江戸の水路(日本橋川・神田川)
江戸幕府が開府後の慶長11年(1606)、全国の大名を動員した江戸城総普請が始まりました、本丸と外廓工事によって出た大量の残土で海辺であった日比谷入江が埋め立てられると同時に、西国大名を中心とした外堀運河の開削工事が行われました。
慶長19年(1614)に日本橋川が外堀化され、海上輸送されてきた江戸城築城のための物資の輸送に大きな役割を果たしました、一方、神田川は「平川」と呼ばれ日比谷入江に注ぎ込んでいた川であったが、家康が入府するに際して江戸市中で井戸を掘っても海水しか出なかった為、飲料水確保に迫られた幕府は平川の改修工事に着手、井の頭池、善福寺池、妙正寺池を水源とした「神田上水」を整備して「江戸の水道」として神田台の掘割の西に木製の水道橋を架けて日本橋まで通水しました、「水道橋」の地名は現在でもその名残として残っています。
弘化期(1844~1848)の江戸城を中心として掘削された水路 江戸城を囲む外堀、内堀
江戸時代、日本橋には魚河岸がありました、芝居小屋、吉原と並び一日千両(1億円)動くと言われた
日本橋の上には無粋な高速道路が塞いでいます 大正12年の関東大震災により大きな被害を受けた日本橋は昭和3年に復習工事を終えました
高速道路によって橋の趣は半減です
クルージングは日本橋脇にある乗り場から出発 クルージング用の遊覧船、座布団が救命具になっていた、この日のツアー参加者は35名
汚れていた橋は昨年、ドイツの洗浄器メーカーによりきれいに洗浄されました
クルージングは日本橋川を日本橋ー西河岸橋ー一石橋ー常盤橋―新常盤橋―鎌倉橋ー神田橋ー一ツ橋ーキジ橋ー宝田橋ー俎橋ー南堀留橋ー堀留橋ー新川橋ーあいあい橋ー新三崎橋―三崎橋をくぐり神田川に出ます。
橋の裏面にも様々な表情があります 高速道路が川の上に造られた為、ボートからは空が見えない
常盤橋周辺は江戸城外堀の石積みがそのまま残されていた、主に西国大名が工事を担当しています
江戸時代に造られた外堀石積みがきれいに残されていた
鉄道橋にあった旧国鉄の紋章、上を中央線が走ります 三崎橋、間もなく神田川と合流
海につながっている為、潮の満ち引きで水量が変化したのが判る ガイドのおじさんの話しを聞く35人の乗客
水道橋 船長は女性でした
神田川は後楽橋ー水道橋ーお茶ノ水橋ー聖橋ー昌平橋ー万世橋ーふれあい橋ー和泉橋ー美倉橋ー左衛門橋ー浅草橋ー柳橋をくぐり隅田川に出ます
昭和初期の鉄道橋梁 水道橋―お茶の水間、中央線と並走
御茶ノ水橋 御茶ノ水で地下鉄丸ノ内線は地表に出ます
聖橋と地下鉄丸の内線電車
御茶ノ水で中央線電車と地下鉄丸ノ内線電車が交差
中央線の高架下を行く船
御茶ノ水を過ぎてしばらく行くと万世橋です
煉瓦の建物は旧交通博物館、現在は商業施設になっています
万世橋 太田道灌が江戸城鬼門除けとして京都・伏見稲荷から勧請した柳森神社
柳橋に係留された和船、現在では造る船大工がすくなくなったそうです
美倉橋 柳橋
旅行会社の推薦という柳橋の佃煮屋「小松屋」横に停船、店主から柳橋の歴史と店の商品の説明
小松屋のボートから自社製佃煮の販売 店主の知り合いと言う小唄の師匠が三味線でお出迎え
柳橋を過ぎると大川(墨田川)に出ます
神田川から隅田川に出ると川の流れが変わり船の揺れも大きくなった、東京スカイツリーが見えた
江戸時代、行徳の塩を江戸に運ぶために掘削された江戸川と隅田川を結ぶ運河「小名木川」、左に松尾芭蕉の庵跡が見える 隅田大橋
ドイツ・ケルンの吊り橋をモデルにしたといわれる清澄橋 永代橋
日本橋水門、奥は霊岸島に架かる霊岸橋 隅田川から日本橋川に向かう豊海橋 江戸橋
湊橋、橋の壁面に帆船のモニュメントがありました 間もなく日本橋に戻ります
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