風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

こんなに60年代は前衛していた!(フルクサス展に行く)

2004-12-26 23:56:46 | アングラな場所/アングラなひと
yoko_neodadaurawafluxusキャンバスに釘を打ち付け、パステルと色鉛筆で円を描いてきた。静かな美術館の中に、カナヅチの音が鳴り響き、キャンバスをひっかく音がカリカリとする……。この初夏のそのひとの名前を冠した美術展でも、出来なかった参加型のアートが、作家自身の指示通りのかたちで久しぶりに実現した。
作家の名前は小野洋子、NYを中心に前衛芸術家の横断的なグループであったフルクサスの一作家として、スペースとしてはやや破格の扱いだが、展示されている。
お隣の駅(さいたま副都心)にはジョン・レノンミュージアムもあって小野は著作権所有者としてかかわり、協力している。
今回行った美術館は「うらわ美術館」。展示名は「フルクサス展??芸術から日常に」。この日は無料の開放日だというのに、その割には閑散としていた。
ボクのおめあては、小野やナムジュン・パイクもあったが、むしろハイレッド・センター(参加作家の高松・赤瀬川・中西の名前を合成したもの)や日本のネオダダ系の前衛作家の展示であった。フルクサスの動きとは別テークで日本独自の芸術運動にまでたかまってしまったネオダダの運動が、フルクサスの視点からはどう位置付けられるのかといういたって簡単な動機である。

フルクサスは1960年代の初め頃にジョージ・マチューナスが提唱してひっぱってきたアートシーンのみならず、デザイン、音楽、パフォーマンス、出版にも大きな影響を与えてきた横断的な運動体だ。アメリカ、ドイツ、日本の前衛芸樹家が参集したポップアートとは別の60年代を代表するアートであった。実は、当時一般的には、いや当のアートにかかわる(おもに画壇の)画家たちからも、これらのアバンギャルドなアートは、うさん臭く見られ理解されず、「ゲテモノ」扱いされていた。そのおもな表現手段はハプニングであり、パフォーマンス、コンセプトアート、インスタレーションなどであり、それらのアートは21世紀の今日からみれば、実に新しい斬新な表現であることが分かるし、むしろ今日のアートシーンの土台さえも築いてきたことが分かる(実体のなかったフルクサスは、むしろアレもコレもと一定の時間の過ぎた今日からの方が、よく見えてくる)。日本ではその頃からの支持者、理解者としての瀧口修造の名をあげておこう。詩人の瀧口は、前衛芸術の紹介者、評論家としての顔を持ち、精力的に動いていたからだ。中原祐介、ヨシダヨシエ、針生一郎などの名前も思いつく。

日本では、一般的には「フルクサス」の名前は小野洋子が参加していたという文脈で知られるようになってきた。雑誌などでも特集するようになってきて、その特異な表現が単発的なものではなく、ある持続的な運動らしいという認識が高まってきたころだと思う。不思議なことにその主要な活動が、終熄してから1980年代になって「フルクサス」に焦点があたりだしたのだ(1978年に死んだマチューナスの死後という訳だ)。

ボクにとっての収穫はみっつ。まず、記録フィルム(おそらく原版は8ミリ)ハイレッドセンターのパフォーマンス「シェルター計画(プラン)」(1960)の一部始終が見れたこと(その映像の存在は「ネオダダ」を特集したある番組で知っていた。小野洋子も観客のひとりとして身体測定に参加している)。
ふたつめは、塩見充枝子という作家のフルクサスで果たした役割の大きさと、その作品とりわけ「Spatial Poem」というシリーズに感動したこと(それはいわば短いことばをある一定期間に世界中で同時に発してそれを記録する作品といえばいいだろうか)。そして、その作品行為がどうやら小野洋子の「グレープ・フルーツ」の「インストラクション(指示)」作品につながること。ひいては、そのアートとしての行為が、つまり「イマジン(想像してごらん)」という「指示」につながったという直感を得たことである。
みっつめは日本の「フルクサス」関係のペーパーで「フーテン出身のガリバー」を紹介する記事を見つけたことであった。ガリバーのアートもある意味では、フルクサス的な時代を先駆けるものであった(やや時流にのったり、俗っぽかったりの面はあったが)ということを再確認したことであった。

毎週土曜日は開館5周年記念で無料開放されています。観覧のチャンスですよ。2005年2月20日まで。年末年始と月曜日は休館。おすすめです!


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