アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

ブロムシュテットのブルックナー

2016-11-06 10:00:00 | 音楽/芸術

連日になるがブロムシュテットのブルックナーを聴いてきた。

フィナーレのコーダで第一楽章のテーマが大きく膨れ上がり、最後の音がホールを包み込み、綺麗に残響が消えた後の万来の拍手。それだけでも随分と満足のいく演奏会だったが、その沸いている客席に向かって、指揮者のブロムシュテットは、譜面台に置いてあったスコアを客席に見せて、「この曲が素晴らしいんだよ」と言わんばかりの態度。そして我々聴衆の一人一人に小さく会釈しながら大きく俯瞰し満足そう。演奏を聴き終えて、今晩の演奏は、この謙虚で優しさ溢れるブロムシュテットの終演後のこの対応に表れていた。

ブロムシュテットの演奏そのものは、ブルックナーとしては普通に素晴らしく感動的だったと言える。一部変更を伴うノヴァーク版使用だと思ったが、録音で聴くブロムシュテットの演奏解釈とさほど変化は見つけられない。それより、御歳89歳にしてこの指揮振りだったということの方が感動を覚える。オーケストラは今回バンベルク交響楽団。比較的地味なオケだが、昔から独特の明るい響きと素朴さがブルックナーにはマッチしていると感じていた。このバンベルク交響楽団と言えば、昔オイゲン・ヨッフムが来日の際引きつれてきて、ブルックナーをやっていたが、その当時からすれば、この日の音色は、他に違わずかなり洗練されていたように思う。弦楽器の温かみはそのままに、管楽器群は技量も音質もスケールが上がっていた。このオケもよりインターナショナルになったということなのだろう。

演奏会前半のモーツァルトを含めて、尻上がりにオケが鳴ってきた印象だった今回のブロムシュテットのブルックナー第7交響曲。アントンKの中では、演奏そのものは想定内のものだった。この第7は、フィナーレが小じんまりとしているので、指揮者によっては、アダージョ楽章を全体の頂点と位置付ける指揮者もいるというが、この日は明らかに頂点はフィナーレにあり、楽曲の中間部からコーダにかけての響きは、まさにブルックナーの音が迫ってきていた。ただ個人的には、その響きから来る想いや虚しさが現れず、物足りないと言ったら贅沢か。

奇手を狙わずストレートに表現したブルックナーだったが、今や巨匠となったブロムシュテットがさらに我々に新たな語りかけをしてくれることを願って会場を後にした。

2016-11-04

モーツァルト  交響曲第34番 ハ長調 K338

ブルックナー  交響曲第7番 ホ長調 ノヴァーク版

ヘルベルト・ブロムシュテット 指揮

バンベルク交響楽団

東京オペラシティ コンサートホール


女流指揮者 シモーネ・ヤングを聴く

2016-11-05 10:00:00 | 音楽/芸術

アントンKが今年気になっていた指揮者シモーネ・ヤングを聴いてきたので書き留めておきたい。

シモーネ・ヤングは、アントンKと同年代の指揮者であり、オペラの世界で名声を広めたオーストラリア出身の指揮者。以前からブルックナーの交響曲の録音を行い、最近になって全曲集が発売になったタイミング。アントンKも以前から発売ごとに手にとり聴いてきたが、どの楽曲もブルックナーの演奏としてグレードが高く、印象が鮮明に残り目が離せない存在になっていた。

本当はブルックナーで聴きたいところだが、今回はブラームスの第4交響曲。どんなふうにこのデリケートな楽曲に立ち向かうのかワクワクしながら会場に向かった。メインのブラームスの前には、ドヴォルザークのチェロ協奏曲が演奏された。これは思いのほか淡泊な印象。もっと泥臭いエグイくらいの大きさが欲しいとも思ったが、ヤングのキメの細かい指示は演奏に生かされていたように思う。弦楽器に限らず、重要な木管群の旋律やハーモニーが美しく常にそこには唱があったのである。独奏者であるチェリストのワイラースタインの音色は、きめ細かい線の細い美しい音色。特に消えそうになるようなピアニッシモは羽毛が宙を舞うがごとく優しい音色に感じた。逆に言えば、このドヴォコンの音色にはマッチしているのかと問えば、残念ながらアンマッチだったように思えてならない。もちろんこの演奏だけ考えれば立派なものだが、過去に聴いたガリガリとホールが共鳴してしまうくらいの力量や情熱は感じられず、アントンKにとってはそこが不満足。まあこれは仕方がないことなのだが・・・

さて後半のブラームスの第4交響曲。実はこの第4交響曲は、アントンKにとってブラームスでも苦手な楽曲だった。暗く常にジメッとしていて、若い頃は聴くと憂鬱になったくらい。しかしその後、チェリビダッケの独自性丸出しの演奏で開花され現在に至っており、昔のようなイメージは消え失せ、素直に自分にも浸透するようになった。この日の演奏でも、ドヴォコンの時とはガラッと印象が変わり、指揮者ヤングの主張が明確に表れていた。ここでは、繊細さよりも感情的な部分が勝っており、指揮者自らの想いが伝わってきたが、特に第2楽章の前半からの下りは、ホールが哀愁に包まれていった。この雰囲気は、かつて味わったことのないもので、目の前に夕日で赤く染まったハンブルクの街並みが広がっていた。それにしても、今回のオーケストラ東京交響楽団は、いつにも増して素晴らしい音色で我々を堪能させてくれた。ベルリン・フィルやミュンヘン・フィルがそうであったように、お互いのパートが音色を聴き合い、しかも各人音楽を楽しんでいることが聴衆に伝わっていた。ヤングの明確で情熱的な指示に反応し、特に木管楽器の雄弁さは素晴らしく舌を巻いた。

今回は女性であるヤングが、どんな指揮振りで我々に新しい発見をもたらしてくれるのかが最大の関心事だった。見かけは大柄だが、出てきた音楽は以外や繊細であり、明確な指示によりオケをコントロールしていた印象だった。やはりオペラ出身の指揮者は、こういった明確な音づくりになるのだろうか。後期ロマン派が特に得意と言われるシモーネ・ヤングだが、また次回新たな発見を期待して楽しみに待ちたいと思う。

掲載写真は、当日のリハーサル風景(ツイッター)

東京交響楽団 名曲全集第122回

ドヴォルザーク チェロ協奏曲 ロ短調   OP104

ブラームス  交響曲第4番 ホ短調 OP98

バッハ   無伴奏ソナタ 第3番 サラバンド(アンコール)

シモーネ・ヤング 指揮

東京交響楽団 

アリサ・ワイラースタイン (Vc)

2016-11-03     ミューザ川崎シンフォニーホール

 

 

 


記録写真のあり方

2016-11-02 10:00:00 | 鉄道写真(EC)

最近は撮影対象がないと嘆きのコメントを目にする事が多い。アントンKは、鉄道写真とは車輛の記録の積み重ねだと考え長年撮影を続けてきた。自分の尺度で、好きな車輛や、古くて消えていきそうな車輛たちをまだ現役のうちに撮影しようということが、カメラを向ける理由だったと思う。時代が移り、被写体も画一化され、また自分自身の生活環境も変化してくると、当然考え方も変わって、記録性ばかり求めた写真から少しずらして撮影した撮り方も許容できるようになった。

以前もここで触れていると思うが、昔は撮りたい被写体以外に、人や車など絶対に画面に入れないように撮影していたもの。しかしこうして時間が経ってくると、あの時、もっと視野を広げて撮影しておくべきだったと考えることが増えてきた。電柱1本でも、時の経過とともに懐かしさを覚えるとは、考えもしなかった訳だ。それが若さというものだろう。しかし、当時に比べて撮影機材が大きく変わったことで、こういった考えが生まれるということも、自分の中では大きな要因だと思っている。今は失敗を恐れずシャッターが切れ、結果が寸時にわかる訳だから・・・

写真の基本は記録が大前提だと今も考えているし、今後も変わらないだろう。でも、その記録写真にもさらに個性が出せたら、自分の世界が表現できたらとも考えている。撮りたい被写体が減っても、その記録の仕方で自分を表現できたら幸せに思うが、アントンKは、その前にカメラを持って飛び出すことが好きなのかも?撮影行程を考え、現地に出向きカメラを構え、シャッターを切る。色々な条件下で撮影した写真で一喜一憂する。こんな行き当たりばったりな人生も楽しいではないか!

掲載写真は、そんな思いもまるで考えもしなかった時代のオールド画像。横浜線のゲタ電73系電車。その横を下るのは、横須賀線113系1000番代。まさに2世代前の写真ということになる。今でこそ撮影データから貴重性が生まれる画像だが、この時は明らかにブルトレ撮影の合間でシャッターを切っている。

1978-05-13      横浜線73系電車       東神奈川付近