丹沢大山ハイク
3月4日、月2回の山行を行っている山仲間の集まり「R隊」に今年初めて参加、天気が良いと自宅からも見える富士山、その手前に連なる丹沢山系の端の「大山」に登ってきました。
午前5時26分新松戸発の千代田線に乗車、代々木上原で小田急線に乗り換えて午前7時27分に秦野着、時間があったので駅前の「箱根そば」で朝食、8時18分発「ヤビツ峠」行バスに乗るため停留所に向かうとすでに長蛇の列、満員バスに乗り丹沢山系中腹のヤビツ峠(761m)まで立ちずくめの1時間でした。
標高1252mの大山は、古くから庶民の山岳信仰の対象とされ頂上に上社(阿夫利神社本社)、中腹に下社、大山寺があり、別名「雨降(あふり)山」とも呼ばれて「雨乞い」の神とされ、農民の信仰を集めたと言われます。
阿夫利神社の起源は不明ですが、「万葉集」にも詠われていて平安時代には建立されていた様です。
江戸時代になると富士山と並んで大山は庶民の山岳信仰の対象となり、山を降りた修験道の信者が「御師」として各地を廻り「大山講」を布教をした結果、宝暦期(1751-1764)には各地から大山に通じる道が整備されて「大山往還」、「大山街道」と呼ばれる様になり最盛期には年間20万人が大山詣でを行ったと伝わっています。
江戸から大山に詣でる人は、隅田川両国橋際の禊ぎ場所で身を清め無事を祈念して出かけたと言われますが、時代が経るにつれて「大山詣」はレジャー的色合いを強くして「大山詣」を済ませた人々が山を降りてから江の島、鎌倉見物して江戸に戻る2泊3日の小旅行のコースが定着したと言われます。
我が家から見た丹沢山系と富士山、左端の山が今回登った大山
二代歌川豊国(1769-1825)「名勝八景大山夜雨 従前不動頂上図」
秦野駅前のバス停はすで長蛇の列、ヤビツ峠行は8時18分、55分の2便のみ 約1時間で到着、我々が乗った便の後ですぐ増便があった様で、待てば座れた?
ヤビツ峠は三ノ塔、塔ノ岳 への登山口にもなっていた
今回の参加者は4名、私以外の仲間は大山に数回登った経験者、特に小田急沿線に住むM氏は7回目のハイク、大山まで2.3㎞、3時間のハイクです
遠くに見える湘南の海、江の島がうっすらと望める クサリ場もあった
登り始めて1時間40分で中間地点に到着、このルートは尾根歩きの為、直登は無い このルートは登山者もあまり多くない
高度を上げるに連れて霜柱や残雪の登山道に変わる、アイゼンを持って来たが、その必要は無さそう
頂上間近
下宮からのルート(左)との合流地点(25丁目ヤビツ分岐) 頂上近くの鳥居
最長齢のM氏、7回目の登頂 R隊隊長のH氏 I氏 T
天気が良ければ富士山も見えたはず 丹沢山系の山々
頂上にはレーダーアンテナや放送塔が建つ
風を避けて各々バーナーでお湯を沸かしてカップ麺等でランチ、なんとM氏はビール持参、私も一杯頂く 私のランチです
陽当たりの悪い場所にはまだ残雪が 頂上にて
雪解けでぬかるんだ頂上 奥の院・阿夫利神社本社(上社)
阿夫利神社本社(上社)から下社に下る
江戸時代は魚市場関係者、職人達の信仰をあつめたそうです
上社と下社との中間点 享保1年(1716)・徳川8代将軍吉宗の時代に建てられた十六町目追分の石碑、地元から強力が担いで来たそうです、信仰の深さが判ります
天気が良ければ東京スカイツリーも見えるそうです
往時の登山道? 途中にあった夫婦杉
大山修験が崇拝した加賀・白山の碑、大山開山(752)に建てられたと言われる
間もなく下社に到着
この階段を下りると阿夫利神社下社
下社着
華麗な造りの拝殿正面
下社拝殿 拝殿脇の地下道を入ると「神水・大山名水」と言う旨い水が湧いています
江戸時代になると「大山詣」が盛んになったが、女性の参詣は下社までで、上社には登る事が出来ませんでした。
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