風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

「おんな」が、きざす時……

2005-02-08 23:52:50 | トリビアな日々
foot気合いの入った長文、断言口調でROCK論(?)を書いたあとに、すこし肩の力が抜けると思うが、むしろリラックスして寝て(?)もらった方がいいので、書いてみる。

そのことばと出会ったのは、この日曜日の新聞。書評欄の中にあったことばで、おお! ひさしぶりに聞いた、というか読んだとおののいてしまったのだ。
筆者は女性で、書評の対象とされた書物は、「『O嬢の物語』の系譜に連なる哲学的ポルノ」であるそうだ。
おお!「哲学的ポルノ」という言い回しもひさしぶりに聞いた。澁澤龍彦氏が亡くなって、後退したものがあるとしたらとりわけフランスで書かれ続けているポルノグラフィ文学を紹介する人物がいなくなったことも、ひとつあるのじゃないかしらん。あの一世を風靡した「エマニュエル夫人」にも、エマニュエルの性の師匠ともいうべき導き手がいて、実に深遠なことを言っていた。淫靡なシーンを今か今かと待ち受けてるバカ者には、いや若者には右の耳から左の耳に素通りして行くような「性の哲学」である。
澁澤龍彦氏の好みでいくと、おフランスにはジョルジュ・バタイユという正真正銘の哲学者が書いたポルノグラフィがあって、いやセックスを「小さな死」と規定したバタイユ氏はその哲学をポルノグラフィ的想像力の中から構築したといってもいいだろう。

ま、先を続けよう。で、その女性の書評子は書くのだ。
「読み手を興奮させる目的で書かれたのではなく(少なくとも、私はあまりきざさなかった)……云々」
そう、この「きざす」という用法が、ボクをおののかせたのだ。

「きざす」――漢字で変換すれば「兆し」よりは「萌し」の方がいいだろう。「芽生え」とか「何かが起ろうとする」気配のような状態なのだが、この場合、「もよおす」という語感が一番正確に伝えているだろう。

この一見、「きざす」という固いことばがふくんでいる内実とは、それこそスポーツ新聞の連載ポルノ小説風に書くと、

「(書評子は)その女としての奥深く隠された蜜つぼが疼き、あつく濡れてくるのをとどめることができなかった」

という状態をもよおしたので、ありましょうや?

さて、あなたは、きざしてきましたか?


困窮する子どもの前でRockに何が出来るか?(2)

2005-02-07 23:39:53 | 曲水の宴/う・た・げ
050119rock(つづき)
そのうえで発言するのですが、Rockは巨大な産業になる以前は、この世に存在する不正、不平等、抑圧に対していつも闘い、メッセージを発して来た。それも、同世代の若者たちへ向かって! ともに戦え、不埒なるものへ声をあげろ、雄叫びをもってその音楽的ルーツである、黒人のように、有色人種のように、抑圧から解き放たれることを希求し、不正と、不平等を許すなと、アジテートしてきたのだ!

Rockは、これは少々勇気をもって断言しなければならないかもしれませんが、「ホワイト・ニグロ」の音楽なのです。ジャズがニグロ(アフリカン・アメリカン)の西洋楽器をもってする「黒い音楽」だとすれば、Rockはおなじブルースのルーツを持ちながらも、ニグロになりたがったプワー・ホワイトの「灰色の音楽」だったのです。彼らの事を「ホワイト・ニグロ」と呼びます。ゆえに、グレーに染まったクレオール(混血)的な音楽だったのです(クレオールは本来、植民地生まれの白人の事を指したフランス語)。

ボクは、だから「被災した子どもたちを、救えるのはRockだからこそだ」と言いたいのです。Rockは、本来、高みから「飢えた子どもの前で……」と思索する手段ではなく、社会的底辺に置かれたものが発する一種の一発逆転の賭けでもありました。一夜あけると世界的な名声を持ったロック・スターという華やかなサクセス・ストリーが、かっては存在したからです。しかし、その前に自分達は、もしくは成り上がられなかったものは社会的には、貧しい、家庭も崩壊しそうな底辺にいるということを肝に銘じなければなりません。

だから、Rockでやる<ライブ・エイド>とは、まず世界の中で救われがたい自分達の引き裂かれたクレオール的な存在を明確にすることで、アチェの被災した子どもたちや孤児になった子、そして世界中のストリート・チルドレンへ連帯を表明することなのです!
それは、まさしくロック・スピリットだから可能なのです!

(※若干の補足。インドネシアには、ジャワ島を中心に伝統的な音楽とは別に、エレクトリックな楽器で歌うポップな「ダンドゥド」というジャンルがあり、ポピュラリティーを獲得して巷でも流れており、村まつりのような場所でコンサートもひんぱんに開かれ、生のコンサート自体に触れる機会はむしろ日本よりある。
写真は1月19日に大阪梅田「レイン・ドッグス」で行われた津波被災支援のための「緊急ライブ」。プロアマ問わずに多数のミュージシャンが集結し、関西の底力を見せつけた。東京からボクがただひとり、神奈川から「ねたのよい」が参加した)




困窮する子どもの前でRockに何が出来るか?(1)

2005-02-06 23:45:05 | 曲水の宴/う・た・げ
飢えた子どもの前で哲学は何ができるか? とテーゼをたて、哲学の、思索行為の無力さを自認して、アンガジェーマン(社会参加)をサンジェルマン・デュ・プレからとなえたのはJ・P・サルトルでありました(古いなぁ!)。ボクたちは昨年暮れの12月26日に突然スマトラ沖でぼっ発した大地震とその影響によるつなみ被災した(実際、つなみ被害の方が13ケ国以上におよぶ広範囲で、甚大な被害をもたらした)子どもたちを、ライブ・ハウスで踊りながら救えるや? と、問題を立て直します。

そう、歌舞音曲で踊り、楽しみながらアジアのこのようなコンサート会場やライブハウスなど入ったこともないだろう子どもたち、被災民の救済が出来るのでありましょうや?
たとえば、今回ボクらが企画した「ライブ・エイド」の収益金を贈ろうと考えているアチェの子どもたちは、おそらくジャワ島のストリート・チルドレンの姉弟よりも、さらにライブ・イベントに無縁でありましょう。
ボクが、ジャカルタの「Hard Rock Cafe」の階段下で出会ったストリート・チルドレンの姉弟は、2時間ののち散々楽しんで店を出て来た時、先ほどとおなじ姿勢でもたれあいながら眠っておりました。ボクは、その時、自分の想像力の欠如に深く傷つき、それ以来、バンコクでも、バリ(クタ)でも、六本木でも「Hard Rock Cafe」には、入っておりません。「Hard Rock Cafe」と、ストリート・チルドレンの構造は、まさしく60年前の、この国におけるアメリカ兵と、戦争孤児、浮浪児との関係だと言うことに気付いたからです。だから、いまだ「Hard Rock Cafe」のTシャツをこれみよがしに、着ている若者を見るとうとましくてならないのです。「そういうことじゃないだろう……」と、呟きたくなるのです。
でありながら、ボクはダンモ(モダーン・ジャズ)にとって最後の世代で、同時に聞いていたHard Rockの第一世代でもあり、Hard Rockいや、Rockそのものが、反抗と反体制と反戦と自由への飽くなき要求を抱いていた頃からのファンであり、むしろそのRockにとっての良き時代をも知っている世代だということにもなるのでしょう。


愛猫LaLaの小さな冒険

2005-02-04 23:49:58 | トリビアな日々
wanted_lala2月になったばかりの1日に思いがけない「事件」が起ってしまった。ドアを開けたとたんに、足下をくぐり抜けて飼い猫が脱出し、そのまま出奔してしまったのだ。
そりゃ、飼われている猫にしてみても、フーテン野郎のとこでそうそう長居を決め込む訳にはいかぬと覚悟をしていたのだろうが、親が野良で出生時に不憫に思ってひろって以来、二歳になるまで手塩にかけて育ててきた身としては、この寒空ではと不憫でならず、みずからすすんでホームレスを選んだわが愛猫の行く末を心配していたのであった。
というより、やはりこちらの方が寂しくてならず、あ、なんだ、飼い主であるオレがこれまで癒され、なぐさめられていたのかと、やっと気付いて気に病んでしまった。
雑種とは言え、ロシアンブルーの血の入っていたわが愛猫LaLaは、長じるに従って毛並みも良くなり、なでると心地よかっただけにこころの中にポッカリとオゾン・ホールが出来てしまったようであった。首をかしげて、すこし緑色かかった美しい瞳孔で見つめられると、なんだかおかしな気分になってくるのだ。
先日の「あかね」で、ネコのポエトリーを読んだのが良くなかったのか? オレは、そのポエトリーの中で、飼い猫をストレスのはけ口にしていることを告白したのだった。いくら後悔すれど、なにも解決せず、オレは「手配書」をMacで作り近所に貼ったのであった…。

ところがである。迷子になってしまってもう帰ってこないのかなぁ、と思っていた矢先、ベランダでニャ~と鳴いて突然、LaLaは戻って来たのである。このフーテン娘め!

「プチ家出」ということばは知っていたが、まさかネコの世界にまで浸透しているとは思ってもみなかった。
ましてや、こちらの心配も知ってか、知らずかネコシャーシャー(?)として帰って来るところまで、いまどきの娘とおんなじだと言っているオレはやはりジジィ化していたか?

そういうオレも十代の頃は、家出をくり返しプチではなかったが、生活に困ると帰宅してなにかをかっぱらって、また新宿へ行くと言うムチャクチャな暮らしをしていたのだった。死んでしまった母の寿命を縮めたのはオレかも知れない。なにしろ、やっと連絡があったかと思えば、それは淀橋署(現在、新宿警察署)からの身元確認だったりしたからだ……。

その頃、オレは頭はモジャモジャの伸ばしっぱなしの長髪で、俗に言うフーテンバックを、肩からさげ、その重さに(なにしろ全財産の大半は本だった!)よろけながらふたたび、みたびの家出をくり返していた。ある時は、レモンを片手に持ち「丸善」ならぬ新宿「紀伊国屋書店」本店のアメリカ文学のコーナーを想像力で吹き飛ばすために、ギンズバークやケラワックの書籍がいくらかあったコーナーに仕掛けに行った。
文化人につきあいがあり、ある意味パトロン的な存在でもあった田辺社長(茂一さん。当時)には恨みはなかったが、「文化」や「文壇」というものは、当時は憎悪の的だった。レモン(檸檬)は梶井基次郎に学んだ鮮烈な想像力のテロリズムだった(その紀伊国屋書店が出している「Feel」というリトルマガジンに、オレのサイト『電脳・風月堂』が現在、紹介されているらしい。皮肉なものだ)。

そう、いくら探してもその行方が杳として知れなかった愛猫LaLaは、おおよそ50時間の失踪の果てに、我が家のベランダの外でニャ~と鳴いて、その存在を知らせた。なんだよ、ちゃんと飼い主であるオレのウチを覚えていたのかよ。結構、必死になって探したのかも知れない。寒さと、危険と、空腹のため野の生活をあきらめたのか?
お前の自由を求める気概は、どうしたんだよ! と、怒鳴ってやりたかったが、失踪して以来、心のオゾン・ホールのすき間を埋められなかったオレは、やさしく迎えてしまった。さすがに、疲れたのか、エサをむさぼるように食べると昏睡したかのように寝入ってしまう。ころ合いを見計らって、シャワーをすると濡れそぼったLaLaは情けない目付きでオレのことを見ていたが、おびえていたのはそこまでで、シャワーのあとまた心地よくなってストーブの前を独占してふたたびスヤスヤと安心したかのように寝入っている。

オレは、このヤワな愛猫を情けなく思いながらも、複雑な気分だ。こいつ、失踪していた50時間に何をしてきたんだ? この空白の時間の中で、もしかしたらオトコ(失礼!オスですね)を知ったのかも知れない。オスと交わって来たのかも知れない! オレは、朝帰りした娘を疑いの眼で見るバカ親のように、何もしゃべらぬ愛猫を疑いの眼差しで見つめているのだ。



節分・追儺(ついな)・鬼やらい

2005-02-03 23:27:10 | トリビアな日々
housou_si立春の前日に追儺(ついな)の式が、行われるようになった次第はもともと宮中行事として、中国の影響の下、行われていたシャーマニックな厄払いもしくは悪魔払いが、民間信仰、行事となって残った神事の名残りであるらしい。追儺の式は、「鬼やらい」とも言い、都の平安を祈りて平安朝の頃から行われてきたものである。となれば、容易に思いつくように、「鬼」や「疫神」とは、平定された先住の民や豪族の事に、他あるまい。「鬼」とは、「隠(おぬ)」であって、これは渡来人を含む異邦の民や、先住のまつろわぬ民の総称であろう。
今週号の「週刊朝日」の巻頭に写真の掲載されていた平安神宮や同じく京都の吉田神社の追儺の式など、雅びやかなかっての「鬼やらい」の様子を伝えるものであろう。これは、陰陽師のまさしくシャーマニステックな力(平定する力)が生きていたもしくは信仰されていた戦乱の世の平和を祈願する思いが伝わって来るような行事だと思う。

邪(よこしま)なパワーは、方位やとりわけ五行(現象)の中にあり、そのような「邪気=鬼」を追い払い、平定するのが四つの目を持つ、方相氏(ほうそうし)の眼力で、その睨み付けるパワーと「鬼遣(おにや)ろう!」という掛け声によって「邪気」は、払われ場(空間)と都(首都としての京)は浄化される。
追儺の式とは、いわば新しい年、春が来る前日に大晦日に一年の邪気を払うために行われる若水の儀式と同じことで、それが豆(豆は魔滅に通じる)まきによって、鬼を払い一年を浄化すると言う「節分」の民間行事になったものであるようだ。
(しかし、ここに書いたことは民俗学者でもない素人のボクが考えた解釈で、かってに引用しない方が身のためですよ)


「神座」と思い出の「スカラ座」

2005-02-02 21:32:14 | アングラな場所/アングラなひと
scalaza2002年暮れに閉店した歌舞伎町のツタのからまるクラシック喫茶「スカラ座」の跡地は、もう誰でも知ってるだろうが「神座(かむくら)」という関西系のラーメン屋の東京そして新宿ラーメン戦争殴り込み参戦の根拠地となった。普通なら、雑居ビルとなるところを「神座」1軒で独占した。その勢いは、ある意味凄い。おそらくビジネスチャンスとしての社運をかけたのだろう。しかし、何かで見たが関西の本店は、その外装がまるで靖国神社の社殿のようなデザインをしている(「神」の「座」という、神道的な名前からこういうデザインを選んだのだろうが、「社殿」の中で五穀豊穣でなく、ラーメンは食べづらいなぁ、ボクは……(笑))。

そのせいかどうかは知らないが、新宿歌舞伎町店はなんというか丸いスロープ状のカウンターでかこまれた、どこかカフェ風の作りになっている。というか、入り口のチケットを買うところからして、ラーメン・アミューズメント(?)をめざしたのかと勘ぐりたくなる。どこか、遊園地をイメージしてしまうのだ。
いやいや、今日のテーマは「神座」ではなく、「スカラ座」の方なのだ。しかし、この共通の「座」は、たんなる偶然なのだろうか?

「スカラ座」は、1954年4月に開店した。今年、51年目になるところだったはずだ。
かっての「スカラ座」を知らない人には、ましてやそこがクラシック喫茶だったと言えば、興味がないだろうが、その店は嶽本野ばらの『カフェー小品集』の1編の舞台になってるよと言えば、興味がかきたてられるかも知れない。
実際、「スカラ座」の最後の日々にはゴシックロリータ風のウエイトレスがいて、きっと嶽本野ばらファンの娘さんだったんだろう。その黒ゴロリのファッションもなかなか良かったんだが、ボクは地味な修道女のようなコスチュームも好きなのだ……。と、どうも、そこまで言うとコスプレファンなのかい?と言われそうなので自分で突っ込むのもそこまでにしておこう。
実は、ここで明かしてしまえば「スカラ座」はなくなった訳ではなく西口の小田急エースの地下に移転したのだ。今年、どういう訳か(ま、閉店の時行って御亭主に住所を残してきたからだろうけど…)年賀状をもらったので、義理で(?)宣伝してあげることにします(笑)。
で、そこでも「50周年」をうたってますので、移転存続しているという風にお店でも考えてるようだ。しかし、なんだろう。移転休業していた2年間をどう計算して、今年50周年にしたんだかは、ボクにもわかりません(笑)。

(写真は最後の日の「スカラ座」)