エイト・ピーチェスとはどのようなダンスグループだったのか?
SKD(松竹歌劇団)というレビュー集団がかってあった。もともとは「少女歌劇」として出発し、全盛期は宝塚歌劇団とはりあうほどの興隆を誇った。先日亡くなった「男装の麗人」ターキーこと水の江滝子はじめ草笛光子、淡路恵子、倍賞千恵子などの数多くの女優、歌手、タレントを生み出したSKDは、1928年創設の長い歴史の中で、ライン・ダンスの「アトミックガールズ」などの独自のアトラクション演目を持ち女性には憧れを、男性には娯楽を提供した。ちなみに寺山修司と結婚した九条今日子(芸名は映子)もSKDの出身である。
1956(昭和31)年にSKDのメンバーの中から選抜された8人でつくられたダンスチームがあった。それがエイト・ピーチェスである。あれこれ並び称されながらも宝塚歌劇団との違いというのは、SKDにはこのようなお色気路線があって、男のファンも結構いたという点だろう。エイト・ピーチェスの活動ピークとも言える1964年には、創刊されたばかりの『平凡パンチ』のグラビアを飾ったりしていて、ピンナップガールとしての注目度もあがっていたようだ。ふたたび強調しておくが、そのどれもにヌードという形での表現はない。エイト・ピーチェスの八人はどこまでもダンサーであり、ライン・ダンス、レビューそしてモダンダンスをこなし、毎日がその練習と訓練で明け暮れていたに違いない。「踊り子」と言ってもいいだろう。それはダンサーの訳語なんだから……。
たしかに、踊り子だ。「伊豆の踊子」のような少年書生の「あくがれ(憧れ)」をも引き出したほのかなロマンスも付与して……。ボクにとっての『伊豆の踊子』が、田中絹代でも山口百恵でなく吉永小百合であるような年上の女性への少年の昭和30年代の「あくがれ(憧れ)」だ。
エイト・ピーチェスはSKDの中では「娘役」の登竜門とか、ダンスがうまいメンバーしか選ばれないと言われていて、エイトピーチェスに選ばれることは団員(生徒)にとって名誉なことだったのだ。それにSKDの看板であるラインダンス(アトミックガールズ)とともに、看板スター以外では圧倒的人気を誇ったユニットだったのだ。解散したSKDを引き継ぐ現在のダンスチームの中では「エイト・ピーチェス」は、いわば「演目」同然の使われ方をしている。もはやチームでもなく、演し物、プログラムもしくはスタイルなのだ。
映画『フラガール』のモデルとなった常磐ハワイアンセンターこと現「スパリゾート・ハワイアンズ」に付属する「常磐音楽舞踊学院」の創設期の成り立ちの事実関係は知らない。「平山まどか先生」のモデルとなったらしい学院の最高顧問カレイナニ早川(早川和子)さんがSKDやエイトピーチェスとどのような関わりがあったのかなかったのか、分からない。しかし、『フラガール』で呼び覚まされた昭和30年代半ばの幼い性をもてあましていたあの頃の純粋だった自分が、『フラガール』での平山まどか先生のひと言の台詞でエイトピーチェスの鮮烈な記憶とともに甦って来たのは、確かなことだった。
(おわり)
(写真)SKD『第42回夏の踊り』(1976年、浅草国際劇場)のプログラムの表紙はエイト・ピーチェスだった。これはエイト・ピーチェスの70回記念だとか。(Web site「vintage takarazuka」より借用。借用を感謝!)
SKD(松竹歌劇団)というレビュー集団がかってあった。もともとは「少女歌劇」として出発し、全盛期は宝塚歌劇団とはりあうほどの興隆を誇った。先日亡くなった「男装の麗人」ターキーこと水の江滝子はじめ草笛光子、淡路恵子、倍賞千恵子などの数多くの女優、歌手、タレントを生み出したSKDは、1928年創設の長い歴史の中で、ライン・ダンスの「アトミックガールズ」などの独自のアトラクション演目を持ち女性には憧れを、男性には娯楽を提供した。ちなみに寺山修司と結婚した九条今日子(芸名は映子)もSKDの出身である。
1956(昭和31)年にSKDのメンバーの中から選抜された8人でつくられたダンスチームがあった。それがエイト・ピーチェスである。あれこれ並び称されながらも宝塚歌劇団との違いというのは、SKDにはこのようなお色気路線があって、男のファンも結構いたという点だろう。エイト・ピーチェスの活動ピークとも言える1964年には、創刊されたばかりの『平凡パンチ』のグラビアを飾ったりしていて、ピンナップガールとしての注目度もあがっていたようだ。ふたたび強調しておくが、そのどれもにヌードという形での表現はない。エイト・ピーチェスの八人はどこまでもダンサーであり、ライン・ダンス、レビューそしてモダンダンスをこなし、毎日がその練習と訓練で明け暮れていたに違いない。「踊り子」と言ってもいいだろう。それはダンサーの訳語なんだから……。
たしかに、踊り子だ。「伊豆の踊子」のような少年書生の「あくがれ(憧れ)」をも引き出したほのかなロマンスも付与して……。ボクにとっての『伊豆の踊子』が、田中絹代でも山口百恵でなく吉永小百合であるような年上の女性への少年の昭和30年代の「あくがれ(憧れ)」だ。
エイト・ピーチェスはSKDの中では「娘役」の登竜門とか、ダンスがうまいメンバーしか選ばれないと言われていて、エイトピーチェスに選ばれることは団員(生徒)にとって名誉なことだったのだ。それにSKDの看板であるラインダンス(アトミックガールズ)とともに、看板スター以外では圧倒的人気を誇ったユニットだったのだ。解散したSKDを引き継ぐ現在のダンスチームの中では「エイト・ピーチェス」は、いわば「演目」同然の使われ方をしている。もはやチームでもなく、演し物、プログラムもしくはスタイルなのだ。
映画『フラガール』のモデルとなった常磐ハワイアンセンターこと現「スパリゾート・ハワイアンズ」に付属する「常磐音楽舞踊学院」の創設期の成り立ちの事実関係は知らない。「平山まどか先生」のモデルとなったらしい学院の最高顧問カレイナニ早川(早川和子)さんがSKDやエイトピーチェスとどのような関わりがあったのかなかったのか、分からない。しかし、『フラガール』で呼び覚まされた昭和30年代半ばの幼い性をもてあましていたあの頃の純粋だった自分が、『フラガール』での平山まどか先生のひと言の台詞でエイトピーチェスの鮮烈な記憶とともに甦って来たのは、確かなことだった。
(おわり)
(写真)SKD『第42回夏の踊り』(1976年、浅草国際劇場)のプログラムの表紙はエイト・ピーチェスだった。これはエイト・ピーチェスの70回記念だとか。(Web site「vintage takarazuka」より借用。借用を感謝!)
素晴らしい!
勉強になりました。
で、「大人の遊び専科」(だっけ?)のリンク先は?
かと思いますが、母に連れられて、国際劇場へ夏の踊りを見にいきました。外から見ても巨大で異様な建物、場内に入ってみると舞台がひどく幅広いけれど、薄汚い感じがしました。子供ですから、ロビー
の円柱状の柱を囲む丸いソファが黄色くて、巨大なプリンのようだったことを一番鮮明に覚えています。肝心の実演(今では使わない言葉?)で覚えているのは、本当の水を使った滝とたくさんの子坊主、
きれいなおねえさんがつばの大きな麦わら帽を被って踊っていた(賠賞美津子さんだった)こと、紫色のきわどい衣装(といっても、今日では何でもないかも)で体をくねらせたりして踊っている厚化粧のおばさん8人でした。お土産に買ってきたSKDカレンダーでエイト・ピーチェスという集団であることを知ったのでした。
つば広の帽子のおねえさんは倍賞千恵子さんではなく、妹の美津子さんの方なのですね。その当時、九条映子さんも人気絶頂の頃じゃないかしらん?
そのSKDカレンダーほしいです。って、もうないですよね(笑)。
その頃、新宿で長い髪をした一群の若者の仲間でした、このボクは……(笑)。
何しろ学校にあがる前の子供の印象ですから、肌をあらわにして悩殺(子供にはそういう言葉は語彙にはありませんでしたけど)、怖い、悪の軍団のように見えたのです。紫色というのも、きれいな色ではあるけれど、きわどいデザインで怖いものであったような気がします。当時新宿にいらしたとか、、。東口駅前の「二幸」の前のロータリーの辺りにしらしたのですか?母に連れられて伊勢丹の「世界の昆虫展」とか行った憶えがありますが、駅前はなんだか怖かったですね。上野の地下鉄の地下道とか、西郷さんへの石段の下でアコーデオンを弾いていた傷痍軍人さんも怖かったですけど。
いまどきさんにはエイト・ピーチェスのお姉様がたが「悪の軍団」に思えたのですか(笑)!
新宿にも西口への小ガードのところに「傷痍軍人」さんたちが松葉杖をついてアコーディオンを弾きながら立ってらっしゃいました。
ボクらもいまどきさんたちを怖がらせたみたいですね。ま、ムレているものは怖いものです。
いまや、フーテンだったボクは見事な「瘋癲老人」になりおうせました(笑)!
ローリングストーンのアイドルでミック・ジャガーの恋人か。
それだけで胸がいっぱいの青春を思い出すよ。
マリアンヌ・フェイスフルよ、愛しきひとよ・・