愛知学院大学青木ゼミのブログ

愛知学院大学商学部青木ゼミの活動を報告するためのブログです。

久しぶりにツイート

2015年04月07日 | Weblog
本日,うちの大学にチベット仏教のダライ・ラマ14世が来学,日進キャンパスの講堂において,ご講演された。法王の語り,特任教授の池上彰先生との対談,学生との質疑応答が盛り込まれた。これほどのVIPの講演会は10年前のクリントン元アメリカ大統領以来。仏教系大学の面目躍如である。日進キャンパスでは,1年生を中心に多くの学生たちが聴講した模様。後半には,頑張って英語で法王に直接質問する学生がいたが,ほほえましく感じた。参加学生は皆貴重な体験ができたのではないだろうか。

名城公園キャンパスには,遠隔授業システムを使って,その講演の様子が中継された。私も,その中継を見ることができた。数百人が集まった大教室において,大型スクリーンに講演風景が映し出された。

ただし,名城公園キャンパスでは,残念な光景が広がった。私が参加した教室では,ほとんどの学生が寝るか,スマホをいじるかしていた。きちんと聞いていたのは,2割ほど。英語の講演で,よく内容が分からなかったから聞く気が失せたのかもしれない。逐語通訳が入ったのだが,法王が十分しゃべった後に,その内容をまとめて訳すというまどろっこしいものだったので,飽きてしまったかもしれない。生で見るのではないので緊張感がなかったかもしれない。それにしても寝るのは早すぎだ。法王の英語はなまりがあるものの,平易な表現だったので,私のような英会話不得意の者でも半分は聞き取れた。学生には少しは聞き取る努力をして欲しかった。せめて,通訳を辛抱強く聞くくらいはできただろう。

池上先生との対談になるころには,途中抜け出るものが多数。静かに出ていけばいいのに,べちゃべちゃしゃべってうるさくしながら出ていくので,せっかくの対談がよく聞こえなくなった。池上先生の質問に答えて,法王が,軽妙に,チベットから亡命せざるを得なくなったことを語った箇所では,感じ入ってほしかったが,まともに聞いている学生はほんの少数。

対談の後半,法王は,日本の学生に望むことは,英語を学習することだと語っていた。自分はブロークンな英語でも世界中でコミュニケーションができている。若い学生たちは英語を上達させて,私を打ち負かしてほしい。そして,海外に活躍の場を見つけてほしい。外側から日本を眺めれば,今感じている不満に対して違った感じ方ができるはずだと。この言葉がうちの学生に伝わったかどうか・・・。

あれこれ書くと,学生を貶めることを言うのはけしからんと,また非難されるので,これくらい。

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大学

2015年04月01日 | Weblog
下の記事は昨年日経ビジネス・オンラインに掲載された小田嶋隆さんのコラムの抜粋です。大きな話題を呼びました。

産業界の要求を受けて,大学を,グローバル人材となるエリートを育てる難関大学(G型)と,活躍の場がローカルに留まる非エリートを育てるその他の大学(L型)に分けるべきだという政府の策動があります。非エリートのための大学では理論的学習や学問的研究はいらないといいます。それに対して,小田嶋さんが批判し,大学とはどういうところなのか示しています。新入生の皆さんは,これから大学生活で何をすべきなのか,小田嶋さんの指摘を受けて考えて欲しいと思います。

卒業後役立つ知識を授けるべきという意見にしたがって,ローカル人材を育てることを期待されている多くの私立大学は実学志向を強めています。うちの大学もその渦中にあります。役に立つ知識は必要ですが,だからといって,すぐに役に立つように見える知識,例えば,資格のための受験勉強や仕事上のknow-howのようなものを大学が学生に覚え込ませるばかりでは,大学の存在意義は失われます。そんなことは大学の外でいくらでもできます。やはり大学は,人がものごとを独立して考えることができるように訓練する場所なのです。非エリートのための大学でもそうです。長い目で見れば,その訓練が人の人生を充実させるのです。そのために,一見役に立たない学問を研究教育する必要があるのです。

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「劣った者がローカルにとどまり、優れた者がグローバルではばたく」という文科省の発想の前提は、そのまんま植民地商人の精神性そのものであり、大学を卒業した人間に「G」と「L」の焼き印を押して区別しようとする態度は、ほとんど奴隷商人のやりざまと言って良い。

エリート教育についてもひとこと言っておく。安倍さんは、裾野も山腹も無しに、頂上だけで山が作れると思っている。いや、安倍さんが何を考えているのか、本当のところはわからない。でも、こっちから見ていると、そう思っているように見える。そう見えてしまうところが、つまりは、あの人の教養の乏しさなのだと思う。

大学のキャンパスというのは、長い目でものを見ることのできる人間を育てる空間だったわけで、安倍さんはそこでしくじったから、大学を壊そうとしているのかもしれない。

建前論を言うなら、大学は、そもそも産業戦士を育成するための機関ではない。労働力商品の単価を上げるための放牧場でもない。 「じゃあ、何のための場所なんだ?」と尋ねられると、しばし口ごもってしまうわけなのだが、勇気を持って私の考えを言おう。

大学というのは、そこに通ったことを生涯思い出しながら暮らす人間が、その人生を幸福に生きて行くための方法を見つけ出すための場所だ。きれいごとだと言う人もいるだろう。が、われわれは、「夢」や「希望」や「きれいごと」のためにカネを支払っている。なにも、売られて行くためにワゴンに乗りにいくわけではない。

これは、森田真生さんという独立数学者がその「数学ブックトーク」というイベントの中で紹介していたお話の受け売りなのだが、安倍首相のためにあえて引用することにする。いまは、誰もが知り、誰もが使い、すべての産業の基礎を作り替えつつあるデジタルコンピュータは、20世紀の半ばより少し前の時代に、ごく限られた人間の頭の中で、純粋に理論的な存在として構想された、あくまでも理論的なマシンだった。「もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育」というところから最も遠く、実用と換金性において最弱の学問と見なされていた数理論理学(の研究者であったチューリングやノイマンの業績)の研究が、20世紀から21世紀の世界の前提をひっくり返す発明を産んだのである。

なんと、素敵な話ではないか。目先の実用性や、四半期単位の収益性や見返りを追いかける仕事は、株価に右往左往する経営者がやれば良いことだ。大学ならびに研究者の皆さんには、もっと志の高い、もっと社会のニーズから離れた、もっと夢のような学術研究に注力していただきたい。

採算は度外視して良い。大学は、そこに通った人間が、通ったことを懐かしむためにある場所だ。本人が通ったことを後悔していないのなら、その時点で採算はとれている。

(日経ビジネス・オンライン 2014年10月31日)
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