くちなはに手足なきこと罰ならば人間の罪は何で償ふ
時折訪問させていただいているブログで夏がテーマの句会の企画がありました。
ふと参加する気になりました。
夏岬脱いだ上着を捨てに行く
遠花火小箱にしまう恋ひとつ
宿る樹の精吸い尽くし凌霄花
向日葵の迷路の声を追いかける
一番気に入っているのは第1句。
これは青春のイメージかな。
「脱いだ上着」は陰喩で、過去の自分とも自分を縛るものとも複合的な意味を持っている。
昔岬に立つのが好きだった。
その頃は(20代前半までは)高所恐怖症ではなかった。
岬のぎりぎりに立って砕ける波を見ていると気分が高揚してきた。
勇気が湧いて来ような、新しい自分になれそうな。
しかし岬は不思議だ、目の前には広大な海が開けているのにそこには行けないのだ。
長く俳句は作ったことがないのにイメージが湧いてきて楽しかった。
俳句は季語でイメージを深く想起する。
一瞬を切り取る冴え・・・たった17文字なのに・・それが魅力的だが、私が短歌に移ったのは俳句では幻想は詠えないからだ。
別の記事にコメントをいただいて橋本多佳子の句を紹介していただいた。
そこからの連想で。
私は俳句についてはほとんど知らないが、橋本多佳子のこの句には強烈な印象を受けた。
乳母車夏の怒濤によこむきに
多佳子によれば小田原の御幸が浜で作られた句で、つい娘と話に夢中になっていて気がつくと孫を乗せた乳母車が浜におきざりになっていた・・そこから出来た句だという。
この句の要は「よこむきに」だろう。
夏の海岸から少し離れたところに乳母車が横向きに置かれている。
母親の、怒濤(どとう)に対して子供を守ろうとする本能的な身構えが「よこむきに」に表われている・・というのが一般的な解釈だろう。。
しかし私はまた別のイメージを受けてしまう。
若い女が海岸に平行な道を黙々と乳母車を押して歩いている。
海は怒涛のごとく荒れている。
多佳子の持つ激しさがこの句にも表れていて、作者の詠った意味とは違うイメージを抱いてしまうのだ。
怒涛の海を自らの激しさとして背に追いながらひたすら乳母車を押して前へ進む女。
その乳母車の中には赤子は居ない。
どうしてこんなイメージを抱くのだろう?
ある年早朝に強風警報が出ていて数時間外房線が停まっていたあと、復旧したJRに乗り継いで九十九里浜に行ったことがあった。
その時の海の荒れ具合はすざまじく、まさに怒涛・・それよりもひどく、数え切れない龍がのた打ち回っているようだった。
怖くてかなりの距離があっても砂浜までは行けず、その前の道のところから海を眺めていた。
多佳子のこの句を読むとその海を思い出す。
この句の中に私自身が入り込んでしまうようだ。。