奥浅草
浅草寺・浅草(奥山)は江戸時代、両国広小路、下谷広小路(上野広小路)と並んで江戸の三大繁華街と言われ、参拝客や見世物小屋、大道芸等を見る人で賑わいを見せたが、その裏手に位置した奥浅草は歴史的な寺社や明暦3年(1657)の大火で焼けた遊郭吉原(日本橋人形町)が幕府から移転を命ぜられ、浅草寺裏の日本堤の田圃の中に新たに新吉原として営業を再開した地でもあります、享保期(1716~1732)には周囲を「おはぐろどぶ」と高い塀に囲まれた新吉原遊郭の人口は8,000人を超え、木挽町(現在の東銀座)の芝居小屋、日本橋の魚市場と並んで一日千両が動く場所として繁栄を極めていました。
歌川広重「東都名所 浅草金龍山」 昭和20年(1945)の戦災で焼失するまで五重塔は本堂の右にあったが、再建後は左に移されました
歌川広重「東都名所図絵 隅田の渡し」 奥に見える山は筑波山
奥浅草マップ
本龍院待乳山聖天 http://members2.jcom.home.ne.jp/matuti/
奥浅草の小高い丘(待乳山)にある浅草寺の子院、推古天皇3年(595)にこの丘が出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来と言われる古刹。
歌川広重「東都名所の図 隅田川八景真乳山晴嵐」
広重「東都三十六景今戸橋真乳山」 広重「名所江戸百景真乳山山谷堀夜景」 広重「江戸名勝図絵真乳山」
浅草の繁華街から少し離れている為か、訪れる人が少ない(知名度が低い為かも)
本堂
出世観音
昔は神社から続く天狗坂を下ると隅田川を渡る「竹屋の渡し」があった 元禄時代の歌人戸田茂睡の歌碑
百度石 稲荷尊
江戸時代に造られた45.5mの築地塀、歌川広重の浮世絵にも描かれているそうです
聖天町は池波正太郎の生誕の地でもあります
今戸焼
天正年間(1573~1592)に素焼き陶器の生産が始まったと言われています、日用品、人形、火鉢、植木鉢、瓦などが造られました。
江戸名所図会「今戸焼」
今戸焼の招き猫
今戸神社 http://members2.jcom.home.ne.jp/imadojinja/T1.htm
康平6年(1063)、源頼義、義家親子が奥州討伐の際、京都・石清水八幡宮を当地に勧進、祈願したのが始まりと言われる、昭和12年(1937)に隣接していた白山神社を合祀し、旧名の今戸八幡から今戸神社社と名前が替わりました、なお関東大震災や戦災で焼失した社殿は昭和46年(1971)に再建されています。
この神社は「招き猫」発祥の地と言われ、近年は縁結びと結び付けてパワースポットとして若者の人気を集めている様です。
待乳山聖天から徒歩10分で到着する今戸神社
悲劇の新撰組隊士、沖田総司の終焉の地でもあります
浅草から人力車でお参りに来る人もいました
縁結びグッズ販売中
江戸時代は陶器の産地でもありました
本殿には招き猫が
ガイドブックに載っていたのか外国人の女性グループも見受けられました 今戸神社の絵馬は円と縁を語呂合わせて「円形」の形をしています
文政5年(1822)に今戸焼職人が寄進した狛犬、側面に多くの職人の名前が彫られていました
山谷堀
江戸時代には新吉原遊郭への水上路として隅田川ー山谷堀ー新吉原入口である日本堤まで猪牙舟で乗りつけるのが粋とされ、吉原通いを「山谷通い」と言った、堀に沿って船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だった様ですが、明治になり遊興の場が吉原から新橋や柳橋などの花街に移るにつれて堀界隈は次第に寂れ、昭和に入ると肥料船の溜まり場となった様です、現在は隅田川から山谷堀への水路は埋め立てられて往時の面影を留めておらず、名残としては堀に架かっていた今戸橋の遺構が残され、堀は「山谷堀公園」として残されていました。
歌川広重「今戸橋之図」
堀の跡は公園として整備されていました
堀の跡から見たスカイツリー かって山谷堀を跨いでいた今戸橋
墨田川が山谷堀に通じていた入水口跡
隅田川テラスの柵の屋形船とスカイツリー 言問橋とスカイツリー 隅田川テラスにあった岩とスカイツリー