海に吹く風

海の大好きな私
ここで皆さんとお話しましょう

日々思うこと、短歌についても書いていきます

新茶

2009-05-31 12:47:35 | 日記
静岡の叔母から新茶を送っていただいた。
今回はお嫁さんの実家で作っている無農薬のやぶきた茶だそうだ。
深蒸しでないので、低めのお湯でゆっくり出してくださいとのことだった。

実は別の叔父からも新茶をもらってそれを今飲んでいる。
何かお返しをと、叔父のほうには阪神百貨店のいつも行列のバームクーヘンを。
叔母にも同じものにしようかと思っている。
前に一度送って多分喜んでくれていると思う。

しかし大阪の名産といって何も浮かばない。
おいしいお菓子はいっぱい百貨店にあるが、大阪ならではのもの。。
私が知らないだけかもしれない。
食に対する欲望が薄いほうで、わざわざ遠いところまで買いに行ったり地方から取り寄せたりすることはない。
そういう知識がない。

それでやっぱりバームクーヘンになってしまいそう。
電話ではお礼は言ったけれどせめてお手紙も送りたい。
それには一度いただいたお茶を飲まないと、飲んでいないのに飲んだ振りして「おいしかった」とは書きたくない。
でも叔父の分がまだ終わらないのに、封を開けるのがもったいないので困っている、

私はコーヒー大好き人間で
朝はコーヒーとパン。
昼は寝不足解消のため少し昼寝をするのでお茶は飲まない、水かソバ茶で済ます。
3時は・・コーヒーだ。
夜はビールとおかずだけでおご飯を食べない。
また夜寝られなくなるのでお茶はどちらにしても飲まない。
つまりお茶をほとんど飲まない生活なのだ。
だから家人が少し飲んだとしてもお茶はほとんど減らない。

でもせっかくの新茶・・この季節だけは意識してお茶を飲むことにしている。

叔父たちも80代半ば・・・いつまでいただけるか。。
うちの家だけ大阪へ出てきてしまったので疎遠になっていたのが、父や母の死で法事をきっかけに贈答が始まった。
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憧憬

2009-05-29 08:58:33 | 短歌
翼持たぬ我は空飛ぶ燕より遠くの君をただ見つめをり

夏燕が切り裂く空の傷よりも深き痛みよ君を思へば

わが魂をやどして飛べよ沢蛍恋しき人の眠る里まで

くちづけを交わせば聞こゆ水の音きみの悲しみわれに流れ来

いくつもの悲しみ背負ふ君の背に手を触れ治す巫女でありたし
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2009-05-28 09:07:42 | 短歌
あと少しながらへる時さへぎられ我が手に溶ける春の雪片

弓なりの日本列島打ち寄する波のごとしも桜前線

漆塗りのごとく磨かれ盛りなる桜を映す寺の床板

うらうらと春を喜ぶ青空にパウダーシュガーのやうな昼月

幼子の手を合はせたる形して白木蓮の蕾ふくらむ

臨月の黄にあふれたる花ミモザ風吹くままにまだ揺れやまぬ

植物の逆襲のごと放たれぬ杉の花粉の黄の爆弾

春紫苑咲く地に長く陽の射してまだ表札ははずされたまま 
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古本屋

2009-05-26 08:35:47 | 日記
前から大きい国語辞典を買いたいと思っていた。
しかし高い!
そこで古本屋で探せばいいと思った。
今週からやっと動き出そうと思い、早速行ってきた。
梅田ではなく郊外の店へ。
公共交通機関に乗って外へ出るのは10日振り。
残念ながら漢和辞典はたくさんあったが国語辞典はなかった。

古本屋にも歌集はほとんどない。
でも何とか2つ見つけ、短歌がたくさん載っていそうな評論も買った。

一つは山川登美子の評論(竹西寛子)
土屋文明の評論。
現代短歌大系「佐藤佐太郎・宮柊二・近藤芳美」
名前を知らなかった人の歌集。

これがすべて5~600円ほど。
ハードカバーで、さらに箱に入ったような立派なもの。
4冊になると重かった。

店から最寄の駅まで、また最寄の駅から自宅まで運ぶのが重かった。
教訓・・・古本屋へ行くときは折りたたみ式のカートを持っていくべきだった。


山川登美子・・・この人の歌に最近とても惹かれる。
そう挽歌に。。
特に自分自身への挽歌。

中学の時は与謝野晶子の情熱的な歌が好きだった。
晶子に対して登美子は脇役で、恋を譲って親の言うとおり結婚して若くして亡くなったたかわいそうな人と思っていた。
しかし評伝などを読むと夫の死後自立して生きる道を模索していた。
それに死を前にした歌の深さは晶子よりも優れていると私は思う。
その絶唱は魂を揺さぶる。

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『されどわれらが日々』柴田翔

2009-05-25 17:14:10 | 日記
万葉集・源氏物語は読み返さなくても書けるが、この本は細かいあらすじまでは忘れているのでもう一度読み返さないと記事が書けない。
それで10年以上振り?・・・それさえ定かでないが・・今読み終えた。

もう古い本で今の若い人が読むような本ではない。
書店の宣伝のキャッチコピーから引用させてもらうと、
「1955年、共産党第6回全国協議会の決定で山村工作隊は解体されることとなった。私たちはいったい何を信じたらいいのだろうか――「六全協」のあとの虚無感の漂う時代の中で、出会い、別れ、闘争、裏切り、死を経験しながらも懸命に生きる男女を描き、60~70年代の若者のバイブルとなった青春文学の傑作」

今回読み直してみて、私は重大な思い込みをしてしまっているのに気づいた。
この本の中に出てくる登場人物の中心となるのは「私」とその婚約者の節子である。
それに二人の周辺の人物のエピソードが脇に添えられる。
その中の一人・・自殺してしまう優子にかなりの思い入れがあって、優子をこの小説のヒロインと間違って覚えていたことだ。
最初に読んだのが20歳の頃で、その後30代、40代でも読んでいるのにその思い込みは修正されなかった。

20歳前の私にはかすかな自殺願望(10代の女の子がかかるイメージ病、本当の自殺が何たるかわかっていなくて、大人になるまでに死にたいとか考える)があって、自殺してしまう優子に惹かれたのだった。

この本を読み終わって・・最初にこの本を読んでから何十年も生きてきて、それでも同じように溢れるほどの思いが湧き上がって、それが文章となって頭の中のページに長文が浮かぶ。
しかしそれは日記形式とはいえ公開されているブログに書くようなことではない。
ここは元々私の短歌を載せたり、短歌関係の方たちとお話したり、掲示板で知り合った人の再会の場として作ったもの。

もう一度この本を読み返すときが来るだろうか?
二度と読まなくてもそれでもこの本を棄てることはない。
この本そのものが素晴らしいと言うより、<青春を思い起こすもの>と言う象徴的なものがこの1冊に代表として集約されているからだろう。
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著莪

2009-05-25 08:26:11 | 短歌
群生に咲いてもどこか寂しさの似合う花なり著莪の薄青


子供の頃の家の裏庭には著莪が咲いていた。
ちょうどそこは便所の近くだったが、そういうマイナスイメージは全然なくて、この花が好きだった。
よく見るとアヤメの形をしているのに、華やかさはなく静かなどこか寂しい風情をただよわせている花。

先日奈良の吉城園の奥で著莪の群生を見た。
針葉樹の林の下が著莪の群生だ。
いくら群れ咲いても寂しさがあるなと思ってこの歌を詠った。

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季節の花

2009-05-24 10:35:56 | 日記
つる薔薇の季節が終わろうとしている。
一番長く伸びているつる薔薇は散り知ったときは桜にそっくりだ。
同じバラ科なのだから同じような大きさ同じような色なら雰囲気が似通っている。
このつる薔薇は散りやすいところも桜とそっくりだ。

紫陽花の花も咲き始めた。
早いような気がする。
庭の片隅にあるドクダミの花も咲いた。
油断すると庭を侵食するので歓迎してるわけではないが、片隅ならいいと思う。
花自体はとても清冽な印象の白十字なのだ。

今日は短歌関係で嬉しいことがあったルンルン
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源氏物語

2009-05-22 16:19:47 | 日記
私のもう一つの愛読書はこれ。
これは高校時代耽溺していた。
どうしてこんなに源氏物語が好きになったのかよく解らない。
中学時代はいわゆる名作を読んでいた。
夏目漱石・森鴎外など・・
それ以外には雨月物語が好きで繰り返し読んでいた。
日本の古典が好きなのは小学校のときに決まってしまったような。

源氏物語を第一の愛読書とする人は著名人・文学者・一般の人も数限りなくいて、それぞれに源氏への思いを語っているので、いまさら拙文を載せなくてもと思う。
でも敢えて書くなら
源氏物語はまるで交響曲のように多くの登場人物の人生を織り込みながら一つの素晴らしい音楽を聞いているようなものだ。
登場人物のうちの誰か、あるシーンに誰もが自分の人生を重ね、思いを重ねることが出来る。
100人の人がいれば100人の源氏物語がある。
この限りない懐の深さが人々をひきつけてやまない理由だろう。

高校の時は原文で読むのは有名なシーンくらいだったが、30代、40代の頃何回か原文で読んだ。
このときは日本古典体系で、上にとても小さい字で言葉の注訳がついているもの。
これも万葉集を読んだ時と一緒で意味の細かいところまで正しく読めるのではないが、あらすじを熟知しているので雰囲気で読んでしまう。
原文の流麗な文章が好きだった。

私が高校時代読んだのは与謝野晶子訳。
他の谷崎潤一郎訳・円地文子訳は読んでいないが、みな原文に忠実に訳していると思う。
最近出てブームになった瀬戸内さんの新訳は初めて源氏物語を読む人には読みやすくて息切れしなくていいが、私のように旧訳に慣れた人には物足りない。

それから源氏物語には地の文だけでなく実は和歌の数も膨大だ。
あの時代は和歌は散文を定型に収めたような感じで、普通の手紙文・会話文の感覚で当時の人は作っていた。
今の一首に思いを凝縮する短歌とは別物だ。

花鳥風月を詠いながら実は自分の気持ちを表現(今の技法で言えば暗喩に近い)、枕詞・掛詞を駆使している。
これも慣れというか意味は取れた。
これも今短歌を読み取るときの元肥料になっているなと思う。
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夏椿

2009-05-22 09:10:30 | 短歌
ひとひなる命ひとよと花びらの真白なるまま夏椿落つ
(一日)   (一世)
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万葉集

2009-05-21 22:52:45 | 日記
私の最初の愛読書は万葉集だった。
父が会社の万葉集研究会に入っていて万葉集の詠われた地、飛鳥などに行って講師の方が歌を解説してくれた。
それに小学生だった私も連れて行ってもらったのだった。
父にとってはレジャーに連れて行っている感覚だったのだろう。

5.7.5.7.7.のリズムは心地よく私の中に入っていった。
きっと活字で読んだものに解説してもらっただけだったら、こんなに万葉集が心にしみこまなかっただろう。
万葉集の詠われた現地でその風土を感じながら鑑賞したから、言葉を解釈するのではなく感性で理解できたのだろう。

父の万葉集を借りて繰り返し読んだ。
万葉仮名に小さい字で振り仮名があるだけで、解釈はない本だった。
でも読んでいるとなんとなく意味は解るのだった。
今振り返ると細かい言葉の意味や文法は解っていなくても全体の歌の雰囲気をつかんで読んでいたようだ。

その頃は額田王女と中大兄皇子と大海人皇子の恋の物語にちなんだ歌が好きだった。
大人になってからは挽歌に惹かれた。

今でも父の持っていた万葉集は私の机の上にある。
少なくとも50年経っている本・・・古びてボロボロだ。
でも私の一番大切な本。
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