風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

平成の笠置シヅ子/チェンマイのララリーヌその2

2005-02-24 20:29:01 | アングラな場所/アングラなひと
kasagi_sidukoはい、ボクはガキの頃に黒沢映画やエノケンや白黒TVで、笠置シヅ子の歌う姿を記憶している。笠置シヅ子は「ブギの女王」と呼ばれて、ある意味今日のJ-POPの先駆的歌手である。いやいや、歌謡曲の女王美空ひばりとて笠置シヅ子のコピーとして当初登場した訳であり(そういうスタイルは実は歌謡界では多い。西田佐知子のコピーとしていしだあゆみとか、歌い方を比較してみればだれしにも分かることだ)、その存在意義は淡谷のり子と双璧をなす。
というのも、淡谷のり子は「ブルースの女王」であり、笠置シヅ子が「ブギの女王」と言えば、だれしも頭の中に描くのは「ブラック(アフロ・アメリカン)・ミュージック」であり、黒人の文化と歴史だ。そう、彼女たちはこの国におけるブルースとブギブギというブルーノートな音楽性を伝えた伝承者であるはずだ。だが、「ブルースの女王」のブルースはむしろ、ブルージィなブルーノートのブルースではなく、この国の歌謡の伝統と音階に基づくものだった。
笠置シヅ子のリズカルなダンス・ミュージック性はその意味でも、この国のボーダーを越えたものだったと言えるかも知れない。
笠置シヅ子については、またあらためてふれることにする。

そこで、ボクはララリーヌさんの歌う姿をあらためて見て、「平成の笠置シヅ子」と思ったのである。スィング感、バイタリティあふれる歌い方……ああ、ボクがなぜか引き付けられていたのはこの感覚なんだなと思い至ったのであった。

ボクは、この「平成の笠置シヅ子」ララリーヌさんを、応援したいなと思ったのである。いまや、忘れ去られようとしているひとりの黒い歌手であった笠置シヅ子を思い出させてくれただけでも、このひとの目指すものは面白い、と、そうひとりごちたのであった。
(ライブ・エイド続報その2/終わり)


チェンマイのララリーヌその(1)

2005-02-24 00:41:16 | アングラな場所/アングラなひと
lalaleeneララリーヌさんの歌声をはじめて聞いたのはチェンマイだった(!)。2002年の初夏にチェンマイ大学の敷地内で、チェンマイでは第2回めとなる「いのちのまつりチェンマイ」が開催され、ボクはタイははじめてのある女性のガイド役を兼ねてチェンマイに15年ぶりくらいに行ったのだった。
チェンマイでは、歌い手の下村誠クンとはバッタリと会い、同じゲストハウスをすすめたり(日本人の経営するそのゲストハウスを彼は気に入って、その後も行って泊まっている)、 いや元「スターリン」のエンドウ・ミチロウさんと親しく話したり(ビデオ記録係のスタッフをやっていた)、ナミさんや……いや、そんな話はいいだろう。ともかく、ララリーヌさんの歌声はチェンマイではじめて聞いて、そのパンチのある歌い方や、変わった名前が印象に残っていた。
その時、ボクは連れの女性とともに「いのちのまつり」のアフターイベントで、ポエトリー・リィディングをやった。ナミさんや、石塚さんや、ミチロウさんたちのミュージシャンの目の前でだ。たしか、ピン川沿いのアメリカン・スタイルのライブ・バーだった。
「いのちのまつり」の裏方スタッフはナミさんのかかわりや、タイ側のスタッフもいたが(カラワンも出演し、手伝っていた)、渋谷の「アピア」つながりという関係が一番多かったと記憶している。

翌2003年秋、そのララリーヌさんの歌声を、ふたたび「武蔵野はらっぱまつり」で聞いた。ボクはステージのほぼ脇で、チャイ屋「チャイハネ・フーゲツ」を開いていた。風にのってその歌声は届いてきたといえば、詩的だがじつはプログラムをもらっていたボクはチェックしていたのだ。なかなかテントで店を開いていると身動きがとれないものだが、やはり覗きに行きたい出演者と言うのはいるので、そのBステージに見に行ったことを記憶している。

今回、17日の<ライブ・エイド>に急きょ出演することになったのは、ララリーヌさんの方からコンタクトがあったのだった。ララリーヌさんは、一児の母であり、歌い手として今回のボクの呼び掛けに共鳴してくれたらしい。それにしても、キーボードの小畑さん(プロの方です)をひとりしたがえて掛け合いで盛り上げ、オリジナルナンバーやジャズナンバーなどを歌ったララリーヌさんの本領発揮という場面が見れたのは、笠置シヅ子の歌をカヴァーした時ではなかろうか?

(今日の顔/ライブ・エイド続報その2/つづく)