写真紀行

日々の風景と将来に残したい風景を求めて

江戸時代(天保期)の長屋の暮らし

2014-05-13 13:41:32 | 大江戸の風景

資料館では江戸時代の後期、家斉が第12将軍であった天保期の深川佐賀町の庶民の暮らしを再現していました、この時期の江戸の人口は100万(町人50万、武家50万)、江戸府内(朱引き内)の面積のうち、60%が武家屋敷、20%が寺院、残りの20%に町人が暮らしていました。
なお住居は町人の7割が裏店(長屋)の暮らしだったと言われています。
江戸の町管理は老中支配下の南、北町奉行(1702~1719の間だけ中町奉行所が設けられていた)の与力50人、同心250人が月替わりで担当、その管理下に町年寄(奈良屋、樽屋、喜多村の3家が世襲制で務めた)⇒名主⇒月行事と言う支配系統が出来ていて行政、司法、警察の機能を執行していました。
一方、寺社のトラブル処理は寺社奉行、大名は老中、旗本・御家人は若年寄の管理下にある為、町奉行が手を付けることが出来ませんでした。

鬼平で有名な「火付け盗賊改め」は本来、臨時の役職で幕府常備軍である御手先組頭が加役として兼任、町奉行所で対応出来ない火付けや重罪犯を対象とした取り締まりを行っていました、奉行は文官であるのに対して火盗改めトップは軍人で、その取り調べは厳しかったと言われています。


                                         
                           資料館近くに紀伊国屋文座門の墓所(碑)がありました            


               
          清澄庭園近くにある江東区営の施設です


資料館に入ると実物大の町屋が造られていました。
      

              
            

江戸は八百八町と言われるが、江戸後期には人口の増加で1,700町あったと言われています、町の構成は基本的に京間で60間四方の広さで、通りに面した表店(商人の店舗)と裏に長屋(裏店)がありました。
各町には不審者の侵入を防ぐ為の木戸があって明け六ツ(午前6時)に開門、夜四ツ(午後10時)に閉門されます、更に裏長屋に入る所に裏木戸が設けられていました、資料館にはありませんでしたが町木戸脇には番人が住み込んでいた木戸番と自身番、火の見櫓があり防火と治安の維持を計っていました。

江戸に多いものとして「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われるほど稲荷信仰が広がっていて、武家屋敷、表店、裏店を問わずお稲荷が祀られていました。

『水事情』
江戸は埋め立て地が多く、井戸を掘っても塩水で飲めない地域が殆どで、幕府は江戸開府以降、井の頭池から引いた神田上水、多摩川から取水した玉川上水など、水道を開削して江戸市中の地下に木樋を張り巡らせて給水していました、地下水脈を利用した掘り抜き井戸と違って川の水の為に衛生的でないので煮沸して使っていたと思われます。
一方、深川など隅田川以北には水道が通っていなかった為、水を売り歩く水屋から買う必要がありました。
水の価格は1荷(天秤に桶を2つぶら下げて運ぶ量・約16貫(60kgs)で
4文(約100円)、水売りは上水から放水された水を汲んでいたので原価はゼロ、固定客を持っていたので商売として成り立った様ですが、体力が勝負の商売でした。

 
                      
                          長屋のお稲荷さん               共同井戸、毎年7月7日は長屋総出で井戸さらいを行います

江戸時代とはエコが徹底され、着る物は普段は古着(柳原土手などに古着市場があった)、壊れた物は修理して使い、捨てる物が殆ど出ない社会でした、糞尿も肥料として農家に売られました。

                       
                                  ゴミ箱も長屋共用、再生不可能な物だけ捨てられていました


              
        共同トイレと内部、長屋では糞尿を売った金は大家さんの副収入、大名屋敷の糞尿は栄養価が高かった為、高く買われたそうです

『裏店(長屋)』
長屋は2軒の世帯が背中合わせに住む「棟割長屋」と横に連なる「割長屋」があり、1軒の広さは①九尺二間(2.7m x 3.6m)の場合、土間(台所・竃など)が1.5畳ある為、居住空間は4畳半の広さと②九尺二間半が標準でした。


      
    割長屋の九尺二間の部屋、布団は枕屏風で隠されています(木場の木挽職人の部屋で夫婦二人暮らしの設定)                   土間                      
  

              
        長屋住まい住人の持ち物は布団、衣服、火鉢、小箪笥、鍋、釜、小物など生活できる最小限度の家財道具が標準    


棒手振り
江戸市中には、商店が少なく、棒手振りから食品、日用雑貨、嗜好品などを買うのが一般的でした、棒手振りは明け六つ(午前6時)に長屋を出て売る物を仕入れて市中を売をり歩きました、文政年間の棒手振りの一日の売り上げは1100文、仕入れは700文、利益400文と言われており、家賃、食費、雑費等を差し引くと130文が残る計算になります。(一文は約20~25円)


           
                          棒手振り政助さんの部屋の設定


           
         畳は無くゴザ敷きの部屋、6畳の部屋は1.5畳の土間と4畳半の部屋が一般的な間取りです

       
        
                       棒手振り政助さんの商売道具            


         
                 三味線の師匠の部屋は九尺二間半の広さ、読み書き、手習い、裁縫も教えています


       
                              女性の一人住まいの設定です、江戸時代の男女比率は6:4で男性が多かった                                          
 

           
       二八蕎麦(屋台)、小麦粉2:そば粉8という意味や価格が16文(2x8)の為と諸説ありますが、安くて手頃な蕎麦を言います


            
     屋台の天麩羅屋、店舗を構えて天麩羅を出すようになったのは幕末以降        当時の天麩羅は串に刺して揚げていました


茶店
寺社の境内や両国広小路など火避け地等に茶店があったが、夕方店を畳める様によしず張りの簡易な造りでした。
茶代以外に場所の提供、煙草盆を出すと言ったサービスで最低4文(約100円)が相場でした


       
                 お茶と団子などの軽食も提供    

  
              
         


       
    八百屋、農家から仕入れた野菜が並んでいます、店は表長屋で二間 x 四間半や三間 x 4間半の貸家が3~5軒が連なり、2階が住戸でした                     


       
                                竈と流し台                棒手振りから買った材料では凝った料理は無理だと思います


           
       町と町の境界には木戸があり、脇に木戸番小屋と自身番小屋がありました      火事が頻繁に発生する為、防火用水は必須です


             
             木戸横には潜り戸があり、帰りが遅くなり木戸が締まって家に帰れない者は木戸番に理由を伝えて中に入りました

 
       
                     稲荷ずしの屋台、当初は揚げ寿司と言われ、現代の稲荷ずしの倍の大きさで、ファストフード的な食べ物でした

  

              
                            表長屋の米屋、米問屋から仕入れた米を唐臼という足踏みの精米機で精米して売っていました


              
                                                                                   米蔵


      

                   船宿升田屋の設定、猪牙船を使い人や物資を輸送しますが、飲食や宴会が出来る小料理屋を兼ねています

      


      

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三陸海岸の旅(3)三陸鉄道... | トップ | 2014・京成バラ園撮影会 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

大江戸の風景」カテゴリの最新記事