きていくのでした。

めでたしめでたし。



うむ。Twitterじゃ収まらないな。

では解説へ。というほどの事ではないが。

詳しくは昔にも書いたが、「人は正しい食べ物を食べなくてはならない」や恐らくそこから導き出されるだろう「正しいものを食べれば正しくなれる」という理屈について。

後者はありきたりなものである。「これを拝めば幸せになれますよ」と変わらない。

少し遡って考えてみよう。

「正しい」ことに気付くまでは、「正しいもの」を食べていない、「正しくない」心身であったと。そこから「正しくないものを食べてるから大衆は気付かないし滅んで当然」となる。

では。どうしてその「正しい」ことを「正しくない」はずの人間が気付くのだ?となる。
オノレ、ではなく己は気付けて大多数は気付かないのは何なのだと。洗脳されているから?だったらかつてのあなたは?となる。

以上から導き出した答えはこうなる。散々書いてきたが。

「如何に己が他人より優れているかを示すための正しさを求めているだけの選民思想」だと。

とはいえ。人のことは言えない。身に覚えありという奴ではある。


個別具体的なものごとに関して言えば正不正はあるだろうが、問答無用でこれが正しいとは一概に言えない。上記の「オジサン」の如くである。
インボーロンジャのオジサンが~♪

それこそ真理だとかと言われるようなもの以外は常にこのようになるだろう。

力強く生きようと、またはそう生きた人類の後塵を拝すだけでは正しいとは言えない。
それこそ「これを拝めば幸せになれますよ」と言っているのと変わらないからだ。

思うに、人は己の生命を存分に働かせることが正しいのであって、理屈を捏ね上げて作った正しさというのは小賢しさにすぎず、風の前の塵と同じである。

それが過去の人類の足跡と軌を一にするか、それとも現代社会を破壊したりもしくは発展させるようなことになっていくのか。そこは未知数である。


では、よき終末を。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿