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帰ってきた丑の刻参り

2021-05-30 | 雑記
共産党宣言、じゃなくて緊急事態宣言がまた延長に、という発表が先日あった。

そして先ほど見かけたのが、「最後の延長」と。

じゃあ次は「帰ってきた延長」とか「延長よ永遠なれ」とか言い出すかもしれぬ。というのは冗談だが、とある映画シリーズだとかにそんなタイトルのがあった覚えがあったりする。バ〇トマンだとか。ウル〇ラマンも「帰ってきた」はあったが、こっちの方が馴染み深いか。

本当にそんなことを言って延長してきたら、この世は映画を見ているような状態というのが定着してしまうな、というのもまた冗談ではある。が、その話をまたやろうというわけではない。


Twitter発の小説とか漫画がちょくちょく書籍化されて話題に上るというのがある。いや、反対か。

最近では、件の緊急事態宣言に関わる感染症についての4コマ漫画が話題になり、そして出版された。

『コロナは概念』というタイトルで、風刺漫画である。以前からWeb上で見ていたもので、中々に考えさせてくれる上に笑える。ものによっては笑えるが、ため息が出そうな話もある。冗談で描いているようなことが現実になってるなという具合である。別に暗い話でもないし、気が向いたらどうぞ。

さて。何故「コロナは概念」としているのか?新型コロナウイルスの存在が確認されていないからだと。

その根拠になる話はある。都や厚生労働省に開示請求したら、「存在を示す論文を保持していない」と書かれていただとか、その書類の写真だとかが出回っている。

後は、以前にもここで取り上げた、徳島大学の名誉教授の大橋眞氏の、「コッホの四原則」のどれにもかかっていないという指摘もある。

ただ、コッホの四原則は古典レベルの話ではある。二百年近く前だったか?

こちらも専門家でもなんでもないので、詳しいことは書けないが、近ごろはウイルスの全長が分かればそれで特定できるとのことで、その長さの違いで人由来かそうでないかを調べるということを行っており、コッホの四原則はそれほど重視されていないという。

となると、一応存在するということになる。では、何故厚生労働省だとかに存在を示す論文がないのか?と思われるだろうが、上記からすれば、特定は出来ているが論文は書いていないから文書を保持出来ていない、ということになるのだろう。

ではやはり、危険なのだな、と思うかどうかはまた別ではある。ただ、一つだけ例を書いておく。実は人の話の丸パクリだ!
沖縄の最近までの死亡者数を日にちで割ると、一日辺り0.3人ほどの割合で、やはり高齢者が多いという。
ちなみに沖縄の感染者やら死亡者数は日本でワースト2位だとか言っていた気がする。ちょくちょく、緊急事態をやっていた覚えがおありかと思われるが、中身はそんな状態だといえる。


感染症というのは、パスツールが発表した病菌原因説が根拠として現代にいたるのだが、これが実は他の学者の説を使っただけでなく、パスツール自身は検証もしていないという話もあるそうな。
パスツール自身は晩年、反対意見の同僚と死の間際まで続けた討論の最後に自説を撤回した、というのは以前にも書いた。つまりは仮説のまま、定説のように扱われていたという可能性がある。

「コロナは概念」どころか、「感染症は概念」とすら言えなくもない。病は氣から。

凡そ病気と呼ばれるものが全て感染しないとは思えないが、常識とされていることは、ただの思い込みや盲信ではないかと考えてみる必要があるだろう。

人体実験になるので誰も試すことは恐らく出来ないが、ガン細胞を患者から取り出して他人に移植すると、恐らくガンになるとして、それでもガンは感染症、とはならない。

狂犬病の犬に噛まれたりで、その体液が体に侵入し、狂犬病に罹患する。これは感染症となる。

ふと思ったが、ガンの患者に噛まれたら、ガンになったりしないだろうか?まあ、これはただの空想である。
もしそうなったら、ガンも感染症となるのだろうか。

しかし、鬱病が伝染するというような例がある。飽くまで感染症という意味ではないが、鬱病の人と親身に接している人が、鬱病になってしまったという話は何かで聞いたものである。

これも以前書いたが、野口晴哉は、風邪を経過させる(身体の正常な反応なので治すとは言わない)時には、リラックスして静かにするため、子供が近づかないように、うつりはしないが「うつるから寝てる部屋へは入らないように」と言っておく、と述べていた。

感染症の原因とされているウイルスは、実は病的症状を起こした細胞からの排出物ではないか、という説も実際にある。エクソソームという名称だそうな。

つまり、ウイルスがあるから病気になったのではなく、病気になったからウイルスが出てきたと。

そうだとすると、ウイルス兵器は意味があるのか?と思えてくる。


ここからは拙の本領発揮である!というのは冗談だが、以前にも同じことは書いた。

『金枝篇』という人類学の古典がある。その中で紹介されているものに、「共感呪術」という概念がある。ちなみに検索をかけてみたら、大枠が「共感呪術」でそのうちに「感染呪術」と「類感呪術」があったが、「共感呪術」で書いていく。

とある部族の呪術で、呪いたい相手の影に木の枝だとかを刺す。足に刺したら動けなくなるだとか、胸に刺したら心臓発作で死んだりすると信じられている。

日本で例えるなら、「丑の刻参り」だろう。藁人形に相手の体の一部を仕込んで、神社の御神木の幹に五寸釘で打ち止めると、相手を呪い殺せるという奴である。

影や相手の体の一部(毛髪など)は、言ってしまえばその相手そのものではない。だが、効力があるとされてきた。

ウイルスがエクソソームだとするならば、ウイルス兵器はまるで共感呪術ではないか?と書いた訳である。

対象を苦しめるために熱心にウイルスを弄繰り回すわけで、丑の刻参りのようだと。

なお、詳細は不明だが、未だかつてウイルスや細菌が病気の原因だと特定された事例がない、という話もある。流言飛語の可能性もあるが、とりあえず。


とある迷信がその地域で何故信じられてきたかというと、その地域では事実だという共通認識を持っているからだというのがある。こういうものも共感呪術と呼ぶのかどうかは分からないが、通じるものがある。

ウイルス兵器が共感呪術だとすれば、現代社会は・・・。これ以上はご想像にお任せする。

「コロナは概念」から「感染症は概念」と上記でもじってみた。なら、「呪術は概念」となるか。

上述したものからもお分かりかと思うが、「呪術は概念」というのは一般的に理解されているところである。言い換えれば、呪術は迷信と。
しかし、実際のところは「概念は呪術」である。

「病は氣から」の別解といえなくもない。狂った概念は氣を侵し、それにつれて心身を病むに至るからである。

では、よき終末を。


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